ゲームがしたいだけなのに…!


 アラームが鳴り、侑は布団から手だけ出してスマホを取った。
 朝4時近くまでレェテネーヴと戦っていたから、眠くて起きられないのも当然だ。
 5分後、スヌーズが鳴り、侑は布団を退け、のそのそとベッドから出た。
 遮光カーテンを開けた。空は曇りだが、侑の眠たい目には痛かった。
 それから顎が外れそうなほど大きな欠伸をして、ハンガーラックに掛かっている白シャツを取った。
 制服を着た後、侑は丁寧に傘を畳んで、リュックに入れた。
 スマホのカレンダーアプリを開き、スケジュールを確認した。今日はバイトがあるから、桜井とはゆっくり話せない。侑は少し早めに家を出た。
 睡眠不足の目には、曇天の薄い光さえも眩しく感じる。バイトもキツイだろうな、と思ったが、レェテネーヴとルーキフェルの別ルートのエンディングを観たことは、後悔していない。
 
 ──今日、桜井にフレンドコードを聞こう。 

 そう決意をして、ドアを開けた。
 
 歩きながら、侑は考えた。
 
 周りは『恋だ』と言うけど、無理やり気持ちに名前を付ける必要はない。でも、桜井とはちゃんと話して仲良くなりたい。帰宅部だけじゃなくて、ゲームも一緒にやりたい。桜井が俺をどう思ってるかは全くわからないけど、嫌われてるって事はないはずだ。だって、キーホルダーを返したとき喜んでくれたし……傘にも入れてくれた。和田センから、守ってくれた──。

 あの時の事を思い出すと、侑の心臓がドクンと鳴る。顔が熱くなる。侑は、両手で頬をぴしゃぴしゃと叩いた。

* * *

「おはよ」
 侑は井口に挨拶をし、椅子に座った。
「おー、おはよう」
 井口はくるりと体の向きを変え、侑の方に向き直った。
「あのあと、レェテネーヴ戦やって、別エンディング観た」
 侑は机に教科書を仕舞いながら言った。
「やっと観たんだ。これで成瀬ともネタバレトークが出来るな」
「おかげで寝不足。でも、観て良かった」
「だろ? でも今まで絶対不殺だったのに、急にどうした? あ、桜井か」
 井口は、ニッと笑った。
「まあね。DLCが来る前に、観ておいた方が良いって桜井に言われたからさ」
 やけに素直だな、と井口は思った。そして、今まで頑なに不殺ルートを貫いていた侑が、レェテネーヴにとどめを刺すルートを観た、という変化にも驚いた。
“今まで自分がどれだけ言ってもやらなかったルートを、桜井に言われたからやってみた“
 親友としてはちょっと悔しいと思いつつ、侑と桜井の仲が進むのは、ラブコメ好きとしては興味深いのだった。

 1時間目が終わると、侑は「桜井に傘、返してくる」と言って教室を出た。井口は、ついでにフレンドコードを聞いて来いよと思いながら、侑の背中を見送った。
 
 1組に向かう途中で、遠くに桜井の頭一つ大きな姿を見つけた。ちゃんと話すと決意をしていたから、勇気を出して自分から桜井に向かって、大きく手を振った。
「桜井!」
 侑の声に気づいたのか、桜井は顔を上げた。
 目が合った。その瞬間、侑は鼓動が速くなったことに気づいた。 
 早く桜井の側に行きたくて、侑は速足になって生徒達の間を縫って進んだ。しかし、侑の期待は裏切られた。手を振り返してくれるどころか、桜井は少し顔を顰めた。そして、制服の胸元を押さえながら、ふっと反対方向を向いて侑を無視して階段を降りて行ってしまった。
 
 桜井に無視されて、胸の鼓動は嫌な動悸に変わった。

 ──桜井、なんか怒ってた……?

 侑は桜井を追いかけ、階段を降りた。
 桜井がどうして自分を無視したのか、何か悪いことをしてしまったのかと、必死に昨日の言動を脳内で検索してみる。
 
 昨日、上手く話せなかった。挙動不審でキモがられた? それとも、知らないうちに何か桜井の地雷を踏んでた?
 
 ……帰宅部より、悠貴ってヤツの方が大事?

 階段を降りるたびに、不安が深くなっていく。
 駆け足で階段を降り、その階の廊下の左右を見回す。
 
 ──三階……いない。二階……いない。

 とうとう一階まで降りた。
 侑がその場でぐるぐると廊下を見渡してみても、桜井の姿はどこにもなかった。

 ──桜井、どこ行った? 職員室に呼ばれた、とか?

 ……でも、嫌われたとしても、傘だけは返さないと。

 職員室のドアの側で、暫く人の出入りを見ていたが、桜井は出て来なかった。

 ──もう、直接会わなくても、下駄箱にでも入れて置けばいいか……。
 
 侑は項垂れ、傘を握る手が力なく下がった。
 1組の下駄箱に足を向けた瞬間、チャイムが鳴った。侑は傘をぐっと握り直して階段を駆け上がった。

「桜井に会えた? ……あれ、空振りか」
 まだ侑の手に握られている傘を見て、井口が言った。
 侑はリュックの中に少し乱暴に傘を突っ込み、それからドカッと椅子に座った。
「……後で下駄箱に入れとく」
 侑は投げやりな動作で現代社会の教科書を出した。
 侑の言葉も態度も刺々しい。一体何があったのか、井口は聞きたかった。
「席に着け。始めるぞー」
 社会科の教師が教室に入ってきて、何も聞くことが出来なかった。
 
