三学期の始業式の日、俺と歩は互いの恋バナで大いに盛り上がっていた。俺は蓮梨先輩と恋人になれたし、なんと歩にもとんでもない進展があったのだ。
「きっ……!?」
「もう、俺より照れるのやめてよっ!」
「だ、だって、水上先輩が、き……キス……?」
冬休みのお泊まりデートの際、歩がいつも通りダメ元で誘いまくったら、水上先輩が突然キスしてきたらしい。
「……俺が高校卒業するとき、まだ朔翔くんのこと好きだったら、この続きするって、言われた……」
「ひゃぁ……!」
「ふふ、何その反応」
「っ、すごい、急展開だったから……って、『朔翔くん』って呼んでるし……!」
歩は、中一の途中くらいまで水上先輩のことを「朔翔くん」と呼んでいた。しかし、水上先輩の度が過ぎるモテ期と歩の反抗期が重なって、口を聞かない期間があって……その後、仲直りはしたけど、呼び方を変えるタイミングを見失ったと当時の歩が言ってた。
「良かったね、歩」
「ありがとっ。まあ苺は絶対上手くいくと思ってたけどね!」
そんな話をしていたら、担任の先生に「そろそろ並んで体育館へ行くように」と言われてしまったので、歩との恋バナも一旦お開き。出席番号順に並んで、全校生徒の集まる体育館へ向かう。
着くまでも、着いてからも、探してしまうのは一人だけ。
二年生の列の前の方にいるはずだ。
「ぁ……」
クラスメイトの人と話す後ろ姿が少しだけ見える。それだけで胸がキュンと締めつけられる。こうやって遠くから見つめていると、まだまだ片想いをしている気分に――。
「っ!」
バチッと視線が交わって、蓮梨先輩の表情が恋色に色づく。向けられた微笑みは、見た瞬間に特別だと分かってしまうような甘いもの。周りにバレないよう小さく小さく手を振ると、先輩も同じくらい小さく手を振り返してくれた。
放課後、お互いに部活や用事がなかったので、一緒にゆっくりゆっくりバス停までの道を歩いていると、先輩からその話題が出た。
「苺ちゃん、始業式のとき手振ってくれたよね」
「っ、先輩が笑ってくれたから、嬉しくて……」
「ふふ、俺も嬉しかった。苺ちゃんが可愛すぎて、みんなの前で抱きしめに行くところだったよ」
「そ、それは恥ずかしいです……」
まあ、二人きりのときはいくらでも抱きしめてほしいし……俺だってもっと先輩にくっつきたい。
お泊まりした日からずっと先輩の体温が恋しくて、恋人になれたんだと思うと欲望にブレーキをかけるのも大変になってしまった。
「そういえば、調理部は来週から普通に活動あるの?」
「ぁ、はい、あります。でも、来週はバレンタインイベントの企画会議をするので、お菓子は作れなくて……」
バレンタインイベント――それは、この男子校における名物イベントである。その内容は、バレンタインに合わせて調理部が大量のクッキーを焼き、昼休みに校内を回って配るというものだ。
一昔前、この男子校の生徒にとってバレンタインは縁のない行事であり、中には気分が晴れないと言って授業をサボる人もいたそうだ……。
そんな状況を見た当時の調理部顧問が始めたのが、このバレンタインイベントらしい。結果的に、男子校でもバレンタインを楽しもうという雰囲気が全校に広まり、生徒たちの士気も高まったとか。
そんなわけで、現在では、バレンタインイベントは学校の恒例行事になったとのこと。実際、高校の説明会でも珍しい部活のイベントとして紹介されていたし、それに興味を持ってこの学校を選んだところもあるから、入学時から結構楽しみにしていた。
「……そっか、今年もやるんだね、バレンタインイベント。去年もみんな楽しみにしてたなぁ」
「そうなんですね……喜んでもらえるように、頑張らなきゃです」
「苺ちゃんが作ったものなら絶対美味しいし、みんな喜ぶよ。俺が保証するから」
「蓮梨先輩……ありがとうございます。先輩が保証してくれると、心強いです!」
先輩は「でしょ?」と微笑んで頭をなでなでしてくれた。キュンとしてクラっとして、もっともっとって胸の奥から甘えたい気持ちが溢れてくる。
「なぁに、苺ちゃん。そんなに可愛いお目目で見つめてきて」
「っ……」
抱きついてみたいけど、誰かに見られたら……などと迷っていたら、
「ん、っ!」
キス……された……。
「……苺ちゃん、俺たちもう付き合ってるからね。そういう顔したら俺にキスされるよ」
「ぁ、っ……」
ときめき過多で何も言えない。唇には先輩とのキスの感触が残っている。これから先、何度キスをしても、俺がこの刺激に慣れることはない気がする。
でも……。
「れ、蓮梨先輩……ハグ、も……」
「苺ちゃん……はぁ、やっぱ敵わないな〜」
慣れないけど、したい。キスもハグも……いつかは、もっと先まで。奇跡のような赤い糸で好きな人と両想いになれたのだから……湧いてくる感情を全部大切にしたいと思う日々だ。
◇
翌週、予定通り調理部ではバレンタインイベントに向けた企画会議が行われた。
「――というわけで、今年もクッキーはプレーン、ココア、抹茶、いちごの四種類で、型もこちらにあるものを使います。他に追加したい味や型がある場合は、このあとから遅くとも一週間前までには必ず相談してください」
如月先輩の引退後、次の部長に選ばれた高橋先輩の議長っぷりが頼もしい。蓮梨先輩も高橋先輩のリーダーシップには感心すると言っていたし、クラスでもまとめ役などをやることが多いらしい。
その話をしたときの蓮梨先輩の表情は印象的だった。自分にはない才能を持つ人を純粋に尊敬する瞳が綺麗だった。それはきっと自分が持っているものを大切にしているからできることだ。俺もあんな風に在りたいと強く思ったのを覚えている。
「そして、アレルギー持ちの生徒には、例年通り市販の米粉クッキーを用意したいと思います」
高橋先輩の説明は続く。このイベントでは全員に平等にお菓子を届けられるよう、アレルギーを持っている人への対応も考えている。人数としては全校で数人程度だが、毎年喜んでもらえているという話を聞いて、こちらも楽しく準備することができそうだ。
「あ、それと、ラッピングについては俺が良さそうなの買っておこうと思うんだけど……来年のこともあるし、一年で誰か……あ、苺、一緒に来てくれない?」
「っ! は、はい!」
突然の指名に肩がビクッと跳ねて、みんなにふふっと笑われてしまった。でも、高橋先輩に選んでもらえるなんて、後輩としてとても光栄だ。まあ、理由は単純に同じ調理グループだからだと思うけど……やっぱり嬉しいな。
「そっか、今年もクッキー作るんだね」
「はい、色んな型があって、作るの楽しみになりました」
「ふふ、俺が去年もらったやつは猫の形だったよ」
