夜がゆっくりと街に降りてくるころ、キョウは目を開けた。
目が覚めた、というより、水の底から顔を出したみたいな感覚だった。
まだ半分、夢の中に足を突っ込んでいる。
布団の中で上体を起こすと、心臓がやけに速い。
まるで置いてきた何かを追いかけようとしているみたいに、落ち着かない鼓動だった。
夢を見ていた。
古い木造の家。
畳は少し波打っていて、空気は乾いた埃の匂いがした。
差し込む光は黄色くくすんでいて、時間そのものが古びているようだった。
廊下の奥から、声がする。
「タツキ……」
名前を呼ぶその声は、耳に届いた瞬間、胸の奥に小さな棘を残した。
懐かしいのに、近づきたくない。
優しいのに、どこか不吉。
誰の声かは分からない。
でも、確かに“そこにいる”。
キョウは夢の中で廊下を歩いた。
足音はしない。
ただ、空気だけが重い。
ふと、壁に掛かった小さな鏡が目に入る。
そこに映っていたのは、自分ではなかった。
見慣れた横顔。
制服姿の少年。
タツキ。
キョウの喉が、夢の中なのにひりつく。
鏡の中のタツキが、こちらを見た。
「目を覚ませ、キョウ……」
低い声だった。
怒っていない。
でも、必死だった。
次の瞬間、鏡の像が水面みたいに揺れ、輪郭が崩れる。
声は風に吹き散らされる紙片みたいに消えた。
場面が変わる。
今度は、夏の匂いがした。
むわっとした湿った空気。
校庭の砂の感触。
蝉の声が遠くで鳴いている。
遊具の影の下で、子どもの頃の自分がしゃがみ込んでいる。
砂をぎゅっと握りしめて、何かを守るみたいに。
その隣に、またタツキが立っている。
今度は何も言わず、ただ見ている。
その目が、責めるでもなく、許すでもなく、ただ“知っている”目で。
「忘れるな、キョウ。大事なものは……」
言葉は最後まで届かなかった。
砂が、指の隙間から崩れ落ちる。
風にさらわれる
キョウは思わず手を伸ばす。
でも、途中で止めた。
触れたら壊れる気がした。
触れたら、本当に思い出してしまいそうで。
そこで、目が覚めた。
暗い部屋
天井の染みが、ぼんやりと視界に浮かぶ。
ここが現実なのかどうか、一瞬わからない。
胸の奥で、夢の声がまだ小さく響いている。
皮膚の下を、冷たい水が流れるみたいな感覚。
気づけば、窓の外がうっすら明るい。
夜は終わりかけていた。
朝の光は静かで、容赦がない。
夢の曖昧さを、無理やり引きはがすような白さだった。
キョウは布団を抜け出す。
足の裏に床の冷たさが刺さる。
窓を開けると、外気が流れ込んできた。
澄んだ空気。現実の匂い。
それなのに。
鼻の奥に、まだ残っている。
古い木の匂い。
砂の乾いた匂い。
ぞくりと背中が粟立つ。
「タツキ……?」
思わず、声に出す。
返事はない。
代わりに、机の上が視界に入る。
置いた覚えのない、小さな紙片。
近づく。
手に取る。
見慣れた跡だった。
たった一言。
『忘れるな』
喉がひゅっと鳴る。
夢の続きみたいだ。
紙を握る指が震える。
視界が少しだけ滲む。
記憶はまだ形を持たない。
でも、胸の奥で何かが確実に動いている。
静かに。
確実に。
キョウは深く息を吸い、ゆっくり吐く。
夢かもしれない。
現実かもしれない。
どちらでもいい。
ただ一つだけ、はっきりしている。
何かが、始まっている。
そしてそれは、
もうずっと前から、
キョウのすぐ後ろに立っていたのかもしれない。
