”どうも、こんばんは〜みんな何してた?”
電気ケト
昔から、親元を離れるより近くにいて楽をしたいと思っていた私は、大学を卒業して薬剤師免許を取ったら、そのまま地元香川にで就職する予定だった。むしろ香川で就職するために薬学部に行ったと言っても過言ではない。けれど、focusを知ってからというもの、focusの主な活動拠点である東京で働くべく、就職活動に精を出したんた。
なんとか東京での就職も決まり、就職が決まった当初はライブに行くだけでなく、もしかしたらプライベートでKyo君に会えるかも!?と期待していたけれど、狭いようでいて東京は広い。どこに行っても人だらけで、仮にすれ違ったとしても絶対に気づかないだろうなというほどの人だ。結局ライブハウス以外に推しに会うこともなく、東京での生活が3年を過ぎようとしていた。
ゲリラ配信のあった翌朝、私はギュウギュウに押されながら電車に乗り、必死の思いで薬局に着くと、シャッターを開けたり開店準備をする。駅から徒歩10分のこの薬局は毎日朝の9時から夜の21時まで営業している。正社員である私は早番は9時までに出勤して開店業務をしてから一般的な薬剤師業務をこなし、18時まで働き、遅番は12時から仕事をして、21時に閉店業務をして終わるという2パターンのシフトで動いている。近くの病院、いわゆる門前病院は9時〜21時まで日曜・祝日もやっているという耳鼻科・小児科だ。朝から夜遅くまでやってくれているので、受診しやすく、それだけでも患者さんに取ってはありがたいのに、先生も若くて気さくに相談に乗ってくれるので、かなり大流行りだ。そのせいで21時に終わることはあまりなく、1時間ほど延長してしまうことがザラにある。他にも入院施設もある比較的大きな病院が歩いて10分ほどのところにあり、内科・整形外科・眼科とかなり幅広い科目を応需しているうちの薬局は研修目的で新入社員が入ってくることが多い。かくゆう私も新入社員の頃からずっとここの薬局だ。もう次の春で4年目になる。そろそろ転勤か管理薬剤師になってしまうも知れないと思いながら、ここ最近は仕事している。転勤と言っても都内に何軒かあるだけの小さなチェーン店だから、なんとかだなるだろうが、問題は管理薬剤師だ。パートさんの多い午前の時間帯はいいのだが、夜の時間帯は働いてくれる人が少なく、管理薬剤師が出ていることがほとんどだ。もし、今の管理薬剤師が、結婚するとか転職するとかで、辞めるとかって話になれば、正社員で次に歴の長い私に話が回ってくるだろうが、そうなればライブに行ける頻度が減る可能性がある。今のままの状態で、今のままの人間関係が続きますように。ここ最近の私は、そればっかり祈っている。
午前中の業務はバタバタ。ひたすら処方箋通りにお薬を棚からとる(ピッキング)、自分以外の人がピッキングしたものを間違っていないか監査する。監査したら、患者さんにお薬を渡す投薬。機械的に見えて、患者さんのお薬手帳で併用薬を確認したり、処方箋が間違えていると思われるような内容の時は、病院に間違えてないかの確認(疑義照会)をしたりと、いろいろやることがある。しかも、ピッキングは調剤補助である事務員の人に手伝ってもらえるが、ピッキング以外の業務は薬剤師しかできないため、シフトの配置上薬剤師の人数が少ないと、外から見ているより意外と大変で、くるくる回るように動くせいか、比喩ではなく目が回ってしまう。
冬だというのに、汗をかきながらこなした午前中の忙しさが一段楽した12時半ごろ、順番に休憩を回したり、投薬で患者さんと会話したことを記録したり、処方の内容を分析した結果を書いたりする薬歴の仕事が終わったパートさんは順に帰ったりしだす。
私も、今日は早番だったのでそろそろ休憩に入ろうかと、薬歴を書きながら周りの様子を見ていると、一人の若い男性が薬局に入ってきて、処方箋を受付で渡している。
この男性を投薬してから休憩に行こうかな…そう思って、今書いている薬歴を修了させると、ちょうどピッキングが終わったところだった。
