「やっぱ桜井マジですげーわ」
ボス戦を終了し、井口はコントローラーを置いて、感嘆の溜め息をついた。
「井口くんこそ、ヘイト買ってくれて助かったよ」
桜井と井口がお互いを称え合っている中、侑は自分があまり役に立てていなかったと落ち込んでいた。
「成瀬、飛び込むなら今だって言っただろ。タイミング」
井口の言葉に、侑はハッとした。
「何の話?」
桜井は二人の間に割って入った。
「ローリングして足元に飛び込んで攻撃ってヤツ! ヒットアンドアウェイ! ガルムで苦戦したときに井口が教えてくれたやつ! 頭では分かってるんだけどさ」
侑は早口で説明した。
「ああ、ガルムか。確かに」
ゲームの話ね、と桜井は納得した。
「成瀬は上手いはずなのに度胸足りないっつーか。ゲームでもリアルでも。フレコの件でもな」
「うるせーな」
さっきから、井口がやけに侑の“踏み込めなさ”を桜井にアピールしている気がした。
ヘッドセットの向こう側で、チリンと鈴の音がした。それから「にゃあ」と甘えたような猫の鳴き声がした。
「猫?」
「そう。パッチ、今起きて膝の上に来た」
にゃぁんともう一度、猫が鳴いたのが聞こえた。
「Patchってキャラ名、猫からだったんだ」
「うん。LINEのアイコンの」
桜井の声が、一段と優しくなった。
「侑に見せてあげるって言ったよね、前に」
「あれれー! 母ちゃんが呼んでるー。お説教かなぁー。長くなりそー。落ちるわー。桜井、またやろーぜ!」
井口はわざとらしく言い、突然ログアウトした。
──は? 普段、母ちゃんなんて呼ばないのに急に何だよ井口!!
侑のスマホに通知が来た。
井口から、歯茎を剥き出しにしてムカつく表情でサムズアップしたウサギのスタンプが送られてきた。
──井口……!
アホ! バカタレ!
また、チリンと鈴の音がした。
「あ、こら。だめだろ、パッチ。キーボードの上に乗ったら」
優しく叱る桜井の声と、不服そうな猫の鳴き声がした。
「パッチはさ、頭撫でるとすぐ寝るんだ」
桜井は、囁くような声で言った。
「いいな、パッチ……」
──……俺も頭撫でて欲し……。
……って俺、今何考えた!?
桜井の小さな笑い声が、擽ったい。
「侑も頭撫でたら寝るのかな」
「はぁ!? 何言ってんだよ! 寝ないし! 一緒にすんな」
「ごめんごめん。でも走るの好きでちょっとビビリなとこ、パッチに似てるかもって」
「ビビリじゃねぇって……」
侑の語尾が、萎んでいく。視線を落とすと、パソコンデスクの横の紙袋が目に入る。映画のチケットを入れようとしてやめたことを思い出した。
──俺はビビリじゃない。
ただ、映画に誘うだけ。井口と上野みたいに、友達として。
「……あ、あのさ」
「なに?」
「えと……あの……映画行かない? チケット二枚貰ってさ。一緒にどうかなって……」
「映画? いいね。何の映画?」
桜井は即答した。侑はホッと息をついた。
「影も形もってやつ」
「それ観たかった映画だ」
「そうなの?」
「うん。入院中に悠貴が持ってきた差し入れの中に入っててさ。ページを捲る手が止まらない小説って久しぶりだった」
──また、悠貴……。
侑の胸が、チリチリと痛む。どこまでいっても付きまとう悠貴の影。どうしても、桜井とは切っても切れないものらしい。さっき、ゲームの途中で悠貴が乱入してきたとき、桜井はミュートにした。悠貴と何を話したのか、本当は気になって仕方がない。でも、聞けない。
──やっぱ俺、ビビリじゃん……。
「どうした?」
暫く無言だった侑に、桜井が声をかけた。
「あ、うん。駆の予定、大丈夫かなって」
侑は何とか言葉を絞り出す。
「いつ?」
「2週間後だから、まだ体調が心配だけど」
「大丈夫。いつでも空けとく。めっちゃ楽しみ」
「……それと退院祝い。登校したらって思ってて……」
悠貴から退院祝いに何を貰った?
嬉しかった?
俺のは後からだからガッカリした?
