0時を回ったら、やっと自由時間だ。侑はパソコンの電源を入れ、ヘッドセットを装着した。
一瞬、今、桜井もBlood Moonをプレイしていないだろうか、運よく野良でマッチングしないだろうか……という考えが過った。そんな都合良い事が起こるわけがない。そう思い直し、今日も井口と二人でBlood Moonの世界で遊ぶ。
「2周目のキャラ作ったからルーキフェルの手伝ってくれる?」
「おう、いいよ」
ルーキフェルは、夜明けの騎士団の団長だ。女王レェテネーヴに仕えているが、立場は複雑だ。レェテネーヴに対して愚直なまでの忠誠心を持っているが、夜明けの騎士団は、女王とは敵対する王族の配下だ。
王城に入ると、ルーキフェルは柱にもたれ掛かってプレーヤーを待ち受けていた。
「貴公を男と見込んで頼みがある」
プレーヤーが近づくと、暁色のマントを纏ったルーキフェルが話しかけてくる。
「さる高貴な御方に贈り物をしたい。夜啼き鴉の目玉を24個、持ってきて来てはくれないだろうか。私自身も集めてはいるのだが……。あと少し足りぬのだ。ああ……! あの、常闇を閉じ込めたような、一切の光を通さぬ黒々とした鴉の目玉……! あの御方のドレスの装飾に相応しいと思わないかね?」
画面の中で、ルーキフェルが大袈裟な身振りで両手を広げた。
「おお! やってくれるか、貴公! 本来なら、自ら狩りに行くべきなのだが……今はここから離れるわけにはいかない。もしも貴公が24個全て集めてくれたなら、必ず礼をする。待っているぞ」
「ルーキフェルって、なんかズレてるよな。贈り物に目玉24個って。この世界に星の瞬き石とか綺麗な宝石があるのに。しかも食ったら多少の力と引き換えに人間性を失うんだぜ。まあ、こういうイカれた世界観こそがBlood Moonなんだけど」
井口はそう言って笑った。
「分かる。真っ直ぐな性格なんだろうけど、なんか変化球だよな。さる高貴な御方ってレェテネーヴの事だと思うけど、レェテネーヴも何十個も目玉貰っても困るだろうに」
侑も釣られて笑う。
ルーキフェルの言動は愚直さゆえに他のキャラクター達とは違う意味で面白く、残念なイケメンとしてファン愛されている。
「ドロップ率低いから今日だけじゃ無理かもな。何時までやる?」
「最高で2時までかな」
「オッケー、じゃあ行くか」
二人は、巨大な鴉の化け物に立ち向かう。
結局、二人は3時までかかって目玉を24個全て集めた。
「おお! 貴公! やってくれたのだな! これであの御方も喜んでくださるだろう! 早速、届けに行かなければ。ああ、これは貴公への礼だ」
ルーキフェルはそう言うと、画面からフェードアウトした。
「ここから動けないんじゃなかったのかよ」
侑の口から呆れ笑いが漏れる。
「それな」
「井口、ありがとう」
「どーいたしまして。またなんかあったら手伝うよ。今日はさすがにもう寝る。おやすみ」
井口の大きな欠伸が聞こえた。
疲れた体をベッドに投げ出し、侑は今日拾ったキーホルダーをじっと見つめた。古美仕上げの真鍮が、鈍く光っている。
──俺のと同じだ。Blood Moonのデラックス特装版の特典キーホルダー。桜井も、ゲーム好きなのか? じゃなきゃ、これを持ってるわけないよな……。
首を横に向けると、自分のリュックが見える。そこには、全く同じキーホルダーが下がっている。
丸いプレートに、三日月を背にした二匹の狼、反逆の証のクロスした逆さまの二本のレイピア。それを円形に取り囲む、茨のような装飾。
Blood Moonシリーズの人気キャラの、廃夜の女王レェテネーヴの紋章だ。裏側には、王冠を被った彼女の横顔の肖像が彫られている。ゲームの中に出てくるアイテムそのままのデザインだ。
レェテネーヴは美しいビジュアルの女王だが、プレイヤーにとっては、かなり嫌なボスキャラだ。逃げ場の少ないステージでの広範囲のスリップダメージ技。速すぎる連続攻撃。やっと倒したかと思ったら第二形態に変化する。そこからは、攻撃力も範囲も増す。理不尽すぎてファンから「鬼畜女王」とか「敵だけ楽しそうなボス」などと言われている。それでも人気なのは、考察しがいのある謎めいた生い立ちや、敵のボスでありながら、最後まで気高さ・高潔さが一貫していることが理由だ。
──桜井のビルドは守備重視? それとも軽量?
