ゲームがしたいだけなのに…!

「井口」
 低いテンションの声と共に、机の上にミルクティーのブリックパックが置かれた。
 井口が見上げると、侑は目を逸らした。
「ごめん。感じ悪かった」とだけ言って自分の席に着いた。
 井口は内心、侑は本当に不器用だなと思いながら「奢り? ラッキー」と軽い調子で答えた。
「次の休み時間に、もう一回行ってみる」
 井口の背中に向かって、侑は呟いた。
「おう……。行ってこい」
 井口はブリックパックにストローを刺した。

* * *

 侑はもう一度1組に行ってみた。

「桜井? ……いないよ」
 侑は1組の生徒の言葉に落胆してしまう。
「どこ行ったか分かる?」
「……いや、分かんない。休み時間になったらいつの間にかいなかった。桜井来たら伝えとくよ」
 
 侑は結局、桜井にも会えず、傘を下駄箱に入れる事も出来ずに、放課後を迎えた。
「やっぱ、直接返す。で、理由聞く。俺が悪いなら謝りたいし……そうじゃないなら……どうなるかわかんないけど……」
 侑はリュックの中の傘を見つめた。
「帰宅部に賭ける」
 井口は「頑張って来いよ」と言って侑の背中を叩いた。
「痛えなぁ、バカ」
 悪態を吐きながらも、侑は井口の励ましをしっかり受け止めた。
「なんかあったら夜にログインしろよ。話、聞くから。なんもなくてもゲームやろうぜ」
「うん。サンキュ」
 侑は井口に手を振り、教室を出た。

 いつものように、昇降口で靴紐をしっかり結び、リュックのチェストベルトを留める。

 ——頼む。来いよ、桜井。

 一縷の望みに賭けて、侑は昇降口から飛び出した。
 毎日のように、まだ誰もいない校庭を走り抜けながら、侑はいつしか期待するようになっていた。
 不自然なほど胸が高鳴る。
 
 校庭の真ん中を過ぎた頃、ふっと侑の横を、ぬるい風が通り抜けた。

 ——あれ?

 シトラスの香りがしなかった。

 桜井は侑の顔を一瞬見たが、いつものように笑わずに追い抜いて行った。
「桜井! 今日、何でシカトしたんだよ!」
 侑が声をかけても、桜井はそのまま走り続けた。
「おい! 桜井!」
 桜井の走りに合わせて、リュックに付いているレェテネーヴの紋章がパタパタと音を立てて揺れている。なぜか、いつもの優雅さがない気がした。
 それでもまだ、桜井に追いつけない。
 侑は、桜井に声をかけるのを諦めて懸命に走った。頭の中では今日の桜井の態度が気になって仕方がない。
 いつものルートを、いつものように桜井の背中を追って走る。でも今日は違う。侑は何も言わない桜井に腹が立っていた。だから、今日は絶対に帰宅競争に勝って、桜井を引き留めるつもりでいた。 
 
 公園が見えた。いつもならパルクールのような華麗な柵越えをするのに、桜井は柵を避けた。侑は追いつくチャンスだと思った。
 公園で、桜井の隣に並んだ。
 桜井は、一瞬目を閉じたあと、速度を上げた。
 また、先に行かれた。息が上がって余裕がなくなると、侑の走りのリズムが崩れる。けれど、今日の侑はいつも以上に桜井に食らいついた。また、桜井と並んだ。
 すぐそばで聞こえる桜井の呼吸が、短く浅く、速い。
 静かな境内は、砂利を踏む音と二人の呼吸音しか聞こえない。
 
 本殿の前を通り、参道を進み、鳥居が目の前に迫る。
 桜井は、だんだんと速度を落としていった。

 侑は桜井の横をすり抜け、鳥居を潜った。
 
 ——勝った……!

