僕だけのピュルテ

 甘伊(あまい)先輩と初めて話してから一週間が経った今、俺はあの日の出来事が夢だったのではないかと本格的に疑っている。
 なぜなら、あれから何もないからだ。何も、ない。これまでの日常が平和に続いている。それは何よりなのだけれど……。
 甘伊先輩たち二年生の教室は四階、俺たち一年生の教室は二階にある。だから、話すどころか、そもそも丸一日姿を見かけないこともあるのだ。

 恥ずかしい話だが、正直なところ少しだけ期待していた。先輩が話しかけに来てくれるかもって。余ったマフィンをきっかけに、結構親しくなれたような気がしていたのだ。
 けれど、冷静になって考えてみれば、俺と先輩では交友関係の広さが違う。先輩はみんなの憧れで、男女関係なく人を惹きつけるから、友達だってたくさんいるだろう。
 対して俺が関わる人間といったら、家族と(あゆむ)と調理部のメンバーだけ……しかも調理部に関しては週一だ。そんな俺にとって、新しい人間関係とは、かなり大きな存在感を放つもの。さらにそれが気になっていた先輩となれば、強く意識してしまうのは不可抗力だ。
 でも、先輩にとっては……。

(いちご)〜ただいまっ」

 窓の外を眺めながら物思いにふけっていると、二年生の教室から帰ってきた歩が後ろから抱きついてきた。

水上(みずかみ)先輩、今日も超〜かっこよかった! 今日はマドレーヌを作るんですよって言ったら、楽しみだって笑ってくれて……はぁ、マジで王子様……」

 歩は毎日、昼休みに水上先輩に会いに行く。俺と違い表情豊かで行動力もある歩を見ていると、恋を叶えるのはこういう人なのだろうと思わせられる。

「苺は行かなくて良かったの? 甘伊先輩もいたよ?」

「っ、うん……」

「えー、やっぱり明日からは一緒に行こうよ。二人なら怖くないでしょ?」

 確かに、一人で二年生のエリアに足を踏み入れるよりは格段にマシだ。しかし、いくら歩と一緒だからと言って、わざわざ先輩に会いに行くのは躊躇う。

「……俺はやめとく」

 歩は不服そうだったけれど、それ以上は何も言ってこなかった。俺の性格をよく分かっているからだろう。
 
 俺だって考える。もしも歩のようになれたなら、甘伊先輩ともっと仲良くなれるに違いないと。
 「分かる」と「できる」が別物だというのは、勉強でもコミュニケーションでも同じなのだ。





 今週の部活は順調に進んだ。この間のように薄力粉の分量を間違えることもなく、一時間半もすれば、綺麗な焼き色がついたマドレーヌが完成した。程よく冷まして試食してみれば、芳醇なバターの香りと優しい甘さ、しっとりふわふわな食感がたまらない。
 ついつい何個も食べたくなってしまうけれど、一応あとは先輩の分に取っておく。当然待ち合わせなんてしてないし、先週の口約束が生きているのか結局分からないけど……。

「苺、どうするの? 俺は水上先輩のとこ行ってくるけど」

「歩……俺は少しここに残ってみる」

「ふふ、そっかぁ、頑張ってね」

 歩も他の部員も調理室を出ていってしまい、いよいよ残ったのは俺だけになった。先週の今頃は、大量のマフィンを前にして困り果てていたなぁ……。
 そしたら、甘伊先輩が偶然通りかかってくれて。とても美味しそうに食べてくれて。あの表情が、もうずっと脳に焼きついて離れない。

「……来ないな……」

 しばらく待ってみたけれど、先輩が来る気配はなかった。陸上部の練習が長引いているのだろうか。それとも、あんな約束を真に受けていた俺が馬鹿だったのか。
 不安な気持ちを抱えながら窓際へ向かい、グラウンドの方を見てみる。陸上部らしき人たちは見当たらない。
 なんだか胸が痛くなってきた。
 もう帰っちゃった方がいいかな。