キャラは何使ってるんだろう。剣士か魔術師か、それとも声なき者?
……レェテネーヴを生かすか殺すか、二択はどっち選んだ?
侑はキーホルダーを眺めながら、桜井の事ばかり考えている。
──明日、学校で桜井に返すとき、何て声かけたら良いんだろう。
「桜井もBlood Moonやってるの?」は、いきなり過ぎるか?
「昨日、これ落とした?」って普通に言う?
でも、それだと、キーホルダーを返すだけで終わっちまうんじゃないか?
同じゲームが好きなら、桜井と話してみたい。
ボイチャしながら、オンラインで協力プレイしてみたい──。
そんなことを考えながらうとうとし始め、いつの間にか眠りに落ちていた。
夜の静寂が、部屋を満たしていった。
* * *
アラームが鳴り、侑は布団に潜ったまま腕だけ出して手探りでスマホを探してアラームを止めた。
ムクっと起き上がり、両腕を上に伸ばして大きな欠伸をした。
侑の掌の中には、キーホルダーがあった。
ナスカンに指をかけ、ぶら下げて目の前に翳す。
──桜井に、何て声かけよう。
侑は、最初の一言に、まだ迷っている。心拍数が上がる。何を緊張してるんだ。これを桜井に返すだけだ、と自分自身に言い聞かせ、制服に着替えた。ポケットの中にキーホルダーを忍ばせて家を出た。
キーホルダーたった一つなのに、何故かポケットがいつもより重い気がした。
桜井がいるかもしれないと思い、普段よりも注意深く辺りを見回しながら歩く。
結局、通学路で桜井は見つからなかった。正門前は、登校する生徒たちでごった返している。おはよう、と言いあう声や、笑い声が波のようにさざめき、侑の心もざわざわと浮ついた。
階段を昇り、2年6組の教室へと向かう。その間にも、侑は桜井の姿を探した。
──ヒョロガリで目立つから、すぐ見つかると思ったんだけどな。
「なぁ、昨日も陸上部に来い!って叫ばれてたな」
前の席の井口が、明るく笑いながら話しかけてきた。
「俺は断ってるのにさ」
「最近、一緒に走ってるヤツいるよな? アイツもめちゃくちゃ速いよな」
井口が桜井の話題を出した途端、侑の心臓が跳ねた。
「知ってんの? 何組?」
自分でも驚くほど大きな声だった。侑は前のめりになりなって食い付いた。
「1組の桜井だろ? 確か」
「1組か! 行ってくる!」
侑は勢い良く立ち上がったが、井口が引き留めた。
「HR始まるって」
ほどなくして、担任が教室に入ってきた。
──次の休み時間に行ってみるか──。
ポケットの中が気になって、授業に集中出来ない。
無意識に、ポケットの中のキーホルダーに触れてしまう。
──桜井、喜ぶかな。
……大事にしてただろうし。
何度も時間を確認するが、針は少しも進んでいない。
前の席の井口のシャーペンが忙しそうに動いている。ノート取らなければいけないのに、侑は「桜井」と書いた。真っ白なノートに「桜井」の文字が黒く、くっきりと浮かび上がる。誰かに見られたらまずいと思い、慌てて消しゴムで擦った。でも、黒鉛は消えても紙は「桜井」の形にへこんだままだった。
侑は、指の腹でそっとその跡を撫でた。
「あっ……」
侑が顔を上げた瞬間、先生が、板書を消してしまった。
──しゃーない、後で井口にノート借りるか……。
1時間目の終わりのチャイムが鳴った。
侑は早速、教室を抜け出して1組に向かった。
生徒でごった返す廊下を進む間に、侑の心臓の鼓動はどんどん強くなっていく。
沢山の生徒たちの中、頭一つ飛び出している後ろ姿を見つけた。侑の心臓が一際大きく跳ね、それが全身に伝わった。
