昼休みに、侑と井口は体育館の裏のコンクリートの段の上に座って、昼食を摂っていた。
麗らかな春の日差しが、少し暑いくらいだった。けれど少し風があって、過ごしやすかった。校庭の桜の花びらが足元を舞う。もう殆ど散ってしまって、若い緑の葉が茂りっている。
井口はシーフードヌードルを啜っている。
侑は膝を胸につけて、ぎゅっと縮こまって背中を丸めたまま、カレーパンをじっと見ていた。
「食わないの?」
と井口が聞くと、侑は自分がぼんやりしていたことに気づいた。
「食う」
侑はカレーパンの袋を開けた。
「休み時間のたびに1組行ってたけど、どうした?」
鮭おにぎりのフィルムを剥がしながら井口が言った。
侑は、キーホルダーを井口に見せた。
「これ。昨日、バイト先で桜井が座ってた所に落ちてた」
「レェテネーヴの紋章じゃん。桜井もBlood Moonやってんのか」
「そうだと思う。じゃなきゃ、この特装版の特典を持ってないと思う」
井口の目に触れさせるのも何となく嫌で、侑はすぐにポケットに入れた。
「同じ校内にいて、こんなに捕まらない事ってある?! 桜井、どこにいるんだろう」
「なあ、今日は探すの諦めたら?」
井口がそう言うと、侑は「それじゃ、これを桜井に返してやれない。失くしてショックだと思うし。早く返してやりたい」と言って口を尖らせて、また膝を抱えた。
「放課後、お前が走り出したら桜井も走ってくるだろ。そのときに捕まえればいいじゃん」
「ああ、そっか! それだ! 井口、頭良いな!」
「そうだろう、そうだろう。褒め称えよ」と言い、井口は得意げだった。
「なあ、数学の前に言ってた自覚って何のことだよ?」
侑は、ふと思い出して、井口に聞いた。
「そんな前のめりになってるのに、気付かないもんかね? 自分の胸に聞いてみな」
井口は、そう言って笑うだけだった。
──自分の胸に?
侑は無意識にポケットの中の紋章の縁をなぞった。
「桜井の事が気になって仕方ないって顔に書いてある」
井口が侑の横顔を覗き込む。
「……桜井のビルドが気になる。あと、キャラは何を使ってるか」
それを聞いて井口は「何だそれ!」と言って吹き出した。そこじゃねぇよと思いながら、暫く笑いが止まらなかった。
「なんで笑うんだよ」
侑は口を尖らせ、井口の肩を軽く小突く。
井口は、侑が恋心を自覚するにはまだまだレベルが足りないし、もっと先だろうな、と思いながら、鮭おにぎりにかぶりついた。
* * *
侑はリュックに雑に教科書類を詰め込み「夜ログインする。またな」と井口に言い、もう教室の出口に向かっていた。
「じゃあな」
井口は応えたが、さすがに聞こえていないか、と思った。けれど、侑は振り向きこそしなかったが、井口に手だけを振り返し、一番に教室を出て行った。
「桜井を捕まえられるといいな」
井口は呟き、帰り支度を始めた。
──さて、どうなったかな?
窓から、校庭を見下ろす。
井口は、口元を緩めた。
* * *
侑はリュックのチェストベルトを留め、靴紐をぎゅっと結び、昇降口から勢い良く飛び出した。
まだ人もまばらな校庭を駆け抜けていくのは、やはり気分が良い。このまま一番に正門を抜けたい。
でも、今日は絶対に桜井に来て欲しい──。
そう思った瞬間、ふわっとシトラスの香りがした。
──来た!