「苺ちゃんっ!」

「っ!?」

 突然、扉がガラガラッと大きな音を立てて開いた。
 明るいアッシュグレーの髪と、青空色の瞳。
 ……甘伊先輩だ。本物だ。
 来て、くれたんだ。

「間に合って良かった〜。遅くなっちゃってごめんね。月末の大会のこととか、色々説明受けてて遅くなってさ」

「いえ……こちらも今終わったばかりで」

「……苺ちゃんは優しいね」

 先輩に頭を撫でられる。胸の奥がくすぐったい。みんなにモテる人というのは、こういうことを平気でやってのけるのか。

「ぁ、これ……今日の、マドレーヌ、です」

 人にあげるものだから、ラッピングにもこだわった。調理部で様々なラッピングアイテムを揃えているから助かったな。
 お菓子の美味しさは食べる前から始まっていると思うんだ。どんな箱に入れて、どんなリボンをつけたら、これを受け取る人の心がワクワクするだろうか……そう考えながら包装していると、不思議とこちらも温かい気持ちになってくる。贈る立場でありながら贈られた気分になる。

「すごい……お店に売ってるやつみたいだね」

 甘伊先輩はニコニコしながら丁寧に箱を開けて、マドレーヌを一つ取り出した。先輩の手が大きいからか、出来立てより少し小さく見える。でも見た目は改めて見ても完璧だし、味もきっと……。どうか、美味しいって思ってもらえますように。

「いただきます」

 先輩の口にマドレーヌが近づくから、流れで唇を見つめてしまう。血色が良く艶やかなその唇に見惚れてしまう人は少なくないだろう。俺も……いつのまにかその一人だ。

「美味しい……苺ちゃん、すごく美味しいよ」

「あ、ありがとうございます……!」

「甘さがちょうどいいし、満足感があるのに重くない」

「今日のは部長が選んだレシピで……今度、伝えておきますね」

 と言っても人見知りの俺に伝えられるかどうか……なんて思っていたら、一つ食べ終えた先輩が、なぜか真剣な顔をして俺に向き合って目線を合わせてくる。

「……苺ちゃん、俺はね」

 先輩の麗しい顔が目の前にある。陸上部の練習をこなしてきたあとなのに肌も髪も美しい。サイダーみたいに爽やかで甘い匂いまでする。

「調理部のお菓子ならなんでもいいわけじゃないから。苺ちゃんが俺に渡してくれるものを食べたいの」

「俺、が?」

「そう。誰が選んだレシピでも、苺ちゃんが俺にくれるから、最高に美味しくなるんだよ」

 あまりにまっすぐな言葉をくれるから、先輩にとって自分が本当に特別なのではないかと勘違いしそうになる。特別になれるような理由が見当たらないから、これはお世辞とか気遣いのようなものだ、きっと。
 それでも……嬉しくて堪らないけど。

「……ぁ、甘伊先輩、あの、」

蓮梨(れんり)だよ」

「へ……」

「蓮梨って呼んでよ。ね?」

「れんり……」

 喉が熱い。なんだ、これ。まるですごく甘い大粒のミルクチョコレートを口の中で溶かして飲み込んだような……。
 先輩の名前を発するだけでこんな風になってしまうとは、いよいよ俺は何かおかしくなってしまったのかもしれない。

「蓮梨、先輩」

「なぁに、苺ちゃん」

「来週、も、えっと……」

 次の言葉が上手く出てこないでいると、蓮梨先輩の手が頬に触れた。やっぱり先輩の体温は熱い、それでいて優しい。

「来週もここで待ち合わせしようか。それと……連絡先、よかったら交換しない?」

「っ、はい」

 慌ててスマートフォンをポケットから取り出してチャットアプリを開く。友達追加ってどうやってやるんだっけ……と画面の上で指を彷徨わせていると、先輩がそっと俺の手を誘導してくれる。

