じりじりとした焦りを覚えながら月曜の朝を迎えた。]
結局、Aはまだ帰宅していないらしい。通話もつながらず、LINEも未読のままである。
妹さん曰く、今まで家を空ける際に連絡が取れないことはなかったらしい。
いよいよもって不安が募る。
Wさんからもその後の連絡はなかった。こちらからも何度か通話をかけてみたが、まったく通じない。
重い気持ちを引きずるようにして、私は身支度をして家を出て、いつものように電車に乗った。
学校に行けばAの足取りがわかるはずだ。少なくとも、Aが学校を出たのが何時なのかくらいはわかるだろう。
今日も満員電車だ。ぎゅうぎゅうに潰されて中央の座席前まで流される。
目の前には女子高生が二人で座っていて、小声で耳打ちしながらクスクス笑っていた。
スクールバッグには流行っているといっていたハイケオ人形がぶらさがっている。
ピキッと頬に鋭い痛みが走った。じわじわと口の中に鉄の味が広がり、ぎょっと目を見開く。
恐る恐る舌先で触ると、口の中が切れてしまっていた。
なぜ、急に? 噛んでしまったのか?
不快な痛みに顔をしかめると、女子高生たちがこちらにちらりと視線をよこし、また耳打ちをし始める。
「……っね、ウケる」
「ヤバいよね、ふふふ」
顔をしかめる私がそんなにおかしいのだろうか。
クスクス笑い合う女子高生の笑い声が耳に障った。笑う声とは、こんなにも不快なものだっただろうか。
痛い。頬が痛い。舌先で探らずにはいられない。
教師への聞き取り(体育教師H)
おはようございます! ね、素晴らしい月曜日の始まりですねぇ、ははははっ!
今日はAですか? Aは……ああ、よかったぁ~。
選ばれたんですって。おめでとうございます!
ほら、大丈夫ですよ。まだ赴任一年目で選ばれるなんて光栄ですよね。
心配かもしれませんが、我々はこういうの、ほんっと慣れてますから!
名誉なことですからねえ! 褒められるべきですよ。
A先生も、すぐ笑顔ですよ。もう本当にすぐすみます、あーっという間!
はい、すっかりあんしんになりますからね。
え? 顔、青いですよ? ああ……うれしすぎて、ですね。
大丈夫、わかっていますよ。そうですよね、ふふ、そうですよね。我々に任せてください。
A先生の笑顔、とっても素敵になりますから。
あ、カウンセリングに興味あるんでしたっけ? 小説のモデルにしたいとか聞いてますよ!
わー、うれしいですねえ、ははっ。
でも、まだ、あなたは選ばれてないんですよね。でも、僕にはわかります。きっともうすぐですよ、もうすぐ。
だって、ねえ? 頬、痛いでしょう?
え? 妹さん? 心配してる?
ああ、それはよくないなあ。……じゃあ、妹さんもあんしんにしなくちゃねえ!
教師への聞き取り(英語教師Y)
Aさん? うらやましいしかないですね。
私も何度も、何度も挑戦したんですけどね。どうしても選ばれなくて。残念、ほんと残念、ふふふっ。
この学校って、いいですよね。笑顔がねえ、すごく、上手ですもの。
あれ、もしかして頬がひくひくしてます?
あっ、やりましたね! おめでとうございます! もうすぐですね。
]うらやましい。私もそのうちなれますかね~。
そうそう、Wさんも選ばれたんですよ。先週見ましたよね?
ほら、笑顔ランキングいちばん下の生徒。あの子、もうほとんどあんしんになってるんですって。
素敵ですよね。A先生も、Wさんも。ちゃんと、笑えるから。
教師への聞き取り(社会教師B)
なぜ戻ってきたんですか?