「おい! 桜井!」
声をかけたが、桜井は侑を一瞥し、ニッと笑って追い抜いていった。
その表情が気に入らないし、キーホルダーを返したいのに止まらない桜井にも腹が立つ。
「桜井! 待てよ!」
いつの間にか、公園前まで来ていた。
片手が柵についた瞬間、桜井の体がふわりと浮いた。空中で脚を高く上げて、身体を捻って半回転し、軽やかに柵の向こう側へ着地した。
──やっぱり桜井はガゼルだ。俺に見せつけて、挑発して──。
あまりにも鮮やかで、悔しくなる。けれど今日は、どうしても桜井を引き留めたい。
「レェテネーヴの紋章!」
侑が叫ぶと、桜井はようやく速度を緩めて止まった。
侑は肩で息をしながらキーホルダーを取り出し、桜井の前に翳した。
「……これ、昨日……落としただろ……?」
息切れしながら、どうにか言葉を絞り出す。
桜井はキーホルダーを見て驚き、目を見開いていた。侑に近づき、両手でキーホルダーごと侑の手を握った。
「どこ探しても無かったんだ。良かった……成瀬が拾ってくれたのか……」
急接近した桜井の視線。細長い指。掌の熱さ。走った後の荒い呼吸。体温と共に立ち上るシトラスの香り。侑の意識全てが、桜井だけを感じているような、目眩にも似た感覚に陥りそうになる。
これ以上、桜井の目を見ちゃダメだ。この変な高揚感に飲まれちゃダメだ、と侑は思った。
「離せよ……」
侑は桜井の顔から目を背けた。
「……あっ、ごめん」
桜井はゆっくり手を離し、半歩後ろに下がった。
「ほら」
顔を背けたまま侑がキーホルダーを差し出すと、桜井はそっと受け取った。
桜井が、愛しいものに触れるように、優しく紋章の縁を指先でなぞるのを、侑は横目で盗み見ていた。
「本当にありがとう、成瀬」
「いや、別にそんな感謝されても……」
「成瀬も同じの付けてるよね、リュックに」
桜井は、侑のリュックに視線を向けた。
「えっ?」
侑は自分のリュックを見ようと上半身を捻って振り返った。
犬が自分の尻尾を追いかけているように見えて、桜井は思わず笑った。
「……なんで知ってんの?」
体を捻ったまま、侑が言った。
「追い抜く時に見えたから」
追い抜く瞬間、そんな所まで見る余裕があったのか、と侑は驚くと同時に、悔しくなった。
「これ、特装版の特典でしょ。だからパッケージから出さずにそのまま大事に飾ってたんだけど」
桜井はキーホルダーを目の前に翳した。
「成瀬がリュックに付けてるのを見て良いなって思ったから、僕も思い切ってみたんだ。そしたらその日に失くした。焦ったよ。散々探し回ったけど、どこにも無くてさ。持ち出さなきゃ良かったって、めちゃくちゃ後悔した。でも、成瀬が拾って届けてくれた」
桜井は少し間を置いて、深く息を吸った。
「奇跡みたいだ」
「奇跡って……大袈裟だな」
桜井は、完璧に見えて意外と抜けた一面があるのかも、と思ったら、侑は吹き出してしまった。
「桜井も好きなの? Blood Moon」
「……好きだよ」
桜井は、真っ直ぐに侑の目を見て言った。
その瞬間、侑の心臓がドクンと大きく跳ね、耳まで赤くなった。
「めっちゃ好き」
桜井は一段低い声で、囁くように言った。
──ゲームが、だろ。なんでこんな変な言い方……。
『それって恋じゃね?』
『自覚ないの?』
貴生と井口の言葉が、侑の頭の中をぐるぐると駆け巡る。
「成瀬も好き?」
桜井が、小首を傾げ、侑の目をじっと見つめて言った。
「す……好き」
──違う、違う違う違う。
「ぶ、Blood Moon……が、好き……」
侑は、俯いてしまった。
──ただ、キーホルダー返して、桜井が同じゲームが好きなら話したいって思ってただけなのに──。
間が持たない。次に言いたい言葉があったはずなのに、侑の頭の中は、真っ白になっていた。公園の子供たちのはしゃぐ声も、遊具の音も、侑の耳には遠く聞こえる。
「……永劫の闇に棲まう、夜の女王……」