「あ、確かに、猫ちゃんの型ありました! あとは、定番のハートとか星とか、お花の形も……」
今日は渡せるお菓子がないけれど、蓮梨先輩はニコニコしながら俺の話を聞いてくれる。恋人繋ぎをぎゅっとしたら、最強寒波も怖くない。
「あ、そういえば、ラッピング用品の買い出し、高橋先輩と行けることになって」
「……二人で行くの?」
「はい、来年からは俺たちが引っ張らなきゃだから……」
「歩くんは一緒に行かないの?」
「え、ぁ、誘ったら来るかも……?」
あんまり大人数になると動きにくいけど、三人なら全然大丈夫そうだ。それに、言われてみれば一年生がもう一人くらい行った方が、先のことを考えると良いかもしれない。
「誘ってみたら?」
「はい、アドバイスありがとうございますっ」
「……アドバイス……」
「?」
「ぁ、頑張ってね! 買い出しも、クッキー作りも」
「っ、はい、ありがとうございます! 蓮梨先輩のクラスには、絶対、俺が渡しに行きます」
先輩は「楽しみにしてるね」と頭を優しく撫でたあと、大通りに出る前にそっとキスをしてくれた。
◇
二週間後の土曜日、俺と高橋先輩と歩は、予定通り大きな百円ショップにやってきた。バレンタインに向けてお店も関連した商品を売り出してくれているから、かなり選びやすそうだ。
「苺と歩は、何か気になるものある?」
「あ、これ可愛いっ。朔翔くんも好きそう!」
「歩、今は部活の……」
「分かってるけど、勝手に脳内に出てきちゃうんだから仕方なくない?」
まあ、それはものすごく分かるのだけど……。俺だって部活の企画とは別に、蓮梨先輩へのバレンタインのこともしっかり考えているし。
「……でも、確かにこれ可愛いね。シンプルなデザインだけどオシャレ」
「お、じゃあとりあえずこれ買っちゃうか」
その後も、高橋先輩は俺たちが目をつけたラッピング袋をひょいひょいとカゴに入れていった。俺たちばかり選んでいいのかな……と思ったが、先輩は満足そうにレジに向かった。
「いや〜二人ともありがとね。おかげでオシャレなラッピングできそう」
「俺と苺が全部選んじゃって良かったんですか?」
歩もさすがに気にしていたようで、高橋先輩の顔色を窺っている。
「え? いいよいいよ、むしろ有難い。二人ともセンスいいし……でも、今日までは大変だったよ」
高橋先輩は「やれやれ」といった様子で俺と歩を交互に見た。知らないうちに高橋先輩に迷惑をかけていたのかと思い、歩と顔を見合わせる。
「何が大変かって……君たちのパートナーがうるさくてうるさくて」
「え」
「え」
「蓮梨も朔翔もしつこかったよ〜。俺ですら警戒されるんだから、知らない男にナンパでもされたらどうなることか……」
蓮梨先輩、心配してくれてたんだ……。あれ、もしかして、歩を誘うことを提案してきたのってアドバイスじゃなくて……高橋先輩に嫉妬していたから……?
「まあ、俺にだって後輩を可愛がる権利はあるからなぁ……。二人とも、せっかくだからカフェでスイーツでも食べてから帰ろうか。お金は俺が払うからさ」
「えっ! いいんですか?」
「た、食べたいです……!」
高橋先輩は俺たちに美味しいチーズケーキを奢ってくれた。調理部でも今度作ってみたいねって話しながら、蓮梨先輩みたいに一口一口大切に、味わって食べた。
「そういえば、二人ともバレンタインは何するの?」
先に答えたのは、もちろん歩。
「俺はフォンダンショコラです! 絶対、誰にも負けない美味しいの朔翔くんにあげます。絶対!」
「ふふ、そうだよねぇ、朔翔も蓮梨もモテるもんなぁ。まあ、二人なら絶対に大丈夫だけどね」
そのとき、バレンタインという行事を前にして、なぜ今まで自分がそれについて考えていなかったのか……俺は、自分自身に対して静かに衝撃を受けていた。
「苺は? 何作るの?」
付き合ったばかりで浮かれていたから?
蓮梨先輩なら大丈夫って信頼してるから?
「……苺?」
「っ! ぁ、俺は、トリュフチョコ、作ろうかと……」
「おぉ、いいね。苺ならお店に売ってるような本格的なの作れそう」
高橋先輩に褒めてもらえたのに、気持ちが一気に沈んでしまってあまり喜べなかった。俺の考えていることをすぐに察した二人は、気を遣って「大丈夫だよ」「頑張ろう」って言ってくれた。
蓮梨先輩はモテるし、すごく優しい。
でも、浮気なんかするわけないってことも、俺への気持ちが本気だってことも分かってる。
分かっているけど、ただ、自分以外の誰かが先輩にチョコを渡して、先輩がそれを受け取るところを想像したら、ものすごく胸が苦しくなった。
先輩は毎日のように好きを伝えてくれて、俺を満たしてくれているのだから……こんなモヤモヤは早く捨ててしまおう。
◇
ラッピング用品のチョイスは他の部員にも好評だった。クッキーの試作も美味しくできたし、来週のバレンタインイベントの準備は順調だ。
「蓮梨先輩、来週も同じ味のクッキー配ることになりますが、いいんですか?」
「もちろん。苺ちゃんが作ったクッキーなら、毎日でも食べたいんだから」
先ほど先輩にあげたのは、来週のイベントで配るクッキーと全く同じレシピで作ったもの。つまり、味のネタバレみたいなことをしている。まあ、去年もこのレシピだし、とっくにバレてはいるんだけど……。
「ん、美味しい! 甘さも硬さもちょうどいいね」
「良かった……ちなみに、先輩はどの味が一番好きですか?」
「苺が一番好きだよ」
「っ……」
蓮梨先輩、絶対俺の反応を見て楽しんでる。もしも俺が「ココア」という名前だったらココア味を、「抹茶」という名前だったら抹茶味を選んでたと思う。
「そ、そういえば、蓮梨先輩は毎年何個くらいチョコもらってるんですか?」
「え〜と……何個だろう……」
数えられないくらい多いのか……。勢いで聞いてしまったけれど、やめとけば良かったかも。
「……でも、今年からは一個の予定だよ」
「っ……!」
「あ、調理部のクッキーと合わせたら二個だね」
優しく目を細める蓮梨先輩に思わず抱きついた。じわりと瞳が潤む。もうすぐ成人する年齢だというのに、恋を知って俺は泣き虫になってしまったみたいだ。
「ふふ、なぁに、そんなに不安だったの」
「ん……」
「まあ、俺だって不安だし気持ちは分かるけど?」
「え……俺は、毎年、歩と友チョコ交換するだけです……」
恋愛対象としてチョコをもらったことなんて、生まれてこの方一度もない。もちろん、あげたこともない。
「今年は違うでしょ? 調理部の人気者なんだから」
「に、人気者ではないです……でも、調理部でクッキー配るの、先輩は嫌ですか?」