すみません、こちらへ。……あまり大きな声を出さないでください。
嫌かもしれないですけど、笑いましょう。ここで無事にすごしたいなら、私の言うことを聞いてください。
……あれを見たんですよね。そのまま手を引いてくださればよかったのに、なぜ戻ってきてしまったんですか。
A先生が? ……ああ。A先生はお気の毒です。けれど、もう引き返せないと思いますよ。
ランキングの出来事はただのきっかけで、もうずっと前から頬が痛み始めているとおっしゃっていましたから。
A先生、まだお若いですし、まっすぐな性格でしたし、我慢ができなかったのでしょうね。
危ないとずっと忠告していたんですが……残念です。
ええ、異常ですよ。おっしゃる通りこの学校は異常です。A先生のことは諦めてください。
私が話せるのは、このくらいです。
今すぐ学校を出てください。そして、もう二度と関わらないでください。
まだ間に合うかもしれません。他の先生にはうまく言っておきますから。
今すぐ校門を出て、この学校のことは忘れてください。いいですね……あっ。
校長との会話
あっ! おはようございます! いらっしゃってたんですね。
先週は急にいなくなら……え? A先生?
ああ、A先生は今、カウンセリングを受けていらっしゃいます。
先週、ほら、取り乱していらしたでしょう。心配でね。おすすめしたんです、私が。
あれ? B先生。もうすぐ予鈴が鳴りますけど、授業は……大丈夫ですか?
ええ、ええ、あんしんしてください。ここは私に任せて。私が、ちゃんと、案内しますから。
B先生はねえ、いい先生ですよ。とってもまじめで。すこしだけ、あんしんできないですけど。
でも、笑顔がねえ。素敵ですから。だいじょうぶです。だいじょうぶ。
それで……ちゃんとお聞きしたくて。どうでした? 笑顔ランキング! 素敵でしたでしょう!
感動の一場面! あれは小説のモデルにぴったりですよね? はは、ははは!
カウンセリングはねえ、最初はみんな嫌がります。
でも、すぐに、笑顔が素敵になりますから。最後はみんな、ちゃんとあんしんです。
Wさんもね、一番の笑顔になりますよ。昨日の夜は努力していてね、もう素晴らしかったです。
なかなかニッコリできなくてね。でも選ばれたから、もうあんしんだ。
ああ、顔色がよくないですね。笑顔がないですねえ。なんで笑ってないんですか?
あっ、今ちょうど体育が始まりますよ。ほら、見えますか?
校庭で。ねえ、見てください。みんな笑ってる。素敵ですねえ。笑顔が素敵ですねえ。
おーい! みんな! ここに笑ってない人がいますよーっ!
にこやかに話していた校長先生が、突如、窓の外へ向かって叫んだ。
その瞬間、校庭の生徒たちがぴたりと動きを止め、いっせいにこちらを振り向いた。
笑っていた。
満面の笑みで目を見開き、口の端を吊り上げて。
そして、歓声とも悲鳴ともつかぬ声を上げながら、全員がこちらへ駆け出してくる。
地面が震える。砂が跳ねる。笑い声が、波のように押し寄せてくる……!
「え・が・お!」
「え・が・お!」
「え・が・お!」
一歩、足を引く。続けて二歩、そして踵を返し、無我夢中で走った。足がもつれた。
息が詰まって吐きそうだ。早くここから逃げなければ、その一心で私は廊下を走り抜け、
来客用の出入り口で急いで靴を履いた。飛び出す勢いで外に出ると、そこには体育着姿の生徒たちが立っていた。
「え・が・お!」
「え・が・お!」
頬がビリビリと痛む。まるで糸で吊られているかのように、私の意に反して頬が引き上がっていく。
痛い……痛い、頬が痛い……!
「え・が・お!」
「え・が・お!」
笑みを浮かべた生徒たちが手を打ち鳴らした。手が鳴るたびに、私の頬が引きつれる。早く逃げなければ、早く!
生徒たちをかきわけて、私は校門へと走った。
わー、きゃははは、ふふ、ひひ、ひーい!