レェテネーヴのフレーバーテキストの最初の部分が、侑の口を衝いて出た。
「月の玉座は死の揺り籠。決して触れさせぬ心の深淵|《アビス》は、いかばかりか」
桜井が、その後を続けた。
「吐息は全ての生けるものを眠りへと誘い、その姿を石と化す。彼女が振るう王笏は慈悲か、酷薄か。その真実を知るものはいない」
二人の声が、重なった。
緊張が解けて、侑は笑った。
「テキスト、空で言えるくらい覚えてんの?」
「うん」
桜井も、微笑んだ。
「どんだけ好きなんだよ」
「凄く好き」
桜井が好きと言うのは、レェテネーヴの事だと分かっている。けれど、桜井が真っ直ぐに「好き」と口にするたびに、侑の心拍数が上がっていく。
──やっぱ俺、変だ。
でも、あり得ない……。
侑は、二人のスニーカーの間の地面に視線を落としている。
「成瀬は、なんで走ってるの? いつも全力だよね」
桜井に言われて、侑は顔を上げた。
「ガゼル……いや、桜井こそ、何で? 俺はバイトの時間をたくさん取りたいのと、早く帰ってゲームしたい……あと、一番に学校を出るのがなんか気持ち良いって言うか……」
「そっか。ねぇ、ガゼルって何? 気になってたんだ。前は聞けなかったから」
桜井は、侑をじっと見た。
「……ガゼルってのは……桜井の走りとか身のこなしがガゼルみたいに軽やかだなって思ってたから……柵越えとかもパルクールみたいですげぇて思って……その、ガゼルってのは悪い意味じゃなくて……でもストッティングみたいだと思って、ちょっと悔しかったり……」
「そっか。そんな風に思ってたんだ。僕のこと」
桜井の笑みに、照れくささのようなものが混じっていた。
「走って帰る理由は、僕も似たようなものだよ。塾の前に少しでもゲームしたくて」
「Blood Moonのために?」
「うん。めっちゃハマってる。Bloodシリーズの無印も全部やった。リメイク版だけど」
「俺も! 俺もリメイクやったよ! 夜明けの騎士団長ルーキフェルとレェテネーヴの関係が少し明かされたじゃん。めちゃ重い過去だけど、エモいよな。俺、ちょっと泣いたもん。あの忠誠心は──」
侑が夢中で話すのを、桜井は頬を緩め、目を細めて見ていた。その視線に気づき、侑は一人で喋りすぎていたことが急に恥ずかしくなった。
「……ごめん、一人で喋りすぎた」
きまりが悪くて、侑は突然、黙ってしまった。
「全然。周りにBlood Moonの話しが出来るヤツがいなくて寂しかったから嬉しいよ」
桜井がそう言ってくれたから、侑も嬉しくなった。
「成瀬は何の職業使ってる? 僕は声なき者。最初のステータスは低いけど均一だから、育て方次第で色々できて面白いんだ。魔術か剣技のどっちにも育てられるし。両方出来るキャラにしても良いしね。器用貧乏になるから強くはないけど、それはそれで戦い方を考えるのも楽しい。装備無しの縛りだと、一撃死のスリルがたまらない。レェテネーヴもそれでクリアしたし」
「……それは変態すぎ……。俺には無理だなぁ。けっこう固めちゃうんだ。鎧と盾の重さで回避が遅れるんだよな……」
「変態って酷いな」
桜井はクスっと笑った。
「俺は騎士とか剣士。魔術師とか聖職者は魔力切れで詰むから苦手。剣で斬りまくる方が好き」
「なんかそれ、成瀬らしい気がする」
桜井はまた、顔をほころばせた。
「桜井はレェテネーヴを生かすか殺すかの二択、どうした? 俺は剣士だからドロップ武器の王笏は要らないんだけど、倒さないとトロフィー貰えないじゃん。でもどうしてもレェテネーヴを殺せなくて。だからそっちのエンディングは見た事ないんだ」
「周回で両方やったよ。トロコンしたかったし、王笏は絶対に欲しかったから。初期の王笏のダメージはヤバかった。ぶっ壊れ性能すぎて、すぐにナーフされたけどね。周回するなら、レェテネーヴにとどめを刺してみなよ。そっちのエンディングを成瀬にも見て欲しい。ルーキフェルとの関係性が気になってるなら尚更。でも成瀬は優しいから無理かなぁ。殺す、を選択するとさ──」