「んー……苺ちゃんが好きなことをしてる姿を見るのは楽しいよ。でも、やっぱり嫉妬もしちゃうかな。恋人になれた分、余計にね。どっちも俺の本音だよ」
「そう、なんですね……」
不安になったり嫉妬したり、時には正反対な気持ちが共存することもあって……蓮梨先輩も色んな感情を俺に抱いてくれているのだと、その言葉と表情に実感させられる。
「……れ、蓮梨先輩っ」
「? なに――」
身長差、約二十センチ。
背伸びしてギリギリ届く、大好きな人の艶やかな唇。
「っ、ほ、本命チョコ、楽しみに、してて、ください……」
「苺ちゃん……あーもう、もっかいキスしていい? するね」
「ぇ、んっ、」
蓮梨先輩は俺の返事を待たずに唇を重ねてきた。もう一回のはずだったのに、結局三回くらいキスをされた。
◇
二月十四日、昼休み。前日に無事ラッピングまで終わらせた大量のクッキーたちを、ピクニックに持っていくような可愛いバスケットに入れて、調理部員一人一人が分担して配りにいく。
俺は高橋先輩に許可を得て、蓮梨先輩のクラスから配らせてもらうことにした。いつも学校で話すときは先輩が俺のクラスまで来てくれるから、俺が先輩の方へ行くのは新鮮で少し緊張する。
「こ、こんにちは〜……」
恐る恐る教室に入ってみると、二年生の先輩たちが歓声を上げて歓迎してくれた。人気のイベントとはいえ、俺が受け入れてもらえるのか不安だったから、温かい反応が返ってきたことにホッとする。
でも――
「あれ……蓮梨先輩は……」
蓮梨先輩の姿が見当たらない。
一番に渡そうと思っていたのに。
「あー、蓮梨ならさっき部活の顧問に呼ばれてたよ」
「ぁ、そ、そうですか、ありがとうございます」
部活の用事なら仕方ない。教室に入ってしまった以上、誰にも渡さず先輩を待っているわけにもいかないし……。
「え、えっと、ハッピーバレンタイン、です! ご自由に、お取りください……」
おずおずとクッキーを差し出してみると、
「わー! やった! ありがとう!」
「今年も楽しみにしてた!」
先輩方は驚くほど喜んでくれて、俺の心もルンルンと踊る。やっぱり、こうやってお菓子を届けて、誰かの笑顔を見ることができる瞬間が、俺は好きだ。
「あの〜」
「は、はい!」
「今年も米粉クッキーとかあるのかな?」
「あっ、あります! 米粉の方は、こっちです」
声をかけてくれたその人は、嬉しそうに米粉のクッキーを一袋手に取る。
「苺くんだっけ、ありがとね。僕、小麦がダメなんだけど、こうやって用意してもらえてすごく嬉しいよ」
「っ、いえ、そう言っていただけて、俺も嬉しいです!」
安全性の確保のため手作りできないのは残念だけど、こんな風に直接お礼を言ってもらえると、準備して良かったなぁって心から思う。
あれ……ところで、なぜこの方は俺の名を知っているのだろうか。
「あの、どうして俺の名前――」
「ちょっとちょっと、俺の恋人とイチャイチャしないで?」
「っ! れ、蓮梨先輩!」
いきなり俺を後ろから抱きしめてきたのは、不機嫌そうなお顔をした恋人だった。それに対しクラスメイトさんは「出た出た」と呆れた様子だ。
「蓮梨が苺くんとの惚気話聞かせてくるんだよ。だから名前も覚えちゃって。今日だって『昼休みは苺ちゃんが来るから』って牽制しまくってたし」
「あーもう、そこまで喋らなくていいから。ほら、クッキーもらった方は帰ってくださいね」
「ふふ、はいはい。苺くんありがとね! お幸せにぃ」
俺の知らない蓮梨先輩の話を聞かせてくれたその人にお辞儀をして、熱くなった顔を手で扇いで冷ました。
「……蓮梨先輩、いつまで、ハグ、してるんですか……」
「え〜。ちなみに俺まだクッキーもらってないんだけど?」
「あ、あげますからっ」
すぐにクッキーを渡したが、先輩はバックハグをやめてくれない。クラスメイトたちの前でこんなことして、恥ずかしくないのだろうか。
「せ、先輩、みんな、見てます」
小声で訴えると、先輩は耳元で囁いてくる。
「わざと見せてんの」
「なっ……なん、で」
「……俺、クラスメイトとは仲良くしたいんだ。でも、苺ちゃんに手を出す男がいたら、一生許せないからさ」
「っ……!」
仄暗く響く低い声に、恐怖と同時にときめきを感じてしまった。普段は温厚で優しい蓮梨先輩だからこそ、ギャップ萌えというやつを食らってしまうのだ。
「さて、他のクラスにも配りに行く?」
「っ、い、行きます……え、先輩も、行くってことですか?」
「ダメ?」
十秒前までは翳のある大人っぽい表情をしていたのに、こんなときだけ眉を下げて可愛らしく首を傾げるなんて……本当にずるくて愛おしい。
◇
バレンタインイベントは大成功のうちに幕を閉じた。俺は結局、蓮梨先輩と校内を回ることになってかなり恥ずかしかったけど、みんなの喜ぶ顔を見ることができたし、先輩といつもより長く一緒に過ごせたのも純粋に嬉しかった。
放課後は片付けと簡単な反省会をして、いつもより早く解散した。高橋先輩も歩も「頑張ってね」とニヤニヤしながら帰っていった。
歩の方には、こちらからもエールを送っておいた。まあ、水上先輩なら絶対に喜んでくれると思うけど。
調理室の鍵を職員室に返しても、蓮梨先輩の部活が終わるまでまだ時間がある。いつも通り廊下で待っていようかとも思ったけど……早く先輩の顔が見たいし、俺から会いに行ったっていいんだって気づいて、駆け足で玄関へ向かった。
靴を履き替えてグラウンドへ行くと、左端の方で陸上部が練習をしている。大好きな蓮梨先輩もすぐに見つけた。
フェンス越しに遠くから先輩を眺める。何本も何本も短距離を美しいフォームで走っている。俺からするとものすごく速く見えるけど、この練習ではフォームに集中するため、七割くらいの力しか出していないと聞いたことがある。つまり、先輩の七割は俺の全力より速い。
先輩の走る姿を見て、春の体育祭のことを思い出す。あの頃はまだ先輩の名前と顔しか知らなくて、走るの速くてかっこいいなぁ、となんとなく思っていただけだった。
でも、「なんとなく」惹かれてしまったのは、偶然ではなく必然だったのだろう。それまで恋愛とは全く縁のなかった俺が、ただ一人を目で追ってしまっていたのだから。
今だって、ただ一人、蓮梨先輩だけを――
「っ!」
目が合った。ついに気づかれた。
ドキドキしながら小さく手を振ってみると、先輩の表情が一気にふんわりと柔らかいものになる。まるで早咲きの桜が満開になったかのような笑顔に魅せられて、胸がキュンと甘酸っぱい音を鳴らした。
まもなく練習が終わり、部員の方々が片付けを始める中、先輩は駆け足で俺のもとへやってきた。
「苺ちゃん、待っててくれてありがとね。寒かったでしょ。片付けちょっと時間かかるから、校舎の中入ってて」