色々と言葉にしたいことが、侑の頭の中で渦巻く。けれど、どうしても喉の奥でつかえてしまう。
「特盛りポテト?」
桜井は、小さく笑った。
「それだけじゃなくて……ちょっとしたプレゼントがあるから」
侑は、紙袋を横目で見ながら言った。
「マジで? 嬉しい」
「……大したもんじゃないけど……」
「侑が選んでくれた物なら何でも嬉しいよ。……病気は最悪だったけど、良かったかも」
「は!? 良いわけねぇだろ! 俺がどれだけ心配したか……!」
侑はつい、声を荒げてしまった。あのときの顔面蒼白で今にも倒れそうな姿や、たくさんの管に繋がれた痛々しい桜井の姿が脳裏に蘇って、息が詰まった。
「……ごめん。でも、侑とこうして通話できるのも病気になって入院したおかげかなって」
申し訳ないのか、おどけているのか、よくわからない口調で桜井は言った。
「きっかけはそうかもしんねーけどさ……もう、二度と無理すんなよ」
「じゃあ、しんどくなったら、侑に支えてもらおうかな」
「お……おう……。杖になってやるよ」
「……うん」
二人の間に、静かな沈黙があった。チリン、と鈴の音がしたあと、パッチが「なぁん」と小さく鳴いた。
* * *
それ以来、侑と桜井、時には井口も参加してBlood Moonをプレイするようになった。
初めは警戒していた桜井も、すっかり井口と打ち解けた。井口が参加すると、侑の入る隙がないほど装備や立ち回りついて語り合うことがあった。
侑は心の中で、あと三日、あと二日、と桜井に会える日までのカウントダウンをしていた。
そして、いよいよ明日、桜井が登校する日になった。
侑はリュックの横に退院祝いが入った紙袋を置いた。
『明日放課後、正門の前で』
桜井からのLINEが、やっと明日会えることを実感させてくれる。でもまだどこか、夢の中のような、そして妙な緊張が高まる、おかしな気分だった。
『おやすみ』
侑はベッドの中でいつも通りにLINEを送る。寝る前の挨拶は、すっかり習慣になった。けれど、おやすみの挨拶をしても、なかなか寝付けない。
「放課後って言ってたけど、その前に顔見るのはダメなのか?」
そうメッセージを送った。だが桜井は『おあずけ』と返してきた。
『なんで?』と聞いてみても、桜井は『カタルシス』と一言返してきただけだった。侑に、その言葉自体の意味が分からなかったわけではない。確かに感動的かもしれない。でも。
──駆って、何考えてるか分かんねぇな……。
……すぐ会いたくねぇの?
正直言って、少しムカついた。でも、桜井のことで井口に誂われるくらいならおあずけでも良いか、と無理やり自分を納得させた。
* * *
侑は、退院祝いの紙袋を提げて家を出た。紙袋の中身がガチャガチャとぶつからないように気を遣いながら、学校へ向かった。
ちょっとくらい、こっそり顔を見に行っても良いんじゃないかとか、廊下でばったり出くわすとか、侑は色々と考えていた。でも、桜井は『ダメだよ』と、LINEでしっかりと侑に釘を刺していた。そしてなぜか、侑も律儀にそれを守っていた。自分でも「そんなの知るか!」と会いに行けばいいのに何で、と思った。でも、会えなかった時間を埋めるには、短い休み時間に慌ただしく再会するよりも、ゆっくり時間を取った方がいい。それに、誰もいない静かな場所で二人きりになってから退院祝いを渡す方がいいのは確かだった。
「桜井って今日から学校に来るんじゃなかった?」
井口は、休み時間になっても教室から出ない侑を不思議に思った。
「カタルシスだってさ。意味分かんないだろ?」
不貞腐れた口調で侑は言った。
「分かんないけど、分かるような……。桜井って、不思議ちゃん系?」
「何考えてるか分かんないな、とは思う」
「そこが良いって思った?」
「いや、なんかムカつく」