「あ、先にこの方の準備ができてるんで、私監査して投薬行きますね。投薬終わってから休憩行かせてもらいます。パートさん達は薬歴書いたり、上がってもらったりしていいですよ。」
周りの薬剤師さんに声をかけて、今来た患者さんの薬を入れたカゴを引き受ける。
処方内容が間違えてないか、ピッキングしたものが処方箋に記載されているものと間違いないか、錠数に間違いは無いかなどを簡単に確認して投薬ブースに向かう。午前最後の患者さんのわりには、トローチだけの処方で内容は簡単だった。
「お薬の内容で順番前後させていただきます。番号94番でお待ちのお客様〜」
投薬ブースで声をかけると、待合で座っていた数名が自分の番号札を確認する。たまに、自分の番号でも気づかない人がいるので、その方には失礼してお名前で呼ぶこともあるが、今日はその必要はなさそうだ。
目の前に背の高い男の人が立った。目深に帽子を被っていてマスクもしているから、顔色も表情もほとんどわからない。前回も同じような服装の上、あまり話ができなかったのだろうか、今回と同じトローチの処方に喉の痛み?とだけ薬歴に記載されている。今回もまぁ、同じトローチが出ているということで、喉の痛みで間違いないだとうと、診断にあたりをつけて話しだす。もちろん、目の前に立っている方がご本人かの確認も忘れずにだ。
「森下響也様でよろしかったですね?」
…ん?うちの薬局では番号で呼ぶことが多いので、名前なんてサッと見ただけで、何も気にしてなかったけど…推しの本名と一緒じゃん。なんかドキドキしちゃうな。
名前を確認すると、目の前に立った男性は返事の代わりにコクリとうなづく。あ、これ喉が痛くて声が出せないのか、面倒で話したく無いかのどっちかだ。面倒で話したく無い人にあまり長々とした説明をしたり、症状を詳しく聞こうとすると大抵は不機嫌になってしまう。ここはとりあえず、うなづくか首振るかだけで返事ができる質問をして、さっさと帰ってもらおう。
「喉の痛みですか?」
すると、ちょっと間があった後、目の前の男性はうなづく。
あれ?喉の痛みじゃ無いのかなぁ?けれど、男性の方からも何も言葉は続かない。こうなると、もうどうしようもないので、後はお薬の説明をして帰ってもらうだけだ。
「1週間前に来ていただいた時も同じお薬が出てます。1日6こ程度の範囲でお舐めくださいね。だいたい1週間分ぐらいになります。前回のトローチが残ってるようなら、前回の方からお使いください。喉が乾燥しないように、水分を適宜取ったりするのもいいですよ。では、お会計ですが…」
私がそう言うと、患者の男性は財布を取り出した。
その手が視界に入ってまたドキッとする。その手は、マイクを握るKyo君の手にそっくりな気がしたから。なんだこの偶然は!?もしかして本物!?と、会計の間に帽子で隠れている顔をよく見ようとするけれど、お金を取り出すために、俯いているせいで余計に見えない。失礼も何も気にせずに、じっと見つめていると、お金をトレーに出し終わった患者さんと目が合った。
その目力。間違いなくKyo君です。私の心のサイレンが鳴り響く。
コレは緊急事態です…コレは緊急事態です…
その後の事は正直よく覚えていない。頭はパニックだけど、体は冷静に毎日の仕事で染み付いたことをしていたらしい。正気に戻った時には、「お大事に」と言いながら、薬局から出ていくKyo君を見送る私がいた。
『え〜〜〜〜!?こんなことってある!?』
もちろん、大きな声で叫べない私は、心で叫ぶ。側から見たら冷静なはずだ。まぁ、目ぐらいはまんまるになっていて、側から見てもわかったかもしれないけど。
Kyo君はもしかしてこの辺に住んでるってこと!?この3年出会わなかったのに!どうして!?興奮する自分がいる一方で、冷静に応える自分もいる。まぁ、病気一つしなかったら病院行かないから、患者として出会わなかったこともわかるわ。
え〜!?でも、患者として、出会うなんて!?え〜!?