「ここ押してみて。そしたら、これ読み込んで」

 言われた通りに操作をすれば、すぐに先輩のアカウントが表示された。アイコンはよく晴れた日の陸上競技場の写真だ。

「ふふ、苺ちゃん、アイコンも苺だ」

「っ、はい……蓮梨先輩は、大会の写真ですか」

「そうそう、去年撮ったんだ。雲ひとつない青空とトラックの組み合わせが好きでさ」

 先輩はこのトラックを走ったんだ。きっと体育祭の徒競走のときみたいな美しいフォームで。文字通り雲が一つもない澄み切った青空と共に。
 ……見たかったな、この目で。

「あっそうだ。苺ちゃん、お礼は何がいい?」

「ぁ……えと……」

 そういえば考えておいてと言われていた。何も思いつかなくて、結局そのままにしちゃってたんだ……。

「なんでもいいよ。苺ちゃんのためならなんでもするから」

「な、なんでもって……」

 言い過ぎですよ、とツッコみたいのに、先輩が言うとなぜか冗談に聞こえない。なんでもすると言われても……俺としては、先輩が美味しそうに食べてくれるだけでもうお返ししてもらった気分になるから、本当に何もいらないのに。

「……ごめん、困らせちゃったね。思いついたらいつでも言ってよ」

「あ、っ、はい」

 蓮梨先輩は「残りは家に帰ってゆっくり食べるね」と言って、丁寧にマドレーヌの箱を閉じた。少し寂しそうな横顔がこの胸を切なく締めつける。

「か、かえ……」

「? かえ?」

「帰り、一緒に、とか……お礼……」

 蓮梨先輩は目をまあるくしたあと、口元に手を当ててくすくすと笑った。その仕草や笑顔も上品なのに、前よりはずっと近くに感じる。
 
「ふふ、それご褒美じゃん」

「ごほ……」

「んじゃ、帰ろっか」

 差し出された手におずおずと触れると、触れた瞬間にぎゅっと握られ強く引かれた。もう少しで蓮梨先輩の胸に飛び込んでしまうところだった。もし飛び込んでしまっていたら、先輩はどんな顔をしただろうか。





 蓮梨先輩は次の週もその次の週も、約束通り部活終わりに調理室まで来てくれた。その日作ったお菓子を渡すと、優しく目を細めて笑ってくれるのだ。そして大事そうに包装を取って、本当に美味しそうに食べてくれる。

 平日の五日間のうち調理部の活動があるのは水曜のみ。だから他の曜日に関しては相変わらず、先輩との繋がりはないけれど……。
 あの日、連絡先を交換したおかげで、チャットでは曜日関係なくやり取りできる。偶然廊下ですれ違えた日の夜に「今日会えたね!」って送ってきてくれたり、昼から雨が降り出した日には「傘持ってる?」って心配してくれたり……。
 蓮梨先輩がそうやって気にかけてくれるから、連絡を期待する時間も増えた。いつからか俺は、朝も昼も夜も先輩のことばかり考えている。

 でも、まだ自分から連絡する勇気は出ない。ふとしたときに蓮梨先輩が違う世界の人間だと思い出すから。
 教室から見える二年生の体育で、シュートを決めた先輩がみんなに囲まれてる姿。校門の前で他校の可愛い女の子たちと楽しそうに話す姿。
 俺の目に映る先輩はいつもキラキラしている。先輩に見惚れるたびに、小さい頃姉から借りて読んでいた少女漫画を思い浮かべる。先輩はその漫画から飛び出してきたような、王子様みたいな人なのだ。男子校にいてもモテてしまうのだから、もし共学校に通っていたら……もはや想像すらできない。


「なーに悩んでるの」

「っ! 歩……」

 掃除が終わり、帰りのホームルームまでの少しの間、俺はまた先輩のことを考えてボーッとしていたらしい。歩の発言からして悩んでいるように見えてしまっていたのか……。

「今日は部活あるし、甘伊先輩と帰れるね」

「ぁ、うん……」

 歩には、先輩と不思議な関係が始まったことを話している。定期的に「進展あった?」と期待の視線を向けられるけど、もちろんそんなものはない。正直にその旨を伝えると、いつも分かりやすく落胆される。

