桜井との衝撃的な出会いから、放課後の帰宅競争は続いていた。
今日も桜井は柑橘類のような爽やかな香りと共に現れ、一陣の風のように侑|《たすく》を追い抜いていった。
正門前で桜井が横をすり抜けた。
──あっ! クソッ!
相変わらず、桜井は追い抜く一瞬、侑を見て口角を上げる。
煽られているようで、それが気に入らない。
気に入らないのに、気になって仕方がない。何故こんなに矛盾した感情を抱くのか。それがわからないから、余計に気が立つ。そうなると、侑は途端に余裕を失くす。息を上手く吸えなくなる。だから、さらに桜井に遅れを取る。
──前はこんなじゃなかったのに!
侑は、桜井の背中を睨みつけた。
桜井は後ろの侑を気にしながらも、侑に走りを見せつけているかのようだ。
──何なんだよ!? 何がしたいんだ、コイツは!
桜井は、公園の入り口の、塗装の剥げかかった柵に両手をつき、腕の間に揃えた両足を通して前へ投げ出した。ふわっと浮いた身体は、重力を感じさせなかった。ヒラリと柵を乗り越え、着地し、勢いを殺さずに駆けていく。
──マジか! パルクールかよ!? どういう運動神経してんだ!?
侑は柵を横に避けながら、必死になって後を追う。
──いつかテレビで見た、サバンナの草食動物みたいだ。何だっけ。ガゼル……トムソンガゼルだっけ?
そんな考えが浮かぶ。
今日もゴール地点の神社の鳥居を、桜井の方が先に駆け抜けていった。
侑は呼吸を整えながら、遠ざかる桜井の背中を見送った。
✳ ✳ ✳
バイトの上がりの時間になって、制服を着替え、タイムカードを押した。スタッフルームの真ん中に設置されている白い大きなテーブルに付き、珍しく、ぐずぐずと帰宅時間を伸ばしていた。
ふと、思い立ったようにスマホを取り出し、
──ト、ム、ソ、ン、ガ、ゼ、ル。
と、動画サイトの検索窓に、文字を打ち込む。
跳躍するガゼルの、躍動感のあるサムネイルのものを選んで再生した。
スマホの画面の中で、チーターがトムソンガゼルを追いかけていた。字幕には、チーターの最高時速は120kmに達すると書かれていた。
チーターが音もなく忍び寄ると、ガゼルは耳をピクリとさせ、突然走り出した。それを追いかけたチーターは一瞬で距離を詰めた。でも、ガゼルに前脚が届きそうだったのに──、ガゼルはひらりと躱してあっさり逃げおおせる。ガゼルのその身のこなしは、公園での桜井の柵越えを連想させた。
──アイツはヒョロガリで、手脚が長い。
姿形は全く違うのに。
それでも、走るときのあの軽さは、やっぱりガゼルみたいだ。
ガゼルは優雅にジャンプしながらチーターの脚では追いつけない場所まで遠ざかって行って、その姿は小さな点のようになって、草の中に紛れて消えた。
チーターは狩りに失敗して、不貞腐れたように草原に座り込んでしまった。
「なんかこのチーター、俺みたいだな」
自虐的な呟きと共に大きな溜め息が漏れた。
侑は、テーブルの上にだらりと上半身を預けながら口を尖らせた。
「成瀬、でっかい溜め息ついて、どしたん? 話聞こか?」
出勤してきた貴生が、ロッカーを閉じながら言った。
「何でもない」
「貴生お兄さんに話してごらん?」
冗談めかして、貴生が言う。
背を向けている侑は気づいていないが、貴生の目は心配そうだった。侑は、まだチーターとガゼルの追いかけっこから目を離さないままだ。
「……ま、無理に言わなくても良いけどさ」
「どうしても勝てないヤツがいて、悔しいなって」
「おお、青春だな。良いなぁ。勉強? スポーツ? それとも恋?」
「貴生さん、面白がってるでしょ」
「いやいや、そんなことは」
貴生は、侑の前に座った。
「何観てんの? エロ動画?」
「んなもん、人前で観るわけないでしょ。バカなの貴生さん」
そう言いながら、侑はスマホの画面を貴生に向けた。チーターがガゼルを捉えようと前脚を伸ばすも、ガゼルがジャンプして華麗に避けたシーンだった。
「ああチーターか。コイツ、動物界で最速だし、瞬発力は凄いけど持久力が無いから獲物に逃げられるんだよな」
貴生のその言葉に、侑はまた唇を尖らせた。
「勝てないんだよなぁ……アイツに。マジで速いんだよな」
「部活か?」
「んーん俺は帰宅部」
侑は首を横に振った。
「俺、バイトの時間、けっこう早めに入れてるでしょ。だからギリギリになるから、学校終わったら即ダッシュしてるんだ。毎日走って一番最初に学校出るのがけっこう気分良かったんだけど、最近俺より速いヤツが追い越して行くようになってさ。そいつがその瞬間、毎回俺を見て笑うんだ」