「え、全然、俺は大丈夫――」
「冷えるから、ね? 苺ちゃんが風邪ひいちゃったら、俺泣いちゃうよ」
「っ、わ、分かりました」
このままだと先輩が俺のそばを離れてくれなさそうだったので、大袈裟だなぁと思いつつ、言われた通りに校舎内へ戻って先輩を待った。
十分もしないうちに、蓮梨先輩は急いでいつもの場所へ来てくれた。毎週のことだが、運動後とは思えない爽やかさと良い香りを纏っていて、ちょっぴり頭がクラクラする。
「苺ちゃん、さっきはビックリしたよ。練習してたら天使が見えて」
「き、今日は、結構早く終わって……一人で待ってるの、寂しかったから」
「もう……可愛いなぁ〜……」
先輩は俺を抱きしめて、頭を優しく撫でてくれた。心も身体もぽかぽか温かくなって、心地良くて……ずっとこうしてぎゅっとしていられるけど、俺には渡さなければならないものがある。
「蓮梨先輩、あの……渡したいもの、あります」
ゆっくりと身体を離して、昨夜丁寧に包装したそれを紙袋に入れて差し出した。
「えっと、っ、蓮梨先輩。先月は、俺の誕生日をお祝いしてくれて、そして、告白してくれて……本当に、ありがとうございました」
「苺ちゃん……こちらこそ、ありがとう」
「っ、それで……実は俺、自分から告白しようか、迷ってたんです。結果的には、先輩に言ってもらっちゃったけど……」
「えっ、そうだったの!?」
「はい……えっと、その、だから……俺からも、改めて、気持ち伝えさせてくださいっ」
はじまりの勇気を蓮梨先輩が背負ってくれたから、俺たちは今、恋人として向き合えている。
俺もその熱い想いに、精一杯の愛を返したい。誠実で誰よりもかっこいい蓮梨先輩と、ずっと一緒に歩いていけるように。
「……俺、蓮梨先輩のことが大好きです。初めて、恋、しました。最初は、遠くから眺めてて、かっこいいなって思ってて……だから、いきなり話しかけられて、俺のスイーツ食べたいなんて、すごく驚いて」
「っ、確かに急だったよね……」
「で、でも、先輩が、すっごく美味しそうに食べてくれるから……本当に、いつもいつも、嬉しくて。お菓子を作ることの楽しさも、それを誰かに食べてもらう喜びも、蓮梨先輩が確固たるものにしてくれたんです」
ふわふわと漂っていた「好き」のカケラが、蓮梨先輩と過ごすうちに彩度を上げ、大きな形を成すようになった。それは優しく煌めいていて、この先も俺の心を照らし続けてくれるだろう。
「そんな……俺は苺ちゃんのお菓子食べさせてもらってるだけなのに、そんな風に言ってくれてありがとね」
「……そ、それに……先輩は、お菓子の感想もそうだけど、普段から、言葉も行動も表情も、全部優しくて、あったかくて、俺……初めての感覚ばっかり、先輩にもらいました。先輩に、恋を教えてもらいました」
「っ、苺ちゃん……」
本当は今すぐ目を逸らしてしまいそうなほどドキドキが加速してて、顔が熱くって堪らないけど……絶対、今だけは逸らさない……!
「蓮梨先輩、俺と出会ってくれてありがとうございます。これからも、ずっとずっと、一緒にいたいです。大好きな蓮梨先輩だけに作った本命チョコ……受け取ってくださいっ」
言いたかったこと、ちゃんと言えた。でも、たくさん喋って呼吸も上手くできていなかったのか、少し息が上がっている。
「……苺ちゃん」
「っ――」
紙袋を持った両手を先輩の両手が包んで、そのまま唇を塞がれた。触れるだけのものなのに、トクトクと先輩の体温が伝わってきて、今が冬だということを忘れそうになる。
「……俺、最近、色んなことに嫉妬しちゃってたんだ。苺ちゃんがみんなにクッキー配ったり、お休みの日にお買い物行ったりさ。でも、部活の活動だから、めちゃくちゃ応援もしてて……」
「蓮梨先輩……」
「今日、昼休みの苺ちゃんを見て、そして今、伝えてくれたこと聞いて……嫉妬なんかより、幸せな気持ちの方がずっと大きいんだって気づいた。俺はやっぱり、お菓子を作って届ける苺ちゃんの楽しそうな顔が大好きで……俺を好きだと言ってくれる苺ちゃんのことが、俺も大好きだよ」
蓮梨先輩の瞳から涙が一粒落ちて、瞬きをしたら自分の目からも一粒零れた。悲しい涙より嬉しい涙の方が多いこの恋は、とびきり甘くて幸せな恋だ。
「苺ちゃん、これ開けてみてもいいの?」
「はいっ」
先輩はラッピングを「可愛いね」と褒めてくれたあと、丁寧に解いていって……。
「わ〜、すごい、めっちゃ美味しそう!」
「ふふ、頑張りました」
「これ、あれだよね、トリュフ?」
「はい! 全部違う味なんですよ」
「えっ、マジで言ってるの……!?」
蓮梨先輩は何枚もカシャカシャと写真を撮ってから、「食べてもいい?」と目をキラキラさせて聞いてきた。「もちろんです!」と俺が頷くと、先輩は少し迷ったあと一番シンプルな味のものをパクッと口に入れた。
「ん〜……美味しすぎる!」
「良かったぁ……」
「こんなに綺麗な形で、口どけもなめらかで……プロが作ったみたい」
「そ、そこまでは……」
「ねぇ、どれが何の味か教えてよ」
蓮梨先輩がワクワクした様子で見つめてくるので、こちらも楽しくなってくる。
「これは?」
「紅茶の味です」
「じゃあ、これは?」
「抹茶ですね」
「こっちは?」
「ホワイト……って、これは見た目のままですが」
「んー……じゃ、これは?」
心臓がドキッと反応した。別に普通に答えたらいいだけなのに、蓮梨先輩が瞳の色を妖艶なものに変えたせいで、途端に楽しむ余裕もなくなってしまった。
「……いちご、です」
「へぇ」
「っ、た、食べないんですか?」
「……ふぅん、食べていいんだ」
「ぇ、ぁ、へんな、いみじゃ、なくて……」
変な意味ってなんだ。口に出すんじゃなかった。俺が苺色の妄想ばかりしてる人みたいじゃないか。
「いただきます」
「っ!」
一瞬身構えたが、先輩は普通にいちご味のトリュフを口に入れた。なんだ、緊張しなくて良かったじゃん……と、思ったそのとき。
「ん、っ、」
後頭部を引き寄せられ、唇が重なったかと思えば、僅かな隙間から甘い甘いチョコレートの味が入ってくる。
熱く絡まって、何もできない。
蓮梨先輩にされるがまま、溶けていく。
酸素が薄くなって苦しいのに、まだ離れたくないと思う。
ようやく呼吸をするタイミングが来ると、先輩は俺をふんわりと抱きしめた。
「っ……ごめん、息、できなかったね」
「ぁ、あやまらないで、ください……ほんとは、もっと、してたかった、から」
「もう……そんなに息上がってるのに、大胆なこと言わないでよ」
「だ、だって、」
まだ呼吸が浅いくせに喋ろうとする俺の唇に、先輩の人差し指が当てられた。