笑い声が耳元で木霊する。走って、なんとか校門にたどり着き、体を投げ出すように外へと飛び出した。
息が……苦しい。恐る恐る振り返ると、生徒たちはまだそこにいた。笑いながらこちらを見ていた。
人形のように表情を崩さず、目も口元も吊り上がったまま……。
「素敵な笑顔ねえ」
声が聞こえて、ぎくりとする。私のすぐ横に、
明らかに通りすがりのお婆さんがニコニコしながら生徒たちを見つめていた。
「いつも本当に素敵な笑顔ねえ」
私は汗が流れ落ちるのもそのままに、まじまじとその老婆の顔を見つめていた。
老婆の視線が動く。ゆっくりと顔が私のほうを向く。目が吊り上がる。唇がめくれ上がる。
「あなたはどうして笑ってないの?」
――もう、どうしたらいいのかわからない。
感情がマヒしている。目の前の出来事がすべて遠い世界のように感じられた。
水の中を歩くように、私はもたもたとその場を離れた。背中に痛いくらいの視線を感じたが、誰も追ってはこなかった。
駅に着くと、まだ電車が来ていない。ベンチに腰を下ろし、ジャケットからスマホを取り出した。うまく手が動かせなくてスマホが地面に落ちる。あわてて拾い上げると画面保護用の硝子シールに大きなヒビが入ってしまっていた。
ヒビ割れた、真っ黒のロック画面に自分の顔が映っている。映り込んだ自分の顔を見て、小さく悲鳴を上げた。
口角が上がっている。
なぜ。笑ったりなどしていないはずなのに。唇が笑みの形を作ったまま、動かない。
無理やり、口を開けた。強張ってしまった筋肉をほぐすように何度か指で頬を押し、わなわなと震える唇を意志の力で押さえつける。
もとに戻った顔を見て――情けないことに涙が出そうになった。こんなところで泣くわけにはいかないとうつむき、顔を隠す。こらえきれなかった涙がコンクリートに一粒落ちる。
……怖かった。
怖かったのだ、私は……。
言葉が通じるのに、通じない。
なにを聞いても理解できない。あの学校だけなにか別の国のようだ。あの学校は――。
待て。
思考にストップがかかる。
あのお婆さんは……? 学校の外にいたあの老婆……。
なぜ、あのお婆さんまで、〝笑顔〟を強制するんだろう。
ぎょっとした。まさかと思った。顔を上げて、私は今度こそ凍り付いた。
駅にいる全員が、笑っていた。
行先も確認せず、来た電車に飛び乗り、ホームから顔をそむけた。
電車の中にいる人たちを見る気も起きない。もし彼らが笑っていたら、私は今度こそ立ちなおれないだろう。
目をふせて何駅か乗り、適当な駅で降りて乗り換えをする。
とにかく早く、この場を離れたかった。
乗り継ぎして、また別の路線に乗り、もう一度降りて乗り換えをする。
そうしてぐるぐると電車の乗り換えをしているうちに、ようやく周りを見る余裕ができた。
恐る恐る顔を上げて、電車の中の人たちを見る。
安堵のあまり、膝からくずれ落ちそうになる。あの奇妙な笑顔を浮かべている人はいなかった。
いつの間にか東京から出てしまっていた。
主要駅で降り、別の路線に乗り換えて今度は都心を目指す。自宅の最寄り駅に行くにはそのほうがいい。
早く家に帰りたかった。帰って、温かい風呂に入って、寝てしまいたかった。
体も頭も重くてだるい。視界はいまだにぼやけている。現実感が乏しく、まるで夢の中にいるかのようだった。
スマホの通知に気づいたのは、そのときである。
K『通話できる?』
K『すぐ話したい』
LINEが来ていたのは、十分前だ。
意識がすっとクリアになる。
Kの声が聞きたい。全部話そう。今日あったこと、全部話して……どうしたらいいのか、相談しよう。早く!
私は転がるように電車から降りると、ベンチに腰を下ろした。
焦る心を必死に宥(なだ)めながら、通話ボタンをタップした。
Kとの通話
ごめん、急に。すぐに耳に入れたほうがいいと思って。
今どこ? ……え? ちょっと待って、追いかけられたって、なに? 順番に話して。
……うん。……うん。……――。
それ、マジな話なんだよね? 疑ってない、確認したいだけ。うん、うん……そっか……。
とりあえず、もう学校は出たんだね? おっけ。それでいいと思う。もうあの学校には行かないほうがいい。
すぐに連絡を取りたいって言ったのは、その、教員の先輩何人かに話を聞いてみたんだよね。朝日ヶ森のこと。
したらさ……関わるなって、言われて。笑顔ランキングのこととかも聞いたんだよね。
通報できるかなって言ったんだけど、無駄だって言われちゃって、理由も教えてくれなくて。
だからいったんそっちは諦めて、昨日途中だった〝えひこ〟のほうを調べてたんだけど……。
資料見てもらったほうが早いと思う。今ってPDF開ける? うん。資料送る。目を通してもらっていい?
