僕だけのピュルテ

 九月になった。二学期が始まって、みんな夏休みを恋しく思い黄昏ている……な〜んてことは全くない。むしろ、校内は日を追うごとに浮き立つような空気に包まれていく。
 なぜなら、この男子校では――。

「文化祭、(いちご)ちゃんのクラスは何やるの?」

「劇、です。シンデレラのアレンジ、みたいな……」

 みんながソワソワしている理由。
 それは、月末に文化祭があるからだ。
 ちょうど今日の五限目、各クラスの出し物が正式に決定したこともあり、蓮梨(れんり)先輩からもその話題を投げかけられた。

「ふふ、男子だらけのシンデレラかぁ、面白そう。苺ちゃんは何の役?」

「えっ、ぁ、俺は、裏方で……」

「そうなの? てっきりシンデレラかと」

「っ、ぜ、絶対ないですよそれは……」

 先輩がいたずらっぽい笑みを見せるのは、俺を揶揄っている証拠だ。俺はきっと他の人に比べて反応が薄いし表情も硬いし、揶揄い甲斐がないのでは、と思うけど……。

「だって……シンデレラって、一番可愛い人が任されるんじゃないの?」

「っ!」

 見つめたものを蕩けさせてしまいそうな瞳で、おとぎ話の王子様みたいなことを言ってのける。どんなに甘い言葉も先輩の微笑みには調和してしまう。こんなの、みんなからモテて当然だ。

「せ、先輩のクラスは、何するんですか……?」

「俺たちは縁日だよ。色んなミニゲームの案を出してるとこ」

「縁日……! すごく、楽しそう……」

「来てくれる? ってか、文化祭、一緒に回ろうよ」

「えっ」

 突然のデートのようなお誘いに胸が高鳴る。一瞬にして、世界がキラキラと鮮やかさを増したような気さえする。

「……もしかして、先約あった?」

「っ、な、ないです! (あゆむ)は、水上(みずかみ)先輩と回るだろうし……」

「じゃあ……検討してくれますか?」

「け、検討っていうか、その……俺も、一緒に、回りたい、から」

 先輩と文化祭を回ることができるのだ、一秒たりとも迷うことなどない。
 むしろ、俺からお願いするべきじゃないのかな?
 だって……モテモテの蓮梨先輩を独り占めするのだから。

「苺ちゃん、そんなに可愛い顔しないでよ」

「っ!」

 優しく腰を引き寄せられ胸に飛び込んでしまったかと思えば、後頭部を押さえられて……自然と顔を埋めることになってしまい、先輩の香りが頭をぼうっとさせる。

「文化祭、楽しみにしてるね」

「ぁ、っ、俺、も……」

 背中に腕を回してぎゅっとしたら、先輩の身体が俺よりずっと大きくてしっかりしていることが体感として分かってしまう。

 どうしてこんなにドキドキするの?
 どうしてもっと触れていたいと思うの?

 人生で初めての疑問や課題が、目を逸せないところまでもう来てしまっている。

「あれー! 蓮梨と苺くんじゃーん!」

「っ!?」

 聞き覚えのある声がして、咄嗟に先輩と距離を取った。
 この声は……そうだ、夏休み前もこんなことがあった。
 三年の芦屋(あしや)先輩と八城(やしろ)先輩だ……!

「先輩たち、今帰りですか? もう部活ないのに……」

「今日は進路面談あったの。君たちはまたデート?」

「ふふ、苺くん可愛いもんねぇ〜」

 それはもうイケメンの芦屋先輩と八城先輩がニッコニコの笑顔で詰め寄ってくるから、眩しすぎるし緊張するし、全然直視できない。

「ちょっと、苺ちゃん困ってますから!」

 蓮梨先輩が急いで間に入ってくれて助かった。三年の先輩たちは相変わらず距離の詰め方が大胆だから、俺にはコミュニケーション難易度が高すぎる……。

「はぁ……苺ちゃん大丈夫? ビックリしたよね」

「! だ、大丈夫、です」

 蓮梨先輩の背中に隠れていたら、いつのまにか二人はかなり先の方を歩いていた。
 今更これで良かったのかと反省する。俺が人見知りなせいで、蓮梨先輩の印象まで悪くなっていたら嫌だな。