貴生はそれを聞いて、呆れたような表情になった。
「何だよ、デッカイ溜め息ついてたし、もっと深刻なのかと思った。もっと速くなりたいってこと?」
「うん、まあそうだけど……それだけじゃないような……うーん……」
「なんだよ、やけに言葉を濁すじゃん」
「……そいつ、ガゼルが飛ぶみたいに、走ってる途中の公園の柵を軽く乗り越えるんだ。それでも俺より速くゴールするんだよなぁ。煽られてるよな、絶対。あー、笑ってる顔が頭から離れねぇ……」
貴生に聞かせたいと言うよりも、ほぼ独り言のように侑は呟いた。
「ストッティングみたいだな」
「何それ」
「諸説あるけどな。草食動物が捕食者から逃げる途中で脚を揃えて殆ど垂直にジャンプするのは“無駄な動きで速度を落としてもお前からは逃げられるよ”っていうのを見せつける行動とも言われてる」
「出たよ、貴生さんのウンチク」
「バーカ。博識って言え」
「……何がしたいんだ、アイツ」
不貞腐れたまま侑は言った。
「そいつが気になる?」
「……ムカつくから勝ちたい。負けっ放しは嫌だ」
「本当に勝ちたいだけか?」
「そーだよ」
「いやいや。単純に、ライバル相手なら“どうやって足を速くするか”とか勝ち方を考えるだろ? でも成瀬は、そいつが何をしたいのか分からんとか、柵越えがどうとか、わざわざ動画を探して観て、溜め息ついて、そいつの事をガゼルに例えたり……相手のことばかり気にしてる」
貴生は、ニヤニヤしながら侑の反応を見ている。
「……どういう意味」
貴生の態度に苛ついて、侑は刺々しい視線を彼に向けた。
「それって、恋じゃね?って意味」
思いもしなかった貴生の言葉に、侑は思わず勢い良く立ち上がった。
「んなわけあるか! だいたいアイツは……! アイツは……男なのに……」
だが、語尾は弱々しく消えていった。
「青春だな。眩しいねぇ」
コーヒーを啜りながら、貴生は目を細めた。
「学生時代って、在学中は長いって思うだろうけど。でも、3年なんてあっという間に過ぎちまう。光陰矢の如しだ。過ぎちまえば、そんな悩みも愛おしく思うんだよ。だから今を楽しみなよ、少年」
「……貴生のおじさん」
侑の、せめてもの反抗の言葉だ。
「おい、ふざけんなよ。俺まだ二十代なんだが?」
苦笑いしながら、貴生が言った。
時間になり、貴生はフロアに出て行った。
侑は、貴生に話す前よりもっと、釈然としない気持ちを抱える事になってしまった。
* * *
遅い夕食を済ませ、シャワーを浴び、適当に課題を片付けたら、ようやく自由時間だ。
2時25分。
侑は、クラスメイトの井口に『今いる?』とダメ元でLINEを送る。
すぐに既読が付き『静かの海の半月岬』と返事が来た。
パソコンの電源を入れ、Blood Moonにログインする。
侑はヘッドセットを装着し、マイクをオンにした。
「聞こえる?」
「おう。バイトお疲れ」
「どうも」
「数学の課題、終わった?」
「さっき何とか倒した」
「課題多くね? 鬼畜女王レェテネーヴ戦100回の方がマシ。ゲームやる時間が減るからダルいよな」
「だな」
「召喚するから、ちょっと待ってて」
Blood Moonは、ダークファンタジー・アクションRPGだ。広大なオープンワールドに、強敵がそこら中に配置されている。一瞬の判断ミスでの一撃死は当たり前の、いわゆる死にゲーだ。
ホストの「Ignis」に召喚されて、侑のキャラクターは静かの海の半月岬に飛んだ。
Ignisは、井口のゲーム内のキャラクターの名前だ。彼は「本名の井口と似てる響きで良いだろ」と言っていたが、侑は「イグ」しか合ってないと思っていた。
「もう遅いけどちょっとやりたくてさ。井口がまだやってて良かった」
「もう落ちるとこだったから間に合って良かった。どこ攻略する?」
井口は、画面の向こう側で、欠伸混じりに言った。
「今日は、サクッと出来るとこがいい」
「時間も限られてるしな。授業中寝たらやばいもんな」
「攻略よりもスッキリしたい。ちょっとむしゃくしゃしててさ」
「なら、破落戸達の住処かな。あそこは雑魚をなぎ倒すのが気持ち良いよな。ってか、むしゃくしゃってバイトで何かあった?」
バイト、と井口に言われて、侑は貴生の言葉を思い出す。
『それって、恋じゃね?』
──俺が、ガゼルに?