「そういえば、甘伊先輩の大会って今週末じゃない?」

「っ……」

 ドキリと心臓が跳ねたのは、俺がここ最近そのイベントを意識していたからだ。
 蓮梨先輩が出場する陸上の県大会。その大きな勝負の日に、先輩に何かしてあげたい……そんな気持ちが湧いてきたとき最初に思いついたのは、やはり「お菓子」だった。

 調理部の活動じゃなくて、俺が先輩のために個人的にお菓子を作る。閃いた瞬間は最高の案だと思ったけど、時間が経てば経つほど不安になってきたのだ。
 大会の前後は、きっと心身ともにデリケートな状態だろう。そんな先輩に余計なことを考えさせたくない。ノイズになりたくない。逆に何もしないのが一番の応援になるんじゃないか……なんて色々考えを巡らせていたら、いつのまにか大会が迫っていた。

「お菓子作って応援する案はどこ行ったの」

「……」

「も〜……いいの? 甘伊先輩、喜ぶと思うけどなぁ。てか俺なら絶対何かするのに」

 確かに、歩は中学生の頃から水上先輩の大会の応援に行ってたな。スポーツドリンクや塩キャンディを差し入れする様子を何度も見守ったことがある。最近はお菓子作りの腕にも自信がついてきたようで、この間は手作りクッキーも差し入れしていた。歩は俺と違って……すごく積極的に行動している。

「苺は考えすぎなんだよ。もっとシンプルに考えなって。仲良くなった後輩から差し入れなんて、嬉しいに決まってるから」

「……そうかな……」

「そうだよ! 今日の帰りに話してみなよ」

 歩に背中を押され、諦めかけていた心がちょっぴり熱さを取り戻す。蓮梨先輩が毎週見せてくれるあの笑顔を、自分が作るお菓子の持つパワーを、信じて進んでみたい……きっとそれが俺の本音なんだ。





 部活が終わり、いつものように調理室の前で先輩のことを待つ。今日作ったパウンドケーキを持つ手が少し震える。どうやって話を切り出そうか、色んなパターンをシミュレーションしたはずなのに何も頭に残っていない。どうしよう。

「苺ちゃん、おつかれ」

「っ! 蓮梨先輩……おつかれさまです」

 頭が真っ白な俺のもとに、とうとう先輩が来てしまった。今日も相変わらずかっこよくて、目が合うだけで心臓がうるさくなっていく。

「今日は何作ったの?」

「ぱ、パウンドケーキ、です」

 小刻みな震えが止まらない手に、先輩の手が優しく触れる。温かい温度がじわりと伝わってきて、震えがスッと収まった。こんなの……まるで魔法みたいだ。

「わぁ、すごく美味しそうだね。ラッピングも可愛い」

「あ、ありがとうございます……」

 先輩は今日も美味しそうにお菓子を食べてくれる。本当に大袈裟なくらい幸せそうな顔をしてくれて……食べ終わるとペロリと舌を覗かせて「ごちそうさま」って微笑んだ。

「はぁ、美味しすぎてすぐ無くなっちゃうな」

「っ、そんな……お口に合って良かったです」

「謙虚だねぇ苺ちゃんは……んじゃ、帰ろっか」

 週に一度だけ、二人きりの帰り道。バス停までの短い距離だけれど、手を繋ぐのが習慣になってしまった。俺は歩くらいしか友達がいないから分からないのだけど、手を繋ぐって普通のことなのだろうか。歩と水上先輩はよく繋いでるし……やっぱり普通なのかも?
 っていやいや、それは置いておいて……今は先輩に大会の応援のことを話さなきゃいけない。このままじゃバス停に着いてしまう……。

「苺ちゃん」

「ひゃいっ」

 変な声が出た。恥ずかしい。消えたい……いやだめだめ、消えたら先輩と会えなくなる。先輩がいるこの世界にいたい。

「あのさ、お願いがあって」

「おねがい……?」

 自分のことでいっぱいいっぱいで気づかなかったけど、なんとなく今日は蓮梨先輩も緊張しているような気がする。よっぽど言いにくいお願いがあるのだろうか。

「日曜日にね、陸上の大会があるんだ。だから、その……苺ちゃんに、応援に来てほしいです!」

「えっ」

「直前になってごめん! ずっと言おうと思ってたんだけど、なかなか勇気出なくてさ……」

 先輩でも勇気が出ないことあるんだ。俺と同じで、先輩もずっと悩んでいたの……?

