ゲームがしたいだけなのに…!

「成瀬くん、夏のフェアメニューなんだけど」
 ファミレスの制服に着替え、サロンエプロンの紐を結び終えた時、人の良さそうな店長がスタッフルームに入ってきた。
「本部から試食レポート出してくれって言われて。ちょっと酸味が強いかなと思うんだよね。それにうち、ドリンクバーがあるでしょ。だからあまり出ない思うんだよね」
 困り顔で、(たすく)に薄い黄色から緑色にグラデーションがかかったドリンクを差し出した。見るからに、酸っぱそうな配色だ。
「飲んでみて? 侑くんの感想も聞かせて欲しいな」
「あ、ハイ」
 侑はグラスに口を付けた。
「……ん?」
 淡い黄緑の液体の香りを嗅いだ瞬間、あの何とも憎たらしい笑顔と、風を切って横をすり抜けていった背中が、ありありと蘇った。

 ──なんで、今アイツを思い出した?

 怪訝な顔になった侑を見て、店長は困ったように眉を下げ「やっぱり酸っぱかった?」と言った。
「あ、いや、俺は大丈夫ッス。嗅いだことある匂いに似てたんで」
 
 ──そうか、ただのレモンじゃなくてシトラスか、あの匂い。

「俺は嫌いじゃないッス。思ったより甘くて飲みやすいし」
「え、そう? うーん」
 店長は頭を掻いた。
「店長が思った通りに書いたら良いんじゃないッスか?」
「いやぁ、ね……」
「大人の事情ってやつッスか?」
「いまにわかるよ、成瀬くんにも」
 店長は、少しバツが悪そうに笑った。
「それ、飲んじゃっていいよ。出来れば後で詳しく感想聞かせて」
 店長はドアを開け、振り返った。
「内緒にしといてね、成瀬くん」
 釘を刺すように言って、出て行った。

 バイトが始まる時間まであと少し。侑はシトラスドリンクをもう一口飲んだ。

 ──思ってたよりも酸っぱくなくて、ちょっとだけ甘い。
 イメージと違う。
 ……アイツも、違う一面があるのかな。
 走ってるとこしか知らない──。

 さっぱりしてるのに、どこか胸の奥に引っかかる後味だと侑は思った。 
 でも、上手く説明出来ない。
 その、説明のつかなさが、引っかかった。

✳ ✳ ✳

 21時5分。
 厨房へと続く通路で大きな欠伸をした。18時からの嵐のようなピークタイムが過ぎ、客の姿も疎らになってきた。授業に出て、バイト先まで全力ダッシュして5時間働けば、さすがに疲れが出る。
 あと1時間弱で帰れる。そう思うと嬉しくはあるが、課題がある。ソフトやオンラインの利用料を稼ぐ事が目的なのに、肝心のゲームをする時間が無いのが最近の悩みだ。
 侑はもう一つ小さな欠伸をし、トレイの上にダスターを乗せ、テーブルの片付けに向かった。

 入店チャイムが鳴った。
 侑は、テーブルを拭きながら反射的に「いらっしゃいませ」と言い、客の案内をする為に入り口に目を向けた。
「空いているお席に……あ……トムソンガゼル」
 そこにいたのは、帰宅ダッシュの時、悠々と自分を追い抜いて行った、あの男だった。

「ガゼルって何? あだ名?」
 桜井の後ろからもう一人、おそらく同年代の男が顔を出した。慣れた手つきで桜井の肩に腕を回し、面白いものを見つけた子供のように、しかし、どこか値踏みするような視線で二人を見比べた。
「……知らん」
 桜井は、素っ気なく言った。

 ──やべぇ、怒らせた?

 侑が動揺していると、桜井はそれを見て、一瞬、ほんの少しだけ微笑み「ここで働いてたんだ……」と呟いた。

 桜井のその柔和な笑みを見た瞬間、侑の心臓がドクンと跳ねる。

「……あ、うん。二名様ですね」

 ──笑った。怒ってない? セーフ? 

 桜井が笑顔を見せたのは、ほんの一瞬だった。それに見惚れていた自分に気づき、侑はどうにか接客モードに切り替え、二人を窓際のテーブルに案内した。
 ふいに駆が近寄ったとき、仄かにシトラスの香りがした。やっぱり、さっき飲んだシトラスドリンクの匂いに似ている、と侑は思った。

 桜井とその友人は、メニューを真ん中にして頭を突き合わせて、ひそひそと話している。
 侑は、他の客に食事を運んだ帰りに、二人を横目で見た。目が離せなくなった。二人の前髪が触れ合うほど近い。桜井は仏頂面だが、友達の方は楽しそうだ。侑の胸が、ズキンと疼く。

 ──え、何でだ? 何これ? 