「……蓮梨先輩、ごめんなさい。俺、上手く話せなくて」

「えっ、いいよいいよ、絶対あの人たち気にしてないから。それに……これ以上、他の人に見られたくなかったから」

 心臓がズキリと痛む。
 はっきり“見られたくない”と言われてしまった。

「っ、それも、ごめんなさい……で、デートとか、言われるの、嫌ですよね」

「は……あぁ、もう、違うって……」

「ぇ、なに、が」

 ちょっぴりイライラしたような空気を先輩から感じて、思わず後退した。手首を掴まれてしまったから、すぐに距離は縮められてしまったけれど。

「……苺ちゃんの可愛い顔を、他の人には見られたくないって意味ね」

「へ……」

 落雷のような衝撃。甘い甘い衝撃。いつもより余裕がなさそうな表情をする蓮梨先輩が、俺に対して独占欲を抱いている?
 あれ、そういえば、夏休みも……

 “……苺ちゃん、そういう顔はね、学校でしちゃダメだよ”

 あのときは頭がすごくふわふわしてて、言葉の意味が入ってこなかったけれど、耳はちゃんと覚えてた。
 それをよりによって今、思い出してしまった。

「ま、あの人たちは付き合ってるから絶対大丈夫なんだけど」

「ぇ、つ、つきあって……?」

 待って待って、俺たち何の話をしてたっけ。
 蓮梨先輩の独占欲のことでキャパオーバーな脳に、さらによく分からない情報が……。

「芦屋先輩と八城先輩ってカップルなんだよ」

「……えっ!? そ、そそそそうだったんですか……?」

「そうそう。苺ちゃんはまだ知らなかったか」

「ししし知らないです……」

 蓮梨先輩に「驚きすぎだよ〜」って笑われたけど、こんなの驚くに決まってる。だって、モテモテイケメン集団のうち二人が付き合っているだなんて、超特大ニュースじゃないか。

「先輩たちラブラブだし、苺ちゃんに手を出すことはないと思うけど……もし何かされたらすぐに俺を呼んでね」

「ぃ、いや、絶対ないから、大丈夫です……」

「……絶対?」

「っ!」

 蓮梨先輩に手首を掴まれた刹那、空気がピリリと張りつめた。いつも明るく澄んでいる先輩の瞳に仄暗い何かが揺れる。

「芦屋先輩と八城先輩だけじゃないよ」

「っ、え、と、」

「苺ちゃん、この世にはね、狼がたくさんいるんだ」

 先輩の指が首筋をなぞりながら上昇する。触れられた場所でパチパチと灼熱が弾けるような感覚がして、くすぐったい。

「だからね? 俺がいないところで、こうやって……」

「ぁ、っ、せんぱい、」

 そのまま頬を包まれて、親指で唇をすりすりと撫でられた。
 
「……こうやってさ、知らないやつに触られちゃうかもしれないわけ。どうするの、苺ちゃん。もしも今触ってるのが俺じゃなかったら」

 何か答えようとして開きかけた口の隙間に、先輩の親指が少しだけ入ってきて、なんだか口の中が蜂蜜で溢れたみたいに甘ったるくなって……もう、どうしたらいいか、分からない。
 喋ったらもっとおかしくなりそうで、先輩の胸元をぎゅっと掴んだ。すると、蓮梨先輩はハッとしたような顔をして、すぐに手を離す。

「っ……ごめん、意地悪して」

「ぃ、いえ……」

「本当にごめん、帰ろう」

 先輩は少し俯いて、くるりと背中を向けてしまった。俺はなぜか焦っていた。多分、なんとなく、このままじゃ先輩との距離が少しずつ開いてしまうような気がしたからだと思う。
 まだ身体が熱を処理しきれていないけど、蓮梨先輩の問いに答えたくて、その背中に抱きついて引き留めた。