「また今度ね」
俺を見つめるその瞳は、今日も清澄な青い色をしていた。
「きっ……!?」
「もう、俺より照れるのやめてよっ!」
「だ、だって、水上先輩が、き……キス……?」
冬休みのお泊まりデートの際、歩がいつも通りダメ元で誘いまくったら、水上先輩が突然キスしてきたらしい。
「……俺が高校卒業するとき、まだ朔翔くんのこと好きだったら、この続きするって、言われた……」
「ひゃぁ……!」
「ふふ、何その反応」
「っ、すごい、急展開だったから……って、『朔翔くん』って呼んでるし……!」
歩は、中一の途中くらいまで水上先輩のことを「朔翔くん」と呼んでいた。しかし、水上先輩の度が過ぎるモテ期と歩の反抗期が重なって、口を聞かない期間があって……その後、仲直りはしたけど、呼び方を変えるタイミングを見失ったと当時の歩が言ってた。
「良かったね、歩」
「ありがとっ。まあ苺は絶対上手くいくと思ってたけどね!」
そんな話をしていたら、担任の先生に「そろそろ並んで体育館へ行くように」と言われてしまったので、歩との恋バナも一旦お開き。出席番号順に並んで、全校生徒の集まる体育館へ向かう。
着くまでも、着いてからも、探してしまうのは一人だけ。
二年生の列の前の方にいるはずだ。
「ぁ……」
クラスメイトの人と話す後ろ姿が少しだけ見える。それだけで胸がキュンと締めつけられる。こうやって遠くから見つめていると、まだまだ片想いをしている気分に――。
「っ!」
バチッと視線が交わって、蓮梨先輩の表情が恋色に色づく。向けられた微笑みは、見た瞬間に特別だと分かってしまうような甘いもの。周りにバレないよう小さく小さく手を振ると、先輩も同じくらい小さく手を振り返してくれた。
放課後、お互いに部活や用事がなかったので、一緒にゆっくりゆっくりバス停までの道を歩いていると、先輩からその話題が出た。
「苺ちゃん、始業式のとき手振ってくれたよね」
「っ、先輩が笑ってくれたから、嬉しくて……」
「ふふ、俺も嬉しかった。苺ちゃんが可愛すぎて、みんなの前で抱きしめに行くところだったよ」
「そ、それは恥ずかしいです……」
まあ、二人きりのときはいくらでも抱きしめてほしいし……俺だってもっと先輩にくっつきたい。
お泊まりした日からずっと先輩の体温が恋しくて、恋人になれたんだと思うと欲望にブレーキをかけるのも大変になってしまった。
「そういえば、調理部は来週から普通に活動あるの?」
「ぁ、はい、あります。でも、来週はバレンタインイベントの企画会議をするので、お菓子は作れなくて……」
バレンタインイベント――それは、この男子校における名物イベントである。その内容は、バレンタインに合わせて調理部が大量のクッキーを焼き、昼休みに校内を回って配るというものだ。
一昔前、この男子校の生徒にとってバレンタインは縁のない行事であり、中には気分が晴れないと言って授業をサボる人もいたそうだ……。
そんな状況を見た当時の調理部顧問が始めたのが、このバレンタインイベントらしい。結果的に、男子校でもバレンタインを楽しもうという雰囲気が全校に広まり、生徒たちの士気も高まったとか。
そんなわけで、現在では、バレンタインイベントは学校の恒例行事になったとのこと。実際、高校の説明会でも珍しい部活のイベントとして紹介されていたし、それに興味を持ってこの学校を選んだところもあるから、入学時から結構楽しみにしていた。
「……そっか、今年もやるんだね、バレンタインイベント。去年もみんな楽しみにしてたなぁ」
「そうなんですね……喜んでもらえるように、頑張らなきゃです」
「苺ちゃんが作ったものなら絶対美味しいし、みんな喜ぶよ。俺が保証するから」
「蓮梨先輩……ありがとうございます。先輩が保証してくれると、心強いです!」
先輩は「でしょ?」と微笑んで頭をなでなでしてくれた。キュンとしてクラっとして、もっともっとって胸の奥から甘えたい気持ちが溢れてくる。
「なぁに、苺ちゃん。そんなに可愛いお目目で見つめてきて」
「っ……」
抱きついてみたいけど、誰かに見られたら……などと迷っていたら、
「ん、っ!」
キス……された……。
「……苺ちゃん、俺たちもう付き合ってるからね。そういう顔したら俺にキスされるよ」
「ぁ、っ……」
ときめき過多で何も言えない。唇には先輩とのキスの感触が残っている。これから先、何度キスをしても、俺がこの刺激に慣れることはない気がする。
でも……。
「れ、蓮梨先輩……ハグ、も……」
「苺ちゃん……はぁ、やっぱ敵わないな〜」
慣れないけど、したい。キスもハグも……いつかは、もっと先まで。奇跡のような赤い糸で好きな人と両想いになれたのだから……湧いてくる感情を全部大切にしたいと思う日々だ。
◇
翌週、予定通り調理部ではバレンタインイベントに向けた企画会議が行われた。
「――というわけで、今年もクッキーはプレーン、ココア、抹茶、いちごの四種類で、型もこちらにあるものを使います。他に追加したい味や型がある場合は、このあとから遅くとも一週間前までには必ず相談してください」
如月先輩の引退後、次の部長に選ばれた高橋先輩の議長っぷりが頼もしい。蓮梨先輩も高橋先輩のリーダーシップには感心すると言っていたし、クラスでもまとめ役などをやることが多いらしい。
その話をしたときの蓮梨先輩の表情は印象的だった。自分にはない才能を持つ人を純粋に尊敬する瞳が綺麗だった。それはきっと自分が持っているものを大切にしているからできることだ。俺もあんな風に在りたいと強く思ったのを覚えている。
「そして、アレルギー持ちの生徒には、例年通り市販の米粉クッキーを用意したいと思います」
高橋先輩の説明は続く。このイベントでは全員に平等にお菓子を届けられるよう、アレルギーを持っている人への対応も考えている。人数としては全校で数人程度だが、毎年喜んでもらえているという話を聞いて、こちらも楽しく準備することができそうだ。
「あ、それと、ラッピングについては俺が良さそうなの買っておこうと思うんだけど……来年のこともあるし、一年で誰か……あ、苺、一緒に来てくれない?」
「っ! は、はい!」
突然の指名に肩がビクッと跳ねて、みんなにふふっと笑われてしまった。でも、高橋先輩に選んでもらえるなんて、後輩としてとても光栄だ。まあ、理由は単純に同じ調理グループだからだと思うけど……やっぱり嬉しいな。
「そっか、今年もクッキー作るんだね」
「はい、色んな型があって、作るの楽しみになりました」
「ふふ、俺が去年もらったやつは猫の形だったよ」
「あ、確かに、猫ちゃんの型ありました! あとは、定番のハートとか星とか、お花の形も……」