「桜井」
呼んでみたが、振り向いたのは全くの別人だった。
侑は、目の前の彼が桜井ではなかった事に自分でも不思議なくらい落胆していた。
──キーホルダーを返せると思ったけど違ったからだ、これは。
1組の入り口で教室の中に桜井がいないか見回していると、一番後ろの席の女子が侑に気づいた。
「誰かに用?」
「あ、うん」
声をかけてきた女子は、小柄で、髪も綺麗に手入れされていて、目がぱっちりしている。学年でも可愛いと噂の子だ。
──そうだ、俺が好きなのは、こういうタイプの子だ。
貴生さんが変な事を言うから──。
「誰? 呼んであげよっか?」
「桜井ってヤツ、いる?」
「桜井くん?」
彼女は、席を立って教室を見回した。
「ねぇー! 桜井くんいる?!」
彼女が大声で桜井を呼ぶので、侑は「やめてくれ!」と思った。自分でも説明がつかないが、隠しておきたい秘密を、衆人環視の場に引きずり出されたような気分だった。
──恥ずかしい……。ここから、逃げたい──。
いや、俺はキーホルダーを返しに来ただけ……。
俺は何もおかしい事をしてない……。
顔が熱くなって、汗が吹き出した。
「ねえ」
桜井を呼んでくれた女子に突然声をかけられて、侑の肩がビクっと跳ねた。居た堪れない気持ちでいっぱいで周りが見えていなかったから、過剰に驚いてしまった。
「桜井くん、いないみたい。どこ行ったか分かんないって」
「あ……そう、なんだ」
「桜井くんに伝えておく?」
「いや。いいよ。ありがと」
2時間目のチャイムが鳴る。侑は急いで自分の教室に戻っていった。
侑は、無意識にポケットの中のキーホルダーを、強く握っていた。真鍮のメダルに掌の熱が伝わって、熱いような、痛いような感覚がした。
早くキーホルダーを桜井に返してしまって楽になりたいような、でも持っている時間を引き延ばしたいような、自覚のない、不思議な緊張感と執着があった。
数学の教師はまだ来ていなかった。
「会えたのか? 桜井に」
席につくと、井口が後ろを向き、侑に話しかけた。
「……いなかった」
「ふーん」
井口は、侑の顔をじっくりと見て、ニヤニヤしている。
「なんだよ」
「いや。何でもない」
「何でもなくないだろ、そんなにニヤニヤして」
侑は、少し怒ったように唇を尖らせる。
「いやぁ、侑は分かりやすいなーと思って」
「何がだよ」
「いなかったって言ったとき、あからさまにガッカリしてたからさ」
「べっ……別にガッカリなんか……!」
侑は身を乗り出した。口調の必死さも相まって、それを見た井口は笑った。
「俺には隠さなくても良いだろ」
「隠すって何を?」
「あれ? 自覚無い?」
「自覚? 何の?」
侑は、全くピンと来ていない。
「だから、桜井に──」
井口が小声で言いかけた瞬間、数学教師が来て「少し遅れたけど始めるぞ」と言った。
「自覚って何だよ」
侑は、シャーペンのノブで井口の背中つつきながら、ひそひそと言った。
井口は、首だけを少し振り向かせて「後でな」と言い、直ぐに前を向いて教科書を開いた。
数学の授業が終わると、侑はそそくさと教室を出て行った。
「そういうとこだよ」
井口は侑の背中を見送りながら、小さく呟いて笑った。
侑は、今度こそ──。と思いながら、1組に向かう。
さっきの休み時間に声をかけてきた女子が侑に気づき、今度は先に声をかけてきた。
「桜井くんなら教室にいないよ」
「マジか……」
侑は、肩を落とした。
「どこに行ったか分からないけど、慌ててたみたい」
──桜井、どこで何してるんだ?