 言いようのない灰色の靄が胸に広がって、そのあと何故か苛立ちが襲ってきた。
 侑は、二人の間に割って入りたくなった。でも、ガゼルの事を何も知らない。一緒にいるヤツの事は、もっと知らない。いきなり割り込んで、何を話すって言うんだ? これじゃ、ただの変なヤツになって、俺の学校生活が終わる──。そんな事をゴチャゴチャと考えていたら、思い切り力を込めてダスターを握っていた事に気づいた。
 冷静さを取り戻そうと、両頬をパチパチ叩いた。

 オーダーコールが鳴り、侑はポーカーフェイスを装って、二人がいるテーブルに向かった。
「お決まりですか?」
 スマイル、と店長に言われているのに、無表情になってしまう。

「ねえ、トムソンガゼルって何?」

 開口一番、桜井の友人が言った。侑は、ヒュッと息を飲む。桜井の友人の目は、笑っていない。このテーブルだけ、空気が凍りつく。
 来店した瞬間、口が滑って「トムソンガゼル」と言ってしまったのは自分だ。しかも客に。責められて当然だという気持ちと「ガゼル本人ならともかく、コイツには言われたくない」という気持ちが、頭の中でぐるぐる回る。
「……あ、えと……ガゼルっていうのは、走るのが速いから……です」
 侑がしどろもどろになりながら何とか言葉を絞り出すのを、桜井の友人はじっと見つめている。
「……ふぅん。あんまり変なあだ名付けないでよ。俺のカケちゃんに」
「おい悠貴! 変な言い方すんなよ! 誤解されるだろ!」
「いいじゃん別に。俺とカケちゃんの長い付き合いだろ?」
 悠貴は桜井の頭をくしゃりと撫でた。
「人前でやめろ、バカ。前髪崩れるだろ」
 桜井は悠貴の手を払い除け、自分の前髪を手櫛で戻した。   
 悠貴は、ふっと笑みを零し、再び桜井の髪をくしゃくしゃにした。
「うざい。悠、お前マジでうざい」

 ──何を見せられているんだ、俺は。

 悠貴、と呼ばれている男の手を払い除けたい衝動に駆られる。
 
 ──それに何だ、カケちゃんて……カケちゃんて呼ばれてんの? 何? コイツらどういう関係?

 不快でもなんでも、自分はバイトなんだから仕事をしなくてはいけない。危うく忘れる所だった、と侑は思い出し、このイチャイチャに終止符を打つべく「んんっ」と咳払いをした。
 それに気づき、二人はじゃれ合いをやめた。
「ご注文はお決まりですか?」
 スマイル、と自分に言い聞かせるが頬が固り、誰から見てもスマイルができていない。
 桜井は前髪を撫で付けながら、気まずそうに伏し目になっていた。
「俺はフライドチキンとドリンクバー。カケちゃんは何だっけ?」
「いい、自分で言う」
 桜井は、悠貴からメニューを引ったくるように取り、特盛りポテトを指差した。
「これと、ドリンクバーで」
 メニューに視線を向けたまま言った。悠貴が即座に反応した。
「そんなに食べて、夕飯入る?」
「うるさいな」
「カケちゃん、なんで今日は反抗的なの。いつもはもっと素直なのに」
 また、悠貴が桜井の髪をくしゃくしゃに撫でた。
「いつもと同じだろ! やめろって!」
 桜井が悠貴の手首を掴んで、頭から離そうするが、悠貴も負けじと力を込める。
 
 コイツらは何をしに来たんだ……とまた怒りがふつふつと湧いてくる。侑は平静を装い「ご注文は以上でよろしいでしょうか?」と言った。
 その声に気づいて、桜井は耳まで真っ赤になりながら、以上で。と答えた。その瞬間、悠貴は「隙あり!」と言って、また両手で桜井の髪をかき乱す。
「ご注文を繰り返します。フライドチキンがお一つ、特盛りポテトがお一つ、ドリンクバーがお二つでよろしいでしょうか!?」
「……あっ、ハイ……」
 ほんの少しだけ怒気を含んだ侑の声で、ようやく二人は離れた。
 侑はスマイルを忘れたまま、厨房に戻っていく。
「ほら見ろ、悠がふざけるから怒っちゃったじゃん」
「カケちゃんがなんか変なんだもん」
「バカか、いつも通りだ僕は」
 という会話が聞こえた。

 ──なーにが、カケちゃんだ! 俺は追いつけもしないのに、アイツはあんなに気安くベタベタ触って……。柔らかそうな髪を、あんなグシャグシャに……。
 
 ぐっと握った掌の中の、硬いハンディ端末の感触が、侑を現実に引き戻す。

 ──疲れてるせいだ。
 こんな変なことで苛々するなんて。
 
 ポテトが揚がるまで、侑はナフキンやカトラリーの補充をする。そうやって体を動かしているうちに、22時からシフトに入っているフリーターの 貴生(たかお)が出勤してくる。軽く挨拶をし、洗浄が終わったグラスラックをドリンクバーまで運ぶ。
 ラックを重ねていると、ふっと視界の端に人影が入って来た。

