文化祭が終わった学校はようやく通常モードに切り替わり、クラスも良く言えば落ち着いたし、悪く言えばみんなのテンションが下がった。
十月になり秋めいたことも要因の一つかもしれない。制服は衣替えで冬服になり、日が沈むと寒いと感じる日も増えてきた。やっぱり冬に近づくにつれて、街全体がどこか寂しい雰囲気を纏うように感じる。
でも、俺は秋も冬も結構好きだ。秋は食欲の秋と言われるように美味しいスイーツがたくさんあるし、冬はクリスマスのおかげでお店が賑わうから。
そして、今年からはもう一つ――。
「苺ちゃん、お疲れ様!」
「蓮梨先輩、お疲れ様です。今日は、スイートポテトです」
「わぁ、美味しそう! 秋って感じだね」
今日作ったスイートポテトをニコニコ笑顔で食べてくれる蓮梨先輩。俺が、生まれて初めて恋をしている人。先日、冬服のブレザー姿を久々に見たときは、かっこよすぎてその夜夢にまで先輩が出てきてしまった。
「はぁ〜来週はテスト週間か。文化祭からの落差がすごいね」
「そうですね……でも、二年生は、テスト終わったら修学旅行、ですよね」
「そうだね。それは楽しみだけど、みんな今はテストで死にそうな顔してるよ」
蓮梨先輩たち二年生は、十月末から十一月頭にかけて、三泊四日の修学旅行がある。行き先は沖縄だと言っていた。
「苺ちゃんにお土産いっぱい買ってくるね」
「ぁ、ありがとうございます、でも、無理はしないでください……お金もかかるし、持って帰るのも大変だし……」
「ふふ、そんなの気にしなくていいのに」
さらっと頭を撫でてくる先輩に今日もドキドキしながら、ずっと気になっていることを聞いてみる。
「ぁ、あの、先輩……」
「ん? なぁに、苺ちゃん」
「せ、先輩のお誕生日って……十一月一日、ですよね?」
「うん。前に話したの覚えててくれたんだ、嬉しい」
また頭をなでなでされる。
いちいち心臓がズキュンと痛くなる。
「えっと、その、誕生日当日、先輩は修学旅行だから……後日、お祝いのスイーツ、渡したくて……」
本当はサプライズにしようかとも思っていた。でも、蓮梨先輩がそういうの苦手な可能性もあるし、喜んでもらえなかったときに立ち直れる自信が自分にないから……今回は事前に言ってしまった……。
「お祝いしてくれるの!? そっか、お祝いスイーツ……ふふ、待って、ごめん、嬉しすぎるかも」
「……! り、リクエストとか、ありますか?」
「えっ、リクエストまでさせてくれるの?」
蓮梨先輩は口角を上げたまま「うーん」としばらく唸っていたが、突然何か閃いたのか「あっ!」と目を輝かせた。
「コンテストのスイーツ、どうなった?」
心臓がドキッと跳ねた。
先輩は俺の脳内を透視できるのだろうか。
実は、蓮梨先輩に協力してもらった夏の青春スイーツコンテストについて、俺は悩んでいることがあったのだ。
「確か、先月に締め切りがあったんだよね?」
「っ、はい、無事に応募できました……! 蓮梨先輩にも完成品を食べてほしくて、でも、いつ言おうかなって、タイミングが分からなくて……」
「ふふ、俺はいつでも大歓迎だよ。苺ちゃんの新作、一番に食べられるなんてさ」
「蓮梨先輩……」
先輩はいつも俺の不安や緊張を吹き飛ばす言葉をくれる。胸の真ん中に刺さった矢は抜けないし、心も身体も甘く甘く痺れて……恋をしていなかった頃の感覚を、もう思い出せない。
「……っ、お祝いの準備して、待ってます。先輩が帰ってくるの……」
制服の裾をちょっとだけ摘んでみた。
今はまだ言葉で伝えきれない「好き」があるとき、人はこういうことをしたくなるのだと知った。
「苺ちゃん……ありがとう」
額に口づけをされて肩がピクリと跳ねた。
蓮梨先輩はこれまでに何度か額へキスをしてきたことがあるけれど、これにはどんな意味があるのだろう。
もしも恋人になれたとしたら……唇に、してくれるのかな。
「……苺ちゃん?」
「っ!」
蓮梨先輩の唇をじっと見つめてしまった……。
自分の唇が薄いからか、程よく厚くて潤っている先輩の唇はなんだかすごく色っぽく見えてしまうのだ。
「……苺ちゃん。俺が修学旅行に行ってる間、変な人に絡まれたらすぐに連絡ちょうだい」
「ぇ、絡まれるとかは、ないと思いますが……」
「説得力ないよ、そんなに可愛い顔して言っても」
ほっぺをむにっと引っ張られた。先輩は可愛い可愛いって言うけれど、文化祭のときに集まっていた女の子たちの方が可愛いに決まってる。これは悲観でも謙遜でもなく、至極真っ当な評価だと思う。
もし仮に先輩が本気で俺を可愛いと思うのなら……それは、先輩の前だから。歩がよく言ってる。恋をすると人は可愛くなるって。
でも、俺の考えでは、恋をすると――
「……! ふふ、苺ちゃん、手繋ぎたかったの?」
「っ、いつも、繋ぐから……」
自分からその手に触れてしまうくらいに大胆に、そして欲張りになる。
◇
テスト週間は長いようであっという間に過ぎた。調理部の活動はお休みだったけど、代わりに蓮梨先輩と図書室で勉強をして一緒に帰ることができた。
勉強する蓮梨先輩を近くで見るのは新鮮な体験だった。真剣に問題文を読む瞳も、素早く計算式を書く手の動きも、些細な仕草まで何もかもが絵になるのだ。
もし蓮梨先輩と同じ学年だったら、同じクラスだったら、席が隣同士だったら……毎日、この光景を見ることができるのか。そう思うと羨ましくて堪らなかった。
修学旅行だってそうだ。先輩と飛行機に乗って、観光して、お泊まりするだなんて……嫉妬するに決まってる。
たった一年弱、遅く生まれただけなのに。学年が一つ違うだけで、共に過ごせる時間がうんと少なくなる。先輩の思い出に残るのは、俺じゃなくて同級生の人たちで……。
「……ご、いーちーご」
「っ! な、なに?」
思考が深くまで沈んでいて、歩に話しかけられていたことに気づかなかった。今の自分は先輩のことで頭がいっぱいなのだと嫌でも実感させられる。
「先輩たち今日から行っちゃったね。しゅーがくりょこー」
「ぁ、うん……水上先輩いないと、寂しいよね」
「苺は甘伊先輩でしょうがっ」
すかさずツッコまれて返す言葉がない。
「……寂しいでしょ、先輩を好きになるって」
「っ!」
その一言で、歩には全てお見通しなのだと分かった。歩の声は落ち着いていたが、底知れない寂しさを感じさせる。普段は可愛い顔をしているなぁと思うけれど、こういうときの横顔は儚げで美しいという表現の方が似合う。
「もう俺は慣れちゃったけどね。中学のときも修学旅行はあったし」
「……歩は、どうやって乗り越えてきたの?」
「うーん、乗り越えられてるかは分かんないよ。何かあるたびにちゃんと傷つくし、心がズキズキ痛いなぁって思うし……でも、絶対治らないだろ〜って思ってた傷もさ、水上先輩の一言で、一瞬で治っちゃうんだよ」
「……!」
「恋ってそれの繰り返しな気がする。まあ、苺にはできるだけ寂しい思いしてほしくないけどねっ」
歩は自分だって辛いだろうに、ニコッと花が咲くような笑顔を見せてくれた。歩の笑顔がこんなに魅力的に見えるのは、その裏で何度も涙を流してきたからなのだろう。俺が慰めたこともあるけれど、きっとそんなのほんの一部に過ぎないのだ。
「……歩、ありがとう。クッキーあげる」
「えっ、いいの? 苺のおやつなくなっちゃうよ」
いいよ、と言ったのに、結局歩はお昼休みにそのクッキーを半分に割って俺に分けてくれた。ココアの味はほろ苦くて、今の俺たちにはちょうど良かった。
◇
十月三十一日、二十三時四十五分。
先輩に渡すスイーツを練習で作って、後片付けまで全部終える頃、いよいよ日付が変わろうとしていた。
修学旅行の真っ只中。友達との夜更かしだって大きな楽しみの一つだろう。もしかしたらホテルの部屋でお祝いパーティーが開かれているかもしれないし、先輩の大切な時間に水を差すような真似はしたくない。
……でも、俺だって蓮梨先輩におめでとうって伝えたい。
できることなら、誰よりも早く……。
“蓮梨先輩、お誕生日おめでとうございます”
とりあえず、入力するだけしてみる。
あとからケーキの絵文字もつけてみる。
それともスタンプの方が可愛いかな?