そこまで言って、桜井はハッとした。
「これ以上はネタバレになるからやめとこう。あぶね。続きは君の目で確かめてくれ!」
桜井の冗談めいた言い方に、侑は思わず吹き出してしまった。
意外とお喋りなんだな、と桜井の新しい一面を知れた事が素直に嬉しかった。店長が飲ませてくれたシトラスドリンクが『酸っぱそうなのに想像していたよりも、甘くて飲みやすかった』ことを今、侑は思い出した。
桜井とBlood Moonについて話すのは、井口とマルチプレイするときとは、また違った楽しさだった。けれど「フレンドコードを交換しよう」というそのひと言を、侑はどうしても言えない。口に出そうとしても、喉の奥に戻ってしまう。
ただオンラインゲームに誘うだけなのに、侑の中では酷く重いことのように感じてしまうのだ。
──ゲームのことならいくらでも話せるのに、ダセェなぁ、俺……。
「今日はバイト無いの?」
桜井は侑の顔を覗き込んだ。切れ長の綺麗な目が、じっと侑を捉える。侑はどうしても照れ臭くなってしまうから、視線を逸らすために、わざとゆっくり腕時計を見た。
「ある。でもあと10分くらいは大丈夫」
「けっこうギリギリ?」
「走れば余裕!」
「そっか。気をつけて」
侑は頷いた。桜井との、楽しい会話の時間が終わりに近づいている。バイトに行かずに、まだ話していたい──。
そんな気持ちになってしまう。
「明日も和田先生に捕まらないようにしなきゃね。僕ら、塾にバイトにゲームに忙しいから、陸上部には入れないしさ。……あ、そうだ!」
桜井は、何かを思いついたように手を打った。
「帰宅部! 部員は二人だけど。僕と、成瀬。どうかな」
「……帰宅部……二人だけの……うん」
桜井からの突然の提案に、侑は戸惑った。けれど【二人だけの帰宅部】という特別感に、言いようのない喜びを感じた。侑の、ゲームとバイトに明け暮れる日々に、新しい世界が開けた。
じゃあ、決まり。と桜井は言って、手を振った。
「また明日。バイト頑張って」
走り出した侑が振り返ると、桜井はまだ侑の後ろ姿を見ていた。
──帰宅部……。二人だけの帰宅部……。俺と、桜井と……。二人だけ……。
毎日勝負する中で、桜井と話したのは初めてだった。
フレンドコードを聞けなかったことなどすっかり忘れて、侑は喜びを噛み締めながらバイト先まで全力疾走した。
* * *
バイトが終わり、侑はスタッフルームで鼻歌を歌いながら、サロンエプロンを外した。
店長にも貴生にも「何か良いことあった?」と聞かれるほど、侑は目に見えて浮かれていた。実際、今日の侑は自分でも驚くくらい動け、満席のピークタイムも乗り切れた。
貴生はそんな侑を見ていた。
「その様子だと、恋愛成就したか?」
貴生はニヤつきながらコーヒーを啜った。
「ちげえって! そういうんじゃない」
「否定しても顔に出てる」
「なんで皆、恋愛に結びつけるかな。頭桃色かよ」
侑は悪態をつく。だが、貴生は全く意に介さない。
「お前が嬉しそうなら何でもいいけど。お疲れ」
貴生はそう言ってフロアに出て行った。
「お先に失礼します」
パソコンに向かっている店長に言って、侑は裏口から出た。
もうすっかり暗くなっているが、春の夜の暖かい匂いがした。侑は両腕を上げて伸びをしながら、胸いっぱいに吸い込んだ。
暗い夜道を歩いていくと、煌々と明るいドラッグストアが目に入った。侑は、ニキビ用の洗顔料が無くなりそうだったことを思い出し、ドラッグストアに立ち寄った。
店内は白く清潔で、色とりどりのポップや商品が陳列されていて、一歩踏み込めば別世界のように眩しい。
いつものニキビ用の洗顔料を手に取り、レジに向かおうとした瞬間、シトラス香りが侑の鼻腔を擽った。
──桜井?