冷静な自分より、興奮している自分の方が優勢なようだ。どうも抑えが効かない。薬歴を開いたパソコンの前で、薬歴を記入するでもなく、私は一人固まったまま脳内で興奮している。
患者ってことは、調べたら住所がわかるぞ。暴走気味の私が脳内で叫ぶ。
そうだ。初めての薬局を訪れた時は、住所やお薬や食べ物等のアレルギーの有無を記載してもらうことになっていて、その情報は薬歴に転記させる。なので、このまま薬歴の住所欄を見れば、どこに住んでいるかわかってしまう。
いやいや、ダメダメ。そんな、職業倫理に反するわ。ストーカーみたいじゃん。
知るだけなら問題ないでしょ。他の患者さんも必要があれば住所の確認はするわけだし。ストーカーのように自宅に張り込むわけじゃなし。
天使と悪魔が、耳元で喧嘩をする。
結局私は耐えきれずに、患者住所を開いた。患者さんの家に配達をすることもあるので、この辺の地理はだいたいわかっている。あ、あの辺なんだ。という納得と共に、マンション名と部屋番号をさらっといや、深く深く脳内に刻み込むようにして記憶しておく。
いや、なんなの。私ヤバいやつじゃんと自己嫌悪に陥りそうになった時に、管理薬剤師の茅田 真子さんが声をかけてきた。
「どうしたの?固まってるわよ。今の患者さん、なんかあった?」
「あ、そうゆうわけじゃ…」
「じゃぁ、薬歴は後でいいから、休憩に行っておいで。遅くなっちゃうよ。」
そこで、私は時計を見ると、なんと13時30分!脳内会議の時間が長すぎたようだ。
「すみません!行ってきます!」
私は急いで、バックヤードの方に移動した。
結局その日は混乱して、午後からボ〜っとしてしまった。何を話しても話半分の私に、パートのおばさまを中心に心配してくれる。
「どうしたの?」
「しんどい?」
手のひらをおでこに当ててくれながら熱を測ってみたりしてくれていたが、茅田さんが「午前ラストの患者さんが来てからよね?なんか様子がおかしいの。」と言ってから、それをネタにみんなが盛り上がり始める。基本女性だけの職場なので、みんなゴシップっぽいネタには敏感なのだ。
「最後って誰だっけ?」
パートの真田 由美子さんがの方が薬歴を検索する。真田さんは45歳ぐらいだろうか。中学生と高校生のお子さんがそれぞれいる。いつも元気で明るくて、少々の事は気にしないムードメーカーだけど、今日ばかりはそっとしておいてほしい。
「森下響也って男の子。…24歳かぁ…」
「へ〜男の子なん?そしたら元彼やったん?」
ズケズケと話してくるのは私と割と歳が近い富岡 芽衣さん。2つ上の先輩で、大阪出身ということもあり、一番話していて気楽な存在だ。
「違います…」
彼氏だったらどんなに良かっただろうと想像する。いやいや、そうゆうことでなくて…。
「元彼ちゃうん?じゃぁ何?イケメンやったん?」
「え?一目惚れ?」
「いやいや…」
一目惚れをしたのはもう5年近く前になります。そこからは疑似恋愛ですね、はい。なんて、口が裂けても言えずに、もごもごと口ごもる。
私が口籠もれば口籠るほど興味が湧いてくるのか、みんなが森下響也について詮索してくる。
「なぁなぁ、岡田さん、森下さんって人見た?イケメンやったん?」
「実は私よく見れてないんですよね。帽子を目深に被ってたし。背はすらっと高い感じでしたよ。」
富岡さんが受付の事務さんにまでどんな人か聞いてくる。昼間の時間はクリニックも昼休憩のため、患者さんがめっきり少なくなって、私たちの憩いの一時になるのが通例だけど、今日ばかりは早く患者さんが来てほしい。
「や〜もう、みなさん、そんな詮索しなくても。ほんと何もないんですって。」
「木下さんがそんな感じで言う時は絶対何かあるよね。」
真田さんが確信を持ってうなづいている。
「もう、みんなに言っちゃえばいいやん。」
「そうそう、恥ずかしがらないでよ。」
「森下さんとお知り合いだったんですか?」
事務の岡田さんまでこちらの話に入ってくる。これは、もう収集つかないなと、思って覚悟を決める。だって、隠してるわけじゃないし。いや、むしろfocusファンであることは私の美点です!