「っ、い、苺ちゃん?」

「……も、もし、蓮梨先輩じゃなかったら、逃げてるから……その、っ、なんというか、蓮梨先輩は、良くて……」

 そこまで言うと、蓮梨先輩が突然「はぁ〜……」と大きく息を吐きながらしゃがみ込んでしまった。とりあえず俺も同じように横にしゃがんで、先輩が顔を上げるのを待つ。

「……れ、蓮梨先輩?」

 恐る恐る名前を呼んでみると、先輩はゆっくり顔を上げてこちらへ視線を向けた。

「やっぱり心配だなぁ。毎日一緒に帰れたらいいのに」 

「えっ」

 先輩は俺の手を握って立ち上がる。そしてその手をマッサージするみたいにむにむにと触りながら口を開く。

「苺ちゃん、部活がない日はお店のレジやってるって言ってたよね」

「っ、は、はい」

「帰りは寄り道してない? コンビニでナンパされたりとか……」

「な、ないです! まっすぐ帰ってます……」

 それならいいけど……と少し不安そうな表情を和らげた先輩に、俺は聞きたいことがある。今、ふと思い浮かんだ疑問だ。

「あの、先輩って、うちのお店には来ないんですか……?」

 蓮梨先輩と仲良くなってスイーツを毎週渡しているけれど、そういえば先輩がお店に来るのを見たことがない。平日の夕方は俺がレジをしているから、もし来てくれたら分かるはずだ。
 夏休みに聞いた話からすると、うちの店のケーキやプリンを好きだと思ってくれているようだけど……最近はもう飽きてしまったのだろうか。

「そんな悲しそうな顔しないで、まだ何も言ってないから」

「ぁ、す、すみません」

 え……俺、今、悲しそうな顔してた? 
 お店に来てほしいって気持ち、表情に出てた?

「……夏休みに、いちごプリンのこと話したじゃん? あのアンケートを出してお店から帰るときね、中学生の子がおうちの玄関の方に入っていくのを見たんだ」

「っ、それって、」

「お客さんに『苺くんおかえり〜』って言われてたから、すぐに分かったよ。ああ、あの子が氷雨(ひさめ)苺ちゃんなのかって」

 中学校から帰宅する姿を蓮梨先輩に見られていたなんて……気の抜けた顔をしていたんじゃないだろうかとヒヤヒヤする。

「初めて見た苺ちゃんがさ、本当に可愛くて」

「っ!」

「その……もう、ほんと恥ずいんだけど……その日からお店に行けなくなっちゃったの。苺ちゃんと鉢合わせるかもって思うと、緊張しちゃって……」

 俺がこれまで見てきた蓮梨先輩は、いつも大人っぽくて落ち着いていて、誰とでも会話を弾ませていて……特定の人とのコミュニケーションに緊張するところなんて、到底イメージできないような人だった。
 でも、仲が深まるにつれて、先輩は動揺したり照れたりするところを見せてくれるようになった。それに……今目の前にいる先輩は、確かに顔を赤くしている。
 だから俺は、先輩の言葉を素直に信じられるよ。

「……こ、これからは、来てほしいです」

「えっ」

「こうやって、仲良くなれたと思うし……たまにで、いいから……」

 正直、もう足りないのだ。週に一度だけじゃ、全然……。
 もっともっと先輩と一緒にいたいという気持ちが、夏休みのお出かけの日を境に急激に膨らんでいる。
 徒歩で帰れる先輩にわざわざバスに乗ってお店に来てもらうのは、やっぱり申し訳ないと感じるけれど……。
 月に一度だけでいいから、なんてわがままを言いたくなる。

「苺ちゃん……そんなこと言われたら毎日行っちゃうけど」

「っ、ま、毎日は多いです!」

「そうかな?」

「そうです!」

 毎日来てくれたらもちろん嬉しいけど、部活のお友達やご家族と過ごす時間も大切にしてほしいし……あとは、俺がもっとわがままで欲張りになっちゃいそうだから。

 先輩はしばらく「え〜」とか「ダメなの?」とか言っていたけれど、表情はとても柔らかく幸せそうだった。
 その笑顔を、ずっと近くで見ていたいという夢を見る。
 俺がスイーツを作り続けたら……夢は現実になるだろうか。





 文化祭の準備は順調に進んでいった。クラスの劇では歩と一緒に小道具を担当することになったから、楽しく穏やかに取り組むことができている。役者については、普段からクラスを盛り上げてくれるグループの人たちが立候補してくれて助かった……。

 調理部では、ベビーカステラを提供することに決まった。文化祭では素早く大量に調理できるものが求められるから、あまり手の込んだことはできないけれど……いくつかフレーバーを用意したり可愛い容器に入れたり、お客さんがワクワクするような工夫をみんなで考えている。