侑は、周囲を見回した。
──いるわけないか。
がっかりしている自分に気づいて、やっぱり変だと思った。
ふと棚を見ると、制汗剤が並んでいた。その中に、輪切りのシトラスと水飛沫が描かれた缶が目に入った。侑はそれを手に取った。テスターと書かれたシールが貼ってある。
数回振ってから、手の甲に吹きかけてみた。
桜井と同じ匂いがした。
──これか。
桜井のシトラスの香りの正体は、何の変哲もない制汗剤だった。けれど、侑には強烈に印象付けられている。
洗顔料と一緒に、レジに持って行こうとした。
──いや、さすがにキモいだろ。
制汗剤を棚に戻し、洗顔料だけ買ってドラッグストアを出た。
侑の左手からは、桜井と同じ匂いがした。
けれど、桜井の体温と混じった暖かさが足りなかった。
──フレンドコード、聞きたかったな……。
春とシトラスの香りが混ざる夜の中、侑はゆっくり帰路についた。
麗らかな春の日差しが、少し暑いくらいだった。けれど少し風があって、過ごしやすかった。校庭の桜の花びらが足元を舞う。もう殆ど散ってしまって、若い緑の葉が茂りっている。
井口はシーフードヌードルを啜っている。
侑は膝を胸につけて、ぎゅっと縮こまって背中を丸めたまま、カレーパンをじっと見ていた。
「食わないの?」
と井口が聞くと、侑は自分がぼんやりしていたことに気づいた。
「食う」
侑はカレーパンの袋を開けた。
「休み時間のたびに1組行ってたけど、どうした?」
鮭おにぎりのフィルムを剥がしながら井口が言った。
侑は、キーホルダーを井口に見せた。
「これ。昨日、バイト先で桜井が座ってた所に落ちてた」
「レェテネーヴの紋章じゃん。桜井もBlood Moonやってんのか」
「そうだと思う。じゃなきゃ、この特装版の特典を持ってないと思う」
井口の目に触れさせるのも何となく嫌で、侑はすぐにポケットに入れた。
「同じ校内にいて、こんなに捕まらない事ってある?! 桜井、どこにいるんだろう」
「なあ、今日は探すの諦めたら?」
井口がそう言うと、侑は「それじゃ、これを桜井に返してやれない。失くしてショックだと思うし。早く返してやりたい」と言って口を尖らせて、また膝を抱えた。
「放課後、お前が走り出したら桜井も走ってくるだろ。そのときに捕まえればいいじゃん」
「ああ、そっか! それだ! 井口、頭良いな!」
「そうだろう、そうだろう。褒め称えよ」と言い、井口は得意げだった。
「なあ、数学の前に言ってた自覚って何のことだよ?」
侑は、ふと思い出して、井口に聞いた。
「そんな前のめりになってるのに、気付かないもんかね? 自分の胸に聞いてみな」
井口は、そう言って笑うだけだった。
──自分の胸に?
侑は無意識にポケットの中の紋章の縁をなぞった。
「桜井の事が気になって仕方ないって顔に書いてある」
井口が侑の横顔を覗き込む。
「……桜井のビルドが気になる。あと、キャラは何を使ってるか」
それを聞いて井口は「何だそれ!」と言って吹き出した。そこじゃねぇよと思いながら、暫く笑いが止まらなかった。
「なんで笑うんだよ」
侑は口を尖らせ、井口の肩を軽く小突く。
井口は、侑が恋心を自覚するにはまだまだレベルが足りないし、もっと先だろうな、と思いながら、鮭おにぎりにかぶりついた。
* * *
侑はリュックに雑に教科書類を詰め込み「夜ログインする。またな」と井口に言い、もう教室の出口に向かっていた。
「じゃあな」
井口は応えたが、さすがに聞こえていないか、と思った。けれど、侑は振り向きこそしなかったが、井口に手だけを振り返し、一番に教室を出て行った。
「桜井を捕まえられるといいな」
井口は呟き、帰り支度を始めた。
──さて、どうなったかな?
窓から、校庭を見下ろす。
井口は、口元を緩めた。
* * *
侑はリュックのチェストベルトを留め、靴紐をぎゅっと結び、昇降口から勢い良く飛び出した。
まだ人もまばらな校庭を駆け抜けていくのは、やはり気分が良い。このまま一番に正門を抜けたい。
でも、今日は絶対に桜井に来て欲しい──。
そう思った瞬間、ふわっとシトラスの香りがした。
──来た!