「…はっきりと顔は見えなかったんですけど…推しバンドのボーカルなんじゃないかと思うんです…。誕生日も本名も一緒だし…」
『え〜!?』
みんなの声が重なる。
「私、そんな職業の人見るの初めてや!」
「芸能人ってことだよね?いくら東京に住んでるって言っても、あんまり会ったことなかったわぁ。」
「もっと街中ならわかりますけど、都心というにはちょっと離れてるじゃないですか?こんなところにも芸能人っているんですねぇ。」
みんなにとっても意外だったのか、驚きの声が上がる。
「でも、そんなんやったら、毎回自分が投薬したいやんな?」
「え?私がですか?」
富岡さんの提案に私はびっくりした。正直そんなこと考えてもいなかった。トローチだけだったから、風邪か何かで受診しているだけだろうし、次回はもう来ないんじゃないかと勝手に思っていたのだ。
真田さんが再び薬歴を見ながら、私とおんなじ感想を述べる。
「でも、難しいかもね。トローチだけだし。風邪ならもう来ないかも。」
ですよね〜と思っていると、突然管理薬剤師の茅田さんが入ってきた。今まで薬歴を書くのに集中していたように見えて、しっかり話は聞いていたようだ。
「じゃぁ、もし次に来たらかかりつけ薬剤師とりなよ。」
「あ、それいいですね〜!」
みんながノリノリになっている。私は目からウロコだった!かかりつけ薬剤師!その制度があったとは!
あまり一般的には知られていないかもしれないが、薬局にはかかりつけ薬剤師制度というものがある。まぁ、簡単にいうと、窓口負担で数十円払えば、毎回同じ人が投薬してくれるよという、薬剤師指名制度だ。国の目的からすると、一人の薬剤師が担当の患者さんの生活から他院処方まで一括で管理することで、お薬の重複投与や生活の質の低下を防ごうという目的があるようだが、実際はお爺ちゃん、お婆ちゃんだと、同じ気心知れた薬剤師と喋っていたいという目的で使われることが多い。まぁ、私達も日常会話の中からいろんなことを聞き出し、必要であれば介護の介入を提案したり、処方に反映させたりするので、どんな目的にせよ会話をしてくれるというのはとても大切だ。けれど、そんなお爺ちゃんお婆ちゃんと違って、若い方はかかりつけ薬剤師を持とうとしてくれない。そもそもが話すこともないし、むしろタイパ重視の若い人は話す時間が無駄だと思っている。その上数十円とはいえお金を取られるなんて絶対に嫌なようで、声をかけてもほとんど効果はない。だから、私もかかりつけ薬剤師制度自体をすっかり忘れていたわけだが…
その提案は嬉しい。というか、推しが私の患者になるなんて!私がKyo君の全てを把握できるなんて、願ってもないことなんですけど!でも、Kyo君若いんですよ?絶対鬱陶しがられますって。
素直に「はい!喜んで!」と言えない私に、茅田さんはにっこり笑顔でもう一押ししてきた。
「他の点数の算定要件を満たすためにも、ここは一つ頑張ってみて欲しいな。」
あ〜あ〜なんだか今日は長い一日だったなぁ…。薬剤師人生、それほど長くはないけれど、こんな日が訪れることがあるなんて…。
突然のKyo君との出会いに引き続いて、茅田さんの提案も相まって、未だ混乱が続く脳内のせいで、疲労感が増しに増す中、なんとか家までたどり着いた。今日はもうカロリーメイトを食べるだけでいいやぁと、布団に倒れ込む。
昨日の配信では、甘く優しいことを言っていたけど、ここ最近体調を崩していたのか…。そんな時ぐらい甘えてくれていいのに…頑張り屋さんだなぁ。そういえば、今日はブログ記事の更新も何もまだない。今日ぐらいゆっくり休んでくれたらいいのに。
Kyo君のことを考えていたら、なんだか気持ちも落ち着いてきた。かかりつけ薬剤師のことを考え出すとまたドキドキしちゃうから、今日はもう考えないでおこう。というより、来てくれることなんてきっともうないだろう。今日は本当にいい日だった。素のKyo君が見れるなんて。薬剤師になって、東京に出てきて良かったぁ…。
私は幸せを噛み締めながら眠りに落ちていった。
次の日、目が覚めればもう通常運転。
昨日のドキドキなんてすぐになかったことになる。だって、おそらくもう2度と出会うこともないから。そう、昨日は神様がくれたボーナスデーだっただけで、今日からはまたいつもと変わらない日常が始まる。