でも、俺、そんなに可愛いスタンプ持ってないし。
とか色々考えていたら、先輩のお誕生日まであと一分。なんだかんだ最初に入力していたシンプルな一文が良いかもしれない。というか、いつのまにか送る気満々だけど、本当に送って大丈夫かな。せめて明日の朝にした方が……あるいは帰ってきてから直接……?
「って、日付変わっちゃった!」
焦ってスマホを落としかけた。その瞬間、俺の耳に聞こえたのは……メッセージの送信音……。
「……送っちゃった……」
どうせ送るつもりだったのだからいいじゃないか。でも、やっぱりこう、送るぞって覚悟を決めてから送信ボタンを押したかったような。
画面をじっと見つめること五分。既読はつかない。きっと友達とワイワイ楽しく話しているのだろう。そりゃそうだ、修学旅行なのだから。朝までスマホの通知なんか見ないかも。
「寝なきゃ……」
朝が来たらいつも通り学校に行かなければならない。お風呂は済ませてあるのだし、さっさと歯を磨いて布団に入ろう。そう思い、スマホを敢えて机に置いたまま洗面所に向かった。
さて、歯を磨き終えて再びスマホを手にすると……まだ返事はなかった。諦めの悪すぎる自分が嫌になる。今はもう、一秒でも早く眠ってしまいたい。
自室に入り、持ち物や宿題の確認をしたらすぐにベッドに横になった。スマホはサイドテーブルに置いて、電気を消して真っ暗にして、毛布を頭から被って目を閉じた。
こうして毛布に包まれていると、蓮梨先輩に抱きしめられているときの感覚が恋しくなる。自分の体温じゃなくて、先輩の体温が欲しい。うちの柔軟剤の匂いじゃなくて、先輩の香りが欲しい。ふわふわじゃなくていい、先輩のしっかりした腕に捕まえてほしい。
「……すき……」
自然と溢れたその言葉は声というより空気に近いのに、耳に巻きつくように残って離れない。
そのとき、ピコン、と大きな音が鳴った。心臓がバクンッと飛び跳ねる。咄嗟に毛布を剥がしてスマホに手を伸ばすと――
“ありがとう、苺ちゃん”
蓮梨先輩からの返信……!
「あ」
嬉しくて嬉しくて、思わず通知をタップして既読をつけてしまった。これじゃあ、ずっと返信を待ってたんだなぁと思われてしまう。実際そうなのだけど……先輩、引いてないかな。
“苺ちゃん、まだ起きてたの?”
“はい、ちょっと眠れなくて”
“一瞬だけ電話してもいい?”
「えっ!?」
真夜中にはふさわしくない大きさの声が出てしまった。
スマホを持つ手が少し震える。
“ごめん、眠いだろうし無理はしないで”
嫌だ、先輩、行かないで。
電話できるチャンス、逃したくない。
文字で返信する前に、電話のマークをタップしていた。すぐに呼び出し音が鳴り始める。心臓はバカみたいにバクバクしている。
呼び出しのメロディーが何回か繰り返されたあと、ついに画面の向こうと音声が繋がった。
「っ、も、もしもし、苺です……」
「苺ちゃん、電話ありがとう。ごめんね、夜遅くに」
「い、いえ……」
蓮梨先輩の声だ……! 優しくてあったかい先輩の声。
「あ、先輩、改めて、お誕生日おめでとうございます」
「ふふ、ありがとね。日付変わってすぐにメッセージくれて、すごく嬉しかった」
「っ、ぁ、でも、お友達、大丈夫ですか? まだ、みなさん起きてるんじゃ……」
「起きてる起きてる。日付跨いでお菓子パーティーしてくれたんだけど、今は俺いなくても盛り上がってるし抜けてきた」
「そう、ですか……」
やっぱりお友達がお祝いしてくれてたんだ。本当に抜けてきて良かったのだろうか。蓮梨先輩が主役なのに……。
「……苺ちゃん、なんか色々心配してるでしょ〜」
「っ! な、なんで……」
「声だけでも分かるよ、苺ちゃんのことなら」
なんだ、その、自信たっぷりな言い方は。これは紛れもなく音声通話だし、たとえビデオ通話だったとしても俺の部屋は真っ暗なのに……何もかも全部、見られている気分だ。
「あのね、本当に友達の方は大丈夫だし……俺がどうしても苺ちゃんと話したかったの」
「そ、そんなの、俺だって……」
「……俺だって?」
「っ、せ、先輩と、ずっと、話したかった……」
恥ずかしくて堪らないから、毛布をぎゅうっと抱きしめた。そうすれば湧き上がってくる熱が少しは収まる気がした。
「……そんなこと言われたらさ、今すぐ会いたくなっちゃうじゃん」
会いたくなったっていいじゃないか。俺と同じくらい、先輩にも会いたいって思ってほしい……なんて、言えないけど。
「っ、蓮梨先輩、今日、あ、もう昨日か……昨日は、どこに行ったんですか?」
「昨日はねぇ、水族館に行ったよ」
「水族館……サメとか、イルカとか、いましたか?」
「ふふ、いたよ。写真送ってあげる」
先輩がチャットを見てほしいと言うので見てみると、昨日撮ったのであろう水族館での美しい写真が何枚も送られてくる。
「綺麗……先輩、写真撮るの上手ですね」
「そうかな。苺ちゃんに見せたいな〜と思って撮ったからかも」
「ぇ、っ、あ、ありがとうございます……」
俺に見せるために……いやいや、冗談みたいなものだろう。それは分かってる、分かってるけど……胸がきゅうってなる。
「苺ちゃんは? 学校どうだった?」
「学校は、いつも通り……ぁ、いや、先輩いないから、いつも通りでは、ないけど……」
そうだ、いつも通りじゃない。いつもの何百倍も寂しい。普段もそこまで話せるわけじゃないけれど、同じ校舎内にいるってだけで全然違うものなんだなぁと、今さら俺は気づいているんだ。
「……苺ちゃん、今ベッドかな。もう寝ないとだよね」
「ベッド、だけど……寝たくないです」
「でも、声が眠そうだし……学校もあるよ?」
「……行っても、先輩いないから、寂しい」
「……そんなに寂しいの?」
「ん……」
眠いけど、蓮梨先輩の声をまだ聴いていたい。こうやって横になって電話してると、先輩と一緒にウトウトしているような錯覚を起こして……なんか、ふわふわする。
「……おれも、行きたかった」
「修学旅行?」
「うん……二年生の人、ずるい。せんぱいとあそんで、おとまりして……」
「……じゃあ、苺ちゃんもお泊まりする?」
「おとまり……?」
今、先輩、お泊まりするかって聞いてくれた?