 「やっと……勝てた」
 しかし、侑は帰宅競争の初勝利の喜びを噛み締める間もなかった。
 「クソッ……」
 桜井は力なく呟いて、肩で息をしながら、背中を丸めてシャツの胸の辺りを掴んでいた。
「俺に負けたの、そんなに悔しかったのか?」
 侑は遠慮がちに聞いた。本当に嫌われてしまったような気がして、いつもと違う桜井が怖かった。

 ——勝たない方が良かったのか? 勝ったから、余計に怒らせた?

 そんな飛躍した思考になってしまう。
 気まずい沈黙の中、コンコンと桜井の空咳が何度か聞こえた。

 ——でもカケちゃん、すぐ風邪引いて熱出すじゃん。

 侑は、昨日の悠貴の言葉を思い出して、ハッとした。
 この勝利は、自分の力じゃない。

「……大丈夫か? やっぱ昨日、雨に濡れたせいで風邪ひいた? ……ごめん、俺のせいだよな……」
 侑はリュックの中から傘を取り出して、桜井に差し出した。
「……違う……」
 桜井は、首を横に振った。
「傘、返す。ありが──」
 桜井の手が伸び、侑が差し出した傘を乱暴に奪い取った。

 ——は? 何だよ、コイツ……!

 心配しているのに、桜井の刺々しい言動に腹が立った。何か言わないと気が済まなかった。

「勉強ばっかで鈍ったか?」

 思わず口をついて出た言葉に、侑は自分でも驚いた。
 軽い仕返しのつもりで、つい言ってしまった。
 桜井は目を見開いたあと、一瞬だけ睨むように侑を見て、舌打ちをした。
 その反応に、侑は胸が抉られた。
 確かに桜井の言動には腹が立っていたが、こんな事を言いたかったんじゃない。桜井が突然態度を変えた理由を聞きたかっただけだ。なのに、最悪の一言を放ってしまった。
 桜井の鋭い視線に怖気づいて、侑は後ずさった。

 ——やばい、怒らせた……。
 どうしよう……。

 桜井は侑に背を向け、歩き出した。その背中が、ぐらりと揺れた。
「桜井! ……ごめん、こんなこと言うつもりじゃ……」
「……もう……いい……」
 空咳混じりに桜井は言うと、侑の手を振り払った。
「あ……さ、桜井……」
 一瞬だけ侑を睨むように見て、桜井は数歩よろめいてから歩き出した。
 去っていく背中に、取り付く島もない。
 
 ——これで帰宅部は終わっちまうのか……。
 
 心が苦しくて、涙が出そうだった。
 桜井を追いかけて問い詰めたいと思ったが、バイトの時間が迫っていた。

 ——明日だ。明日こそ桜井を捕まえて、ちゃんと話をするんだ。

 侑は苦い思いを振り切るように、ファミレスまで走った。

* * *

 呼吸を整え、裏口からファミレスに入った。

 ──気持ちを切り替えて、今はバイトに集中しないと。
 
「成瀬くん、7月からあのシトラスのメニューが決定したよ。また今度説明するね」
 シトラス、と店長が言ったとき、自分を拒絶した桜井の顔がフラッシュバックする。そして、今日は桜井からシトラスの香りがしなかった事を思い出した。侑の中で、違和感が膨らんでいく。
 それでも侑はスタッフルームからフロアに出た。
 今だけは、桜井の事を考えるな。考えちゃだめだ。
 自分にそう言い聞かせた。
 でも、少しでも暇な時間ができると、勝手に頭に浮かぶ。
 桜井が帰宅部を提案したのに。Blood Moonの話であんなに盛り上がったのに。和田から隠れるときに抱き寄せて隠してくれたのに。相合傘で一緒に帰ったのに……。嫌いな相手にそんな事はしないと思う。でもどうして急に?
 
 パリン! 