そう心を入れ替えて働き出し、早くも1週間がたった。Kyo君のブログでは毎日ではないにしろ何日かに1回は筋トレをしたとか、ボイトレしたとかの報告がされていて、風邪をこじらすことなく治ったんだと安心できていたし、それゆえもう来ないだろうと確信を持って思えていた。他の薬剤師のみんなも、あの時盛り上がっただけで、その後は特に気にすることもなく日常を送っている。
しかし、神様がくれたボーナスデーはそれだけにとどまらなかったんだ…。
電気ケト
昔から、親元を離れるより近くにいて楽をしたいと思っていた私は、大学を卒業して薬剤師免許を取ったら、そのまま地元香川にで就職する予定だった。むしろ香川で就職するために薬学部に行ったと言っても過言ではない。けれど、focusを知ってからというもの、focusの主な活動拠点である東京で働くべく、就職活動に精を出したんた。
なんとか東京での就職も決まり、就職が決まった当初はライブに行くだけでなく、もしかしたらプライベートでKyo君に会えるかも!?と期待していたけれど、狭いようでいて東京は広い。どこに行っても人だらけで、仮にすれ違ったとしても絶対に気づかないだろうなというほどの人だ。結局ライブハウス以外に推しに会うこともなく、東京での生活が3年を過ぎようとしていた。
ゲリラ配信のあった翌朝、私はギュウギュウに押されながら電車に乗り、必死の思いで薬局に着くと、シャッターを開けたり開店準備をする。駅から徒歩10分のこの薬局は毎日朝の9時から夜の21時まで営業している。正社員である私は早番は9時までに出勤して開店業務をしてから一般的な薬剤師業務をこなし、18時まで働き、遅番は12時から仕事をして、21時に閉店業務をして終わるという2パターンのシフトで動いている。近くの病院、いわゆる門前病院は9時〜21時まで日曜・祝日もやっているという耳鼻科・小児科だ。朝から夜遅くまでやってくれているので、受診しやすく、それだけでも患者さんに取ってはありがたいのに、先生も若くて気さくに相談に乗ってくれるので、かなり大流行りだ。そのせいで21時に終わることはあまりなく、1時間ほど延長してしまうことがザラにある。他にも入院施設もある比較的大きな病院が歩いて10分ほどのところにあり、内科・整形外科・眼科とかなり幅広い科目を応需しているうちの薬局は研修目的で新入社員が入ってくることが多い。かくゆう私も新入社員の頃からずっとここの薬局だ。もう次の春で4年目になる。そろそろ転勤か管理薬剤師になってしまうも知れないと思いながら、ここ最近は仕事している。転勤と言っても都内に何軒かあるだけの小さなチェーン店だから、なんとかだなるだろうが、問題は管理薬剤師だ。パートさんの多い午前の時間帯はいいのだが、夜の時間帯は働いてくれる人が少なく、管理薬剤師が出ていることがほとんどだ。もし、今の管理薬剤師が、結婚するとか転職するとかで、辞めるとかって話になれば、正社員で次に歴の長い私に話が回ってくるだろうが、そうなればライブに行ける頻度が減る可能性がある。今のままの状態で、今のままの人間関係が続きますように。ここ最近の私は、そればっかり祈っている。
午前中の業務はバタバタ。ひたすら処方箋通りにお薬を棚からとる(ピッキング)、自分以外の人がピッキングしたものを間違っていないか監査する。監査したら、患者さんにお薬を渡す投薬。機械的に見えて、患者さんのお薬手帳で併用薬を確認したり、処方箋が間違えていると思われるような内容の時は、病院に間違えてないかの確認(疑義照会)をしたりと、いろいろやることがある。しかも、ピッキングは調剤補助である事務員の人に手伝ってもらえるが、ピッキング以外の業務は薬剤師しかできないため、シフトの配置上薬剤師の人数が少ないと、外から見ているより意外と大変で、くるくる回るように動くせいか、比喩ではなく目が回ってしまう。
冬だというのに、汗をかきながらこなした午前中の忙しさが一段楽した12時半ごろ、順番に休憩を回したり、投薬で患者さんと会話したことを記録したり、処方の内容を分析した結果を書いたりする薬歴の仕事が終わったパートさんは順に帰ったりしだす。
