あなただけが教えてくれた

 水族館に着くと、出入り口のチケット売り場に夜の水族館についての看板があった。
「へえ。水族館って、夜もあるんですね」
 矢島は応えず、代わりに俺の右手を取った。
 自然な動作に戸惑う俺に、矢島はぼそりと言った。
「人、多いので」
 それだけではない、と矢島の力加減で感じたが、俺は追究はせず、握り返すだけに止める。
「宇宙さんのことを思い浮かべてほしいので、俺のことはデートの最中、宇宙と呼んでください」
「矢島さん、それは……」
 矢島を否定することにならないだろうか。
「身代わりにするみたいで、嫌です」
 断っても、矢島は聞く耳を持たない。
「入りましょう」
 矢島の性格をもう熟知している俺は溜め息をつき、諦める。半ば引きずられるようにして館内に入った。
「わあ」
 平日の夜ということもあって、館内はそこまで混んでおらず、おかげでゆったりと眺めることができた。
「矢島さん、早く早く!」
 俺は生まれて始めて来る水族館に興奮し、子どものようにはしゃいで矢島の手を引っ張る。
「鷺澤さん、矢島じゃないです」
 俺を落ち着かせるためかと思えば、矢島はそこが引っ掛かったらしい。
 俺の手を逆に引っ張ると、距離を縮め、耳元で囁いた。
「宇宙です。ほら、呼んで下さい」
「っ……」
 矢島の声は近くで聞くと、夏に風鈴の音が鳴るように、涼やかで心地よかった。
「でも、やじまさ……」
 矢島の人差し指が、俺の唇に当てられる。
 早く呼ばなければ、次はどんなことをされるのか、知りたいような、怖いような気がした。
 でも結局、俺は矢島の目に押し負けた。
 澄んだ瞳の中に、俺だけが映っていて、俺の妄想だとは分かっていても、「君は俺の全てだ」と言われているような錯覚を覚える。
 それほどまでに矢島の視線は……いや、宇宙の視線は熱かった。
「分かりました。宇宙さん、ですね」
 本名ではないのに、呼んだ途端に矢島が蕩けるような笑顔を見せた。
「……っ、や……じゃなかった、宇宙、さん……」
「照れていて、可愛いですね」
 さらっと言われて、鼓動が一気に跳ね上がる。矢島のキャラでは全くない。宇宙そのものだ。
 分かっていても、罪悪感を覚えるより先に羞恥心のあまりに足から力が抜けた。
「鷺澤さんにとって、やっぱりこういうイメージなんですね」
「えっと、そう、ですね……」
 これは矢島がするからなのか、それとも矢島があまりにイメージを掴み過ぎているからなのかは分からないけれど。
「大丈夫ですか?ほら、行きますよ」
 宇宙が手を差し伸べてきている。矢島はこんなふうに気遣ったりしない。これは宇宙だ。
 俺は夢見心地で手を取り、引き上げられ、宇宙と館内を歩き始めた。