結局、Aはまだ帰宅していないらしい。通話もつながらず、LINEも未読のままである。
妹さん曰く、今まで家を空ける際に連絡が取れないことはなかったらしい。
いよいよもって不安が募る。
Wさんからもその後の連絡はなかった。こちらからも何度か通話をかけてみたが、まったく通じない。
重い気持ちを引きずるようにして、私は身支度をして家を出て、いつものように電車に乗った。
学校に行けばAの足取りがわかるはずだ。少なくとも、Aが学校を出たのが何時なのかくらいはわかるだろう。
今日も満員電車だ。ぎゅうぎゅうに潰されて中央の座席前まで流される。
目の前には女子高生が二人で座っていて、小声で耳打ちしながらクスクス笑っていた。
スクールバッグには流行っているといっていたハイケオ人形がぶらさがっている。
ピキッと頬に鋭い痛みが走った。じわじわと口の中に鉄の味が広がり、ぎょっと目を見開く。
恐る恐る舌先で触ると、口の中が切れてしまっていた。
なぜ、急に? 噛んでしまったのか?
不快な痛みに顔をしかめると、女子高生たちがこちらにちらりと視線をよこし、また耳打ちをし始める。
「……っね、ウケる」
「ヤバいよね、ふふふ」
顔をしかめる私がそんなにおかしいのだろうか。
クスクス笑い合う女子高生の笑い声が耳に障った。笑う声とは、こんなにも不快なものだっただろうか。
痛い。頬が痛い。舌先で探らずにはいられない。
教師への聞き取り(体育教師H)
おはようございます! ね、素晴らしい月曜日の始まりですねぇ、ははははっ!
今日はAですか? Aは……ああ、よかったぁ~。
選ばれたんですって。おめでとうございます!
ほら、大丈夫ですよ。まだ赴任一年目で選ばれるなんて光栄ですよね。
心配かもしれませんが、我々はこういうの、ほんっと慣れてますから!
名誉なことですからねえ! 褒められるべきですよ。
A先生も、すぐ笑顔ですよ。もう本当にすぐすみます、あーっという間!
はい、すっかりあんしんになりますからね。
え? 顔、青いですよ? ああ……うれしすぎて、ですね。
大丈夫、わかっていますよ。そうですよね、ふふ、そうですよね。我々に任せてください。
A先生の笑顔、とっても素敵になりますから。
あ、カウンセリングに興味あるんでしたっけ? 小説のモデルにしたいとか聞いてますよ!
わー、うれしいですねえ、ははっ。
でも、まだ、あなたは選ばれてないんですよね。でも、僕にはわかります。きっともうすぐですよ、もうすぐ。
だって、ねえ? 頬、痛いでしょう?
え? 妹さん? 心配してる?
ああ、それはよくないなあ。……じゃあ、妹さんもあんしんにしなくちゃねえ!
教師への聞き取り(英語教師Y)
Aさん? うらやましいしかないですね。
私も何度も、何度も挑戦したんですけどね。どうしても選ばれなくて。残念、ほんと残念、ふふふっ。
この学校って、いいですよね。笑顔がねえ、すごく、上手ですもの。
あれ、もしかして頬がひくひくしてます?
あっ、やりましたね! おめでとうございます! もうすぐですね。
]うらやましい。私もそのうちなれますかね~。
そうそう、Wさんも選ばれたんですよ。先週見ましたよね?
ほら、笑顔ランキングいちばん下の生徒。あの子、もうほとんどあんしんになってるんですって。
素敵ですよね。A先生も、Wさんも。ちゃんと、笑えるから。
教師への聞き取り(社会教師B)
なぜ戻ってきたんですか?