侑は、唇を尖らせた。
「そうだ。あの小説貸して。映画のやつ」
「いいけど。珍しいな。成瀬が小説なんて」
「映画の前に予習しとこうかなって」
「ほう」
井口はニヤニヤと笑った。
「……なんだよ!」
「上手く誘えたのかなーと思ってさ。小説を読んでおけば映画を観た後で“ここが原作と違ったー”とか“再現度高かったー”とか色々話せるもんなぁ?」
井口は「リュックに入れっぱなしだったから」と言いながら、小説を侑に渡した。
「今から読むから話しかけんなよ!」
怒ったふりをして、侑は本を開いた。
井口が言ったことは図星だった。侑は小説に集中できず、最初のページから全く進まなかった。
「成瀬、早く。体育始まる前に3on3やろうぜ」
先に着替え終わったクラスメイトが言った。
「先行っとく」
侑は井口にそう言って、雑に着替えて、体操服の裾を直しながら更衣室を出た。
体育館へ向かおうと視線を上げたその数メートル先に、いた。
──駆だ。
彼もまた移動教室らしく、脇に教科書を抱えていた。
桜井が侑に気づいた。侑は思わず手を振った。けれど、桜井はふっと視線をそらして階段を上がって行ってしまった。
あの時の、無視をした桜井の姿が蘇る。その後、桜井は倒れて入院した。侑の心臓が、嫌な動悸で速くなる。無意識に、足が階段の方へ向く。
「どこ行くんだよ。体育館は逆だろ」
クラスメイトに腕を引っ張られた。
「ちょっとトイレ」
侑はそう言って、桜井の後を追おうとした。けれどその瞬間、侑のスマホが震えた。
『約束守って』
桜井はただ一言、そう送ってきた。
『苦しくない? 胸は? 痛くない? 正直に言って』
震える指先で、メッセージを送った。
『全然大丈夫』
一瞬で返信が来て、さらに「パワー!」と叫んでいる猫のスタンプが送られてきた。
『信用出来ない』
どうしても、あの時の桜井が頭から離れない。だから侑は、約束を破ってでも桜井のそばに行こうとした。
その時、画像が送られてきた。
桜井の細い左手首に付けられた、スマートウォッチの画像だった。
画面には血中酸素レベル97%と表示されている。
『91%より下がったら、ちゃんと休むから』
『だから大丈夫』
それでもやっぱり顔を見て安心したい。けれど、無情にも体育の授業が始まる時間が迫っていた。
侑は『そっちも約束守れよ』と送信した。
桜井から、OKのスタンプが送られてきた。
それを確認して、侑は急ぎ足で体育館へと向かった。
* * *
桜井とは校内で会わなくても、LINEのやり取りはしていた。桜井は自分から『カタルシス』と言ったくせに『早く会いたい』などと送ってくる。
——焦らされてる? 遊ばれてる?
5時間目の授業が終われば、正門で会える。
でも、一日がなげぇ……。
桜井の、口の端だけ上げた余裕そうな笑顔が思い浮かんで、ムカつき半分、会いたさ半分の複雑な気持ちになる。
侑は「はぁ」と溜め息をついた。
薄暗い教室のスクリーンに、ミトコンドリアが映し出された。侑は頬杖をつきながら、Blood Moonにあんな感じの敵がいたな、とぼんやり思った。
教師は、淡々と解説していく。
「えー、このように、有機物を分解してATPを合成する過程を呼吸という」
——呼吸……。
……駆は大丈夫かな。
侑は、机の下で教師に見えないようにスマホを出した。授業中だから、当然桜井からのメッセージは無い。そっとポケットにスマホを戻した。
隣の席の女子は教科書の影で絵を描いている。前の席の井口はマーカーで線を引いている。侑もペンケースからオレンジ色の蛍光ペンを取り出した。
あと30分ちょっとで桜井に会える。どんな顔をして会えば良いかわからない。最初の一言は、何を言えばいい? 通話で既に『退院おめでとう』と言っていた。でも改めて言った方が良い?