俺も、先輩と、お泊まりできるの……?
「……なんてね! ごめん、今のは忘れ――」
「する。おとまり、したい……」
「えっ」
してもいいなら、するに決まってる。だって、もしもお泊まりできたら、電話じゃなくて、本物の先輩と――。
「……苺ちゃん?」
「……」
「苺ちゃん? 寝ちゃった? ……もう、勘弁してよ……」
「……」
「……おやすみ、苺ちゃん」
夢の中で、先輩の声が聞こえた気がした。
“好きだよ”
◇
二年生が修学旅行から無事帰ってきて、蓮梨先輩と久々の下校。先輩は宣言通りお土産をたくさん買ってきてくれて、俺の家までわざわざ運んでくれるとのこと。いつものお菓子のお礼だからと言われたけれど……俺の方が色んなものをもらっている気がする。
「これ、苺ちゃんに似合いそうで買っちゃった」
そう言って先輩が渡してくれたのは、ホタルガラスのイヤリング。沖縄の海のように爽やかで美しい青には思わず見入ってしまった。文化祭のあとヘアピンをもらったばかりなのに、またアクセサリーをくれるなんて……ちょっとだけ自惚れてしまいそう。
「苺ちゃん、俺がつけてみてもいい?」
「ぁ、はい……」
蓮梨先輩は微笑んで、イヤリングを一つ手に取り――
「っ、」
耳に、触れる。
熱くて、むずむず、くすぐったい……。
「せ、先輩、やっぱり――」
これ以上は耐えられないと思ったそのとき、蓮梨先輩が耳元で囁いた。
「……苺ちゃん、もしかして耳弱い?」
「ひゃんっ」
変な声が出てしまった。不可抗力だ。蓮梨先輩のせいだ。当の本人にはなぜか驚いた顔をされた上に、距離を取られてしまったが……。こんなに熱くさせられたのに、今ここで見捨てられたら泣いてしまう。
「蓮梨先輩……?」
「っ、嫌だったね、ごめんね、だから泣かないで……」
先輩は急にあわあわしながら近づいてきて俺の頭を撫でる。その手の温度にホッとした。どうやら引かれたわけじゃなかったみたい……。
「あの、イヤリングは……」
「えっ、つけていいの?」
「っ、はい、お願いします……」
今度こそ心身のくすぐったさを我慢する。先輩は優しすぎるくらいにそっと耳たぶに触れてくれる。耳元で囁かれるのは刺激が強かったけど、これはこれで焦ったい甘さが……。
「よし、できたよ。鏡見てみる?」
蓮梨先輩は手鏡を渡してくれた。
ドキドキと胸を高鳴らせ、そこに映る自分へ視線をやる。
「わぁ……」
「綺麗だね、苺ちゃん」
背後からふんわりと抱きしめられて、鏡の中の自分が顔を赤くする。耳たぶでは、対照的な青がきらきらと輝いている。
「苺ちゃん色白だし、こういう青が映えると思ったんだよね」
そういうものなのか……と、ファッション知識のない俺は感心する。桃ちゃんがいつだか言っていた、パーソナルカラーというやつだろうか。
ふと思ったが……その論理に基づくと、蓮梨先輩にも似合うはずだ。先輩は陸上部なのに肌が白いし、それに――。
「……ぁの、これ、片方、先輩につけてみてもいいですか?」
「え、俺に?」
「先輩も、肌白いし……あと、先輩の目、綺麗な水色だから……似合うと、思います」
思いついたらウズウズしてくる。
早く先輩にこのイヤリングをつけてみたい。
「苺ちゃんがそう言うなら……つけてもらおうかな」
「……! はいっ」
俺がイヤリングをつけることができるように、蓮梨先輩はスラリとした長身を屈めてくれた。先輩の柔らかい耳たぶに、丁寧に青を施す。
「……できました。先輩、やっぱり似合ってます」
貸してもらっていた鏡を返すと、先輩は俺がつけたイヤリングを見て、ふんわりぽかぽかの笑顔を見せる。
「確かにいい感じ。嬉しいな、苺ちゃんにつけてもらえて」
「っ、それ、先輩にあげます……って、先輩が買ってくれたものだから、俺があげるって言うのも、変だけど……」
「ふふ、ほんとにいいの?」
「はい……先輩とお揃い、いいなって思って……」
「……苺ちゃんって本当に可愛いこと言うよねぇ〜」
先輩はバキュンと俺のハートを撃ち抜くセリフを言ったあと、そのまま指を絡めて歩き出す。鼓動を落ち着かせようと息を吸うたび、胸いっぱいのときめきが共鳴して苦しくなる。
「っ、そ、そういえば、先輩のお祝い……日曜日とか、空いて――」
「空いてる!」
食い気味な返答に驚いたが、それだけ先輩も楽しみにしてくれているのだと分かり心が躍る。
「じゃあ、日曜日……俺の家で」
「っ、そっか、苺ちゃんのおうち……ね」
「だ、だめ、でしたか」
「ダメじゃないよ、緊張するだけ」
不思議だ。蓮梨先輩はお城に住んでる王子様みたいな人だから、俺の家に来ることに対して緊張するイメージがなかったのだけど……少しは、恋愛的な意味で意識してくれてるのかもって、希望的観測をしてしまった。
◇
日曜日。時刻は午後三時、おやつの時間。
父さんと母さんがお店で働く一方で、俺は家のキッチンで先輩へのお祝いスイーツの仕上げをしていた。
夏の青春スイーツコンテスト・応募作品「なついろパルフェ」は、メロンをふんだんに使った夏らしい爽やかなパルフェだ。透明なグラスを用意して、下から、ソーダゼリー、パンナコッタ、小さくカットしたメロン、生クリーム、コーンフレーク、そして大きくカットしたメロンとバニラシャーベットを贅沢に乗せる。最後に小さなチョコレートをトッピングして……完成!