ありえないだろ。
「……バイトの先輩にちょっと揶揄われただけ」
「ふーん。ま、嫌がらせとかじゃないなら良いけど」
「そういうんじゃない。でも、俺の“勝ちたい”って気持ちを“恋”だとか、変なこと言うからさ」
「え、恋?! 今、恋って言った!? 何それ詳しく! うおお、眠気飛んだ!」
恋と聞いて、井口はガッツリ食い付いた。
「いやめんどくさいなイグニス。俺が放課後ダッシュで負け続けて悔しいって先輩に話したら“それって恋じゃね?”とか言われただけだって。んなわけないだろ。ほら、サクッと攻略して寝るから」
「……ふーん、なるほどねぇ」
見えないはずなのに、画面の向こうの井口の、ニヤついた顔が侑の目に浮かぶ。
侑は大きな溜め息をついた。
「なるほどじゃねぇよ、バーカ。めんどくさいな。話す気分じゃない」
そう言って、侑は破落戸達の住処へとファストトラベルした。
「まあそう言わずにさ。ここ攻略する間に聞くから」
そう言いながら、井口もファストトラベルして侑のキャラクターの前に現れ、耳を澄ますエモートを繰り返している。それを見て侑は「うぜぇ」と言いながら、笑った。
「ぜってー言わねぇ」
侑も侑で、イグニスに向かって攻撃モーションを繰り返す。
「えぇー。いいじゃん。聞かせろよ」
「やだよ」
侑は、井口にバイト先での出来事を話すんじゃなかったな、と後悔しながら、八つ当たりのような冷静さを欠いたゴリ押しプレイをした。
「おいおい、侑! 突っ込みすぎ。自重しろって。下がれ下がれ。回復してやるから」
井口の焦った声が聞こえても、侑は敵の中心に突っ込んで暴れて大技を繰り出し続けた。魔力ゲージが無くなって、技が出せなくなった。回復薬も直ぐに尽きた。HPがゼロになって、あっけなく死んでしまった。画面が暗転し、真紅の文字で『DEFEATED』と表示された後、破落戸達の住処の外に放り出されるようにリスポーンされた。
「ああー、クソッ!」
侑は、手の平でデスクを叩いた。
「荒れてんなぁ。もう一回やる? これじゃスッキリしてないだろ」
ヘッドセット越しに、軽く笑いながら言う井口も、不完全燃焼だったらしい。
「いや、いい。付き合ってくれてサンキュ。ごめん、もう落ちるわ」
「オッケー。明日、聞かせてくれ。じゃあな」
「だからもう、その話はいいって。おやすみ」
侑はヘッドセットを外し、ベッドに倒れ込む。
井口は笑っていたけれど、井口に対して嫌な態度を取ってしまったな、と後悔した。
──ガゼルが現れてから、調子狂ってばっかだ──。
* * *
たまに桜井が来ない独走状態の日がある。一番に正門を抜ける快感はあるのに、何だか物足りなく感じた。
──つまんないな。
いやいや、あのムカつく顔を見ないで済んで、せいせいするだろ!
──いや、違うな。アイツに勝ち逃げされたままじゃスッキリしない。
──だから、ガゼルが走って来ればいいのに。
今日も、侑は神社の鳥居を抜け、バイト先のファミレスに向かって走る。
けれど、ここで桜井の背中を見送らずにいることが、こんなに心の中が空っぽに感じるとは思いもよらなかった。
それから、桜井に一度も勝てないまま、さらに数日が過ぎた。
今日も桜井は柑橘類のような爽やかな香りと共に現れ、一陣の風のように侑|《たすく》を追い抜いていった。
正門前で桜井が横をすり抜けた。
──あっ! クソッ!