「蓮梨先輩、あの……俺、も、お願い、あって」

「苺ちゃんも……?」

「はい……大会の、応援に、行きたいのと、あと……っ、お、応援のお菓子、渡しても、いいですか……」

 言っちゃった。先輩が先に大会の話題を出してくれたから、その勢いで言っちゃったよ……。先輩からの返事、聞きたいけど聞きたくない。心臓が口から飛び出そうってこういう感覚なのか。

「……苺ちゃん」

「っ!」

 顔を上げると蓮梨先輩が瞳を潤ませていた。
 艶々の髪が風に靡いて光を反射する。

「いいに決まってるよ。嬉しすぎるよ、そんなの」

「……!」

 蓮梨先輩。もしも俺以外の人が同じお願いをしたら、先輩はその人にもそんな表情を見せるの? そんな……愛おしいものを見るような瞳……簡単に見せちゃダメだと思う。

「……金曜日の放課後、いつものところで待ってますっ」

「え、っ、苺ちゃん!」

 逃げるようにして帰ってしまった。身体を巡る熱い何かがそうさせた。夢中で走っていたらバス停を通り過ぎてしまって、一つ先の駅で乗る羽目になった。
 シャツは汗でぐっしょり濡れていた。家に着いてすぐに洗濯してシャワーを浴びた。温かいお湯に浸かって何回か深呼吸をしたら、やっと胸いっぱいのドキドキが収まっていく。

 動揺したからといって、いきなり帰ってしまったのは良くなかったと思い、お風呂から上がったあと先輩にメッセージを送ろうとした。しかし、ここでも先を越されてしまった。

“金曜日、楽しみにしてるね。ありがとう”

 たった一件のそのメッセージが、パティシエ魂に火をつけた。正確にはパティシエの卵の卵の卵の……とにかく、今はただの調理部員でしかないけれど……。
 お菓子作りが好きだという気持ちは、誰にも負けないつもりだ。この情熱を、蓮梨先輩のためだけに燃やしてみようと思う。

「母さん! 今日と明日、キッチン使わせてほしい!」

「あら、何か作るの?」

「うん。憧れの先輩がいてね、その人に渡したいんだ」





 レモン、無塩バター、砂糖、卵、薄力粉、そしてベーキングパウダーを用意する。家がケーキ屋だから材料は揃っていて助かった。

 まず、ボウルに無塩バターを入れて、クリーム状になるまで混ぜる。さらに砂糖を加えて混ぜて……その次は卵を溶いて、二回に分けて加えてまた混ぜる。
 そして、薄力粉とベーキングパウダー。これらをふるって加えたら、艶が出るまで混ぜていく。
 ここで、レモンの出番。果汁を搾って皮をすりおろし、その皮の五分の四くらいをボウルに加えて混ぜる。

 ここまでで生地ができたから、溶かしバターを塗った型にそれを流し入れ、百七十度に予熱したオーブンへ。二十分程度焼いたらあとは冷ましておく。
 冷ましている間にアイシングを作る。粉砂糖とレモン果汁を混ぜるだけだから簡単だ。粉砂糖の量を調節することで、粘度も調整することができる。

 さて、最後の仕上げだ。冷ましたレモン型のケーキにアイシングをかけて、残っていたレモンの皮とピスタチオを散らして……ついに完成!