蓮梨先輩と食べに行ったパフェを参考にしつつ、自分なりに具材やその舌触り、層の重ね方を試行錯誤して生み出した自信作……なのだけど、いざ先輩に食べてもらうとなると、やっぱりとてつもなくドキドキする。
ピンポーン
「っ!」
ついに、ついにインターホンが鳴ってしまった。外カメラの映像を確認すると、私服の蓮梨先輩が映っている。キュンキュンとうるさい胸に手を当て、通話ボタンをポチッと押して、画面の向こうの先輩に話しかける。
「蓮梨先輩、こんにちは」
「お、苺ちゃんだ、良かった〜。玄関で待ってます」
「は、はい」
急いで玄関へ向かい、扉を開け……る前に、鏡で最後の身だしなみチェックをする。髪は綺麗に結んだし、色つきリップも塗ったし、蓮梨先輩にもらったヘアピンとイヤリングもしっかりと身につけた。
「……よしっ」
ほっぺを軽く叩いて気合いを入れて――。
ガチャ
「れ、蓮梨先輩、ようこそ……!」
扉を、開いた。
「苺ちゃん……今日も可愛いね!」
「っ、そ、んな、ヘアピンとイヤリングのおかげです……」
「あ、俺もイヤリングつけてきたよ」
恥ずかしくて俯いていた俺も、その言葉で顔を上げた。蓮梨先輩の言う通り、先輩の耳にもお揃いの青が咲いている。浮世離れした美しさに、思わずぼーっと見惚れてしまいそうになったから、慌てて先輩をリビングに案内した。
「先輩、目閉じててください……」
「ふふ、分かった。ワクワクするね」
完成したパルフェを、慎重に先輩の前に運ぶ。
そして大きく深呼吸をしたら、人生最大の勇気を出して……目を閉じて待っている先輩の額に、キスをした。
「っ!? 苺ちゃ――」
「れ、蓮梨先輩! お誕生日おめでとうございますっ」
先輩はゆっくり目を開く。俺は堪らず顔を隠して、指の隙間から先輩の様子を窺った。
「わぁ! めっちゃ美味しそう……それにオシャレ」
「っ、良かった……今回は『なついろパルフェ』って名前にしてみました……」
「いいね、可愛い名前だね! メロンいっぱい乗ってて贅沢だし、色合いも夏っぽくてコンテストに合ってる」
「ぁ、ありがとうございます……」
蓮梨先輩は見た目や香りをじっくりと褒めてくれたあと、何枚も写真を撮った。そして、少し離れたところで突っ立っていた俺を見て手招きする。
「こっち来てよ、一緒に写真撮りたいな」
「っ、はい……」
先ほどの額へのキスで燃え尽きてしまった俺には、もう何の余裕も残っていないけれど、先輩が俺としたいと言ってくれることは、俺も全部したいから。
先輩と、なついろパルフェと、俺と。この瞬間の甘酸っぱい気持ちを永遠にする音がカシャっと鳴る。蓮梨先輩は撮れた写真を見て満足気に微笑むと、スプーンに手を伸ばした。
「いただきます」
毎週、調理部のお菓子を食べるときも、蓮梨先輩は必ず優しい表情で「いただきます」を言う。
「ん……! 苺ちゃん、すっごく美味しいよ」
蓮梨先輩が美味しいと言って顔をほころばせるとき、俺はいつも、えも言われぬ幸せな気分に包まれる。
入学した頃は知らなかった、先輩の色彩豊かな表情の数々。
どれもあまりに愛おしくて、脳裏に濃く焼きついていく。
「……先輩、いつも、ありがとうございます。これからも、よかったら……いっぱい、お話、したいです」
……なんて、もうすっかり膨らんでいる恋心を隠したままこんなことを言うのは、ずるいだろうか。
「苺ちゃん、こちらこそ、いつもありがとう。お祝いもすっごく嬉しかった」
先輩は綺麗に食べ終えたパルフェのグラスとスプーンを置き、立ち上がって向かいに座る俺のもとへ来た。
「……ハグ、していい?」
「っ、ぁ、はぃ……」
動揺しながらも席を立つと、蓮梨先輩にぎゅ〜っと抱きしめられる。腕に込められたこの力が、果たして俺と同じ意味を持つのか……きっといつか、俺は確かめなければならなくなる。でも、今は、もう少しだけ……夢を見て、抱きしめ返してもいいかな。
◇
うちの店の閉店時刻が近づくまで、蓮梨先輩とはテレビゲームをして遊んだ。俺は桃ちゃんが帰省したときくらいしかゲームをしないから、先輩には全然勝てなかった。
何度も負ける俺を見て、先輩はコントローラーの操作のコツを教えてくれた。でも、身体の距離がすごく近くなったせいで、コツの内容はあまり頭に入ってこなかった……。
先輩と二人きりで過ごす時間は、物理的な距離も精神的な距離も、少しずつ少しずつ確実に縮めてくれる。まだまだぎこちないやり取りも多いけど、初めて話したあの日に比べたらずっと近いから……離れ難い気持ちも、どんどん強くなる。
「苺ちゃん、今日はありがとね。おうちにお邪魔しちゃったし、本当はご両親にもご挨拶したかったんだけど、お店も忙しいもんね……」
「いえ、父も母も、友達を呼ぶことは知ってましたから、大丈夫です」
正確には“好きな人”なんだけど……。
「……あのさ、苺ちゃん」
「?」
繋いだ手に、ちょっぴり力がこもる。
心なしか先輩の表情も緊張しているような……。
「この間の電話のこと、覚えてる?」
「は、はい、もちろん……」
「その……お泊まりしたいって、ほんと?」
「っ!? ぇ、あ、あれって、俺の夢じゃ……」
心臓が一気にバクバク、バクバク、バクバク。
先輩と電話をしたあの夜、俺はいつのまにか眠ってしまっていて……「お泊まりしたい」とか「寂しい」とかいう言葉が、うっすらと記憶には残っていたのだけど、実際に口に出したかどうか分からずにいた。
でも、修学旅行から帰ってきた先輩は至って普通で、これまで通りの態度だったから……俺に限ってあんな大胆なこと、やっぱり言ってないよなぁ、と思ってたのに……!
「あ〜……ごめん! そうだよね、それなら全然いいんだ。寝言みたいな感じだよね」
気にしないで、と申し訳なさそうに笑う先輩を見て、バクバクうるさい心臓が、ズキンッと激しく痛んだ。
あれは夢であってくれと願っていたはずなのに――。
「っ、本音、です、ちゃんと……」
「……え……」
「お泊まり、したいの、ほんと、だから……」
寂しかったのも、お泊まりしたいって思ったのも、本当の気持ち。あのときは眠気に頼らなきゃ言えなかっただろうけど、多分、どっちにしろこの先我慢できなくなるときがくるような、強い強い想いだから。嘘や冗談ではなかったのだと、分かってほしかった。
……でも、やっぱり恥ずかしすぎる!!