相変わらず、桜井は追い抜く一瞬、侑を見て口角を上げる。
煽られているようで、それが気に入らない。
気に入らないのに、気になって仕方がない。何故こんなに矛盾した感情を抱くのか。それがわからないから、余計に気が立つ。そうなると、侑は途端に余裕を失くす。息を上手く吸えなくなる。だから、さらに桜井に遅れを取る。
──前はこんなじゃなかったのに!
侑は、桜井の背中を睨みつけた。
桜井は後ろの侑を気にしながらも、侑に走りを見せつけているかのようだ。
──何なんだよ!? 何がしたいんだ、コイツは!
桜井は、公園の入り口の、塗装の剥げかかった柵に両手をつき、腕の間に揃えた両足を通して前へ投げ出した。ふわっと浮いた身体は、重力を感じさせなかった。ヒラリと柵を乗り越え、着地し、勢いを殺さずに駆けていく。
──マジか! パルクールかよ!? どういう運動神経してんだ!?
侑は柵を横に避けながら、必死になって後を追う。
──いつかテレビで見た、サバンナの草食動物みたいだ。何だっけ。ガゼル……トムソンガゼルだっけ?
そんな考えが浮かぶ。
今日もゴール地点の神社の鳥居を、桜井の方が先に駆け抜けていった。
侑は呼吸を整えながら、遠ざかる桜井の背中を見送った。
✳ ✳ ✳
バイトの上がりの時間になって、制服を着替え、タイムカードを押した。スタッフルームの真ん中に設置されている白い大きなテーブルに付き、珍しく、ぐずぐずと帰宅時間を伸ばしていた。
ふと、思い立ったようにスマホを取り出し、
──ト、ム、ソ、ン、ガ、ゼ、ル。
と、動画サイトの検索窓に、文字を打ち込む。
跳躍するガゼルの、躍動感のあるサムネイルのものを選んで再生した。
スマホの画面の中で、チーターがトムソンガゼルを追いかけていた。字幕には、チーターの最高時速は120kmに達すると書かれていた。
チーターが音もなく忍び寄ると、ガゼルは耳をピクリとさせ、突然走り出した。それを追いかけたチーターは一瞬で距離を詰めた。でも、ガゼルに前脚が届きそうだったのに──、ガゼルはひらりと躱してあっさり逃げおおせる。ガゼルのその身のこなしは、公園での桜井の柵越えを連想させた。
──アイツはヒョロガリで、手脚が長い。
姿形は全く違うのに。
それでも、走るときのあの軽さは、やっぱりガゼルみたいだ。
ガゼルは優雅にジャンプしながらチーターの脚では追いつけない場所まで遠ざかって行って、その姿は小さな点のようになって、草の中に紛れて消えた。
チーターは狩りに失敗して、不貞腐れたように草原に座り込んでしまった。
「なんかこのチーター、俺みたいだな」
自虐的な呟きと共に大きな溜め息が漏れた。
侑は、テーブルの上にだらりと上半身を預けながら口を尖らせた。
「成瀬、でっかい溜め息ついて、どしたん? 話聞こか?」
出勤してきた貴生が、ロッカーを閉じながら言った。
「何でもない」
「貴生お兄さんに話してごらん?」
冗談めかして、貴生が言う。
背を向けている侑は気づいていないが、貴生の目は心配そうだった。侑は、まだチーターとガゼルの追いかけっこから目を離さないままだ。
「……ま、無理に言わなくても良いけどさ」
「どうしても勝てないヤツがいて、悔しいなって」
「おお、青春だな。良いなぁ。勉強? スポーツ? それとも恋?」
「貴生さん、面白がってるでしょ」
「いやいや、そんなことは」
貴生は、侑の前に座った。
「何観てんの? エロ動画?」
「んなもん、人前で観るわけないでしょ。バカなの貴生さん」
そう言いながら、侑はスマホの画面を貴生に向けた。チーターがガゼルを捉えようと前脚を伸ばすも、ガゼルがジャンプして華麗に避けたシーンだった。
「ああチーターか。コイツ、動物界で最速だし、瞬発力は凄いけど持久力が無いから獲物に逃げられるんだよな」
貴生のその言葉に、侑はまた唇を尖らせた。
「勝てないんだよなぁ……アイツに。マジで速いんだよな」
「部活か?」
「んーん俺は帰宅部」
侑は首を横に振った。
「俺、バイトの時間、けっこう早めに入れてるでしょ。だからギリギリになるから、学校終わったら即ダッシュしてるんだ。毎日走って一番最初に学校出るのがけっこう気分良かったんだけど、最近俺より速いヤツが追い越して行くようになってさ。そいつがその瞬間、毎回俺を見て笑うんだ」