私も、今日は早番だったのでそろそろ休憩に入ろうかと、薬歴を書きながら周りの様子を見ていると、一人の若い男性が薬局に入ってきて、処方箋を受付で渡している。
この男性を投薬してから休憩に行こうかな…そう思って、今書いている薬歴を修了させると、ちょうどピッキングが終わったところだった。
「あ、先にこの方の準備ができてるんで、私監査して投薬行きますね。投薬終わってから休憩行かせてもらいます。パートさん達は薬歴書いたり、上がってもらったりしていいですよ。」
周りの薬剤師さんに声をかけて、今来た患者さんの薬を入れたカゴを引き受ける。
処方内容が間違えてないか、ピッキングしたものが処方箋に記載されているものと間違いないか、錠数に間違いは無いかなどを簡単に確認して投薬ブースに向かう。午前最後の患者さんのわりには、トローチだけの処方で内容は簡単だった。
「お薬の内容で順番前後させていただきます。番号94番でお待ちのお客様〜」
投薬ブースで声をかけると、待合で座っていた数名が自分の番号札を確認する。たまに、自分の番号でも気づかない人がいるので、その方には失礼してお名前で呼ぶこともあるが、今日はその必要はなさそうだ。
目の前に背の高い男の人が立った。目深に帽子を被っていてマスクもしているから、顔色も表情もほとんどわからない。前回も同じような服装の上、あまり話ができなかったのだろうか、今回と同じトローチの処方に喉の痛み?とだけ薬歴に記載されている。今回もまぁ、同じトローチが出ているということで、喉の痛みで間違いないだとうと、診断にあたりをつけて話しだす。もちろん、目の前に立っている方がご本人かの確認も忘れずにだ。
「森下響也様でよろしかったですね?」
…ん?うちの薬局では番号で呼ぶことが多いので、名前なんてサッと見ただけで、何も気にしてなかったけど…推しの本名と一緒じゃん。なんかドキドキしちゃうな。
名前を確認すると、目の前に立った男性は返事の代わりにコクリとうなづく。あ、これ喉が痛くて声が出せないのか、面倒で話したく無いかのどっちかだ。面倒で話したく無い人にあまり長々とした説明をしたり、症状を詳しく聞こうとすると大抵は不機嫌になってしまう。ここはとりあえず、うなづくか首振るかだけで返事ができる質問をして、さっさと帰ってもらおう。
「喉の痛みですか?」
すると、ちょっと間があった後、目の前の男性はうなづく。
あれ?喉の痛みじゃ無いのかなぁ?けれど、男性の方からも何も言葉は続かない。こうなると、もうどうしようもないので、後はお薬の説明をして帰ってもらうだけだ。
「1週間前に来ていただいた時も同じお薬が出てます。1日6こ程度の範囲でお舐めくださいね。だいたい1週間分ぐらいになります。前回のトローチが残ってるようなら、前回の方からお使いください。喉が乾燥しないように、水分を適宜取ったりするのもいいですよ。では、お会計ですが…」
私がそう言うと、患者の男性は財布を取り出した。
その手が視界に入ってまたドキッとする。その手は、マイクを握るKyo君の手にそっくりな気がしたから。なんだこの偶然は!?もしかして本物!?と、会計の間に帽子で隠れている顔をよく見ようとするけれど、お金を取り出すために、俯いているせいで余計に見えない。失礼も何も気にせずに、じっと見つめていると、お金をトレーに出し終わった患者さんと目が合った。
その目力。間違いなくKyo君です。私の心のサイレンが鳴り響く。
コレは緊急事態です…コレは緊急事態です…
その後の事は正直よく覚えていない。頭はパニックだけど、体は冷静に毎日の仕事で染み付いたことをしていたらしい。正気に戻った時には、「お大事に」と言いながら、薬局から出ていくKyo君を見送る私がいた。
『え〜〜〜〜!?こんなことってある!?』
もちろん、大きな声で叫べない私は、心で叫ぶ。側から見たら冷静なはずだ。まぁ、目ぐらいはまんまるになっていて、側から見てもわかったかもしれないけど。
Kyo君はもしかしてこの辺に住んでるってこと!?この3年出会わなかったのに!どうして!?興奮する自分がいる一方で、冷静に応える自分もいる。まぁ、病気一つしなかったら病院行かないから、患者として出会わなかったこともわかるわ。
え〜!?でも、患者として、出会うなんて!?え〜!?