 蓮梨先輩もクラスの準備は上手くいっていると話していた。先輩はお菓子釣りゲームを担当しているらしい。「苺ちゃんの好きなお菓子買っておくよ」と言われたから、スーパーに売ってある駄菓子をいくつか挙げてみたら、すっごく嬉しそうにスマホにメモしてた。そしてそのあと、「これは二人だけの秘密にしとこうね」と耳元で囁いてきて……って、思い出したら顔が熱くなってきた……お店でバイト中だというのに……。

 顔の熱を冷まそうと手でパタパタと風を送っていると、まさにその原因である人が来店した。

「っ、いらっしゃいませ」

「苺ちゃん、お疲れ様」

 お店に来てほしいという話をしてから、蓮梨先輩は実際に何度か足を運んでくれている。はつこいいちごぷりんは冬季限定商品だから今の時期は売っていないけれど、先輩は普通のプリンも好きみたいで、いつも家族四人分買って帰ってくれる。

「今日もまだプリンありますよ」

「ふふ、ほんとだ。でも今日はね、母さんと妹のリクエストで、チーズケーキとモンブランとミルクレープと……あとガトーショコラもお願いします!」

「っ、あ、ありがとうございます」

 いくら人見知りと言っても、うちの店での接客には自信があったのに、蓮梨先輩を相手にすると上手くいかない。しっかり働いているところを見せたいのに、目が合うたびに心臓がドキリと弾んで声の出し方も分からなくなる。

「お待たせしました……!」

「ありがとう、苺ちゃん。今日も頑張ってて偉いね」

 頭を優しく撫でられて、心がむずむずくすぐったい。

「っ、でも、先輩が来ると、緊張しちゃいます……他の人には、もっと、ちゃんとしてるんです……」

「知ってるよ。でもそのままでいいじゃん。俺にだけ、可愛いところ見せて」

「か、っ……」

 蓮梨先輩は俺をドキドキさせる天才だと思う。いや、俺だけじゃなくて、みんなをドキドキさせるアイドルみたいな人だ。そんな先輩と二人で回る文化祭……俺の心臓は果たして持つのだろうか。





 文化祭当日の朝を迎え、行きのバスの中で一日のスケジュールを確認する。
 まず、最初はお互いシフトを入れたから、それぞれの場所で仕事をする。先輩は縁日の仕事が終わり次第、調理部の屋台の前で集合しようと言ってくれたから、多分そのままお昼ご飯を食べて……午後の一発目に俺のクラスの劇があるから、それも一緒に観に行こうって話した。そして劇が終わったら、先輩のクラスの縁日で思う存分遊ぶんだ。

 二日目は一日目に回れなかったところを回ろうと、先輩は当たり前のように言ってくれた。俺は二日間のうちどちらか一日だけでも十分だと思っていたのに、先輩は初めから二日とも俺と過ごすつもりでいてくれたのだ。

「ねぇねぇ苺、俺の髪、変じゃない?」

 文化祭でドキドキしているのは俺の親友も同じだ。歩も水上先輩とこの二日間を過ごす約束をしたと聞いている。

「変じゃないよ。可愛い」

「ふふふ、ありがとっ。苺も可愛いよん」

「いや……俺はいつもと同じ髪型だから……」

 歩はヘアアレンジが得意だから、サイドを綺麗な編み込みにしている。一方の俺はというと、いつも通りの一つ結び。調理部の屋台では清潔にしなきゃならないし、歩みたいな可愛い髪型似合わないし……。

「ん〜じゃあ、これは?」

 歩がポーチから取り出したのは、フラワーモチーフのオシャレなヘアピンだった。こういうものはショッピングモールの雑貨屋さんで俺も見かけるし、先輩と仲良くなってからは手に取ってしまうこともあるのだけど、最終的には「ちょっと可愛すぎるなぁ」と思って買えずにいた。

「つけてもいいよね?」

「えっ、ぁ、うん……」

 歩は慎重な手つきでヘアピンをつけたあと、自分の手鏡を渡してくれた。

「……!」

「ふふ、やっぱ似合うじゃん」

 魔法みたいだと思った。ヘアピン一つでこんなにも人は華やかになることができるのか。他は全ていつもと同じなのに、一瞬にして特別な自分になれたような気がする。

「歩、ありがとう」

「どういたしましてっ」

 ニコッと笑う歩に励まされる。恋を頑張っている人は、本当に可愛くてキラキラしている。俺もこんな風になれるのかな……って、何考えてるんだろう……。
 俺は恋を頑張るどころか、この胸にあるものが恋なのかどうか確かめる勇気もない。どこかで向き合うのを避けている。考えるのを避けている。

 俺は……蓮梨先輩に恋をしているのかな?