ぐるぐると考えていたせいで授業に集中できず、侑は間違った箇所にラインを引いてしまった。
* * *
HRが終わると、侑は落ち着きなく何度もスマホを確認していた。桜井から『正門』とだけメッセージが入った。少しだけ、侑の顔が赤い。井口は、そんな侑を肘で小突いた。
「やっと会えるな?」
「……っ、なんだよ」
侑はスマホを隠すようにポケットにしまった。それから、ロッカーの中から紙袋とリュックを取り出した。井口は、紙袋を見てニンマリと笑った。
「行ってこい、行ってこい」
井口は、侑の背中をグイグイと押し、教室から廊下へ出した。
「報告待ってるからな」
井口はひらひらと手を振る。
「しねーよ、ばーか」
悪態をつきながらも、侑も笑って手を振った。
ボス戦を終了し、井口はコントローラーを置いて、感嘆の溜め息をついた。
「井口くんこそ、ヘイト買ってくれて助かったよ」
桜井と井口がお互いを称え合っている中、侑は自分があまり役に立てていなかったと落ち込んでいた。
「成瀬、飛び込むなら今だって言っただろ。タイミング」
井口の言葉に、侑はハッとした。
「何の話?」
桜井は二人の間に割って入った。
「ローリングして足元に飛び込んで攻撃ってヤツ! ヒットアンドアウェイ! ガルムで苦戦したときに井口が教えてくれたやつ! 頭では分かってるんだけどさ」
侑は早口で説明した。
「ああ、ガルムか。確かに」
ゲームの話ね、と桜井は納得した。
「成瀬は上手いはずなのに度胸足りないっつーか。ゲームでもリアルでも。フレコの件でもな」
「うるせーな」
さっきから、井口がやけに侑の“踏み込めなさ”を桜井にアピールしている気がした。
ヘッドセットの向こう側で、チリンと鈴の音がした。それから「にゃあ」と甘えたような猫の鳴き声がした。
「猫?」
「そう。パッチ、今起きて膝の上に来た」
にゃぁんともう一度、猫が鳴いたのが聞こえた。
「Patchってキャラ名、猫からだったんだ」
「うん。LINEのアイコンの」
桜井の声が、一段と優しくなった。
「侑に見せてあげるって言ったよね、前に」
「あれれー! 母ちゃんが呼んでるー。お説教かなぁー。長くなりそー。落ちるわー。桜井、またやろーぜ!」
井口はわざとらしく言い、突然ログアウトした。
──は? 普段、母ちゃんなんて呼ばないのに急に何だよ井口!!
侑のスマホに通知が来た。
井口から、歯茎を剥き出しにしてムカつく表情でサムズアップしたウサギのスタンプが送られてきた。
──井口……!
アホ! バカタレ!
また、チリンと鈴の音がした。
「あ、こら。だめだろ、パッチ。キーボードの上に乗ったら」
優しく叱る桜井の声と、不服そうな猫の鳴き声がした。
「パッチはさ、頭撫でるとすぐ寝るんだ」
桜井は、囁くような声で言った。
「いいな、パッチ……」
──……俺も頭撫でて欲し……。
……って俺、今何考えた!?
桜井の小さな笑い声が、擽ったい。
「侑も頭撫でたら寝るのかな」
「はぁ!? 何言ってんだよ! 寝ないし! 一緒にすんな」
「ごめんごめん。でも走るの好きでちょっとビビリなとこ、パッチに似てるかもって」
「ビビリじゃねぇって……」
侑の語尾が、萎んでいく。視線を落とすと、パソコンデスクの横の紙袋が目に入る。映画のチケットを入れようとしてやめたことを思い出した。
──俺はビビリじゃない。
ただ、映画に誘うだけ。井口と上野みたいに、友達として。
「……あ、あのさ」
「なに?」
「えと……あの……映画行かない? チケット二枚貰ってさ。一緒にどうかなって……」
「映画? いいね。何の映画?」
桜井は即答した。侑はホッと息をついた。
「影も形もってやつ」
「それ観たかった映画だ」
「そうなの?」
「うん。入院中に悠貴が持ってきた差し入れの中に入っててさ。ページを捲る手が止まらない小説って久しぶりだった」
──また、悠貴……。
侑の胸が、チリチリと痛む。どこまでいっても付きまとう悠貴の影。どうしても、桜井とは切っても切れないものらしい。さっき、ゲームの途中で悠貴が乱入してきたとき、桜井はミュートにした。悠貴と何を話したのか、本当は気になって仕方がない。でも、聞けない。
──やっぱ俺、ビビリじゃん……。
「どうした?」
暫く無言だった侑に、桜井が声をかけた。
「あ、うん。駆の予定、大丈夫かなって」
侑は何とか言葉を絞り出す。
「いつ?」
「2週間後だから、まだ体調が心配だけど」
「大丈夫。いつでも空けとく。めっちゃ楽しみ」
「……それと退院祝い。登校したらって思ってて……」
悠貴から退院祝いに何を貰った?
嬉しかった?
俺のは後からだからガッカリした?