すみません、こちらへ。……あまり大きな声を出さないでください。
嫌かもしれないですけど、笑いましょう。ここで無事にすごしたいなら、私の言うことを聞いてください。
……あれを見たんですよね。そのまま手を引いてくださればよかったのに、なぜ戻ってきてしまったんですか。
A先生が? ……ああ。A先生はお気の毒です。けれど、もう引き返せないと思いますよ。
ランキングの出来事はただのきっかけで、もうずっと前から頬が痛み始めているとおっしゃっていましたから。
A先生、まだお若いですし、まっすぐな性格でしたし、我慢ができなかったのでしょうね。
危ないとずっと忠告していたんですが……残念です。
ええ、異常ですよ。おっしゃる通りこの学校は異常です。A先生のことは諦めてください。
私が話せるのは、このくらいです。
今すぐ学校を出てください。そして、もう二度と関わらないでください。
まだ間に合うかもしれません。他の先生にはうまく言っておきますから。
今すぐ校門を出て、この学校のことは忘れてください。いいですね……あっ。
校長との会話
あっ! おはようございます! いらっしゃってたんですね。
先週は急にいなくなら……え? A先生?
ああ、A先生は今、カウンセリングを受けていらっしゃいます。
先週、ほら、取り乱していらしたでしょう。心配でね。おすすめしたんです、私が。
あれ? B先生。もうすぐ予鈴が鳴りますけど、授業は……大丈夫ですか?
ええ、ええ、あんしんしてください。ここは私に任せて。私が、ちゃんと、案内しますから。
B先生はねえ、いい先生ですよ。とってもまじめで。すこしだけ、あんしんできないですけど。
でも、笑顔がねえ。素敵ですから。だいじょうぶです。だいじょうぶ。
それで……ちゃんとお聞きしたくて。どうでした? 笑顔ランキング! 素敵でしたでしょう!
感動の一場面! あれは小説のモデルにぴったりですよね? はは、ははは!
カウンセリングはねえ、最初はみんな嫌がります。
でも、すぐに、笑顔が素敵になりますから。最後はみんな、ちゃんとあんしんです。
Wさんもね、一番の笑顔になりますよ。昨日の夜は努力していてね、もう素晴らしかったです。
なかなかニッコリできなくてね。でも選ばれたから、もうあんしんだ。
ああ、顔色がよくないですね。笑顔がないですねえ。なんで笑ってないんですか?
あっ、今ちょうど体育が始まりますよ。ほら、見えますか?
校庭で。ねえ、見てください。みんな笑ってる。素敵ですねえ。笑顔が素敵ですねえ。
おーい! みんな! ここに笑ってない人がいますよーっ!
にこやかに話していた校長先生が、突如、窓の外へ向かって叫んだ。
その瞬間、校庭の生徒たちがぴたりと動きを止め、いっせいにこちらを振り向いた。
笑っていた。
満面の笑みで目を見開き、口の端を吊り上げて。
そして、歓声とも悲鳴ともつかぬ声を上げながら、全員がこちらへ駆け出してくる。
地面が震える。砂が跳ねる。笑い声が、波のように押し寄せてくる……!
「え・が・お!」
「え・が・お!」
「え・が・お!」
一歩、足を引く。続けて二歩、そして踵を返し、無我夢中で走った。足がもつれた。
息が詰まって吐きそうだ。早くここから逃げなければ、その一心で私は廊下を走り抜け、
来客用の出入り口で急いで靴を履いた。飛び出す勢いで外に出ると、そこには体育着姿の生徒たちが立っていた。
「え・が・お!」
「え・が・お!」
頬がビリビリと痛む。まるで糸で吊られているかのように、私の意に反して頬が引き上がっていく。
痛い……痛い、頬が痛い……!
「え・が・お!」
「え・が・お!」
笑みを浮かべた生徒たちが手を打ち鳴らした。手が鳴るたびに、私の頬が引きつれる。早く逃げなければ、早く!
生徒たちをかきわけて、私は校門へと走った。
わー、きゃははは、ふふ、ひひ、ひーい!