「OPECが何の略か分かる人?」
 社会科の教師が言うと、数人が手を上げた。侑も分かってはいたが、手を上げなかった。
「じゃあ、井口」
「アラブ石油輸出国機構」
「正解」
 教師は黒板に、Organization of Arab……と書き始めた。黒板にチョークが走る音が小気味良く、眠気を誘う。桜井に『レェテネーヴのもう一つのエンディングを見て欲しい』と言われて、4時まで粘ったせいだ。侑は、眠気とさっきの桜井の態度のせいで、苛立っていた。
 けれど、眠気の方が勝って、だんだん瞼が重くなる。頭が重く、座っているのも辛い。侑は頬杖をつきながら、何とか板書をする。無意識に書いた文字は、ぐにゃぐにゃの線だった。
 頬杖で支えていた侑の頭が、ガクンと落ちた。
 ハッとして、ぐにゃぐにゃの線を消してまた板書をするが、暫くするとまた瞼が重くなる。
「成瀬、起きろ」
 ついには、教師に起こされた。
「こんな時間に優雅に昼寝なんかして。成瀬は石油王か?」
 侑が顔を上げると、呆れ顔の教師が見下ろしていた。
 くすくすと皆が笑う。
 恥ずかしすぎる……と侑は思ってその時だけは目が覚めたけれど、結局眠気には抗えなかった。
 
* * *

 いつものように体育館の前のコンクリートに座り、侑は寝ぼけ眼でパンを齧った。口数が少ないし、井口が話しかけても生返事だった。もそもそとパンを食べ終わるとすぐ、井口に背を向けて横になった。
 そんな侑を見て、井口は小さく溜め息をついた。
「牛になるぞ」
「別にいい」
「制服、汚れる」
「別にいい」
 眠気だけじゃないな、と井口は思った。今朝の休み時間の終わりに教室に帰って来た侑は、明らかに意気消沈していたからだ。傘も返せていなかった。それだけじゃない何かがあったんだろうと思っていたが、侑は寝てしまって、何も聞き出せない。
「お前が寝ると暇でしょうがない」
 井口はスマホで暇つぶしのパズルゲームを始めた。
 
 侑の寝顔には、いつもの能天気さはなく、不貞腐れた子供のようだった。
 麗らかな春、とはいかないようだ。鈍色の空を、燕が低く飛んでいく。
 
 自分が桜井と侑の間に介入したら余計にややこしくなる──。
 井口は侑を横目に見て呟いた。
「どうしたもんかなぁ……」

* * *

 昼休みが終わる少し前に、侑は目を覚まし、両腕を上に突き出すように伸びをしながら大欠伸をした。
 普段、泰然としたように見える井口にしては珍しく、不機嫌そうに侑をちらりと見た。言いたい事が色々あるが、飲み込んでしまった。
 侑はそんな井口の様子に気づいたのか気づいていないのか、黙ったままスマホで時間を確認した。そして「自販機に寄ってくから先行ってて」と井口に言って、制服に付いた汚れを手で払った。
 井口は「分かった」と短く答え、教室に向かった。
 
「成瀬は? いつも一緒なのに」
 前の席の上野が話しかけてきた。
「自販機行くってさ」
「……喧嘩でもした?」
「いや? 別に」
 喧嘩も口論も何もない。それが逆に、侑との距離を感じさせる。侑が他の友人と一緒にいても激しく嫉妬はしない。今日のように何も言ってくれない方が寂しい。
「井口と成瀬、いつもニコイチみたいなのに」
 上野に言われて、井口は小さな溜め息を漏らした。
「……そういう日もあるよ。次は数学だろ。今日は抜き打ち小テストの予感がするんだが、どう思う?」
 小テストと聞いて、上野は大袈裟に顔を顰めた。
「……どこ出ると思う?」
 青ざめたような顔で、上野は数学のテキストを引っ張り出す。
 井口はそんな上野を見てクスッと笑って、自分もテキストを開いた。
「たぶん、この辺だと思うけど、ハズレたらすまん」
「それでもかまわんから、ちょっと教えて」
 上野と頭を付き合わせてテストの予想をしながら、井口は思った。侑が居なくても、それなりに楽しい。放課後にダッシュで侑が帰ってしまえば、ボッチのようなものだ。でも、こうして上野のように軽い会話が出来るクラスメイトは何人かいるから、話し相手には困らない。だから“友達は侑一人に拘る事はない”のだ。
 とは言え、侑ほど気の合う友達は、今までいなかった。単に好きなゲームが同じというだけではなかった。

 今では考えられないが、当時の井口は引っ込み思案で、教室の隅で読書をしているような少年だった。そんな井口に、最初に声をかけたのが侑だった。
「それ、あのゲームの本? すげぇ、そんなのあったんだ!」
 井口は最初、陽キャが話しかけてきた……! ゲームの小説を読んでるから、誂いに来たんだ! と警戒心を抱いた。
「そのゲーム、やってるヤツ誰もいなくてさ。井口は? ゲームやってる?」
 侑はグイグイ会話を進めていく。井口は最初、圧倒された。けれど、最初の印象と違って、侑はゲームオタクで、意外とシャイで、ちょっとおバカで、そして優しかった。
 気がつけば毎日話すようになり、フレンドコードを交換し、ほとんど毎晩オンラインでゲームをする。それが中学2年からずっと続いている。
(友情の危機……ってほどではないけどさ)
 侑はまだ自販機から戻ってきていない。

 窓の外は曇り空。侑の機嫌は低気圧。

 空席を見て、井口は溜め息をついた。