今日は渡せるお菓子がないけれど、蓮梨先輩はニコニコしながら俺の話を聞いてくれる。恋人繋ぎをぎゅっとしたら、最強寒波も怖くない。
「あ、そういえば、ラッピング用品の買い出し、高橋先輩と行けることになって」
「……二人で行くの?」
「はい、来年からは俺たちが引っ張らなきゃだから……」
「歩くんは一緒に行かないの?」
「え、ぁ、誘ったら来るかも……?」
あんまり大人数になると動きにくいけど、三人なら全然大丈夫そうだ。それに、言われてみれば一年生がもう一人くらい行った方が、先のことを考えると良いかもしれない。
「誘ってみたら?」
「はい、アドバイスありがとうございますっ」
「……アドバイス……」
「?」
「ぁ、頑張ってね! 買い出しも、クッキー作りも」
「っ、はい、ありがとうございます! 蓮梨先輩のクラスには、絶対、俺が渡しに行きます」
先輩は「楽しみにしてるね」と頭を優しく撫でたあと、大通りに出る前にそっとキスをしてくれた。
◇
二週間後の土曜日、俺と高橋先輩と歩は、予定通り大きな百円ショップにやってきた。バレンタインに向けてお店も関連した商品を売り出してくれているから、かなり選びやすそうだ。
「苺と歩は、何か気になるものある?」
「あ、これ可愛いっ。朔翔くんも好きそう!」
「歩、今は部活の……」
「分かってるけど、勝手に脳内に出てきちゃうんだから仕方なくない?」
まあ、それはものすごく分かるのだけど……。俺だって部活の企画とは別に、蓮梨先輩へのバレンタインのこともしっかり考えているし。
「……でも、確かにこれ可愛いね。シンプルなデザインだけどオシャレ」
「お、じゃあとりあえずこれ買っちゃうか」
その後も、高橋先輩は俺たちが目をつけたラッピング袋をひょいひょいとカゴに入れていった。俺たちばかり選んでいいのかな……と思ったが、先輩は満足そうにレジに向かった。
「いや〜二人ともありがとね。おかげでオシャレなラッピングできそう」
「俺と苺が全部選んじゃって良かったんですか?」
歩もさすがに気にしていたようで、高橋先輩の顔色を窺っている。
「え? いいよいいよ、むしろ有難い。二人ともセンスいいし……でも、今日までは大変だったよ」
高橋先輩は「やれやれ」といった様子で俺と歩を交互に見た。知らないうちに高橋先輩に迷惑をかけていたのかと思い、歩と顔を見合わせる。
「何が大変かって……君たちのパートナーがうるさくてうるさくて」
「え」
「え」
「蓮梨も朔翔もしつこかったよ〜。俺ですら警戒されるんだから、知らない男にナンパでもされたらどうなることか……」
蓮梨先輩、心配してくれてたんだ……。あれ、もしかして、歩を誘うことを提案してきたのってアドバイスじゃなくて……高橋先輩に嫉妬していたから……?
「まあ、俺にだって後輩を可愛がる権利はあるからなぁ……。二人とも、せっかくだからカフェでスイーツでも食べてから帰ろうか。お金は俺が払うからさ」
「えっ! いいんですか?」
「た、食べたいです……!」
高橋先輩は俺たちに美味しいチーズケーキを奢ってくれた。調理部でも今度作ってみたいねって話しながら、蓮梨先輩みたいに一口一口大切に、味わって食べた。
「そういえば、二人ともバレンタインは何するの?」
先に答えたのは、もちろん歩。
「俺はフォンダンショコラです! 絶対、誰にも負けない美味しいの朔翔くんにあげます。絶対!」
「ふふ、そうだよねぇ、朔翔も蓮梨もモテるもんなぁ。まあ、二人なら絶対に大丈夫だけどね」
そのとき、バレンタインという行事を前にして、なぜ今まで自分がそれについて考えていなかったのか……俺は、自分自身に対して静かに衝撃を受けていた。
「苺は? 何作るの?」
付き合ったばかりで浮かれていたから?
蓮梨先輩なら大丈夫って信頼してるから?
「……苺?」
「っ! ぁ、俺は、トリュフチョコ、作ろうかと……」
「おぉ、いいね。苺ならお店に売ってるような本格的なの作れそう」
高橋先輩に褒めてもらえたのに、気持ちが一気に沈んでしまってあまり喜べなかった。俺の考えていることをすぐに察した二人は、気を遣って「大丈夫だよ」「頑張ろう」って言ってくれた。
蓮梨先輩はモテるし、すごく優しい。
でも、浮気なんかするわけないってことも、俺への気持ちが本気だってことも分かってる。
分かっているけど、ただ、自分以外の誰かが先輩にチョコを渡して、先輩がそれを受け取るところを想像したら、ものすごく胸が苦しくなった。
先輩は毎日のように好きを伝えてくれて、俺を満たしてくれているのだから……こんなモヤモヤは早く捨ててしまおう。
◇
ラッピング用品のチョイスは他の部員にも好評だった。クッキーの試作も美味しくできたし、来週のバレンタインイベントの準備は順調だ。
「蓮梨先輩、来週も同じ味のクッキー配ることになりますが、いいんですか?」
「もちろん。苺ちゃんが作ったクッキーなら、毎日でも食べたいんだから」
先ほど先輩にあげたのは、来週のイベントで配るクッキーと全く同じレシピで作ったもの。つまり、味のネタバレみたいなことをしている。まあ、去年もこのレシピだし、とっくにバレてはいるんだけど……。
「ん、美味しい! 甘さも硬さもちょうどいいね」
「良かった……ちなみに、先輩はどの味が一番好きですか?」
「苺が一番好きだよ」
「っ……」
蓮梨先輩、絶対俺の反応を見て楽しんでる。もしも俺が「ココア」という名前だったらココア味を、「抹茶」という名前だったら抹茶味を選んでたと思う。
「そ、そういえば、蓮梨先輩は毎年何個くらいチョコもらってるんですか?」
「え〜と……何個だろう……」
数えられないくらい多いのか……。勢いで聞いてしまったけれど、やめとけば良かったかも。
「……でも、今年からは一個の予定だよ」
「っ……!」
「あ、調理部のクッキーと合わせたら二個だね」
優しく目を細める蓮梨先輩に思わず抱きついた。じわりと瞳が潤む。もうすぐ成人する年齢だというのに、恋を知って俺は泣き虫になってしまったみたいだ。
「ふふ、なぁに、そんなに不安だったの」
「ん……」
「まあ、俺だって不安だし気持ちは分かるけど?」
「え……俺は、毎年、歩と友チョコ交換するだけです……」
恋愛対象としてチョコをもらったことなんて、生まれてこの方一度もない。もちろん、あげたこともない。
「今年は違うでしょ? 調理部の人気者なんだから」
「に、人気者ではないです……でも、調理部でクッキー配るの、先輩は嫌ですか?」
「んー……苺ちゃんが好きなことをしてる姿を見るのは楽しいよ。でも、やっぱり嫉妬もしちゃうかな。恋人になれた分、余計にね。どっちも俺の本音だよ」
