風が吹いている。
あの田んぼだ。
見渡す限り、稲。
けれど色がない。青も金もなく、ただ白く褪せた世界が広がっている。
夕焼けでもない。
真昼でもない。
時間が削ぎ落とされたような、曖昧な光。
音だけが、異様にはっきりしている。
ざわ、ざわ。
穂が擦れ合う。
遠くで水が揺れる。
足元の泥が、ぬち、とわずかに鳴る。
キョウは一人で立っている。
三人で走り回った場所。
笑って、転んで、泥だらけになった場所。
そして——タツオミが消えた場所。
胸の奥が重く沈む。
足元の泥は深く、靴が半分沈んでいる。
冷たい。粘りつく。
逃げなければ。
そう思うのに、足が動かない。
膝から下が、地面に縫い止められたみたいに重い。
視界の端で、何かが揺れる。
白い
細い。
長い。
人の形に似ているのに、関節がない。
骨も重さも感じさせない、のっぺりとした輪郭。
くねくねと、風とは別のリズムで揺れている。
風が止まっても、それだけは揺れている。
見てはいけない。
本能が警告する。
目を逸らせ、と。
なのに、視線が吸いつく。
瞬きすらできない。
その瞬間。
背後から、腕を強く掴まれる。
冷たい。
皮膚の奥まで冷気が染み込む。
振り返る。
タツキ。
——いや、違う。
輪郭が薄い。
向こう側の稲が透けて見える。
でも、目だけははっきりしている。
焦りと、必死さと、恐怖。
口が動いている。
声は聞こえない。
なのに、意味だけが直接、頭の奥に流れ込んでくる。
“固定させるな”
空気が、一瞬で凍る。
白い影が、ゆっくりとこちらを向く。
顔はない
目も口もない。
それなのに、見られているとわかる。
タツキ——本物のタツキが、キョウの前に立つ。
守るように。
あの日と同じ位置。
あの日と同じ距離。
でも、あの時のように吸い込まれない。
白は近づいてこない。
ただ、揺れている。
待っている。
選択を。
タツキの手が、キョウの胸に触れる。
冷たい。
けれど、確かに“そこにある”。
“曖昧でいろ”
言葉ではない。
感情でもない。
命令でも、願いでもない。
ただ、真実のように突き刺さる。
固定すれば、どちらかが消える。
曖昧でいれば、保たれる。
けれど——
保たれた先に、何がある?
世界が歪むのか。
儀式が暴走するのか。
それとも、白い影が二人ごと呑み込むのか。
足元にひびが入る。
ぱき、と乾いた音。
泥の下から、白いものが伸びる。
糸のように細く、骨のように硬い。
足首に絡みつく。
膝に巻きつく。
引きずり込まれる。
タツキの輪郭が、さらに薄くなる。
指先から、崩れていく。
消える。
焦りが喉を焼く。
「待って」
声が出る。
今度は、はっきりと。
「行かないで」
タツキが、わずかに笑う。
あの、迷いを含んだ笑い方。
強がりと、諦めが混じった顔。
そして、今度は確かに声が聞こえる。
かすれている。
途切れそうで、でも確かに。
「……選ぶな」
次の瞬間。
白が弾ける。
風が止まる。
音が消える。
空がひび割れる。
世界が、真横に裂ける。
キョウは、目を覚ます。
夜明け前。
まだ暗い。
心臓が、痛いほど打っている。
胸を内側らを叩き壊そうとするみたいに。
頬が濡れている。
涙だと気づくまで、数秒かかる。
わかる。
これが最後の夢だ。
もう、あの田んぼには行けない。
本物のタツキは、ほとんど消えた。
でも。
確かに抵抗した。
固定を、拒んだ。
キョウは震える。
選ばない?
固定しない?