用も無いのに一階の自販機まで降りてみた。それから図書室を覗いてみたりしたが、結局、桜井は見つからなかった。
侑は、とぼとぼと教室に戻った。
一瞬、今、桜井もBlood Moonをプレイしていないだろうか、運よく野良でマッチングしないだろうか……という考えが過った。そんな都合良い事が起こるわけがない。そう思い直し、今日も井口と二人でBlood Moonの世界で遊ぶ。
「2周目のキャラ作ったからルーキフェルの手伝ってくれる?」
「おう、いいよ」
ルーキフェルは、夜明けの騎士団の団長だ。女王レェテネーヴに仕えているが、立場は複雑だ。レェテネーヴに対して愚直なまでの忠誠心を持っているが、夜明けの騎士団は、女王とは敵対する王族の配下だ。
王城に入ると、ルーキフェルは柱にもたれ掛かってプレーヤーを待ち受けていた。
「貴公を男と見込んで頼みがある」
プレーヤーが近づくと、暁色のマントを纏ったルーキフェルが話しかけてくる。
「さる高貴な御方に贈り物をしたい。夜啼き鴉の目玉を24個、持ってきて来てはくれないだろうか。私自身も集めてはいるのだが……。あと少し足りぬのだ。ああ……! あの、常闇を閉じ込めたような、一切の光を通さぬ黒々とした鴉の目玉……! あの御方のドレスの装飾に相応しいと思わないかね?」
画面の中で、ルーキフェルが大袈裟な身振りで両手を広げた。
「おお! やってくれるか、貴公! 本来なら、自ら狩りに行くべきなのだが……今はここから離れるわけにはいかない。もしも貴公が24個全て集めてくれたなら、必ず礼をする。待っているぞ」
「ルーキフェルって、なんかズレてるよな。贈り物に目玉24個って。この世界に星の瞬き石とか綺麗な宝石があるのに。しかも食ったら多少の力と引き換えに人間性を失うんだぜ。まあ、こういうイカれた世界観こそがBlood Moonなんだけど」
井口はそう言って笑った。
「分かる。真っ直ぐな性格なんだろうけど、なんか変化球だよな。さる高貴な御方ってレェテネーヴの事だと思うけど、レェテネーヴも何十個も目玉貰っても困るだろうに」
侑も釣られて笑う。
ルーキフェルの言動は愚直さゆえに他のキャラクター達とは違う意味で面白く、残念なイケメンとしてファン愛されている。
「ドロップ率低いから今日だけじゃ無理かもな。何時までやる?」
「最高で2時までかな」
「オッケー、じゃあ行くか」
二人は、巨大な鴉の化け物に立ち向かう。
結局、二人は3時までかかって目玉を24個全て集めた。
「おお! 貴公! やってくれたのだな! これであの御方も喜んでくださるだろう! 早速、届けに行かなければ。ああ、これは貴公への礼だ」
ルーキフェルはそう言うと、画面からフェードアウトした。
「ここから動けないんじゃなかったのかよ」
侑の口から呆れ笑いが漏れる。
「それな」
「井口、ありがとう」
「どーいたしまして。またなんかあったら手伝うよ。今日はさすがにもう寝る。おやすみ」
井口の大きな欠伸が聞こえた。
疲れた体をベッドに投げ出し、侑は今日拾ったキーホルダーをじっと見つめた。古美仕上げの真鍮が、鈍く光っている。
──俺のと同じだ。Blood Moonのデラックス特装版の特典キーホルダー。桜井も、ゲーム好きなのか? じゃなきゃ、これを持ってるわけないよな……。
首を横に向けると、自分のリュックが見える。そこには、全く同じキーホルダーが下がっている。
丸いプレートに、三日月を背にした二匹の狼、反逆の証のクロスした逆さまの二本のレイピア。それを円形に取り囲む、茨のような装飾。
Blood Moonシリーズの人気キャラの、廃夜の女王レェテネーヴの紋章だ。裏側には、王冠を被った彼女の横顔の肖像が彫られている。ゲームの中に出てくるアイテムそのままのデザインだ。
レェテネーヴは美しいビジュアルの女王だが、プレイヤーにとっては、かなり嫌なボスキャラだ。逃げ場の少ないステージでの広範囲のスリップダメージ技。速すぎる連続攻撃。やっと倒したかと思ったら第二形態に変化する。そこからは、攻撃力も範囲も増す。理不尽すぎてファンから「鬼畜女王」とか「敵だけ楽しそうなボス」などと言われている。それでも人気なのは、考察しがいのある謎めいた生い立ちや、敵のボスでありながら、最後まで気高さ・高潔さが一貫していることが理由だ。
──桜井のビルドは守備重視? それとも軽量?