「……実は、さ、来月の二十日、母さんと妹がアイドルのライブに行くんだ。あと、父さんも出張で……。だから、その……もしよかったら、お泊まり、しませんか?」
「っ……!」
氷雨苺、十五歳の冬。
恋愛超初心者なのに、超急展開で……
好きな人と、お泊まりできるかもしれません。
十月になり秋めいたことも要因の一つかもしれない。制服は衣替えで冬服になり、日が沈むと寒いと感じる日も増えてきた。やっぱり冬に近づくにつれて、街全体がどこか寂しい雰囲気を纏うように感じる。
でも、俺は秋も冬も結構好きだ。秋は食欲の秋と言われるように美味しいスイーツがたくさんあるし、冬はクリスマスのおかげでお店が賑わうから。
そして、今年からはもう一つ――。
「苺ちゃん、お疲れ様!」
「蓮梨先輩、お疲れ様です。今日は、スイートポテトです」
「わぁ、美味しそう! 秋って感じだね」
今日作ったスイートポテトをニコニコ笑顔で食べてくれる蓮梨先輩。俺が、生まれて初めて恋をしている人。先日、冬服のブレザー姿を久々に見たときは、かっこよすぎてその夜夢にまで先輩が出てきてしまった。
「はぁ〜来週はテスト週間か。文化祭からの落差がすごいね」
「そうですね……でも、二年生は、テスト終わったら修学旅行、ですよね」
「そうだね。それは楽しみだけど、みんな今はテストで死にそうな顔してるよ」
蓮梨先輩たち二年生は、十月末から十一月頭にかけて、三泊四日の修学旅行がある。行き先は沖縄だと言っていた。
「苺ちゃんにお土産いっぱい買ってくるね」
「ぁ、ありがとうございます、でも、無理はしないでください……お金もかかるし、持って帰るのも大変だし……」
「ふふ、そんなの気にしなくていいのに」
さらっと頭を撫でてくる先輩に今日もドキドキしながら、ずっと気になっていることを聞いてみる。
「ぁ、あの、先輩……」
「ん? なぁに、苺ちゃん」
「せ、先輩のお誕生日って……十一月一日、ですよね?」
「うん。前に話したの覚えててくれたんだ、嬉しい」
また頭をなでなでされる。
いちいち心臓がズキュンと痛くなる。
「えっと、その、誕生日当日、先輩は修学旅行だから……後日、お祝いのスイーツ、渡したくて……」
本当はサプライズにしようかとも思っていた。でも、蓮梨先輩がそういうの苦手な可能性もあるし、喜んでもらえなかったときに立ち直れる自信が自分にないから……今回は事前に言ってしまった……。
「お祝いしてくれるの!? そっか、お祝いスイーツ……ふふ、待って、ごめん、嬉しすぎるかも」
「……! り、リクエストとか、ありますか?」
「えっ、リクエストまでさせてくれるの?」
蓮梨先輩は口角を上げたまま「うーん」としばらく唸っていたが、突然何か閃いたのか「あっ!」と目を輝かせた。
「コンテストのスイーツ、どうなった?」
心臓がドキッと跳ねた。
先輩は俺の脳内を透視できるのだろうか。
実は、蓮梨先輩に協力してもらった夏の青春スイーツコンテストについて、俺は悩んでいることがあったのだ。
「確か、先月に締め切りがあったんだよね?」
「っ、はい、無事に応募できました……! 蓮梨先輩にも完成品を食べてほしくて、でも、いつ言おうかなって、タイミングが分からなくて……」
「ふふ、俺はいつでも大歓迎だよ。苺ちゃんの新作、一番に食べられるなんてさ」
「蓮梨先輩……」
先輩はいつも俺の不安や緊張を吹き飛ばす言葉をくれる。胸の真ん中に刺さった矢は抜けないし、心も身体も甘く甘く痺れて……恋をしていなかった頃の感覚を、もう思い出せない。
「……っ、お祝いの準備して、待ってます。先輩が帰ってくるの……」
制服の裾をちょっとだけ摘んでみた。
今はまだ言葉で伝えきれない「好き」があるとき、人はこういうことをしたくなるのだと知った。
「苺ちゃん……ありがとう」
額に口づけをされて肩がピクリと跳ねた。
蓮梨先輩はこれまでに何度か額へキスをしてきたことがあるけれど、これにはどんな意味があるのだろう。
もしも恋人になれたとしたら……唇に、してくれるのかな。
「……苺ちゃん?」
「っ!」
蓮梨先輩の唇をじっと見つめてしまった……。
自分の唇が薄いからか、程よく厚くて潤っている先輩の唇はなんだかすごく色っぽく見えてしまうのだ。
「……苺ちゃん。俺が修学旅行に行ってる間、変な人に絡まれたらすぐに連絡ちょうだい」
「ぇ、絡まれるとかは、ないと思いますが……」
「説得力ないよ、そんなに可愛い顔して言っても」
ほっぺをむにっと引っ張られた。先輩は可愛い可愛いって言うけれど、文化祭のときに集まっていた女の子たちの方が可愛いに決まってる。これは悲観でも謙遜でもなく、至極真っ当な評価だと思う。
もし仮に先輩が本気で俺を可愛いと思うのなら……それは、先輩の前だから。歩がよく言ってる。恋をすると人は可愛くなるって。
でも、俺の考えでは、恋をすると――
「……! ふふ、苺ちゃん、手繋ぎたかったの?」
「っ、いつも、繋ぐから……」
自分からその手に触れてしまうくらいに大胆に、そして欲張りになる。
◇
テスト週間は長いようであっという間に過ぎた。調理部の活動はお休みだったけど、代わりに蓮梨先輩と図書室で勉強をして一緒に帰ることができた。
勉強する蓮梨先輩を近くで見るのは新鮮な体験だった。真剣に問題文を読む瞳も、素早く計算式を書く手の動きも、些細な仕草まで何もかもが絵になるのだ。
もし蓮梨先輩と同じ学年だったら、同じクラスだったら、席が隣同士だったら……毎日、この光景を見ることができるのか。そう思うと羨ましくて堪らなかった。
修学旅行だってそうだ。先輩と飛行機に乗って、観光して、お泊まりするだなんて……嫉妬するに決まってる。
たった一年弱、遅く生まれただけなのに。学年が一つ違うだけで、共に過ごせる時間がうんと少なくなる。先輩の思い出に残るのは、俺じゃなくて同級生の人たちで……。
「……ご、いーちーご」
「っ! な、なに?」
思考が深くまで沈んでいて、歩に話しかけられていたことに気づかなかった。今の自分は先輩のことで頭がいっぱいなのだと嫌でも実感させられる。
「先輩たち今日から行っちゃったね。しゅーがくりょこー」
「ぁ、うん……水上先輩いないと、寂しいよね」
「苺は甘伊先輩でしょうがっ」
すかさずツッコまれて返す言葉がない。
「……寂しいでしょ、先輩を好きになるって」
「っ!」
その一言で、歩には全てお見通しなのだと分かった。歩の声は落ち着いていたが、底知れない寂しさを感じさせる。普段は可愛い顔をしているなぁと思うけれど、こういうときの横顔は儚げで美しいという表現の方が似合う。
「もう俺は慣れちゃったけどね。中学のときも修学旅行はあったし」
「……歩は、どうやって乗り越えてきたの?」
「うーん、乗り越えられてるかは分かんないよ。何かあるたびにちゃんと傷つくし、心がズキズキ痛いなぁって思うし……でも、絶対治らないだろ〜って思ってた傷もさ、水上先輩の一言で、一瞬で治っちゃうんだよ」
「……!」
「恋ってそれの繰り返しな気がする。まあ、苺にはできるだけ寂しい思いしてほしくないけどねっ」
歩は自分だって辛いだろうに、ニコッと花が咲くような笑顔を見せてくれた。歩の笑顔がこんなに魅力的に見えるのは、その裏で何度も涙を流してきたからなのだろう。俺が慰めたこともあるけれど、きっとそんなのほんの一部に過ぎないのだ。
「……歩、ありがとう。クッキーあげる」
「えっ、いいの? 苺のおやつなくなっちゃうよ」
いいよ、と言ったのに、結局歩はお昼休みにそのクッキーを半分に割って俺に分けてくれた。ココアの味はほろ苦くて、今の俺たちにはちょうど良かった。
◇
十月三十一日、二十三時四十五分。
先輩に渡すスイーツを練習で作って、後片付けまで全部終える頃、いよいよ日付が変わろうとしていた。
修学旅行の真っ只中。友達との夜更かしだって大きな楽しみの一つだろう。もしかしたらホテルの部屋でお祝いパーティーが開かれているかもしれないし、先輩の大切な時間に水を差すような真似はしたくない。
……でも、俺だって蓮梨先輩におめでとうって伝えたい。
できることなら、誰よりも早く……。
“蓮梨先輩、お誕生日おめでとうございます”
とりあえず、入力するだけしてみる。
あとからケーキの絵文字もつけてみる。
それともスタンプの方が可愛いかな?