それは、儀式を壊すということだ。
世界の理屈に、逆らうということだ。
それでも——
胸の奥で、まだかすかに残っている。
あの冷たい手の感触。
守るように立った背中。
最後の言葉。
「選ぶな」
震える息を吐きながら、キョウは暗闇を見つめる。
世界を守るか。
タツキを守るか。
それとも——
どちらも、壊すか。
あの田んぼだ。
見渡す限り、稲。
けれど色がない。青も金もなく、ただ白く褪せた世界が広がっている。
夕焼けでもない。
真昼でもない。
時間が削ぎ落とされたような、曖昧な光。
音だけが、異様にはっきりしている。
ざわ、ざわ。
穂が擦れ合う。
遠くで水が揺れる。
足元の泥が、ぬち、とわずかに鳴る。
キョウは一人で立っている。
三人で走り回った場所。
笑って、転んで、泥だらけになった場所。
そして——タツオミが消えた場所。
胸の奥が重く沈む。
足元の泥は深く、靴が半分沈んでいる。
冷たい。粘りつく。
逃げなければ。
そう思うのに、足が動かない。
膝から下が、地面に縫い止められたみたいに重い。
視界の端で、何かが揺れる。
白い
細い。
長い。
人の形に似ているのに、関節がない。
骨も重さも感じさせない、のっぺりとした輪郭。
くねくねと、風とは別のリズムで揺れている。
風が止まっても、それだけは揺れている。
見てはいけない。
本能が警告する。
目を逸らせ、と。
なのに、視線が吸いつく。
瞬きすらできない。
その瞬間。
背後から、腕を強く掴まれる。
冷たい。
皮膚の奥まで冷気が染み込む。
振り返る。
タツキ。
——いや、違う。
輪郭が薄い。
向こう側の稲が透けて見える。
でも、目だけははっきりしている。
焦りと、必死さと、恐怖。
口が動いている。
声は聞こえない。
なのに、意味だけが直接、頭の奥に流れ込んでくる。
“固定させるな”
空気が、一瞬で凍る。
白い影が、ゆっくりとこちらを向く。
顔はない
目も口もない。
それなのに、見られているとわかる。
タツキ——本物のタツキが、キョウの前に立つ。
守るように。
あの日と同じ位置。
あの日と同じ距離。
でも、あの時のように吸い込まれない。
白は近づいてこない。
ただ、揺れている。
待っている。
選択を。
タツキの手が、キョウの胸に触れる。
冷たい。
けれど、確かに“そこにある”。
“曖昧でいろ”
言葉ではない。
感情でもない。
命令でも、願いでもない。
ただ、真実のように突き刺さる。
固定すれば、どちらかが消える。
曖昧でいれば、保たれる。
けれど——
保たれた先に、何がある?
世界が歪むのか。
儀式が暴走するのか。
それとも、白い影が二人ごと呑み込むのか。
足元にひびが入る。
ぱき、と乾いた音。
泥の下から、白いものが伸びる。
糸のように細く、骨のように硬い。
足首に絡みつく。
膝に巻きつく。
引きずり込まれる。
タツキの輪郭が、さらに薄くなる。
指先から、崩れていく。
消える。
焦りが喉を焼く。
「待って」
声が出る。
今度は、はっきりと。
「行かないで」
タツキが、わずかに笑う。
あの、迷いを含んだ笑い方。
強がりと、諦めが混じった顔。
そして、今度は確かに声が聞こえる。
かすれている。
途切れそうで、でも確かに。
「……選ぶな」
次の瞬間。
白が弾ける。
風が止まる。
音が消える。
空がひび割れる。
世界が、真横に裂ける。
キョウは、目を覚ます。
夜明け前。
まだ暗い。
心臓が、痛いほど打っている。
胸を内側らを叩き壊そうとするみたいに。
頬が濡れている。
涙だと気づくまで、数秒かかる。
わかる。
これが最後の夢だ。
もう、あの田んぼには行けない。
本物のタツキは、ほとんど消えた。
でも。
確かに抵抗した。
固定を、拒んだ。
キョウは震える。
選ばない?
固定しない?
それは、儀式を壊すということだ。
世界の理屈に、逆らうということだ。
それでも——
胸の奥で、まだかすかに残っている。
あの冷たい手の感触。
守るように立った背中。
最後の言葉。
「選ぶな」
震える息を吐きながら、キョウは暗闇を見つめる。
世界を守るか。
タツキを守るか。
それとも——
どちらも、壊すか。