笑い声が耳元で木霊する。走って、なんとか校門にたどり着き、体を投げ出すように外へと飛び出した。
息が……苦しい。恐る恐る振り返ると、生徒たちはまだそこにいた。笑いながらこちらを見ていた。
人形のように表情を崩さず、目も口元も吊り上がったまま……。
「素敵な笑顔ねえ」
声が聞こえて、ぎくりとする。私のすぐ横に、
明らかに通りすがりのお婆さんがニコニコしながら生徒たちを見つめていた。
「いつも本当に素敵な笑顔ねえ」
私は汗が流れ落ちるのもそのままに、まじまじとその老婆の顔を見つめていた。
老婆の視線が動く。ゆっくりと顔が私のほうを向く。目が吊り上がる。唇がめくれ上がる。
「あなたはどうして笑ってないの?」
――もう、どうしたらいいのかわからない。
感情がマヒしている。目の前の出来事がすべて遠い世界のように感じられた。
水の中を歩くように、私はもたもたとその場を離れた。背中に痛いくらいの視線を感じたが、誰も追ってはこなかった。
駅に着くと、まだ電車が来ていない。ベンチに腰を下ろし、ジャケットからスマホを取り出した。うまく手が動かせなくてスマホが地面に落ちる。あわてて拾い上げると画面保護用の硝子シールに大きなヒビが入ってしまっていた。
ヒビ割れた、真っ黒のロック画面に自分の顔が映っている。映り込んだ自分の顔を見て、小さく悲鳴を上げた。
口角が上がっている。
なぜ。笑ったりなどしていないはずなのに。唇が笑みの形を作ったまま、動かない。
無理やり、口を開けた。強張ってしまった筋肉をほぐすように何度か指で頬を押し、わなわなと震える唇を意志の力で押さえつける。
もとに戻った顔を見て――情けないことに涙が出そうになった。こんなところで泣くわけにはいかないとうつむき、顔を隠す。こらえきれなかった涙がコンクリートに一粒落ちる。
……怖かった。
怖かったのだ、私は……。
言葉が通じるのに、通じない。
なにを聞いても理解できない。あの学校だけなにか別の国のようだ。あの学校は――。
待て。
思考にストップがかかる。
あのお婆さんは……? 学校の外にいたあの老婆……。
なぜ、あのお婆さんまで、〝笑顔〟を強制するんだろう。
ぎょっとした。まさかと思った。顔を上げて、私は今度こそ凍り付いた。
駅にいる全員が、笑っていた。
行先も確認せず、来た電車に飛び乗り、ホームから顔をそむけた。
電車の中にいる人たちを見る気も起きない。もし彼らが笑っていたら、私は今度こそ立ちなおれないだろう。
目をふせて何駅か乗り、適当な駅で降りて乗り換えをする。
とにかく早く、この場を離れたかった。
乗り継ぎして、また別の路線に乗り、もう一度降りて乗り換えをする。
そうしてぐるぐると電車の乗り換えをしているうちに、ようやく周りを見る余裕ができた。
恐る恐る顔を上げて、電車の中の人たちを見る。
安堵のあまり、膝からくずれ落ちそうになる。あの奇妙な笑顔を浮かべている人はいなかった。
いつの間にか東京から出てしまっていた。
主要駅で降り、別の路線に乗り換えて今度は都心を目指す。自宅の最寄り駅に行くにはそのほうがいい。
早く家に帰りたかった。帰って、温かい風呂に入って、寝てしまいたかった。
体も頭も重くてだるい。視界はいまだにぼやけている。現実感が乏しく、まるで夢の中にいるかのようだった。
スマホの通知に気づいたのは、そのときである。
K『通話できる?』
K『すぐ話したい』
LINEが来ていたのは、十分前だ。
意識がすっとクリアになる。
Kの声が聞きたい。全部話そう。今日あったこと、全部話して……どうしたらいいのか、相談しよう。早く!
私は転がるように電車から降りると、ベンチに腰を下ろした。
焦る心を必死に宥(なだ)めながら、通話ボタンをタップした。
Kとの通話
ごめん、急に。すぐに耳に入れたほうがいいと思って。
今どこ? ……え? ちょっと待って、追いかけられたって、なに? 順番に話して。
……うん。……うん。……――。
それ、マジな話なんだよね? 疑ってない、確認したいだけ。うん、うん……そっか……。
とりあえず、もう学校は出たんだね? おっけ。それでいいと思う。もうあの学校には行かないほうがいい。
すぐに連絡を取りたいって言ったのは、その、教員の先輩何人かに話を聞いてみたんだよね。朝日ヶ森のこと。
したらさ……関わるなって、言われて。笑顔ランキングのこととかも聞いたんだよね。
通報できるかなって言ったんだけど、無駄だって言われちゃって、理由も教えてくれなくて。
だからいったんそっちは諦めて、昨日途中だった〝えひこ〟のほうを調べてたんだけど……。
資料見てもらったほうが早いと思う。今ってPDF開ける? うん。資料送る。目を通してもらっていい?