「父さん、見て〜」

「おお! 苺が作ったのか、すごいな」

「一個食べてみてよ」

 パティシエの仕事を終えてリビングでくつろぐ父さんに味見をしてもらう。昔から何か作ったときはいつも、プロの父さんに食べてもらっている。

「ん、美味い! レモンの酸味と香りもちょうどいいな」

「ほんと? ふふ、やったぁ」

 父さんは基本的に俺のことを褒めてくれるし、アドバイスするときも優しく教えてくれる。多分、俺が褒められて伸びるタイプだと分かっているのだと思う。もしも厳しく指導されるのが日常だったなら、きっと今の俺はいなかっただろう。
 




 約束の金曜日。いつもと違う保冷バッグを持って登校する俺を見て、歩は分かりやすくニヤニヤしていた。「頑張ってねん♪」と耳元で囁かれて恥ずかしかったけれど、歩のおかげで一歩踏み出すことができたから、素直にありがとうと伝えておいた。

 放課後までの時間はあっという間に過ぎた。いつもは眠くなる五限目の授業でも驚くほど目が冴えていたが、授業内容はあまり入ってこなかった。
 今日の平均心拍数はきっと過去最高値となるだろう。朝から夕方までずっと、なんとなく心臓が速く動いている感じがするから。
 決して嫌な緊張ではない。このソワソワとかドキドキは、もっと晴れやかで甘酸っぱい色をしている。蓮梨先輩を想うとその色は彩度を上げて、この胸の中でキラキラと輝く。




 蓮梨先輩の部活が終わるまで、調理室近くの空き教室で待っていた。教室の位置的に陸上部の練習は見えないから、静かに座って精神統一をすることにした。
 鼻から空気を吸って、口からゆっくりと時間をかけて吐き出す。自分の呼吸だけに意識を集中させて、頭の中をクリアにして……。と、この動作を十回くらい繰り返しているのだが、今のところ脳内で先輩が微笑みかけてくるので成功しない。

「……蓮梨先輩まだかな……」

 そう呟いたとき、スマホがピコリンッと鳴った。通知を見て咄嗟に立ち上がり、荷物をまとめて空き教室を出た。
 “調理室の前にいるよ”――その言葉通り、先輩はすぐそこにいた。俺が空き教室から出てきたことに、少し驚いている様子だった。

「苺ちゃん、そこで待っててくれたんだね」

「は、はいっ」

 保冷バッグの中身を改めて確認する。黄色の箱に個包装したレモンケーキを三つほど入れ、リボンとシールで装飾を施した。保冷剤は念のためお昼に調理室のものと交換したから常に冷え冷え。衛生面も問題ない。
 あとは大丈夫かな……見た目も味も安全性も確認した、よね。渡す直前になるとやっぱり不安が――。

「それ……俺がもらっていいやつ?」

「っ! ぁ、っ、はい、先輩に、作りました……」

 ああ、こういうとき、なんて言って渡せばいいのだろうか。
 家族と会話するときみたいに、素直に自分の気持ちを表現したいのに。
 俺が何か言おうとしているのを察してか、蓮梨先輩は穏やかな笑顔でこちらを見てくれている。

「……日曜の大会、何か、できることないかなって……蓮梨先輩、俺のお菓子を美味しいって言ってくれるから、作ろうってなって……」

 あれ、なんか、まとまらない。現代文の授業、もっと真面目に受けておけば良かったかな。
 でも、着地したい場所は決まってる。これだけ言えたら今は十分だ。

「えっと……っ、大会、頑張ってください。俺、蓮梨先輩のこと、応援してますっ!」

 こんなにお腹から声を出したのはいつぶりだろう。他人の前で自分の気持ちを大きな声で主張するなんて、物心ついたときにはもうできなくなっていた。自分はそういう人間なのだと認めていて、この先もその性質は変わらないと思っていた。