 ガラスが割れる音がフロアに響いて、侑は一気に現実に引き戻された。
 テーブルの片付けをしていたが、上の空になっていた侑はグラスを床に落としてしまった。
 粉々になったガラスが散らばっている。それが自分と桜井の行く末を暗示しているような気がして、ゾッとした。
 客の視線が自分に集中しているのがわかる。失敗した羞恥心で顔は熱いのに、背筋は冷えている。
「失礼しました」
 侑は絞り出すように言って、震える指先でガラスの破片を拾おうとした。
「待って成瀬くん!」
 ガラスが割れる音を聞き付けた店長が、フロアに出てきた。
「危ないよ。僕が片付けるから、今持ってるの下げて」
「……すみません」
「いいから」
 店長は掃除道具を取りにバックヤードに引っ込んだ。
 
 ──何やってんだ、俺。店長に迷惑かけて……。不甲斐ないにも程がある。集中しろ。

 侑は必死に自分に言い聞かせた。

 料理を運び、空いた皿を下げ、レジをこなし、後片付けをする。合間にグラス、カトラリー、調味料の補充。その間に何度もワイヤレスチャイムが鳴り、客席に行く。ピークタイムは桜井の事を考える間もなく、とにかく体を動かした。
 
 嵐ようなピークタイムをやり過ごし、侑は一息ついた。
 
 来店チャイムが鳴った。侑は反射的に入り口の方に顔を向けた。
「いらっしゃいま……」
 侑は、入店してきた客を見て、またグラスを落としそうになった。

「……桜井……」
 
 彼が来店したことに、驚きを隠せなかった。
 もしも、桜井が話しかけてくれたら——。
 侑は淡い期待を抱いた。
「あ、えっと……空いているお席へどうぞ」
 侑は平常心を装って、手でフロアを指し示して桜井を案内する。
 フロアを歩いていく桜井の背中から、目が離せない。
 桜井は黙って窓際の席に着いた。気怠げにソファに沈み込み、ろくにメニューも見ずにオーダーコールを鳴らした。
 オーダーを取りに行くだけなのに、緊張して足が竦む。それでも仕事だから、と侑はフロアに出た。
 桜井は侑と視線を合わせない。それどころか、苦々しい表情をしている。
「……特盛りポテトとドリンクバー。以上」
 ぶっきらぼうに、桜井は言った。
 バイト中に私情を挟んではいけないと分かっている。でも、どうしても聞きたかった。
「桜井、今日どうして……」
 侑が言いかけた瞬間、桜井は顔を上げて侑を見た。その視線があまりにも鋭く刺さった。侑にはそれが明確な拒絶に思えて、言いかけた言葉が喉の奥に引っ込んだ。石でも飲み込んだみたいに息が詰まり、胸の奥が重くなった。
「……かしこまりました」
 ハンディ端末にオーダーを打ち込み、侑は席を離れた。
 
 侑は逃げ出したくなった。今はただのバイトと客の関係なのに、桜井のそばに行くのが怖くなった。
 煌々と明るい店内に、歯切れの良い声のフェアメニューの告知放送が、軽快な音楽と共に流れている。それなのに、侑にはフロアが重苦しく感じられた。
 厨房とフロアを繋ぐ通路の影から、桜井の様子をちらりと見る。背中を丸めてソファに座ったまま動かず、ドリンクバーも取りに行っていない。
 昼間あんな態度を取っておきながら、一体どんな気持ちでここに来たのだろうと思った。でも、聞ける雰囲気ではない。

「成瀬くん、揚がったよ」
 厨房から、店長が言った。
 侑は揚げたてのポテトを持って、桜井の席に向かう。
 
 ——ここは学校じゃない。桜井は客で、俺はバイト。無駄に話すな。いつものように、これを席に置いてくるだけ——。

「お待たせしました。特盛りポテトです」
 侑は、桜井の顔を見ないようにして、テーブルにポテトを置いた。
 見ないように、と思っていても、視界の端の桜井を見てしまった。
 桜井の表情は、眉間に皺が寄っていて、不機嫌なようにも、疲れているようにも、何か思い詰めているようにも見える。
「ドリンクバーは? 行かねえの?」
 思わず、話しかけてしまった。しかも、カジュアルに。同級生とは言っても、客なのに。
 「……後で」
 桜井は小さく、それだけ言って目を伏せた。
 あからさまに避けられていると感じた。失敗した、と侑は思った。
「……ご、ごゆっくりどうぞ……!」

