ゲームがしたいだけなのに…!

 雨の日は、嫌いだ。傘をさせば走るのに邪魔だし、上下のレインウェアを着れば蒸れて暑い。それなのに完全防水じゃない。それに走るには視界が悪い。
 侑は、放課後までに雨が止めば良いけど、と思いながら校庭を見下ろして溜め息をついた。
 今日は幸い、バイトのシフトが入っていない。帰ってゲームをやるだけだ。でも──。

 ──今日はこの雨じゃ、帰宅部は無しかなぁ。

 もう一つ溜め息をついて、侑は机に突っ伏した。
「なーに辛気臭い顔してんだよ」
 井口が侑の頭に教科書やノートをバランス良く乗せていく。
 侑は頭を振って、教科書を落とした。バサバサと音を立てて、床に散らばった。侑は、口を尖らせ、頭の上に両腕を回した。
「昨日、桜井に会えたんだろ?」
 井口は笑いながら、教科書を拾い集めた。
「うん」
 侑は気のない返事をした。
「雨だとテンション低いな」
 机の上で教科書を揃えながら、井口が言った。もう一度、教科書を頭の上に乗せてやろうかと思ったが、侑は腕で頭をガードしている。
「で、どうだった?」
「どうって?」
「桜井にキーホルダー返せた?」
 井口に聞かれて、侑はガバっと顔を上げた。
「それなんだけどさ。桜井ってめっちゃBlood Moonやり込んでてさ。シリーズ無印から全部やってんの。レェテネーヴのフレーバーテキストも言えるくらいだったし。使ってるキャラが声なき者で装備無し縛りする変態プレーヤーだったし! トロコンしてたし!」
 侑は、夢中になって話した。
 井口は、ダメだコイツ、と呆れ笑いした。
「桜井もBlood Moonやってるなら、もちろん誘ったんだろ?」 
 井口はニヤニヤしながら侑の額を人差し指で突付いた。
 侑は、鬱陶しい虫を払い除けるような仕草で手を振り、井口を恨めしそうに見上げた。
「……よく知らん奴とはマルチ出来ん」
 また口を尖らせて、侑はふいっと横を向いた。
 井口は、野良とはマルチが出来るのに? と思ったが、口にしなかった。侑は緊張して桜井のフレンドコードが聞けなかったのだろうと分かってしまう。出会った頃、お互いにBlood Moonが好きだと分かったとたん、侑の方から「オンラインやろうぜ」と誘ってきた。その気軽なひと言が言えない辺りが、やっぱり“恋”なんじゃん、と井口は思った。
 たかがフレンドコード、されどフレンドコード。それを桜井に聞くことに対して、侑は告白級の重みを感じているのだろう。侑のそういうナイーブさが、面倒くさいけど可愛い所だと井口は思うのだ。
「俺が聞いてやろうか? 桜井に」
 侑を誂うように、井口は言った。
「やめろよ、急に聞いたら変に思われるだろ」
 侑はまだ、口を尖らせたままだ。

「桜井ってBlood Moonが好きって聞いたんだけど。俺と成瀬と3人でマルチやらない?」
 1組に行って、桜井を呼び出して、こんな風にフレンドコードを聞き出すのは井口にとっては簡単なことだ。でもそれはさすがにお節介すぎると思い、井口は、今は侑の気持ちを尊重した。

 古典の授業が始まったが、侑は集中できずに窓の外に目を向けた。灰色の密雲に覆われて重くどんよりした空を恨めしそうに見て、教科書に視線を戻す。

「春はあけぼの。ようよう白くなりゆく山ぎわ、少しあかりて……」
 窓の外とは正反対の、鮮やかで美しい春の夜明けの描写だ。
 古典教師の範読を聴きながら、侑は一つ大きな欠伸をした。
 教師の低く落ち着いた声が、雨の音と混ざって眠気を誘う。滲んだ涙を拭い、眠気を飛ばそうと少し背筋を伸ばす。
 隣の席の女子は、教科書を立て、その影で絵を描いている。前の席の井口は、ルーズリーフに線を引き、そこに教師が言ったことをメモしている。ゲーム三昧で、ふざけたことばかり言うのに授業態度は真面目だ。
 侑も、板書を書き写し、マーカーで線を引く。
 