でも、俺、そんなに可愛いスタンプ持ってないし。
とか色々考えていたら、先輩のお誕生日まであと一分。なんだかんだ最初に入力していたシンプルな一文が良いかもしれない。というか、いつのまにか送る気満々だけど、本当に送って大丈夫かな。せめて明日の朝にした方が……あるいは帰ってきてから直接……?
「って、日付変わっちゃった!」
焦ってスマホを落としかけた。その瞬間、俺の耳に聞こえたのは……メッセージの送信音……。
「……送っちゃった……」
どうせ送るつもりだったのだからいいじゃないか。でも、やっぱりこう、送るぞって覚悟を決めてから送信ボタンを押したかったような。
画面をじっと見つめること五分。既読はつかない。きっと友達とワイワイ楽しく話しているのだろう。そりゃそうだ、修学旅行なのだから。朝までスマホの通知なんか見ないかも。
「寝なきゃ……」
朝が来たらいつも通り学校に行かなければならない。お風呂は済ませてあるのだし、さっさと歯を磨いて布団に入ろう。そう思い、スマホを敢えて机に置いたまま洗面所に向かった。
さて、歯を磨き終えて再びスマホを手にすると……まだ返事はなかった。諦めの悪すぎる自分が嫌になる。今はもう、一秒でも早く眠ってしまいたい。
自室に入り、持ち物や宿題の確認をしたらすぐにベッドに横になった。スマホはサイドテーブルに置いて、電気を消して真っ暗にして、毛布を頭から被って目を閉じた。
こうして毛布に包まれていると、蓮梨先輩に抱きしめられているときの感覚が恋しくなる。自分の体温じゃなくて、先輩の体温が欲しい。うちの柔軟剤の匂いじゃなくて、先輩の香りが欲しい。ふわふわじゃなくていい、先輩のしっかりした腕に捕まえてほしい。
「……すき……」
自然と溢れたその言葉は声というより空気に近いのに、耳に巻きつくように残って離れない。
そのとき、ピコン、と大きな音が鳴った。心臓がバクンッと飛び跳ねる。咄嗟に毛布を剥がしてスマホに手を伸ばすと――
“ありがとう、苺ちゃん”
蓮梨先輩からの返信……!
「あ」
嬉しくて嬉しくて、思わず通知をタップして既読をつけてしまった。これじゃあ、ずっと返信を待ってたんだなぁと思われてしまう。実際そうなのだけど……先輩、引いてないかな。
“苺ちゃん、まだ起きてたの?”
“はい、ちょっと眠れなくて”
“一瞬だけ電話してもいい?”
「えっ!?」
真夜中にはふさわしくない大きさの声が出てしまった。
スマホを持つ手が少し震える。
“ごめん、眠いだろうし無理はしないで”
嫌だ、先輩、行かないで。
電話できるチャンス、逃したくない。
文字で返信する前に、電話のマークをタップしていた。すぐに呼び出し音が鳴り始める。心臓はバカみたいにバクバクしている。
呼び出しのメロディーが何回か繰り返されたあと、ついに画面の向こうと音声が繋がった。
「っ、も、もしもし、苺です……」
「苺ちゃん、電話ありがとう。ごめんね、夜遅くに」
「い、いえ……」
蓮梨先輩の声だ……! 優しくてあったかい先輩の声。
「あ、先輩、改めて、お誕生日おめでとうございます」
「ふふ、ありがとね。日付変わってすぐにメッセージくれて、すごく嬉しかった」
「っ、ぁ、でも、お友達、大丈夫ですか? まだ、みなさん起きてるんじゃ……」
「起きてる起きてる。日付跨いでお菓子パーティーしてくれたんだけど、今は俺いなくても盛り上がってるし抜けてきた」
「そう、ですか……」
やっぱりお友達がお祝いしてくれてたんだ。本当に抜けてきて良かったのだろうか。蓮梨先輩が主役なのに……。
「……苺ちゃん、なんか色々心配してるでしょ〜」
「っ! な、なんで……」
「声だけでも分かるよ、苺ちゃんのことなら」
なんだ、その、自信たっぷりな言い方は。これは紛れもなく音声通話だし、たとえビデオ通話だったとしても俺の部屋は真っ暗なのに……何もかも全部、見られている気分だ。
「あのね、本当に友達の方は大丈夫だし……俺がどうしても苺ちゃんと話したかったの」
「そ、そんなの、俺だって……」
「……俺だって?」
「っ、せ、先輩と、ずっと、話したかった……」
恥ずかしくて堪らないから、毛布をぎゅうっと抱きしめた。そうすれば湧き上がってくる熱が少しは収まる気がした。
「……そんなこと言われたらさ、今すぐ会いたくなっちゃうじゃん」
会いたくなったっていいじゃないか。俺と同じくらい、先輩にも会いたいって思ってほしい……なんて、言えないけど。
「っ、蓮梨先輩、今日、あ、もう昨日か……昨日は、どこに行ったんですか?」
「昨日はねぇ、水族館に行ったよ」
「水族館……サメとか、イルカとか、いましたか?」
「ふふ、いたよ。写真送ってあげる」
先輩がチャットを見てほしいと言うので見てみると、昨日撮ったのであろう水族館での美しい写真が何枚も送られてくる。
「綺麗……先輩、写真撮るの上手ですね」
「そうかな。苺ちゃんに見せたいな〜と思って撮ったからかも」
「ぇ、っ、あ、ありがとうございます……」
俺に見せるために……いやいや、冗談みたいなものだろう。それは分かってる、分かってるけど……胸がきゅうってなる。
「苺ちゃんは? 学校どうだった?」
「学校は、いつも通り……ぁ、いや、先輩いないから、いつも通りでは、ないけど……」
そうだ、いつも通りじゃない。いつもの何百倍も寂しい。普段もそこまで話せるわけじゃないけれど、同じ校舎内にいるってだけで全然違うものなんだなぁと、今さら俺は気づいているんだ。
「……苺ちゃん、今ベッドかな。もう寝ないとだよね」
「ベッド、だけど……寝たくないです」
「でも、声が眠そうだし……学校もあるよ?」
「……行っても、先輩いないから、寂しい」
「……そんなに寂しいの?」
「ん……」
眠いけど、蓮梨先輩の声をまだ聴いていたい。こうやって横になって電話してると、先輩と一緒にウトウトしているような錯覚を起こして……なんか、ふわふわする。
「……おれも、行きたかった」
「修学旅行?」
「うん……二年生の人、ずるい。せんぱいとあそんで、おとまりして……」
「……じゃあ、苺ちゃんもお泊まりする?」
「おとまり……?」
今、先輩、お泊まりするかって聞いてくれた?