貴生はそれを聞いて、呆れたような表情になった。
「何だよ、デッカイ溜め息ついてたし、もっと深刻なのかと思った。もっと速くなりたいってこと?」
「うん、まあそうだけど……それだけじゃないような……うーん……」
「なんだよ、やけに言葉を濁すじゃん」
「……そいつ、ガゼルが飛ぶみたいに、走ってる途中の公園の柵を軽く乗り越えるんだ。それでも俺より速くゴールするんだよなぁ。煽られてるよな、絶対。あー、笑ってる顔が頭から離れねぇ……」
貴生に聞かせたいと言うよりも、ほぼ独り言のように侑は呟いた。
「ストッティングみたいだな」
「何それ」
「諸説あるけどな。草食動物が捕食者から逃げる途中で脚を揃えて殆ど垂直にジャンプするのは“無駄な動きで速度を落としてもお前からは逃げられるよ”っていうのを見せつける行動とも言われてる」
「出たよ、貴生さんのウンチク」
「バーカ。博識って言え」
「……何がしたいんだ、アイツ」
不貞腐れたまま侑は言った。
「そいつが気になる?」
「……ムカつくから勝ちたい。負けっ放しは嫌だ」
「本当に勝ちたいだけか?」
「そーだよ」
「いやいや。単純に、ライバル相手なら“どうやって足を速くするか”とか勝ち方を考えるだろ? でも成瀬は、そいつが何をしたいのか分からんとか、柵越えがどうとか、わざわざ動画を探して観て、溜め息ついて、そいつの事をガゼルに例えたり……相手のことばかり気にしてる」
貴生は、ニヤニヤしながら侑の反応を見ている。
「……どういう意味」
貴生の態度に苛ついて、侑は刺々しい視線を彼に向けた。
「それって、恋じゃね?って意味」
思いもしなかった貴生の言葉に、侑は思わず勢い良く立ち上がった。
「んなわけあるか! だいたいアイツは……! アイツは……男なのに……」
だが、語尾は弱々しく消えていった。
「青春だな。眩しいねぇ」
コーヒーを啜りながら、貴生は目を細めた。
「学生時代って、在学中は長いって思うだろうけど。でも、3年なんてあっという間に過ぎちまう。光陰矢の如しだ。過ぎちまえば、そんな悩みも愛おしく思うんだよ。だから今を楽しみなよ、少年」
「……貴生のおじさん」
侑の、せめてもの反抗の言葉だ。
「おい、ふざけんなよ。俺まだ二十代なんだが?」
苦笑いしながら、貴生が言った。
時間になり、貴生はフロアに出て行った。
侑は、貴生に話す前よりもっと、釈然としない気持ちを抱える事になってしまった。
* * *
遅い夕食を済ませ、シャワーを浴び、適当に課題を片付けたら、ようやく自由時間だ。
2時25分。
侑は、クラスメイトの井口に『今いる?』とダメ元でLINEを送る。
すぐに既読が付き『静かの海の半月岬』と返事が来た。
パソコンの電源を入れ、Blood Moonにログインする。
侑はヘッドセットを装着し、マイクをオンにした。
「聞こえる?」
「おう。バイトお疲れ」
「どうも」
「数学の課題、終わった?」
「さっき何とか倒した」
「課題多くね? 鬼畜女王レェテネーヴ戦100回の方がマシ。ゲームやる時間が減るからダルいよな」
「だな」
「召喚するから、ちょっと待ってて」
Blood Moonは、ダークファンタジー・アクションRPGだ。広大なオープンワールドに、強敵がそこら中に配置されている。一瞬の判断ミスでの一撃死は当たり前の、いわゆる死にゲーだ。
ホストの「Ignis」に召喚されて、侑のキャラクターは静かの海の半月岬に飛んだ。
Ignisは、井口のゲーム内のキャラクターの名前だ。彼は「本名の井口と似てる響きで良いだろ」と言っていたが、侑は「イグ」しか合ってないと思っていた。
「もう遅いけどちょっとやりたくてさ。井口がまだやってて良かった」
「もう落ちるとこだったから間に合って良かった。どこ攻略する?」
井口は、画面の向こう側で、欠伸混じりに言った。
「今日は、サクッと出来るとこがいい」
「時間も限られてるしな。授業中寝たらやばいもんな」
「攻略よりもスッキリしたい。ちょっとむしゃくしゃしててさ」
「なら、破落戸達の住処かな。あそこは雑魚をなぎ倒すのが気持ち良いよな。ってか、むしゃくしゃってバイトで何かあった?」
バイト、と井口に言われて、侑は貴生の言葉を思い出す。
『それって、恋じゃね?』
──俺が、ガゼルに?