 退屈な古典の授業が終わり、侑は大きく伸びをした。
 一日が長い。というより、授業が長い。バイトも長い。自由な時間は短く、限られている。早く帰ってゲームをしたい。
 でも──。
 今日は雨のせいで、桜井との帰宅部ができそうもないことを一番に憂慮していた。
「今日は無理か」
 侑が小さく呟くと、井口が振り向いた。
「どうした?」
「ずっと雨だから、帰宅部は無理かなって」
「別に雨でもいつも通り走って帰るだけだろ?」
「いやさ、昨日、桜井が帰宅部はどう? って言ってさ。だったら勝負したいじゃん? でも今日は……」
「へぇ、帰宅部ね。部員は二人だけ?」
 井口は少し、含みのある笑いをした。
「まあね。放課後開幕ダッシュで帰るの、俺と桜井くらいじゃん」
 侑は窓の外を見て、短く溜め息をつく。
「走って帰るだけが帰宅じゃないだろ。歩いたって帰宅じゃん」 
 井口が言った。 
「並んで歩けって? そんなの帰宅部じゃないだろ。帰宅は競技なんだよ」
 ──成瀬の中でだけはな。と井口は思った。
「ま、今日は歩いて帰るわ。バイトも無いし」
 そう言った侑の声は、何だか沈んで聞こえた。 

* * *

 放課後、珍しく侑がのろのろと教科書をリュックに詰めていた。
「成瀬、いる?」
 教室の入り口に、陸上部のジャージを着た男子生徒がいた。彼は侑の姿を見つけると、教室に入った。陸上部のエースの吉野だ。
「和田センに頼まれてさ。成瀬を陸上部にって」
 少し困ったように眉を下げて、吉野は言った。
「無理だって言ってんのに」
 侑は少し頬を膨らませた。
「だよな」
「俺は忙しいのに、和田センしつこい」
「それだけ成瀬に期待してるんだろ。でも、俺としてはライバルが増えなくて有り難いけど」
 半分本音、半分冗談のように笑いながら吉野は言った。
「断られるのは分かってるけど、声かけておかないとだし。悪かったな」
 爽やかな笑顔を見せ、吉野はすぐに教室を出て行った。

「井口。また夜に」
「おう。今日はレェテネーヴ戦で装備無し縛りでもやってみるか?」
 井口はわざと、桜井のプレイスタイルの話題を出す。
「やだね。俺は普通にプレイしたいの。じゃあな」
 突き放すように言い、侑は教室を出た。
 階下に、和田の姿があった。侑はしまった、と思った。雨でも早く帰ればよかったと後悔した。和田が去るまで待つしかない。この場に留まるのも危険だ。和田が階段を上って6組に直接来るとも限らない。
 その直感は当たり、和田は階段を上ってきた。侑は逃げ場を探し、咄嗟に目の前の階段を上った。

「成瀬?」
 上の階から声がした。
 見上げると、桜井がいた。
 視線がぴったりと合った。侑の心臓が、ドクンと大きく動く。急に声をかけられて驚いたからだ、と自分に言い聞かせる。けれど、動悸は収まらない。
「どうしたの、こんな所で」
 桜井の表情は、柔らかい。侑は思わず、見つめてしまう。
「和田センに見つかりそうになって。下にいるんだ、今」
 侑は一瞬階下を見てから階段を上り、踊り場まで進んだ。
「成瀬もか」
 桜井は苦笑いした。
「今日は吉野まで送り込んでくるしさ」
「僕の所にも来たな、吉野。彼、ちょっと可哀想だよね。和田先生と僕らの板挟みで」
「でも、桜井も陸上部に入る気は無いだろ?」
「まあね。吉野には申し訳ないけど。あ、こうやって罪悪感を植え付ける作戦かな、和田先生の」
「そんな作戦立てるタイプじゃないだろ、和田センは」
 侑は苦笑いした。
「今日は走らないの? 帰宅部なのに」
「桜井もだろ。今日は雨だしバイトも無いし。桜井は? 塾無いの?」
「今日は、ゆっくりで良いんだ」
 桜井は少し、顔をほころばせた。
 それきり、無言になってしまった。雨の音と、階下の生徒達の喧騒が聞こえるだけだ。
 侑は、ゲームの話をすれば良いのか、和田のスカウト話の続きをすれば良いのか、分からなくなってしまった。
 気まずい沈黙が続く中、改めて桜井の顔を見た。今日は眼鏡をかけている。フレームがでかいな、と思った。
「何?」
 桜井は、じっと自分の顔を見つめる侑に微笑みかけた。
「……あ、いや、桜井って眼鏡だったんだなって」
 侑は、桜井の顔を観察していたことを誤魔化すように言った。
「普段はコンタクト。これはコンタクトを失くしたり、忘れたとき用」
 桜井は、眼鏡のツルを摘みながら言った。
「今日は失くした? それとも忘れた?」
「忘れた」
 桜井は少し眉を下げて笑う。
 キーホルダーと言い、コンタクトと言い、完璧に見えた桜井の意外な一面を知って、侑は心のどこかが満たされる気がした。
「成瀬はコンタクト?」
 桜井は侑の顔を覗き込んだ。しっかりと目が合う。眼鏡のフレームの中の、形の良い目が真っ直ぐに侑を見つめている。あまり表情はないのに、目だけは侑に何かを訴えかけているように思える。
 