キャラは何使ってるんだろう。剣士か魔術師か、それとも声なき者?
……レェテネーヴを生かすか殺すか、二択はどっち選んだ?
侑はキーホルダーを眺めながら、桜井の事ばかり考えている。
──明日、学校で桜井に返すとき、何て声かけたら良いんだろう。
「桜井もBlood Moonやってるの?」は、いきなり過ぎるか?
「昨日、これ落とした?」って普通に言う?
でも、それだと、キーホルダーを返すだけで終わっちまうんじゃないか?
同じゲームが好きなら、桜井と話してみたい。
ボイチャしながら、オンラインで協力プレイしてみたい──。
そんなことを考えながらうとうとし始め、いつの間にか眠りに落ちていた。
夜の静寂が、部屋を満たしていった。
* * *
アラームが鳴り、侑は布団に潜ったまま腕だけ出して手探りでスマホを探してアラームを止めた。
ムクっと起き上がり、両腕を上に伸ばして大きな欠伸をした。
侑の掌の中には、キーホルダーがあった。
ナスカンに指をかけ、ぶら下げて目の前に翳す。
──桜井に、何て声かけよう。
侑は、最初の一言に、まだ迷っている。心拍数が上がる。何を緊張してるんだ。これを桜井に返すだけだ、と自分自身に言い聞かせ、制服に着替えた。ポケットの中にキーホルダーを忍ばせて家を出た。
キーホルダーたった一つなのに、何故かポケットがいつもより重い気がした。
桜井がいるかもしれないと思い、普段よりも注意深く辺りを見回しながら歩く。
結局、通学路で桜井は見つからなかった。正門前は、登校する生徒たちでごった返している。おはよう、と言いあう声や、笑い声が波のようにさざめき、侑の心もざわざわと浮ついた。
階段を昇り、2年6組の教室へと向かう。その間にも、侑は桜井の姿を探した。
──ヒョロガリで目立つから、すぐ見つかると思ったんだけどな。
「なぁ、昨日も陸上部に来い!って叫ばれてたな」
前の席の井口が、明るく笑いながら話しかけてきた。
「俺は断ってるのにさ」
「最近、一緒に走ってるヤツいるよな? アイツもめちゃくちゃ速いよな」
井口が桜井の話題を出した途端、侑の心臓が跳ねた。
「知ってんの? 何組?」
自分でも驚くほど大きな声だった。侑は前のめりになりなって食い付いた。
「1組の桜井だろ? 確か」
「1組か! 行ってくる!」
侑は勢い良く立ち上がったが、井口が引き留めた。
「HR始まるって」
ほどなくして、担任が教室に入ってきた。
──次の休み時間に行ってみるか──。
ポケットの中が気になって、授業に集中出来ない。
無意識に、ポケットの中のキーホルダーに触れてしまう。
──桜井、喜ぶかな。
……大事にしてただろうし。
何度も時間を確認するが、針は少しも進んでいない。
前の席の井口のシャーペンが忙しそうに動いている。ノート取らなければいけないのに、侑は「桜井」と書いた。真っ白なノートに「桜井」の文字が黒く、くっきりと浮かび上がる。誰かに見られたらまずいと思い、慌てて消しゴムで擦った。でも、黒鉛は消えても紙は「桜井」の形にへこんだままだった。
侑は、指の腹でそっとその跡を撫でた。
「あっ……」
侑が顔を上げた瞬間、先生が、板書を消してしまった。
──しゃーない、後で井口にノート借りるか……。
1時間目の終わりのチャイムが鳴った。
侑は早速、教室を抜け出して1組に向かった。
生徒でごった返す廊下を進む間に、侑の心臓の鼓動はどんどん強くなっていく。
沢山の生徒たちの中、頭一つ飛び出している後ろ姿を見つけた。侑の心臓が一際大きく跳ね、それが全身に伝わった。
「桜井」
呼んでみたが、振り向いたのは全くの別人だった。