「おい! 桜井!」
声をかけたが、桜井は侑を一瞥し、ニッと笑って追い抜いていった。
その表情が気に入らないし、キーホルダーを返したいのに止まらない桜井にも腹が立つ。
「桜井! 待てよ!」
いつの間にか、公園前まで来ていた。
片手が柵についた瞬間、桜井の体がふわりと浮いた。空中で脚を高く上げて、身体を捻って半回転し、軽やかに柵の向こう側へ着地した。
──やっぱり桜井はガゼルだ。俺に見せつけて、挑発して──。
あまりにも鮮やかで、悔しくなる。けれど今日は、どうしても桜井を引き留めたい。
「レェテネーヴの紋章!」
侑が叫ぶと、桜井はようやく速度を緩めて止まった。
侑は肩で息をしながらキーホルダーを取り出し、桜井の前に翳した。
「……これ、昨日……落としただろ……?」
息切れしながら、どうにか言葉を絞り出す。
桜井はキーホルダーを見て驚き、目を見開いていた。侑に近づき、両手でキーホルダーごと侑の手を握った。
「どこ探しても無かったんだ。良かった……成瀬が拾ってくれたのか……」
急接近した桜井の視線。細長い指。掌の熱さ。走った後の荒い呼吸。体温と共に立ち上るシトラスの香り。侑の意識全てが、桜井だけを感じているような、目眩にも似た感覚に陥りそうになる。
これ以上、桜井の目を見ちゃダメだ。この変な高揚感に飲まれちゃダメだ、と侑は思った。
「離せよ……」
侑は桜井の顔から目を背けた。
「……あっ、ごめん」
桜井はゆっくり手を離し、半歩後ろに下がった。
「ほら」
顔を背けたまま侑がキーホルダーを差し出すと、桜井はそっと受け取った。
桜井が、愛しいものに触れるように、優しく紋章の縁を指先でなぞるのを、侑は横目で盗み見ていた。
「本当にありがとう、成瀬」
「いや、別にそんな感謝されても……」
「成瀬も同じの付けてるよね、リュックに」
桜井は、侑のリュックに視線を向けた。
「えっ?」
侑は自分のリュックを見ようと上半身を捻って振り返った。
犬が自分の尻尾を追いかけているように見えて、桜井は思わず笑った。
「……なんで知ってんの?」
体を捻ったまま、侑が言った。
「追い抜く時に見えたから」
追い抜く瞬間、そんな所まで見る余裕があったのか、と侑は驚くと同時に、悔しくなった。
「これ、特装版の特典でしょ。だからパッケージから出さずにそのまま大事に飾ってたんだけど」
桜井はキーホルダーを目の前に翳した。
「成瀬がリュックに付けてるのを見て良いなって思ったから、僕も思い切ってみたんだ。そしたらその日に失くした。焦ったよ。散々探し回ったけど、どこにも無くてさ。持ち出さなきゃ良かったって、めちゃくちゃ後悔した。でも、成瀬が拾って届けてくれた」
桜井は少し間を置いて、深く息を吸った。
「奇跡みたいだ」
「奇跡って……大袈裟だな」
桜井は、完璧に見えて意外と抜けた一面があるのかも、と思ったら、侑は吹き出してしまった。
「桜井も好きなの? Blood Moon」
「……好きだよ」
桜井は、真っ直ぐに侑の目を見て言った。
その瞬間、侑の心臓がドクンと大きく跳ね、耳まで赤くなった。
「めっちゃ好き」
桜井は一段低い声で、囁くように言った。
──ゲームが、だろ。なんでこんな変な言い方……。
『それって恋じゃね?』
『自覚ないの?』
貴生と井口の言葉が、侑の頭の中をぐるぐると駆け巡る。
「成瀬も好き?」
桜井が、小首を傾げ、侑の目をじっと見つめて言った。
「す……好き」
──違う、違う違う違う。
「ぶ、Blood Moon……が、好き……」
侑は、俯いてしまった。
──ただ、キーホルダー返して、桜井が同じゲームが好きなら話したいって思ってただけなのに──。
間が持たない。次に言いたい言葉があったはずなのに、侑の頭の中は、真っ白になっていた。公園の子供たちのはしゃぐ声も、遊具の音も、侑の耳には遠く聞こえる。
「……永劫の闇に棲まう、夜の女王……」
レェテネーヴのフレーバーテキストの最初の部分が、侑の口を衝いて出た。
「月の玉座は死の揺り籠。決して触れさせぬ心の深淵|《アビス》は、いかばかりか」
桜井が、その後を続けた。
「吐息は全ての生けるものを眠りへと誘い、その姿を石と化す。彼女が振るう王笏は慈悲か、酷薄か。その真実を知るものはいない」