「そう、なんですね……」
不安になったり嫉妬したり、時には正反対な気持ちが共存することもあって……蓮梨先輩も色んな感情を俺に抱いてくれているのだと、その言葉と表情に実感させられる。
「……れ、蓮梨先輩っ」
「? なに――」
身長差、約二十センチ。
背伸びしてギリギリ届く、大好きな人の艶やかな唇。
「っ、ほ、本命チョコ、楽しみに、してて、ください……」
「苺ちゃん……あーもう、もっかいキスしていい? するね」
「ぇ、んっ、」
蓮梨先輩は俺の返事を待たずに唇を重ねてきた。もう一回のはずだったのに、結局三回くらいキスをされた。
◇
二月十四日、昼休み。前日に無事ラッピングまで終わらせた大量のクッキーたちを、ピクニックに持っていくような可愛いバスケットに入れて、調理部員一人一人が分担して配りにいく。
俺は高橋先輩に許可を得て、蓮梨先輩のクラスから配らせてもらうことにした。いつも学校で話すときは先輩が俺のクラスまで来てくれるから、俺が先輩の方へ行くのは新鮮で少し緊張する。
「こ、こんにちは〜……」
恐る恐る教室に入ってみると、二年生の先輩たちが歓声を上げて歓迎してくれた。人気のイベントとはいえ、俺が受け入れてもらえるのか不安だったから、温かい反応が返ってきたことにホッとする。
でも――
「あれ……蓮梨先輩は……」
蓮梨先輩の姿が見当たらない。
一番に渡そうと思っていたのに。
「あー、蓮梨ならさっき部活の顧問に呼ばれてたよ」
「ぁ、そ、そうですか、ありがとうございます」
部活の用事なら仕方ない。教室に入ってしまった以上、誰にも渡さず先輩を待っているわけにもいかないし……。
「え、えっと、ハッピーバレンタイン、です! ご自由に、お取りください……」
おずおずとクッキーを差し出してみると、
「わー! やった! ありがとう!」
「今年も楽しみにしてた!」
先輩方は驚くほど喜んでくれて、俺の心もルンルンと踊る。やっぱり、こうやってお菓子を届けて、誰かの笑顔を見ることができる瞬間が、俺は好きだ。
「あの〜」
「は、はい!」
「今年も米粉クッキーとかあるのかな?」
「あっ、あります! 米粉の方は、こっちです」
声をかけてくれたその人は、嬉しそうに米粉のクッキーを一袋手に取る。
「苺くんだっけ、ありがとね。僕、小麦がダメなんだけど、こうやって用意してもらえてすごく嬉しいよ」
「っ、いえ、そう言っていただけて、俺も嬉しいです!」
安全性の確保のため手作りできないのは残念だけど、こんな風に直接お礼を言ってもらえると、準備して良かったなぁって心から思う。
あれ……ところで、なぜこの方は俺の名を知っているのだろうか。
「あの、どうして俺の名前――」
「ちょっとちょっと、俺の恋人とイチャイチャしないで?」
「っ! れ、蓮梨先輩!」
いきなり俺を後ろから抱きしめてきたのは、不機嫌そうなお顔をした恋人だった。それに対しクラスメイトさんは「出た出た」と呆れた様子だ。
「蓮梨が苺くんとの惚気話聞かせてくるんだよ。だから名前も覚えちゃって。今日だって『昼休みは苺ちゃんが来るから』って牽制しまくってたし」
「あーもう、そこまで喋らなくていいから。ほら、クッキーもらった方は帰ってくださいね」
「ふふ、はいはい。苺くんありがとね! お幸せにぃ」
俺の知らない蓮梨先輩の話を聞かせてくれたその人にお辞儀をして、熱くなった顔を手で扇いで冷ました。
「……蓮梨先輩、いつまで、ハグ、してるんですか……」
「え〜。ちなみに俺まだクッキーもらってないんだけど?」
「あ、あげますからっ」
すぐにクッキーを渡したが、先輩はバックハグをやめてくれない。クラスメイトたちの前でこんなことして、恥ずかしくないのだろうか。
「せ、先輩、みんな、見てます」
小声で訴えると、先輩は耳元で囁いてくる。
「わざと見せてんの」
「なっ……なん、で」
「……俺、クラスメイトとは仲良くしたいんだ。でも、苺ちゃんに手を出す男がいたら、一生許せないからさ」
「っ……!」
仄暗く響く低い声に、恐怖と同時にときめきを感じてしまった。普段は温厚で優しい蓮梨先輩だからこそ、ギャップ萌えというやつを食らってしまうのだ。
「さて、他のクラスにも配りに行く?」
「っ、い、行きます……え、先輩も、行くってことですか?」
「ダメ?」
十秒前までは翳のある大人っぽい表情をしていたのに、こんなときだけ眉を下げて可愛らしく首を傾げるなんて……本当にずるくて愛おしい。
◇
バレンタインイベントは大成功のうちに幕を閉じた。俺は結局、蓮梨先輩と校内を回ることになってかなり恥ずかしかったけど、みんなの喜ぶ顔を見ることができたし、先輩といつもより長く一緒に過ごせたのも純粋に嬉しかった。
放課後は片付けと簡単な反省会をして、いつもより早く解散した。高橋先輩も歩も「頑張ってね」とニヤニヤしながら帰っていった。
歩の方には、こちらからもエールを送っておいた。まあ、水上先輩なら絶対に喜んでくれると思うけど。
調理室の鍵を職員室に返しても、蓮梨先輩の部活が終わるまでまだ時間がある。いつも通り廊下で待っていようかとも思ったけど……早く先輩の顔が見たいし、俺から会いに行ったっていいんだって気づいて、駆け足で玄関へ向かった。
靴を履き替えてグラウンドへ行くと、左端の方で陸上部が練習をしている。大好きな蓮梨先輩もすぐに見つけた。
フェンス越しに遠くから先輩を眺める。何本も何本も短距離を美しいフォームで走っている。俺からするとものすごく速く見えるけど、この練習ではフォームに集中するため、七割くらいの力しか出していないと聞いたことがある。つまり、先輩の七割は俺の全力より速い。
先輩の走る姿を見て、春の体育祭のことを思い出す。あの頃はまだ先輩の名前と顔しか知らなくて、走るの速くてかっこいいなぁ、となんとなく思っていただけだった。
でも、「なんとなく」惹かれてしまったのは、偶然ではなく必然だったのだろう。それまで恋愛とは全く縁のなかった俺が、ただ一人を目で追ってしまっていたのだから。
今だって、ただ一人、蓮梨先輩だけを――
「っ!」
目が合った。ついに気づかれた。
ドキドキしながら小さく手を振ってみると、先輩の表情が一気にふんわりと柔らかいものになる。まるで早咲きの桜が満開になったかのような笑顔に魅せられて、胸がキュンと甘酸っぱい音を鳴らした。
まもなく練習が終わり、部員の方々が片付けを始める中、先輩は駆け足で俺のもとへやってきた。
「苺ちゃん、待っててくれてありがとね。寒かったでしょ。片付けちょっと時間かかるから、校舎の中入ってて」
「え、全然、俺は大丈夫――」