俺も、先輩と、お泊まりできるの……?
「……なんてね! ごめん、今のは忘れ――」
「する。おとまり、したい……」
「えっ」
してもいいなら、するに決まってる。だって、もしもお泊まりできたら、電話じゃなくて、本物の先輩と――。
「……苺ちゃん?」
「……」
「苺ちゃん? 寝ちゃった? ……もう、勘弁してよ……」
「……」
「……おやすみ、苺ちゃん」
夢の中で、先輩の声が聞こえた気がした。
“好きだよ”
◇
二年生が修学旅行から無事帰ってきて、蓮梨先輩と久々の下校。先輩は宣言通りお土産をたくさん買ってきてくれて、俺の家までわざわざ運んでくれるとのこと。いつものお菓子のお礼だからと言われたけれど……俺の方が色んなものをもらっている気がする。
「これ、苺ちゃんに似合いそうで買っちゃった」
そう言って先輩が渡してくれたのは、ホタルガラスのイヤリング。沖縄の海のように爽やかで美しい青には思わず見入ってしまった。文化祭のあとヘアピンをもらったばかりなのに、またアクセサリーをくれるなんて……ちょっとだけ自惚れてしまいそう。
「苺ちゃん、俺がつけてみてもいい?」
「ぁ、はい……」
蓮梨先輩は微笑んで、イヤリングを一つ手に取り――
「っ、」
耳に、触れる。
熱くて、むずむず、くすぐったい……。
「せ、先輩、やっぱり――」
これ以上は耐えられないと思ったそのとき、蓮梨先輩が耳元で囁いた。
「……苺ちゃん、もしかして耳弱い?」
「ひゃんっ」
変な声が出てしまった。不可抗力だ。蓮梨先輩のせいだ。当の本人にはなぜか驚いた顔をされた上に、距離を取られてしまったが……。こんなに熱くさせられたのに、今ここで見捨てられたら泣いてしまう。
「蓮梨先輩……?」
「っ、嫌だったね、ごめんね、だから泣かないで……」
先輩は急にあわあわしながら近づいてきて俺の頭を撫でる。その手の温度にホッとした。どうやら引かれたわけじゃなかったみたい……。
「あの、イヤリングは……」
「えっ、つけていいの?」
「っ、はい、お願いします……」
今度こそ心身のくすぐったさを我慢する。先輩は優しすぎるくらいにそっと耳たぶに触れてくれる。耳元で囁かれるのは刺激が強かったけど、これはこれで焦ったい甘さが……。
「よし、できたよ。鏡見てみる?」
蓮梨先輩は手鏡を渡してくれた。
ドキドキと胸を高鳴らせ、そこに映る自分へ視線をやる。
「わぁ……」
「綺麗だね、苺ちゃん」
背後からふんわりと抱きしめられて、鏡の中の自分が顔を赤くする。耳たぶでは、対照的な青がきらきらと輝いている。
「苺ちゃん色白だし、こういう青が映えると思ったんだよね」
そういうものなのか……と、ファッション知識のない俺は感心する。桃ちゃんがいつだか言っていた、パーソナルカラーというやつだろうか。
ふと思ったが……その論理に基づくと、蓮梨先輩にも似合うはずだ。先輩は陸上部なのに肌が白いし、それに――。
「……ぁの、これ、片方、先輩につけてみてもいいですか?」
「え、俺に?」
「先輩も、肌白いし……あと、先輩の目、綺麗な水色だから……似合うと、思います」
思いついたらウズウズしてくる。
早く先輩にこのイヤリングをつけてみたい。
「苺ちゃんがそう言うなら……つけてもらおうかな」
「……! はいっ」
俺がイヤリングをつけることができるように、蓮梨先輩はスラリとした長身を屈めてくれた。先輩の柔らかい耳たぶに、丁寧に青を施す。
「……できました。先輩、やっぱり似合ってます」
貸してもらっていた鏡を返すと、先輩は俺がつけたイヤリングを見て、ふんわりぽかぽかの笑顔を見せる。
「確かにいい感じ。嬉しいな、苺ちゃんにつけてもらえて」
「っ、それ、先輩にあげます……って、先輩が買ってくれたものだから、俺があげるって言うのも、変だけど……」
「ふふ、ほんとにいいの?」
「はい……先輩とお揃い、いいなって思って……」
「……苺ちゃんって本当に可愛いこと言うよねぇ〜」
先輩はバキュンと俺のハートを撃ち抜くセリフを言ったあと、そのまま指を絡めて歩き出す。鼓動を落ち着かせようと息を吸うたび、胸いっぱいのときめきが共鳴して苦しくなる。
「っ、そ、そういえば、先輩のお祝い……日曜日とか、空いて――」
「空いてる!」
食い気味な返答に驚いたが、それだけ先輩も楽しみにしてくれているのだと分かり心が躍る。
「じゃあ、日曜日……俺の家で」
「っ、そっか、苺ちゃんのおうち……ね」
「だ、だめ、でしたか」
「ダメじゃないよ、緊張するだけ」
不思議だ。蓮梨先輩はお城に住んでる王子様みたいな人だから、俺の家に来ることに対して緊張するイメージがなかったのだけど……少しは、恋愛的な意味で意識してくれてるのかもって、希望的観測をしてしまった。
◇
日曜日。時刻は午後三時、おやつの時間。
父さんと母さんがお店で働く一方で、俺は家のキッチンで先輩へのお祝いスイーツの仕上げをしていた。
夏の青春スイーツコンテスト・応募作品「なついろパルフェ」は、メロンをふんだんに使った夏らしい爽やかなパルフェだ。透明なグラスを用意して、下から、ソーダゼリー、パンナコッタ、小さくカットしたメロン、生クリーム、コーンフレーク、そして大きくカットしたメロンとバニラシャーベットを贅沢に乗せる。最後に小さなチョコレートをトッピングして……完成!