二人の声が、重なった。
緊張が解けて、侑は笑った。
「テキスト、空で言えるくらい覚えてんの?」
「うん」
桜井も、微笑んだ。
「どんだけ好きなんだよ」
「凄く好き」
桜井が好きと言うのは、レェテネーヴの事だと分かっている。けれど、桜井が真っ直ぐに「好き」と口にするたびに、侑の心拍数が上がっていく。
──やっぱ俺、変だ。
でも、あり得ない……。
侑は、二人のスニーカーの間の地面に視線を落としている。
「成瀬は、なんで走ってるの? いつも全力だよね」
桜井に言われて、侑は顔を上げた。
「ガゼル……いや、桜井こそ、何で? 俺はバイトの時間をたくさん取りたいのと、早く帰ってゲームしたい……あと、一番に学校を出るのがなんか気持ち良いって言うか……」
「そっか。ねぇ、ガゼルって何? 気になってたんだ。前は聞けなかったから」
桜井は、侑をじっと見た。
「……ガゼルってのは……桜井の走りとか身のこなしがガゼルみたいに軽やかだなって思ってたから……柵越えとかもパルクールみたいですげぇて思って……その、ガゼルってのは悪い意味じゃなくて……でもストッティングみたいだと思って、ちょっと悔しかったり……」
「そっか。そんな風に思ってたんだ。僕のこと」
桜井の笑みに、照れくささのようなものが混じっていた。
「走って帰る理由は、僕も似たようなものだよ。塾の前に少しでもゲームしたくて」
「Blood Moonのために?」
「うん。めっちゃハマってる。Bloodシリーズの無印も全部やった。リメイク版だけど」
「俺も! 俺もリメイクやったよ! 夜明けの騎士団長ルーキフェルとレェテネーヴの関係が少し明かされたじゃん。めちゃ重い過去だけど、エモいよな。俺、ちょっと泣いたもん。あの忠誠心は──」
侑が夢中で話すのを、桜井は頬を緩め、目を細めて見ていた。その視線に気づき、侑は一人で喋りすぎていたことが急に恥ずかしくなった。
「……ごめん、一人で喋りすぎた」
きまりが悪くて、侑は突然、黙ってしまった。
「全然。周りにBlood Moonの話しが出来るヤツがいなくて寂しかったから嬉しいよ」
桜井がそう言ってくれたから、侑も嬉しくなった。
「成瀬は何の職業使ってる? 僕は声なき者。最初のステータスは低いけど均一だから、育て方次第で色々できて面白いんだ。魔術か剣技のどっちにも育てられるし。両方出来るキャラにしても良いしね。器用貧乏になるから強くはないけど、それはそれで戦い方を考えるのも楽しい。装備無しの縛りだと、一撃死のスリルがたまらない。レェテネーヴもそれでクリアしたし」
「……それは変態すぎ……。俺には無理だなぁ。けっこう固めちゃうんだ。鎧と盾の重さで回避が遅れるんだよな……」
「変態って酷いな」
桜井はクスっと笑った。
「俺は騎士とか剣士。魔術師とか聖職者は魔力切れで詰むから苦手。剣で斬りまくる方が好き」
「なんかそれ、成瀬らしい気がする」
桜井はまた、顔をほころばせた。
「桜井はレェテネーヴを生かすか殺すかの二択、どうした? 俺は剣士だからドロップ武器の王笏は要らないんだけど、倒さないとトロフィー貰えないじゃん。でもどうしてもレェテネーヴを殺せなくて。だからそっちのエンディングは見た事ないんだ」
「周回で両方やったよ。トロコンしたかったし、王笏は絶対に欲しかったから。初期の王笏のダメージはヤバかった。ぶっ壊れ性能すぎて、すぐにナーフされたけどね。周回するなら、レェテネーヴにとどめを刺してみなよ。そっちのエンディングを成瀬にも見て欲しい。ルーキフェルとの関係性が気になってるなら尚更。でも成瀬は優しいから無理かなぁ。殺す、を選択するとさ──」
そこまで言って、桜井はハッとした。
「これ以上はネタバレになるからやめとこう。あぶね。続きは君の目で確かめてくれ!」
桜井の冗談めいた言い方に、侑は思わず吹き出してしまった。
意外とお喋りなんだな、と桜井の新しい一面を知れた事が素直に嬉しかった。店長が飲ませてくれたシトラスドリンクが『酸っぱそうなのに想像していたよりも、甘くて飲みやすかった』ことを今、侑は思い出した。