 クラスで朝のホームルームを終えたら、すぐに調理部の屋台の準備へ向かった。同じシフトに入っているのは、いつもの活動でも同じグループの如月(きさらぎ)先輩と高橋(たかはし)先輩だ。

「苺、そのヘアピン可愛いね」

「ね、俺も思った!」

 先輩たちは俺を一目見ると、すぐにお花のヘアピンに気づいてくれた。

「ぁ、ありがとうございます……!」

「ふふ、蓮梨と回るんでしょ? 楽しみだって言ってたよ」

 高橋先輩にニヤッと笑われて、恥ずかしさと同時に嬉しさが込み上げてくる。自分のいないところで自分のことを楽しそうに話してもらえるって、すごく幸せなことだと思う。
 早く……蓮梨先輩に会いたいな。



 さて、いざ開場すると、ありがたいことにベビーカステラは大人気で、俺も先輩たちもずっと忙しなく働いていた。フレーバーはプレーンに加えてチョコと抹茶を用意したが、小さい子どもたちは特に楽しそうに選んでくれた。盛り付けのカップやお持ち帰り用のラッピングも「可愛い〜!」とたくさん言ってもらえて……。蓮梨先輩もきっと喜んでくれるだろうと自信が出てきた頃、シフト交代の時間となった。

「苺おつかれ!」

「歩……と、水上先輩」

 次のシフトに入る歩は、水上先輩と手を繋いでやって来た。少し遠くには水上先輩と歩のファンと思われる人たちがいて、目をハートにしてこちらを見ている……。文化祭は一般公開されているから、女子が来ることは分かっていたけれど、予想していたよりずっと数が多いように思う。

「苺くん、こんにちは。ベビーカステラ大人気みたいだね」

「ぁ、はい、おかげさまで……」

「あれ、そのヘアピン可愛いね」

「あ、これは、歩が貸してくれて……」

 水上先輩が俺に近づくと、歩は分かりやすくほっぺを膨らませていた。俺にも嫉妬するなんて、どれだけ水上先輩のことが好きなのだろう。一途に恋をする歩はやっぱり可愛い。


 仕事の引き継ぎを終えると、高橋先輩が話しかけてきた。

「苺、これからどうするの? 蓮梨は?」

「えっと、一応、この屋台で待ち合わせの予定で……」

「そっか。じゃ、お疲れ様。またね!」

「っ、はい、お疲れ様です」

 如月先輩も高橋先輩もいなくなってしまった。調理部の屋台も相変わらず忙しそうだから、少し離れた飲食スペースに座って蓮梨先輩を待つことにした。

 先輩、ヘアピンのこと気づいてくれるかな。
 ベビーカステラ美味しいって言ってくれるかな。
 歩と水上先輩みたいに手を繋いでくれるかな。

 今日はどんな顔で笑うのだろう。
 どんな声で、どんな言葉を話すのだろう。
 蓮梨先輩のこと、想像し始めたらキリがない。

「……まだかな……」

 五分、十分、十五分、と時計の針が進んでも、蓮梨先輩は現れない。縁日の仕事が長引いているのかもしれないけど……少し、不安になってきた。

 スマホのチャットアプリを確認しても、特に連絡は入っていない。でも、今朝も「おはよう」って送ってくれたんだ。急に気が変わったとか、そもそも約束が冗談だったとか、蓮梨先輩に限ってそんな不誠実な言動をすることはないと信じている。

 待ち始めて三十分が経つ頃、歩が少しだけ屋台の仕事を抜けて俺のもとへ来てくれた。忙しいのに心配をかけてしまって申し訳なかった。歩に現状をそのまま伝えると「苺の方から先輩のクラスへ行ってみたら?」と提案された。「入れ違いになったら俺が電話をするから安心して」と。


 歩の言葉に甘えて先輩のクラスへ向かうと、驚くべきことに、教室よりだいぶ遠いところから列ができていた。しかも列に並んでいる人たちのほとんどが、近隣校の女子と思われる。
 