ありえないだろ。
「……バイトの先輩にちょっと揶揄われただけ」
「ふーん。ま、嫌がらせとかじゃないなら良いけど」
「そういうんじゃない。でも、俺の“勝ちたい”って気持ちを“恋”だとか、変なこと言うからさ」
「え、恋?! 今、恋って言った!? 何それ詳しく! うおお、眠気飛んだ!」
恋と聞いて、井口はガッツリ食い付いた。
「いやめんどくさいなイグニス。俺が放課後ダッシュで負け続けて悔しいって先輩に話したら“それって恋じゃね?”とか言われただけだって。んなわけないだろ。ほら、サクッと攻略して寝るから」
「……ふーん、なるほどねぇ」
見えないはずなのに、画面の向こうの井口の、ニヤついた顔が侑の目に浮かぶ。
侑は大きな溜め息をついた。
「なるほどじゃねぇよ、バーカ。めんどくさいな。話す気分じゃない」
そう言って、侑は破落戸達の住処へとファストトラベルした。
「まあそう言わずにさ。ここ攻略する間に聞くから」
そう言いながら、井口もファストトラベルして侑のキャラクターの前に現れ、耳を澄ますエモートを繰り返している。それを見て侑は「うぜぇ」と言いながら、笑った。
「ぜってー言わねぇ」
侑も侑で、イグニスに向かって攻撃モーションを繰り返す。
「えぇー。いいじゃん。聞かせろよ」
「やだよ」
侑は、井口にバイト先での出来事を話すんじゃなかったな、と後悔しながら、八つ当たりのような冷静さを欠いたゴリ押しプレイをした。
「おいおい、侑! 突っ込みすぎ。自重しろって。下がれ下がれ。回復してやるから」
井口の焦った声が聞こえても、侑は敵の中心に突っ込んで暴れて大技を繰り出し続けた。魔力ゲージが無くなって、技が出せなくなった。回復薬も直ぐに尽きた。HPがゼロになって、あっけなく死んでしまった。画面が暗転し、真紅の文字で『DEFEATED』と表示された後、破落戸達の住処の外に放り出されるようにリスポーンされた。
「ああー、クソッ!」
侑は、手の平でデスクを叩いた。
「荒れてんなぁ。もう一回やる? これじゃスッキリしてないだろ」
ヘッドセット越しに、軽く笑いながら言う井口も、不完全燃焼だったらしい。
「いや、いい。付き合ってくれてサンキュ。ごめん、もう落ちるわ」
「オッケー。明日、聞かせてくれ。じゃあな」
「だからもう、その話はいいって。おやすみ」
侑はヘッドセットを外し、ベッドに倒れ込む。
井口は笑っていたけれど、井口に対して嫌な態度を取ってしまったな、と後悔した。
──ガゼルが現れてから、調子狂ってばっかだ──。
* * *
たまに桜井が来ない独走状態の日がある。一番に正門を抜ける快感はあるのに、何だか物足りなく感じた。
──つまんないな。
いやいや、あのムカつく顔を見ないで済んで、せいせいするだろ!
──いや、違うな。アイツに勝ち逃げされたままじゃスッキリしない。
──だから、ガゼルが走って来ればいいのに。
今日も、侑は神社の鳥居を抜け、バイト先のファミレスに向かって走る。
けれど、ここで桜井の背中を見送らずにいることが、こんなに心の中が空っぽに感じるとは思いもよらなかった。
それから、桜井に一度も勝てないまま、さらに数日が過ぎた。