「冷えるから、ね? 苺ちゃんが風邪ひいちゃったら、俺泣いちゃうよ」
「っ、わ、分かりました」
このままだと先輩が俺のそばを離れてくれなさそうだったので、大袈裟だなぁと思いつつ、言われた通りに校舎内へ戻って先輩を待った。
十分もしないうちに、蓮梨先輩は急いでいつもの場所へ来てくれた。毎週のことだが、運動後とは思えない爽やかさと良い香りを纏っていて、ちょっぴり頭がクラクラする。
「苺ちゃん、さっきはビックリしたよ。練習してたら天使が見えて」
「き、今日は、結構早く終わって……一人で待ってるの、寂しかったから」
「もう……可愛いなぁ〜……」
先輩は俺を抱きしめて、頭を優しく撫でてくれた。心も身体もぽかぽか温かくなって、心地良くて……ずっとこうしてぎゅっとしていられるけど、俺には渡さなければならないものがある。
「蓮梨先輩、あの……渡したいもの、あります」
ゆっくりと身体を離して、昨夜丁寧に包装したそれを紙袋に入れて差し出した。
「えっと、っ、蓮梨先輩。先月は、俺の誕生日をお祝いしてくれて、そして、告白してくれて……本当に、ありがとうございました」
「苺ちゃん……こちらこそ、ありがとう」
「っ、それで……実は俺、自分から告白しようか、迷ってたんです。結果的には、先輩に言ってもらっちゃったけど……」
「えっ、そうだったの!?」
「はい……えっと、その、だから……俺からも、改めて、気持ち伝えさせてくださいっ」
はじまりの勇気を蓮梨先輩が背負ってくれたから、俺たちは今、恋人として向き合えている。
俺もその熱い想いに、精一杯の愛を返したい。誠実で誰よりもかっこいい蓮梨先輩と、ずっと一緒に歩いていけるように。
「……俺、蓮梨先輩のことが大好きです。初めて、恋、しました。最初は、遠くから眺めてて、かっこいいなって思ってて……だから、いきなり話しかけられて、俺のスイーツ食べたいなんて、すごく驚いて」
「っ、確かに急だったよね……」
「で、でも、先輩が、すっごく美味しそうに食べてくれるから……本当に、いつもいつも、嬉しくて。お菓子を作ることの楽しさも、それを誰かに食べてもらう喜びも、蓮梨先輩が確固たるものにしてくれたんです」
ふわふわと漂っていた「好き」のカケラが、蓮梨先輩と過ごすうちに彩度を上げ、大きな形を成すようになった。それは優しく煌めいていて、この先も俺の心を照らし続けてくれるだろう。
「そんな……俺は苺ちゃんのお菓子食べさせてもらってるだけなのに、そんな風に言ってくれてありがとね」
「……そ、それに……先輩は、お菓子の感想もそうだけど、普段から、言葉も行動も表情も、全部優しくて、あったかくて、俺……初めての感覚ばっかり、先輩にもらいました。先輩に、恋を教えてもらいました」
「っ、苺ちゃん……」
本当は今すぐ目を逸らしてしまいそうなほどドキドキが加速してて、顔が熱くって堪らないけど……絶対、今だけは逸らさない……!
「蓮梨先輩、俺と出会ってくれてありがとうございます。これからも、ずっとずっと、一緒にいたいです。大好きな蓮梨先輩だけに作った本命チョコ……受け取ってくださいっ」
言いたかったこと、ちゃんと言えた。でも、たくさん喋って呼吸も上手くできていなかったのか、少し息が上がっている。
「……苺ちゃん」
「っ――」
紙袋を持った両手を先輩の両手が包んで、そのまま唇を塞がれた。触れるだけのものなのに、トクトクと先輩の体温が伝わってきて、今が冬だということを忘れそうになる。
「……俺、最近、色んなことに嫉妬しちゃってたんだ。苺ちゃんがみんなにクッキー配ったり、お休みの日にお買い物行ったりさ。でも、部活の活動だから、めちゃくちゃ応援もしてて……」
「蓮梨先輩……」
「今日、昼休みの苺ちゃんを見て、そして今、伝えてくれたこと聞いて……嫉妬なんかより、幸せな気持ちの方がずっと大きいんだって気づいた。俺はやっぱり、お菓子を作って届ける苺ちゃんの楽しそうな顔が大好きで……俺を好きだと言ってくれる苺ちゃんのことが、俺も大好きだよ」
蓮梨先輩の瞳から涙が一粒落ちて、瞬きをしたら自分の目からも一粒零れた。悲しい涙より嬉しい涙の方が多いこの恋は、とびきり甘くて幸せな恋だ。
「苺ちゃん、これ開けてみてもいいの?」
「はいっ」
先輩はラッピングを「可愛いね」と褒めてくれたあと、丁寧に解いていって……。
「わ〜、すごい、めっちゃ美味しそう!」
「ふふ、頑張りました」
「これ、あれだよね、トリュフ?」
「はい! 全部違う味なんですよ」
「えっ、マジで言ってるの……!?」
蓮梨先輩は何枚もカシャカシャと写真を撮ってから、「食べてもいい?」と目をキラキラさせて聞いてきた。「もちろんです!」と俺が頷くと、先輩は少し迷ったあと一番シンプルな味のものをパクッと口に入れた。
「ん〜……美味しすぎる!」
「良かったぁ……」
「こんなに綺麗な形で、口どけもなめらかで……プロが作ったみたい」
「そ、そこまでは……」
「ねぇ、どれが何の味か教えてよ」
蓮梨先輩がワクワクした様子で見つめてくるので、こちらも楽しくなってくる。
「これは?」
「紅茶の味です」
「じゃあ、これは?」
「抹茶ですね」
「こっちは?」
「ホワイト……って、これは見た目のままですが」
「んー……じゃ、これは?」
心臓がドキッと反応した。別に普通に答えたらいいだけなのに、蓮梨先輩が瞳の色を妖艶なものに変えたせいで、途端に楽しむ余裕もなくなってしまった。
「……いちご、です」
「へぇ」
「っ、た、食べないんですか?」
「……ふぅん、食べていいんだ」
「ぇ、ぁ、へんな、いみじゃ、なくて……」
変な意味ってなんだ。口に出すんじゃなかった。俺が苺色の妄想ばかりしてる人みたいじゃないか。
「いただきます」
「っ!」
一瞬身構えたが、先輩は普通にいちご味のトリュフを口に入れた。なんだ、緊張しなくて良かったじゃん……と、思ったそのとき。
「ん、っ、」
後頭部を引き寄せられ、唇が重なったかと思えば、僅かな隙間から甘い甘いチョコレートの味が入ってくる。
熱く絡まって、何もできない。
蓮梨先輩にされるがまま、溶けていく。
酸素が薄くなって苦しいのに、まだ離れたくないと思う。
ようやく呼吸をするタイミングが来ると、先輩は俺をふんわりと抱きしめた。
「っ……ごめん、息、できなかったね」
「ぁ、あやまらないで、ください……ほんとは、もっと、してたかった、から」
「もう……そんなに息上がってるのに、大胆なこと言わないでよ」
「だ、だって、」
まだ呼吸が浅いくせに喋ろうとする俺の唇に、先輩の人差し指が当てられた。
「また今度ね」
俺を見つめるその瞳は、今日も清澄な青い色をしていた。