 とりあえず教室の様子を少しでも窺うため、俺は列に並ばずに、帰る人たちの通路を逆方向に進む。
 聞こえてくるのは「甘伊くん」「蓮梨くん」という名前ばかり。「かっこいい」「好き」「告白したい」「写真撮りたい」「連絡先交換したい」……そういった言葉が絶え間なく鼓膜にチクチクと刺さって、次第に酸素が薄くなっていくように感じる。

 やっとの思いで教室の前に着いて、背伸びをしながら中の様子を見る。

「! 蓮梨せんぱ――」

 喉が詰まったように、声が出なくなった。
 蓮梨先輩は女子に囲まれていた。
 そのうち二人は先輩の腕に抱きついていた。
 腕だけじゃない、手や胸の辺りにも触れていた。
 しかもその二人が離れたかと思えば、順番待ちでもしているのか、今度は別の二人が同じように先輩にベタベタと触り始める。

 胸が苦しくて苦しくて、思わずその場にしゃがみこんだ。
 こんなに苦しいの初めてで、どうしたらいいか分からない。
 呼吸を整えなきゃと思うほど乱れていく。
 今すぐここを離れたいのに、身体が全然動かない。

「苺ちゃん!」

 蓮梨先輩にバレた。最悪だ。このままじゃ先輩の教室の前で変な騒ぎを起こしてしまう。迷惑かけたくない、嫌われたくない、今の俺を見てほしくない。

「苺ちゃん? 大丈夫――」

「っ!」
 
 頬に伸ばされた手を咄嗟に払ってしまった。多分、先ほどまで女の子たちに触れていた手に触れられるのが嫌だった。でも、やってしまった後で後悔した。だって――

「……苺ちゃん……?」

 蓮梨先輩が、ひどく傷ついた表情をしていたから。
 こんなに悲しそうな瞳を、俺は知らない。

「っ、せんぱい……ごめんなさい……」

 ぐちゃぐちゃな感情に頭が混乱して、情けなく謝罪の言葉が溢れたそのとき、

「はーいストップ!!」

 背後で大きな声がした。聞いたことのある声だ。

「芦屋先輩……八城先輩……」

「やっほー蓮梨。ちょっと苺くんのこと借りていくねん」

「えっ」

 突然現れた芦屋先輩たちは、軽々と俺の身体を持ち上げて、強引に手を引いてその場を離れていく。三年生のイケメンが二人も登場したことにより廊下はザワザワとしていたけれど、先輩たちは何も気にせずにまっすぐ歩いていた。


 一般開放されていない教室に着くと、先輩たちは俺から手を離して、さあさあ座ってと促してくる。

「ぁ、あの、芦屋先輩、八城先輩、どうして……」

「歩くんに頼まれたんだ。心配だから様子を見に行ってほしいって。まあ、蓮梨のクラスには元々遊びに行こうと思ってたし、ちょうど良かったよ」

「歩が……」

「苺くん、辛かったね。蓮梨と約束してたのにね」

 八城先輩に優しい言葉をかけられて、瞳がじわりと潤んでしまうのが分かった。ただでさえ迷惑をかけているから、泣きたくなんかないのに。

「っ、すみません、お時間奪ってしまって……」

「……苺くんさぁ、もっと怒ったり泣いたりしていいんだよ?」

「え……」

「女子の機嫌取って約束破るなんてひどいじゃん」

「それは……」

 俺が蓮梨先輩の立場だったら、あの人数の女の子たちを無視することなんてできないと思う。きっと先輩だって対応に困っていたはずなのに、みんなが嫌な気持ちにならないよう愛想良く振る舞っていたんだ。
 頭では理解しているのに……心が追いつかない。

「……仕方がないって、分かってるのに……自分を優先してほしいなんて、わがまますぎるって、思って……」

「いやいやそれが普通でしょ。だって、好きなんだから」

「っ!」

「恋をするとね、誰でも嫉妬深くなっちゃうんだよ」

 好き。恋。嫉妬。
 俺は……本当はもうとっくに気づいていたんだと思う。
 初めてで分からないからって、都合良く目を逸らしていた。
 今、先輩たちにさらりと断言されて、ようやく真正面から向き合おうとしている。