「……苺ちゃんがお菓子を渡したいって言ってくれたとき、本当に嬉しかったんだ。苺ちゃんらしい可愛い応援だなって。今日の放課後が楽しみで仕方なかった」

「……!」

 差し出した箱が蓮梨先輩の手に渡る。レモンをイメージした黄色が、先輩の爽やかな笑顔によく似合う。

「ありがとう。苺ちゃんのおかげで大会頑張れるよ」

 胸がキュンと痛むと同時に、ときめきがキラリと咲いた。それはまるで花火のように次々と、この心に鮮やかな衝撃を与えてくる。

 蓮梨先輩の笑顔をずっと見ていたい。
 俺がお菓子を作ることでそれが叶うなら、何でも何個でも何度でも作りたいと思った。





 大会当日。会場の熱気と人の多さに圧倒されながらも、俺はなんとか観客席にたどり着いた。当然ここは男子校のグラウンドではないから、女子もたくさんいて……ちょっぴり物怖じしてしまう。

「ねぇねぇ、甘伊くん見れるかな」

「ね、今日そのために来たもん」

「自分の学校の人も応援しなよ〜」

「でもせっかくだし、あとで話してみたいよねぇ」

 蓮梨先輩に関する会話が近くから聞こえてくる。モテると分かっていたつもりだけど、こういう話を直接耳にすると、改めて考えさせられてしまう。俺は本当にここにいていいのだろうか、と。でも……。

 “苺ちゃんに、応援に来てほしいです!”

 他の誰でもない先輩自身がそう言ってくれたのだから。可愛い女の子たちがいるとか、騒がしい場所に慣れていないとか、そんなの全部言い訳だ。
 蓮梨先輩が俺に伝えてくれた気持ちに、応えたい――。


 男子百メートル、予選二組。観客席からは遠いけれど、トラックには確かに蓮梨先輩の姿がある。
 ゆっくり、大きく大きく息を吸って……お腹の底から、声を出すんだ。

「……っ、蓮梨せんぱーいっ! 頑張ってくださーいっ!」

 先輩は手を高く挙げた。
 双眼鏡がなくたって分かる。
 今、この広い競技場で、先輩と目が合ったこと――。





 チャットで伝えられた場所に行くと、競技を終えた先輩が待っていた。

「蓮梨先輩」

「! 苺ちゃん……」

「大会、おつかれさ――」

 お疲れ様でした、と言い終わる前に、先輩の胸の中にいた。
 先輩の心音がよく聞こえる。
 ドクドクドクって、すごく、速い……。

「れ、れんりせんぱい……あの……」

「……ごめん、ちょっとだけ、このまま……」

 先輩は抱きしめる力をぎゅうっと強くした。心臓の音はもうどちらのものか分からなくなってしまった。夏の始まり、それもよく晴れた昼間にハグをするなんて、暑いに決まっているのだけど、この身体の熱を説明するには不十分だ。
 先輩も、そう思う……?

「っ、ごめんね……俺、汗かいてたのに我慢できなくて……」

 蓮梨先輩はゆっくりと身体を離した。謝る必要なんてないのに。先輩は汗だって綺麗なのだから、むしろまだまだ抱きしめていてほしかったくらいだ。

「苺ちゃん、今日はありがとう。お菓子もエールも本当に嬉しくて、元気出た……それなのに決勝行けなくて悔しいよ。かっこいいとこ見せたかったなぁ〜」

 はは、と自嘲気味に笑う先輩を見て堪えきれずに口が動く。

「っ、準決勝も、すごいし……! 先輩が、一番、かっこよかったです……!」

 俺は今、かなり大胆なことを言った気がする。時間差でとてつもない照れが襲ってきて、つむじからぷしゅうと湯気が出そうだ。なんだか……クラクラしてきた……。

「ありがとう、苺ちゃん……って、苺ちゃん⁉︎ なんか顔赤いよ? ちゃんと水分摂った?」

「え……分かんない……」

「ほら、これ飲んで! 建物の中で休もう」

 先輩に促されるままスポーツドリンクを飲み、しばらく涼しい場所で休んだら、すっかり具合は良くなった。
 先輩と間接キスをしてしまったことに気づいたのは、家に帰ってからだった。