桜井とBlood Moonについて話すのは、井口とマルチプレイするときとは、また違った楽しさだった。けれど「フレンドコードを交換しよう」というそのひと言を、侑はどうしても言えない。口に出そうとしても、喉の奥に戻ってしまう。
ただオンラインゲームに誘うだけなのに、侑の中では酷く重いことのように感じてしまうのだ。
──ゲームのことならいくらでも話せるのに、ダセェなぁ、俺……。
「今日はバイト無いの?」
桜井は侑の顔を覗き込んだ。切れ長の綺麗な目が、じっと侑を捉える。侑はどうしても照れ臭くなってしまうから、視線を逸らすために、わざとゆっくり腕時計を見た。
「ある。でもあと10分くらいは大丈夫」
「けっこうギリギリ?」
「走れば余裕!」
「そっか。気をつけて」
侑は頷いた。桜井との、楽しい会話の時間が終わりに近づいている。バイトに行かずに、まだ話していたい──。
そんな気持ちになってしまう。
「明日も和田先生に捕まらないようにしなきゃね。僕ら、塾にバイトにゲームに忙しいから、陸上部には入れないしさ。……あ、そうだ!」
桜井は、何かを思いついたように手を打った。
「帰宅部! 部員は二人だけど。僕と、成瀬。どうかな」
「……帰宅部……二人だけの……うん」
桜井からの突然の提案に、侑は戸惑った。けれど【二人だけの帰宅部】という特別感に、言いようのない喜びを感じた。侑の、ゲームとバイトに明け暮れる日々に、新しい世界が開けた。
じゃあ、決まり。と桜井は言って、手を振った。
「また明日。バイト頑張って」
走り出した侑が振り返ると、桜井はまだ侑の後ろ姿を見ていた。
──帰宅部……。二人だけの帰宅部……。俺と、桜井と……。二人だけ……。
毎日勝負する中で、桜井と話したのは初めてだった。
フレンドコードを聞けなかったことなどすっかり忘れて、侑は喜びを噛み締めながらバイト先まで全力疾走した。
* * *
バイトが終わり、侑はスタッフルームで鼻歌を歌いながら、サロンエプロンを外した。
店長にも貴生にも「何か良いことあった?」と聞かれるほど、侑は目に見えて浮かれていた。実際、今日の侑は自分でも驚くくらい動け、満席のピークタイムも乗り切れた。
貴生はそんな侑を見ていた。
「その様子だと、恋愛成就したか?」
貴生はニヤつきながらコーヒーを啜った。
「ちげえって! そういうんじゃない」
「否定しても顔に出てる」
「なんで皆、恋愛に結びつけるかな。頭桃色かよ」
侑は悪態をつく。だが、貴生は全く意に介さない。
「お前が嬉しそうなら何でもいいけど。お疲れ」
貴生はそう言ってフロアに出て行った。
「お先に失礼します」
パソコンに向かっている店長に言って、侑は裏口から出た。
もうすっかり暗くなっているが、春の夜の暖かい匂いがした。侑は両腕を上げて伸びをしながら、胸いっぱいに吸い込んだ。
暗い夜道を歩いていくと、煌々と明るいドラッグストアが目に入った。侑は、ニキビ用の洗顔料が無くなりそうだったことを思い出し、ドラッグストアに立ち寄った。
店内は白く清潔で、色とりどりのポップや商品が陳列されていて、一歩踏み込めば別世界のように眩しい。
いつものニキビ用の洗顔料を手に取り、レジに向かおうとした瞬間、シトラス香りが侑の鼻腔を擽った。
──桜井?
侑は、周囲を見回した。
──いるわけないか。
がっかりしている自分に気づいて、やっぱり変だと思った。
ふと棚を見ると、制汗剤が並んでいた。その中に、輪切りのシトラスと水飛沫が描かれた缶が目に入った。侑はそれを手に取った。テスターと書かれたシールが貼ってある。
数回振ってから、手の甲に吹きかけてみた。
桜井と同じ匂いがした。
──これか。
桜井のシトラスの香りの正体は、何の変哲もない制汗剤だった。けれど、侑には強烈に印象付けられている。
洗顔料と一緒に、レジに持って行こうとした。
──いや、さすがにキモいだろ。
制汗剤を棚に戻し、洗顔料だけ買ってドラッグストアを出た。
侑の左手からは、桜井と同じ匂いがした。
けれど、桜井の体温と混じった暖かさが足りなかった。
──フレンドコード、聞きたかったな……。
春とシトラスの香りが混ざる夜の中、侑はゆっくり帰路についた。