「……ぁ、あの、お二人も、あるんですか? 嫉妬……」

「そりゃあねぇ! 特に付き合う前はひどかったよ」

「もちろん今でも全然あるし」

 いつも明るくてとても仲が良さそうで、喧嘩してるところなんか想像できないような二人でも……嫉妬、するんだ。モヤモヤズキズキするこの気持ちを、胸に抱えているんだ。

「……っ、でも、俺、やっぱり……蓮梨先輩に、謝りたい」

 どんな事情があれ、大切な蓮梨先輩にあんな顔をさせてしまったことは事実で……このままじゃ、俺は蓮梨先輩の友達ですらいられない。

「お、ちょうど蓮梨から連絡来たよ。ここにいるって言っとくね」

「っ、あ、ありがとうございます!」

「大丈夫。二人なら絶対大丈夫だよ」

 先輩たちは優しく俺の肩に手を置いて励ましてくれたあと、すぐに教室を出て行った。体育館からの音楽がうっすらと聞こえる中、蓮梨先輩を待つ。



 秒針が二周した頃、教室の扉が勢いよく開いた。

「苺ちゃん!」

 蓮梨先輩は息を切らしていた。すごく急いでここまで来てくれたのだと一目で分かって、胸がきゅうっと締めつけられる。

「っ、蓮梨先輩、あの、俺――」

 ごめんなさいを言う前に、蓮梨先輩にハグされていた。息も出来ないくらいぎゅーっと強く抱きしめてくるから苦しいけれど、先ほど嫉妬したときの苦しさとは全く種類が違うそれは、愛おしい痛みを伴っていた。

「……苺ちゃん、約束の時間に間に合わなくてごめんね」

「っ、俺も……さっき、手を払っちゃって、ごめんなさい」

「いや……俺が悪かった。もっと早く切り上げるべきだった。誰にでもいい顔しようとして、一番大事な苺ちゃんのこと傷つけた」

「っ、大丈夫、です。先輩の立場も、気持ちも、分かってます……でも、」

 本当にこれを言ってしまっていいのだろうか。俺は蓮梨先輩の恋人じゃないし、言ったところで過去の出来事はどうにもならないのに。

「……でも、何? 続きを教えて」

 さっきは払いのけてしまった手が、今度こそ頬に触れた。先輩の高めの体温が、この身体を芯から熱くしていく。

「っ、でも……蓮梨先輩のこと、他の人に触ってほしくなくて……先輩と女の子たち見てたら、苦しくて……俺、こんなの初めてで……その、つまり……」

「つまり?」

「……し、嫉妬、しました」

 言ってしまった。全部、曝け出してしまった。
 蓮梨先輩、引かないかな。
 ただの先輩と後輩なのに、めんどくさいって思われたかな。

「……苺ちゃん、俺もね、嫉妬してるよ」

「っ、え……?」

 蓮梨先輩はその感情の強さを訴えるかのように数秒目を合わせたあと、お花のヘアピンをそっと撫でた。

「これ、似合ってるね。すごく可愛い」

「ぁ、ありがとうございま――」

「俺が一番に見たかった」

「っ……!」

 耳元で低く響く艶やかな声のせいで、背中をゾクゾクとした感覚が駆け上がる。思わず蓮梨先輩の胸元を掴むと、

「それ、前もやってたけど、欲煽ってるの分かってる?」

「へ……」

 先輩の唇が耳にかすかに触れて、言われたことを咀嚼できないまま、さらに先輩のシャツを強く掴んでしまう。

「……苺ちゃん、だからさ……」


 キーンコーンカーンコーン


「……あ! シンデレラ、始まります!」

「えっ」

 午後のプログラムの開始を伝えるチャイムが鳴り、ハッと意識が現実に戻ってきた。俺のクラスの劇がまもなく始まってしまう。

「蓮梨先輩! 俺、歩と一緒に、小道具と衣装頑張って作ったので、先輩に観てほしいです……!」

「苺ちゃん……ふふ、もちろんだよ。観に行きたい」

 いつもは先輩の方から手を繋いでくれていたけれど、今は俺の方から差し出した。蓮梨先輩が嬉しそうに笑うのを見て、もう二度とあんな風に傷つけたくないと思った。
 先輩には……好きな人には、ずっと笑顔でいてほしい。





 俺のクラスの「新・シンデレラ」は無事に終演した。本来のストーリーとはかなり違う部分もあったが、役者のみんながノリノリで演じてくれたおかげで会場も盛り上がっていた。
 蓮梨先輩もたくさん笑ってくれたし、俺と歩が作った小道具や衣装も上手だと褒めてくれた。ステージに釘付けな先輩の横顔を盗み見るたびに、胸がキュンとときめいていた。