蓮梨先輩と食べに行ったパフェを参考にしつつ、自分なりに具材やその舌触り、層の重ね方を試行錯誤して生み出した自信作……なのだけど、いざ先輩に食べてもらうとなると、やっぱりとてつもなくドキドキする。
ピンポーン
「っ!」
ついに、ついにインターホンが鳴ってしまった。外カメラの映像を確認すると、私服の蓮梨先輩が映っている。キュンキュンとうるさい胸に手を当て、通話ボタンをポチッと押して、画面の向こうの先輩に話しかける。
「蓮梨先輩、こんにちは」
「お、苺ちゃんだ、良かった〜。玄関で待ってます」
「は、はい」
急いで玄関へ向かい、扉を開け……る前に、鏡で最後の身だしなみチェックをする。髪は綺麗に結んだし、色つきリップも塗ったし、蓮梨先輩にもらったヘアピンとイヤリングもしっかりと身につけた。
「……よしっ」
ほっぺを軽く叩いて気合いを入れて――。
ガチャ
「れ、蓮梨先輩、ようこそ……!」
扉を、開いた。
「苺ちゃん……今日も可愛いね!」
「っ、そ、んな、ヘアピンとイヤリングのおかげです……」
「あ、俺もイヤリングつけてきたよ」
恥ずかしくて俯いていた俺も、その言葉で顔を上げた。蓮梨先輩の言う通り、先輩の耳にもお揃いの青が咲いている。浮世離れした美しさに、思わずぼーっと見惚れてしまいそうになったから、慌てて先輩をリビングに案内した。
「先輩、目閉じててください……」
「ふふ、分かった。ワクワクするね」
完成したパルフェを、慎重に先輩の前に運ぶ。
そして大きく深呼吸をしたら、人生最大の勇気を出して……目を閉じて待っている先輩の額に、キスをした。
「っ!? 苺ちゃ――」
「れ、蓮梨先輩! お誕生日おめでとうございますっ」
先輩はゆっくり目を開く。俺は堪らず顔を隠して、指の隙間から先輩の様子を窺った。
「わぁ! めっちゃ美味しそう……それにオシャレ」
「っ、良かった……今回は『なついろパルフェ』って名前にしてみました……」
「いいね、可愛い名前だね! メロンいっぱい乗ってて贅沢だし、色合いも夏っぽくてコンテストに合ってる」
「ぁ、ありがとうございます……」
蓮梨先輩は見た目や香りをじっくりと褒めてくれたあと、何枚も写真を撮った。そして、少し離れたところで突っ立っていた俺を見て手招きする。
「こっち来てよ、一緒に写真撮りたいな」
「っ、はい……」
先ほどの額へのキスで燃え尽きてしまった俺には、もう何の余裕も残っていないけれど、先輩が俺としたいと言ってくれることは、俺も全部したいから。
先輩と、なついろパルフェと、俺と。この瞬間の甘酸っぱい気持ちを永遠にする音がカシャっと鳴る。蓮梨先輩は撮れた写真を見て満足気に微笑むと、スプーンに手を伸ばした。
「いただきます」
毎週、調理部のお菓子を食べるときも、蓮梨先輩は必ず優しい表情で「いただきます」を言う。
「ん……! 苺ちゃん、すっごく美味しいよ」
蓮梨先輩が美味しいと言って顔をほころばせるとき、俺はいつも、えも言われぬ幸せな気分に包まれる。
入学した頃は知らなかった、先輩の色彩豊かな表情の数々。
どれもあまりに愛おしくて、脳裏に濃く焼きついていく。
「……先輩、いつも、ありがとうございます。これからも、よかったら……いっぱい、お話、したいです」
……なんて、もうすっかり膨らんでいる恋心を隠したままこんなことを言うのは、ずるいだろうか。
「苺ちゃん、こちらこそ、いつもありがとう。お祝いもすっごく嬉しかった」
先輩は綺麗に食べ終えたパルフェのグラスとスプーンを置き、立ち上がって向かいに座る俺のもとへ来た。
「……ハグ、していい?」
「っ、ぁ、はぃ……」
動揺しながらも席を立つと、蓮梨先輩にぎゅ〜っと抱きしめられる。腕に込められたこの力が、果たして俺と同じ意味を持つのか……きっといつか、俺は確かめなければならなくなる。でも、今は、もう少しだけ……夢を見て、抱きしめ返してもいいかな。
◇
うちの店の閉店時刻が近づくまで、蓮梨先輩とはテレビゲームをして遊んだ。俺は桃ちゃんが帰省したときくらいしかゲームをしないから、先輩には全然勝てなかった。
何度も負ける俺を見て、先輩はコントローラーの操作のコツを教えてくれた。でも、身体の距離がすごく近くなったせいで、コツの内容はあまり頭に入ってこなかった……。
先輩と二人きりで過ごす時間は、物理的な距離も精神的な距離も、少しずつ少しずつ確実に縮めてくれる。まだまだぎこちないやり取りも多いけど、初めて話したあの日に比べたらずっと近いから……離れ難い気持ちも、どんどん強くなる。
「苺ちゃん、今日はありがとね。おうちにお邪魔しちゃったし、本当はご両親にもご挨拶したかったんだけど、お店も忙しいもんね……」
「いえ、父も母も、友達を呼ぶことは知ってましたから、大丈夫です」
正確には“好きな人”なんだけど……。
「……あのさ、苺ちゃん」
「?」
繋いだ手に、ちょっぴり力がこもる。
心なしか先輩の表情も緊張しているような……。
「この間の電話のこと、覚えてる?」
「は、はい、もちろん……」
「その……お泊まりしたいって、ほんと?」
「っ!? ぇ、あ、あれって、俺の夢じゃ……」
心臓が一気にバクバク、バクバク、バクバク。
先輩と電話をしたあの夜、俺はいつのまにか眠ってしまっていて……「お泊まりしたい」とか「寂しい」とかいう言葉が、うっすらと記憶には残っていたのだけど、実際に口に出したかどうか分からずにいた。
でも、修学旅行から帰ってきた先輩は至って普通で、これまで通りの態度だったから……俺に限ってあんな大胆なこと、やっぱり言ってないよなぁ、と思ってたのに……!
「あ〜……ごめん! そうだよね、それなら全然いいんだ。寝言みたいな感じだよね」
気にしないで、と申し訳なさそうに笑う先輩を見て、バクバクうるさい心臓が、ズキンッと激しく痛んだ。
あれは夢であってくれと願っていたはずなのに――。
「っ、本音、です、ちゃんと……」
「……え……」
「お泊まり、したいの、ほんと、だから……」
寂しかったのも、お泊まりしたいって思ったのも、本当の気持ち。あのときは眠気に頼らなきゃ言えなかっただろうけど、多分、どっちにしろこの先我慢できなくなるときがくるような、強い強い想いだから。嘘や冗談ではなかったのだと、分かってほしかった。
……でも、やっぱり恥ずかしすぎる!!
「……実は、さ、来月の二十日、母さんと妹がアイドルのライブに行くんだ。あと、父さんも出張で……。だから、その……もしよかったら、お泊まり、しませんか?」
「っ……!」
氷雨苺、十五歳の冬。
恋愛超初心者なのに、超急展開で……
好きな人と、お泊まりできるかもしれません。