「ガゼルじゃなくて、桜井」

「えっ?」
 侑は驚いて、声のする方を見た。
 桜井は横から、侑が持っているラックからグラスを一つ取った。
「だから、僕の名前。桜井 (かける)
「あ、ああ、そっか、うん」
 我ながら間の抜けた返事だと思いながら、何を言うべきか逡巡した。まず名乗るか、ガゼル呼ばわりしていた事を謝るか──。
「俺は」
「知ってる。成瀬 侑でしょ」
 桜井は、間髪入れずに侑のフルネームを言った。
「何で知ってんの?」
「あれだけ毎日爆走してて、和田先生に名前叫ばれてたら嫌でも覚えるよ」
「マジか! はっず!」
 自分でも今、顔が赤くなっているだろうと侑は自覚している。だから、なおさら恥ずかしい。
 そんな侑を横目でちらりと見て、桜井はコーラを三分の一、メロンソーダを三分の一、最後にオレンジジュースを注いだ。
「塾の帰りなんだ、今。お互い忙しいよね」
 そう言って、桜井はふわっとした笑みを零す。
 侑は、その笑顔をもっと見ていたいと思った。
 けれど、桜井はすぐにテーブルに戻ってしまった。

 ──怒ってはなさそうだけど……。
 
 侑は、桜井の姿を目で追ってしまう。薄っぺらい体に、細長い手脚。背が高くて目立つ。さっき近くで見たとき、瞼の二重がくっきりしていて、睫毛が密集して目に影を作っていた。色白で、綺麗な造りの顔だと思った。
 
 ──あれ、まただ。桜井のことを綺麗だと思って……いやいや、おかしいおかしい!
 アイツは男だぞ!?

 ──でも、もう一度、桜井があんなふうに笑うのを見たい──。 

 侑は、自分の気持ちがどれほど桜井に向かっているのか、全く気づいていなかった。       

✳ ✳ ✳

 侑は揚げたてのポテトとチキンの皿を受け取り、フロアに出た。
「お待たせ致しました。フライドチキンと、特盛りポテトです」
 皿を置こうとした瞬間、侑の体に稲妻が走った。
「いつもドリンクバー混ぜてるけど、美味いの?」
 悠貴は、桜井が飲んでいるドリンクのグラスを指さす。
「味見させて」
「ん」
 桜井は悠貴にグラスを差し出した。悠貴はグラスを手に持たず、身を乗り出し、ストローを咥えた。
「あ、意外とイケる」
 悠貴は満足そうに笑って、ストローから口を離した。
 テーブルにフライドチキンとポテトを置く侑の手が、微かに震えている。
 悠貴は、ちらりと侑を見上げ、目を細めて口角を上げた。そして「どうもー」と言って、フライドチキンの皿を引き寄せた。
 伝票を置いたとき、ごゆっくりどうぞ、と言えたか記憶がない。
 二人の間に漂う空気の中に入れない疎外感、悠貴のあの表情を見たときの敗北感。そんな感情が渦巻いた。そして悠貴に対する怒りが湧き、何故か桜井に「裏切られた」と思ってしまった。

 ──アイツらって、そういう関係? いや、それでも別に良いんだ、だって、ただ放課後に一緒に走ってるだけなんだし。

 そう思おうとしても、胸の奥がずしりと重くなるばかりだ。
「侑くん、どうかした? お客様と何かあった?」
 厨房とフロアの間の通路に立ち尽くしていた侑に、店長が声をかけた。
「なんもないっス」
「そう? だったら良いけど。困った事があったら言うんだよ」
「……はい」

 呼び出しチャイムが鳴り、侑はレジに向かった。
 桜井と悠貴は会計を別々に済ませ、出口に向かった。悠貴は桜井の肩を抱き、ちらりと侑を振り返った。
 目が合った。
 ちくしょう、アイツ、最後まで──。
 
 苛つきながら、二人のテーブルの片付けに向かった。
 二人が楽しく食事した残骸を片付ける作業は、とても惨めに思えた。
 桜井が使っていたグラスに刺さっているストローを見ると、思わず手が止まってしまう。それでも、片付けなければ仕事は終わらない。
 テーブルを拭き、最後に床にゴミが落ちていないかチェックする。
 桜井が座っていた方の床に、鈍い金色のキーホルダーが落ちていた。

 ──これ、桜井のか?

 侑はキーホルダーを握りしめ、衝動的に店の外へ出た。
視線を彷徨わせて探しても、桜井の姿は見つからない。夜の闇に紛れて、桜井はアイツと二人でどこかへ消えてしまった。
「桜井!」
 気づいて戻ってきてくれはしないかと期待して名前を呼んでみたが、もう気配も無かった。