冷静な自分より、興奮している自分の方が優勢なようだ。どうも抑えが効かない。薬歴を開いたパソコンの前で、薬歴を記入するでもなく、私は一人固まったまま脳内で興奮している。
患者ってことは、調べたら住所がわかるぞ。暴走気味の私が脳内で叫ぶ。
そうだ。初めての薬局を訪れた時は、住所やお薬や食べ物等のアレルギーの有無を記載してもらうことになっていて、その情報は薬歴に転記させる。なので、このまま薬歴の住所欄を見れば、どこに住んでいるかわかってしまう。
いやいや、ダメダメ。そんな、職業倫理に反するわ。ストーカーみたいじゃん。
知るだけなら問題ないでしょ。他の患者さんも必要があれば住所の確認はするわけだし。ストーカーのように自宅に張り込むわけじゃなし。
天使と悪魔が、耳元で喧嘩をする。
結局私は耐えきれずに、患者住所を開いた。患者さんの家に配達をすることもあるので、この辺の地理はだいたいわかっている。あ、あの辺なんだ。という納得と共に、マンション名と部屋番号をさらっといや、深く深く脳内に刻み込むようにして記憶しておく。
いや、なんなの。私ヤバいやつじゃんと自己嫌悪に陥りそうになった時に、管理薬剤師の茅田 真子さんが声をかけてきた。
「どうしたの?固まってるわよ。今の患者さん、なんかあった?」
「あ、そうゆうわけじゃ…」
「じゃぁ、薬歴は後でいいから、休憩に行っておいで。遅くなっちゃうよ。」
そこで、私は時計を見ると、なんと13時30分!脳内会議の時間が長すぎたようだ。
「すみません!行ってきます!」
私は急いで、バックヤードの方に移動した。
結局その日は混乱して、午後からボ〜っとしてしまった。何を話しても話半分の私に、パートのおばさまを中心に心配してくれる。
「どうしたの?」
「しんどい?」
手のひらをおでこに当ててくれながら熱を測ってみたりしてくれていたが、茅田さんが「午前ラストの患者さんが来てからよね?なんか様子がおかしいの。」と言ってから、それをネタにみんなが盛り上がり始める。基本女性だけの職場なので、みんなゴシップっぽいネタには敏感なのだ。
「最後って誰だっけ?」
パートの真田 由美子さんがの方が薬歴を検索する。真田さんは45歳ぐらいだろうか。中学生と高校生のお子さんがそれぞれいる。いつも元気で明るくて、少々の事は気にしないムードメーカーだけど、今日ばかりはそっとしておいてほしい。
「森下響也って男の子。…24歳かぁ…」
「へ〜男の子なん?そしたら元彼やったん?」
ズケズケと話してくるのは私と割と歳が近い富岡 芽衣さん。2つ上の先輩で、大阪出身ということもあり、一番話していて気楽な存在だ。
「違います…」
彼氏だったらどんなに良かっただろうと想像する。いやいや、そうゆうことでなくて…。
「元彼ちゃうん?じゃぁ何?イケメンやったん?」
「え?一目惚れ?」
「いやいや…」
一目惚れをしたのはもう5年近く前になります。そこからは疑似恋愛ですね、はい。なんて、口が裂けても言えずに、もごもごと口ごもる。
私が口籠もれば口籠るほど興味が湧いてくるのか、みんなが森下響也について詮索してくる。
「なぁなぁ、岡田さん、森下さんって人見た?イケメンやったん?」
「実は私よく見れてないんですよね。帽子を目深に被ってたし。背はすらっと高い感じでしたよ。」
富岡さんが受付の事務さんにまでどんな人か聞いてくる。昼間の時間はクリニックも昼休憩のため、患者さんがめっきり少なくなって、私たちの憩いの一時になるのが通例だけど、今日ばかりは早く患者さんが来てほしい。
「や〜もう、みなさん、そんな詮索しなくても。ほんと何もないんですって。」
「木下さんがそんな感じで言う時は絶対何かあるよね。」
真田さんが確信を持ってうなづいている。
「もう、みんなに言っちゃえばいいやん。」
「そうそう、恥ずかしがらないでよ。」
「森下さんとお知り合いだったんですか?」
事務の岡田さんまでこちらの話に入ってくる。これは、もう収集つかないなと、思って覚悟を決める。だって、隠してるわけじゃないし。いや、むしろfocusファンであることは私の美点です!