 さて、お昼ご飯を食べ損ねていた俺たちは、遅めのランチタイムに入ろうと屋台のスペースに行ったのだけれど……。
 なんと、調理部のベビーカステラがものすごく売れたようで、今日の分はあと二カップ分しか残っていないとのこと。しかも、チョコ味と抹茶味は売り切れてしまったらしい。

「どうしよう……蓮梨先輩、明日にしますか?」

「無理、我慢できないよ。プレーン味だけでも今食べたい」

「っ、じゃ、じゃあ、プレーン味を……」

「……ねぇ、苺ちゃんが焼いたのが食べたい」

「え、ぁ……」

 シフトに入っていた調理部の先輩は、ニヤリとしながら調理する場所を譲ってくれた。知り合いだから恥ずかしくて爆発しそうだったけど、蓮梨先輩にリクエストされてしまったらやるしかないじゃないか。

「で、できました、どうぞ……」

「ありがと、苺ちゃん」

 いただきます、と丁寧に手を合わせてから、先輩はベビーカステラを一つ口に入れた。全然凝ったものじゃないし、誰が焼いても同じなんじゃないかって思うけど……。

「ん、すっごく美味しいよ、苺ちゃん」

 この笑顔を見れるのは、少なくとも今は俺だけなのかと思うと……どうしようもなく胸が高鳴って、心が好きで満たされていくんだ。

「はい、苺ちゃんも。あーん」

「えっ」

 蓮梨先輩に食べさせてもらったベビーカステラは、ふわふわと口の中で溶けていく。
 恋を自覚した日の思い出は、優しくて甘い後味となった。





 二日目は一般公開がなかったため、一日目に蓮梨先輩とできなかったことを全部やった。先輩のクラスの縁日では、射的や輪投げなど色んなミニゲームを楽しんだ。
 なんと言っても、先輩が準備してくれたお菓子釣りは一番楽しかったな。事前に伝えていた俺の好きな駄菓子がたくさん用意してあって、釣れなかったものも結局おまけでもらってしまった。

 ベビーカステラのチョコ味と抹茶味も食べてもらうことができた。先輩はどの味も美味しそうに食べてくれたし、どの味も「あーん」と俺に食べさせてきた……。
 ちょうどその光景を歩や水上先輩、さらには三年の先輩たちにも見られてしまって、俺はだいぶ恥ずかしくて逃げたくなったけど……みんなに助けてもらって今があるから、蓮梨先輩と一緒にありがとうを伝えた。



 
「苺ちゃん、渡したいものがあるんだけど」

 文化祭が幕を閉じ、いつもの帰り道を二人で歩いていると、蓮梨先輩は突然何かを渡してきた。
 小さな可愛らしい袋を開けると、そこには――

「っ……! ヘアピン、可愛い……」

 歩に貸してもらったものとはまた違う、ポップで可愛らしいフラワーモチーフのヘアピン。ベースは淡いピンクで、お花の濃いピンクがアクセントになっている。

「実は、結構前にショッピングモールで見つけて、似合いそうだなって思って買ったんだけど、渡せてなかったんだ……そしたら、歩くんに先越されちゃって悔しくて」

「そ、そんな……嬉しい、です。でも、こんなに可愛いの、似合いますかね……」

「絶対似合う! おしゃれな大人っぽいのも似合うけど、苺ちゃんには、とびきりキュートなものも似合うと思うんだよね」

 ニコニコ笑顔の先輩に「つけてもいい?」と聞かれたので、ちょっぴりドキドキしながら頷いた。先輩の指がこめかみのあたりに触れると、そのドキドキは急加速していく。

「……よし! うん、やっぱり似合ってる!」

 先輩は「可愛いねぇ」と何回も言ってくれるけど、俺は鏡がないから分からない……。
 すると、先輩がいきなり肩を抱き寄せて、スマホのカメラを構えるではないか。

「っ、先輩、あの、」

「ほら、画面見てみてよ」

 不安と期待が胸で暴れる中、先輩のスマホの画面へ視線を移すと――

「……!」

「ね、可愛いでしょ? じゃ、撮るよ。はい、チーズ!」

 カシャ、と切り取られた「今」に写る自分は、蓮梨先輩がくれた花と共に、驚くほど幸せそうに笑っていた。