色々と言葉にしたいことが、侑の頭の中で渦巻く。けれど、どうしても喉の奥でつかえてしまう。
「特盛りポテト?」
桜井は、小さく笑った。
「それだけじゃなくて……ちょっとしたプレゼントがあるから」
侑は、紙袋を横目で見ながら言った。
「マジで? 嬉しい」
「……大したもんじゃないけど……」
「侑が選んでくれた物なら何でも嬉しいよ。……病気は最悪だったけど、良かったかも」
「は!? 良いわけねぇだろ! 俺がどれだけ心配したか……!」
侑はつい、声を荒げてしまった。あのときの顔面蒼白で今にも倒れそうな姿や、たくさんの管に繋がれた痛々しい桜井の姿が脳裏に蘇って、息が詰まった。
「……ごめん。でも、侑とこうして通話できるのも病気になって入院したおかげかなって」
申し訳ないのか、おどけているのか、よくわからない口調で桜井は言った。
「きっかけはそうかもしんねーけどさ……もう、二度と無理すんなよ」
「じゃあ、しんどくなったら、侑に支えてもらおうかな」
「お……おう……。杖になってやるよ」
「……うん」
二人の間に、静かな沈黙があった。チリン、と鈴の音がしたあと、パッチが「なぁん」と小さく鳴いた。
* * *
それ以来、侑と桜井、時には井口も参加してBlood Moonをプレイするようになった。
初めは警戒していた桜井も、すっかり井口と打ち解けた。井口が参加すると、侑の入る隙がないほど装備や立ち回りついて語り合うことがあった。
侑は心の中で、あと三日、あと二日、と桜井に会える日までのカウントダウンをしていた。
そして、いよいよ明日、桜井が登校する日になった。
侑はリュックの横に退院祝いが入った紙袋を置いた。
『明日放課後、正門の前で』
桜井からのLINEが、やっと明日会えることを実感させてくれる。でもまだどこか、夢の中のような、そして妙な緊張が高まる、おかしな気分だった。
『おやすみ』
侑はベッドの中でいつも通りにLINEを送る。寝る前の挨拶は、すっかり習慣になった。けれど、おやすみの挨拶をしても、なかなか寝付けない。
「放課後って言ってたけど、その前に顔見るのはダメなのか?」
そうメッセージを送った。だが桜井は『おあずけ』と返してきた。
『なんで?』と聞いてみても、桜井は『カタルシス』と一言返してきただけだった。侑に、その言葉自体の意味が分からなかったわけではない。確かに感動的かもしれない。でも。
──駆って、何考えてるか分かんねぇな……。
……すぐ会いたくねぇの?
正直言って、少しムカついた。でも、桜井のことで井口に誂われるくらいならおあずけでも良いか、と無理やり自分を納得させた。
* * *
侑は、退院祝いの紙袋を提げて家を出た。紙袋の中身がガチャガチャとぶつからないように気を遣いながら、学校へ向かった。
ちょっとくらい、こっそり顔を見に行っても良いんじゃないかとか、廊下でばったり出くわすとか、侑は色々と考えていた。でも、桜井は『ダメだよ』と、LINEでしっかりと侑に釘を刺していた。そしてなぜか、侑も律儀にそれを守っていた。自分でも「そんなの知るか!」と会いに行けばいいのに何で、と思った。でも、会えなかった時間を埋めるには、短い休み時間に慌ただしく再会するよりも、ゆっくり時間を取った方がいい。それに、誰もいない静かな場所で二人きりになってから退院祝いを渡す方がいいのは確かだった。
「桜井って今日から学校に来るんじゃなかった?」
井口は、休み時間になっても教室から出ない侑を不思議に思った。
「カタルシスだってさ。意味分かんないだろ?」
不貞腐れた口調で侑は言った。
「分かんないけど、分かるような……。桜井って、不思議ちゃん系?」
「何考えてるか分かんないな、とは思う」
「そこが良いって思った?」
「いや、なんかムカつく」
侑は、唇を尖らせた。
「そうだ。あの小説貸して。映画のやつ」
「いいけど。珍しいな。成瀬が小説なんて」
「映画の前に予習しとこうかなって」
「ほう」
井口はニヤニヤと笑った。
「……なんだよ!」
「上手く誘えたのかなーと思ってさ。小説を読んでおけば映画を観た後で“ここが原作と違ったー”とか“再現度高かったー”とか色々話せるもんなぁ?」