「……裸眼」
 その真っ直ぐな視線に耐えきれなくなり、侑は顔を背けた。
「ゲーマーなのに?」
「目が悪くなるのはゲームのやり過ぎって言われるけど、辞書の細かい字の方が目に悪い」
「間違いない」
 桜井は、少し頬を緩めた。
 侑は、改めて桜井の顔を盗み見た。普段の鋭い印象を和らげている、大きなウェリントン型の、艶のある黒いフレーム。桜井の白い肌の上で、黒が目を引く。
 フレームが大きいのか、それとも桜井の顔が小さすぎるのか。
 そのアンバランスさが、かえって桜井の端正な顔立ちを際立たせている気がして、侑はまた居心地の悪さを感じて視線を泳がせた。

「……こういう日は、部室でもあれば良いのにな」
 気まずさをどうにかしたくて、侑は何とか話を捻り出した。
「非公式だから無理だろ」
 桜井はそう言ってまた微笑む。その余裕ありげな感じがムカつく、と侑は思いながらも、桜井の顔を見てしまう。桜井の眼鏡の奥をよく見てみると、左目の目尻下に小さな黒子があった。
 そんな新たな小さな発見をして、侑はまた何を話せば良いのか分からなくなる。

 ──なんか、喋ってくれよ……。桜井も黙ってるけど、何を考えてるんだろう──。

 でも、桜井の目だけは、何か言いたげに見えるのだ。

 ──何だろう……。

 気まずさに耐えかねて、侑はふと踊り場を見渡した。それから、階段の踊り場を指さした。
「……じゃあ、ここ。部室」
 
 桜井は、ふっと小さく笑った。侑は、バカにされたと思って、横を向いて口を尖らせた。
「二人でいれば、どこでも部室になるみたいで良いなって思っただけだよ。その発想が良いなって」
 拗ねた侑に対して、桜井は柔らかな声で言った。

「成瀬いるかー? まだ帰ってないよな?」
 階下から、和田の声が聞こえた。和田の緑色のジャージが見えた瞬間、桜井は侑を抱き寄せ、壁際に隠した。
 桜井の腕にすっぽり包まれ、侑には何も見えない。突然抱き寄せられて、心臓が跳ね上がった。全身が心臓になったみたいに、煩い。
 爽やかなはずのシトラスの香りと雨の匂いが混ざって、湿度を感じる。

「和田先生がいる」
 桜井の低い声が、頭上から降ってくる。
 
 ──和田から隠してくてれた……んだよな? 
 
 ──ああ、心臓がドクドク煩い。
 ……これって俺だけ? 
 桜井は?

 ドタドタと、特徴のある和田の足音がする。

 桜井の薄い身体に顔を押しつけられて身動きが取れず、桜井が今どんな顔でいるか見えない。
 桜井の大きな手が、侑の頭をしっかりと、でも優しく包み込んでいる。

「おい、和田センもう行ったか?」

「まだ」
 桜井は、囁くように答えた。

 和田の声はもう聞こえない。
 けれど、侑からは和田がいるかどうかは見えない。
 

「……さすがにもういないだろ?」

「シー……」

 桜井の腕の中で、侑は黙っているしかなかった。

「早く! 部活行こ!」
「待って待って!」
 大きな笑い声と足音が直ぐ側で聞こえ、二人は弾かれたように離れた。
 桜井は、そのままじっと動かず、侑を見ている。侑には、桜井の表情が読めず、彼が何を考えているのか分からない。

 ──何で桜井は平気なんだよ。ムカつく。

「何見てんだよ」 
 目が合ったままの沈黙に耐えきれず刺々しい声になってしまった。
 そう言われて、桜井はスッと目を逸らした。

 ──俺だけ、気持ちがぐちゃぐちゃしてる──。

「わ……和田セン……やっといなくなったな……。今のうちに帰るか……」
 侑は平静を装い、そう言うのが精一杯だった。