侑は、目の前の彼が桜井ではなかった事に自分でも不思議なくらい落胆していた。
──キーホルダーを返せると思ったけど違ったからだ、これは。
1組の入り口で教室の中に桜井がいないか見回していると、一番後ろの席の女子が侑に気づいた。
「誰かに用?」
「あ、うん」
声をかけてきた女子は、小柄で、髪も綺麗に手入れされていて、目がぱっちりしている。学年でも可愛いと噂の子だ。
──そうだ、俺が好きなのは、こういうタイプの子だ。
貴生さんが変な事を言うから──。
「誰? 呼んであげよっか?」
「桜井ってヤツ、いる?」
「桜井くん?」
彼女は、席を立って教室を見回した。
「ねぇー! 桜井くんいる?!」
彼女が大声で桜井を呼ぶので、侑は「やめてくれ!」と思った。自分でも説明がつかないが、隠しておきたい秘密を、衆人環視の場に引きずり出されたような気分だった。
──恥ずかしい……。ここから、逃げたい──。
いや、俺はキーホルダーを返しに来ただけ……。
俺は何もおかしい事をしてない……。
顔が熱くなって、汗が吹き出した。
「ねえ」
桜井を呼んでくれた女子に突然声をかけられて、侑の肩がビクっと跳ねた。居た堪れない気持ちでいっぱいで周りが見えていなかったから、過剰に驚いてしまった。
「桜井くん、いないみたい。どこ行ったか分かんないって」
「あ……そう、なんだ」
「桜井くんに伝えておく?」
「いや。いいよ。ありがと」
2時間目のチャイムが鳴る。侑は急いで自分の教室に戻っていった。
侑は、無意識にポケットの中のキーホルダーを、強く握っていた。真鍮のメダルに掌の熱が伝わって、熱いような、痛いような感覚がした。
早くキーホルダーを桜井に返してしまって楽になりたいような、でも持っている時間を引き延ばしたいような、自覚のない、不思議な緊張感と執着があった。
数学の教師はまだ来ていなかった。
「会えたのか? 桜井に」
席につくと、井口が後ろを向き、侑に話しかけた。
「……いなかった」
「ふーん」
井口は、侑の顔をじっくりと見て、ニヤニヤしている。
「なんだよ」
「いや。何でもない」
「何でもなくないだろ、そんなにニヤニヤして」
侑は、少し怒ったように唇を尖らせる。
「いやぁ、侑は分かりやすいなーと思って」
「何がだよ」
「いなかったって言ったとき、あからさまにガッカリしてたからさ」
「べっ……別にガッカリなんか……!」
侑は身を乗り出した。口調の必死さも相まって、それを見た井口は笑った。
「俺には隠さなくても良いだろ」
「隠すって何を?」
「あれ? 自覚無い?」
「自覚? 何の?」
侑は、全くピンと来ていない。
「だから、桜井に──」
井口が小声で言いかけた瞬間、数学教師が来て「少し遅れたけど始めるぞ」と言った。
「自覚って何だよ」
侑は、シャーペンのノブで井口の背中つつきながら、ひそひそと言った。
井口は、首だけを少し振り向かせて「後でな」と言い、直ぐに前を向いて教科書を開いた。
数学の授業が終わると、侑はそそくさと教室を出て行った。
「そういうとこだよ」
井口は侑の背中を見送りながら、小さく呟いて笑った。
侑は、今度こそ──。と思いながら、1組に向かう。
さっきの休み時間に声をかけてきた女子が侑に気づき、今度は先に声をかけてきた。
「桜井くんなら教室にいないよ」
「マジか……」
侑は、肩を落とした。
「どこに行ったか分からないけど、慌ててたみたい」
──桜井、どこで何してるんだ?
用も無いのに一階の自販機まで降りてみた。それから図書室を覗いてみたりしたが、結局、桜井は見つからなかった。
侑は、とぼとぼと教室に戻った。