井口は「リュックに入れっぱなしだったから」と言いながら、小説を侑に渡した。
「今から読むから話しかけんなよ!」
怒ったふりをして、侑は本を開いた。
井口が言ったことは図星だった。侑は小説に集中できず、最初のページから全く進まなかった。
「成瀬、早く。体育始まる前に3on3やろうぜ」
先に着替え終わったクラスメイトが言った。
「先行っとく」
侑は井口にそう言って、雑に着替えて、体操服の裾を直しながら更衣室を出た。
体育館へ向かおうと視線を上げたその数メートル先に、いた。
──駆だ。
彼もまた移動教室らしく、脇に教科書を抱えていた。
桜井が侑に気づいた。侑は思わず手を振った。けれど、桜井はふっと視線をそらして階段を上がって行ってしまった。
あの時の、無視をした桜井の姿が蘇る。その後、桜井は倒れて入院した。侑の心臓が、嫌な動悸で速くなる。無意識に、足が階段の方へ向く。
「どこ行くんだよ。体育館は逆だろ」
クラスメイトに腕を引っ張られた。
「ちょっとトイレ」
侑はそう言って、桜井の後を追おうとした。けれどその瞬間、侑のスマホが震えた。
『約束守って』
桜井はただ一言、そう送ってきた。
『苦しくない? 胸は? 痛くない? 正直に言って』
震える指先で、メッセージを送った。
『全然大丈夫』
一瞬で返信が来て、さらに「パワー!」と叫んでいる猫のスタンプが送られてきた。
『信用出来ない』
どうしても、あの時の桜井が頭から離れない。だから侑は、約束を破ってでも桜井のそばに行こうとした。
その時、画像が送られてきた。
桜井の細い左手首に付けられた、スマートウォッチの画像だった。
画面には血中酸素レベル97%と表示されている。
『91%より下がったら、ちゃんと休むから』
『だから大丈夫』
それでもやっぱり顔を見て安心したい。けれど、無情にも体育の授業が始まる時間が迫っていた。
侑は『そっちも約束守れよ』と送信した。
桜井から、OKのスタンプが送られてきた。
それを確認して、侑は急ぎ足で体育館へと向かった。
* * *
桜井とは校内で会わなくても、LINEのやり取りはしていた。桜井は自分から『カタルシス』と言ったくせに『早く会いたい』などと送ってくる。
——焦らされてる? 遊ばれてる?
5時間目の授業が終われば、正門で会える。
でも、一日がなげぇ……。
桜井の、口の端だけ上げた余裕そうな笑顔が思い浮かんで、ムカつき半分、会いたさ半分の複雑な気持ちになる。
侑は「はぁ」と溜め息をついた。
薄暗い教室のスクリーンに、ミトコンドリアが映し出された。侑は頬杖をつきながら、Blood Moonにあんな感じの敵がいたな、とぼんやり思った。
教師は、淡々と解説していく。
「えー、このように、有機物を分解してATPを合成する過程を呼吸という」
——呼吸……。
……駆は大丈夫かな。
侑は、机の下で教師に見えないようにスマホを出した。授業中だから、当然桜井からのメッセージは無い。そっとポケットにスマホを戻した。
隣の席の女子は教科書の影で絵を描いている。前の席の井口はマーカーで線を引いている。侑もペンケースからオレンジ色の蛍光ペンを取り出した。
あと30分ちょっとで桜井に会える。どんな顔をして会えば良いかわからない。最初の一言は、何を言えばいい? 通話で既に『退院おめでとう』と言っていた。でも改めて言った方が良い?
ぐるぐると考えていたせいで授業に集中できず、侑は間違った箇所にラインを引いてしまった。
* * *
HRが終わると、侑は落ち着きなく何度もスマホを確認していた。桜井から『正門』とだけメッセージが入った。少しだけ、侑の顔が赤い。井口は、そんな侑を肘で小突いた。
「やっと会えるな?」
「……っ、なんだよ」
侑はスマホを隠すようにポケットにしまった。それから、ロッカーの中から紙袋とリュックを取り出した。井口は、紙袋を見てニンマリと笑った。
「行ってこい、行ってこい」
井口は、侑の背中をグイグイと押し、教室から廊下へ出した。
「報告待ってるからな」
井口はひらひらと手を振る。
「しねーよ、ばーか」
悪態をつきながらも、侑も笑って手を振った。