 厨房とフロアを繋ぐ通路まで急いで引っ込み、侑は壁に凭れながら、ヘナヘナと座り込んだ。

 ──ダメだ、俺。
 思った以上にダメージ受けてる。

 蹲っていると、瞼が熱くなって、涙が滲んできた。
「……トイレ行っていいっスか?」
 厨房にいる店長の背中に向かって言うと「いいよ」と返事が返ってきた。侑はトイレに駆け込んだ。
 
 ——やっぱ、嫌われたんだよな……。
 ここに来たのだって、特別な理由なんてなくて、ただ塾から近いからだよな。
 俺が働いてたら、桜井は来づらいよな……。
 ……バイト、辞めようかなぁ……。
 
 どうしてこうなってしまったのか、さっぱり分からない。

 視界が歪んで、鏡の中の自分の顔がぼやけて見える。
 バイト中だ、と必死に目をしばたいて堪える。

 バシャバシャと顔を洗って、熱を持った瞼を冷やした。
 
 ふう、と重い息を吐き、侑はもう一度鏡を見た。

 ——泣くほどのことじゃないだろ。
 マニュアル通りに受け答えするだけだ。

「よし」
 ピシャピシャと頬を叩き、フロアに出た。
 桜井はスマホを弄ることもなく、俯いてじっと座ったままだった。

 ——桜井は、何しに来たんだろう……。

 テーブルの紙ナプキンを補充していく。桜井の席に近づいたとき、また空咳が聞こえた。
「大丈夫か? やっぱり風邪か?」
 声をかけずにはいられなかった。
 だが、桜井は答えなかった。
「今日俺が勝てたのって、桜井が調子悪かったからだよな」
 笑うつもりは全くなかったが、侑から自虐的な笑みが漏れた。
 だが、桜井は、以前のように笑い返してくれない。
「……ごめん。煽ったりして悪かった。昨日、傘に入れて貰ったときに、桜井の肩が濡れてるのに気づかなくて……俺、ほんと気が利かなくて。俺のせいで風邪引いたんだろ?」
「……違う……」
 そう言った桜井の顔は蒼白だった。
「でもなんか顔色が」
「平気。もう帰る」
 桜井は、テーブルに手をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。
「桜井……」
 帰るのは客の自由で、バイトの侑が桜井を引き留めることはできない。けれど、やっぱり言わずにはいられなかった。
 レジに向かう桜井の背中が、少し揺れている。
「体調、悪いんだろ? もうちょっと待てない? あと少しでバイト終わるから。そしたら送ってく」
「いい。大丈夫」
 そう言って、桜井は緩慢な動作で財布を取り出した。
「……779円です」
 ジャラっと音を立て、小銭がキャッシュトレイの上にばら撒かれた。その音に、侑は肩が縮こまった。桜井がお釣りを受け取る動作は、どこか投げやりな拒絶に見えた。
 パターン通りに「ありがとうございました」と言い、桜井を見た。
 桜井と、一瞬だけ目が合った。何か言いたげに見えた気がしたが、すぐに視線を逸らし、そのまま背を向けられた。

 窓ガラスを隔てて、桜井が歩いて行くのが見える。
 侑は桜井が見えなくなるまで目で追った。
 もう誰もいない窓の外は、闇に包まれている。
 何をするべきだったのか、何を言ったら良かったのか、何も分からなかった。

 桜井の席に残された特盛りポテトの皿は、全くの手つかずだった。冷え切ったポテトが萎びている。ドリンクバーのグラスも取りに行っていなかった。

 ──全部残すくらい体調悪いなら、何で来たんだよ。金もポテトも勿体ないだろ……。

 オーダーコールが鳴り、侑は注文を取りに行った。ハンディ端末にオーダーを打ち込み、ドリンクバーの裏にダスターを取りに戻った。
 明るい店内放送に混じって、遠くで救急車のサイレンの音が聞こえた。
「最近多いねぇ」
 店長が言った。
「そうッスね……」