「…はっきりと顔は見えなかったんですけど…推しバンドのボーカルなんじゃないかと思うんです…。誕生日も本名も一緒だし…」
『え〜!?』
みんなの声が重なる。
「私、そんな職業の人見るの初めてや!」
「芸能人ってことだよね?いくら東京に住んでるって言っても、あんまり会ったことなかったわぁ。」
「もっと街中ならわかりますけど、都心というにはちょっと離れてるじゃないですか?こんなところにも芸能人っているんですねぇ。」
みんなにとっても意外だったのか、驚きの声が上がる。
「でも、そんなんやったら、毎回自分が投薬したいやんな?」
「え?私がですか?」
富岡さんの提案に私はびっくりした。正直そんなこと考えてもいなかった。トローチだけだったから、風邪か何かで受診しているだけだろうし、次回はもう来ないんじゃないかと勝手に思っていたのだ。
真田さんが再び薬歴を見ながら、私とおんなじ感想を述べる。
「でも、難しいかもね。トローチだけだし。風邪ならもう来ないかも。」
ですよね〜と思っていると、突然管理薬剤師の茅田さんが入ってきた。今まで薬歴を書くのに集中していたように見えて、しっかり話は聞いていたようだ。
「じゃぁ、もし次に来たらかかりつけ薬剤師とりなよ。」
「あ、それいいですね〜!」
みんながノリノリになっている。私は目からウロコだった!かかりつけ薬剤師!その制度があったとは!
あまり一般的には知られていないかもしれないが、薬局にはかかりつけ薬剤師制度というものがある。まぁ、簡単にいうと、窓口負担で数十円払えば、毎回同じ人が投薬してくれるよという、薬剤師指名制度だ。国の目的からすると、一人の薬剤師が担当の患者さんの生活から他院処方まで一括で管理することで、お薬の重複投与や生活の質の低下を防ごうという目的があるようだが、実際はお爺ちゃん、お婆ちゃんだと、同じ気心知れた薬剤師と喋っていたいという目的で使われることが多い。まぁ、私達も日常会話の中からいろんなことを聞き出し、必要であれば介護の介入を提案したり、処方に反映させたりするので、どんな目的にせよ会話をしてくれるというのはとても大切だ。けれど、そんなお爺ちゃんお婆ちゃんと違って、若い方はかかりつけ薬剤師を持とうとしてくれない。そもそもが話すこともないし、むしろタイパ重視の若い人は話す時間が無駄だと思っている。その上数十円とはいえお金を取られるなんて絶対に嫌なようで、声をかけてもほとんど効果はない。だから、私もかかりつけ薬剤師制度自体をすっかり忘れていたわけだが…
その提案は嬉しい。というか、推しが私の患者になるなんて!私がKyo君の全てを把握できるなんて、願ってもないことなんですけど!でも、Kyo君若いんですよ?絶対鬱陶しがられますって。
素直に「はい!喜んで!」と言えない私に、茅田さんはにっこり笑顔でもう一押ししてきた。
「他の点数の算定要件を満たすためにも、ここは一つ頑張ってみて欲しいな。」
あ〜あ〜なんだか今日は長い一日だったなぁ…。薬剤師人生、それほど長くはないけれど、こんな日が訪れることがあるなんて…。
突然のKyo君との出会いに引き続いて、茅田さんの提案も相まって、未だ混乱が続く脳内のせいで、疲労感が増しに増す中、なんとか家までたどり着いた。今日はもうカロリーメイトを食べるだけでいいやぁと、布団に倒れ込む。
昨日の配信では、甘く優しいことを言っていたけど、ここ最近体調を崩していたのか…。そんな時ぐらい甘えてくれていいのに…頑張り屋さんだなぁ。そういえば、今日はブログ記事の更新も何もまだない。今日ぐらいゆっくり休んでくれたらいいのに。
Kyo君のことを考えていたら、なんだか気持ちも落ち着いてきた。かかりつけ薬剤師のことを考え出すとまたドキドキしちゃうから、今日はもう考えないでおこう。というより、来てくれることなんてきっともうないだろう。今日は本当にいい日だった。素のKyo君が見れるなんて。薬剤師になって、東京に出てきて良かったぁ…。
私は幸せを噛み締めながら眠りに落ちていった。
次の日、目が覚めればもう通常運転。
昨日のドキドキなんてすぐになかったことになる。だって、おそらくもう2度と出会うこともないから。そう、昨日は神様がくれたボーナスデーだっただけで、今日からはまたいつもと変わらない日常が始まる。
そう心を入れ替えて働き出し、早くも1週間がたった。Kyo君のブログでは毎日ではないにしろ何日かに1回は筋トレをしたとか、ボイトレしたとかの報告がされていて、風邪をこじらすことなく治ったんだと安心できていたし、それゆえもう来ないだろうと確信を持って思えていた。他の薬剤師のみんなも、あの時盛り上がっただけで、その後は特に気にすることもなく日常を送っている。
しかし、神様がくれたボーナスデーはそれだけにとどまらなかったんだ…。

