井口は「悪い、言い過ぎた。寝るわ」と言ってログアウトした。
深夜二時過ぎの、静か過ぎる部屋の居心地は悪い。侑は動画サイトを開いた。
好きな曲を集めたプレイリストから、音楽動画を再生する。
跳ねるようなピアノのイントロのあと、透き通るようなハイトーンの女性ボーカルの歌声が耳に流れ込む。
気持ちに名前が付いたんだ
気づいちゃったんだ 真っ赤になったんだ
それはとても明るくて
夜になっても眩しくて眠れやしなかった
目を閉じても君、君、君
残像ばっか 脳裏で責め立てる
君が握った僕の心臓が痛いんだ
放してよ 話せない 離れられないよ
ぐずぐず愚にもつかないの
疚しさ50% 確かにそうです認めます
嗚呼、青白くなってもう現実が始まる時間
素知らぬ顔でまた会えるかな
何となく好きなだけで、侑は今まで歌詞の意味を考えたことがなかった。
——“好き”って直接言ってないけど、恋してる歌だ……。
今まで分からなかったはずの歌詞が、急に自分の為に書かれたもののように聞こえて、侑は戸惑った。記号の羅列のようだった言葉たちが、意味を持って胸を締め付けてくる。
“気持ちに名前が付いたんだ”
さっき、桜井が好きだと自覚した。
“夜になっても眩しくて眠れない”
まさに今。
そして“ぐずぐず愚にもつかない“のは自分の心。
──全部俺じゃん……。
心の中を暴かれるような気がして、最後まで聴くことに耐えきれず、ヘッドホンを外してベッドにダイブした。
眠ろうと思っても、胸のざわつきは一向に収まらない。
どんな姿勢になっても身の置き場が無くて、ベッドの中で何度も体勢を変えた。
『じゃあ、僕らはライバルだね』
『僕とカケちゃんの間には、成瀬くんが知らない二人だけの時間が今も続いてる』
『そんなんで勝てると思わないでよね』
悠貴の言葉が、頭の中で不快な音が鳴り響くようにリフレインする。
──うるせえよ! 知ってるよそんなの!
『侑は黙って指を咥えて見てるだけってことだな。その幼馴染に桜井が奪われていくのを』
『臆病風に吹かれて震えてろ!』
『手が届きそうな幸せを掴もうとしないお前が嫌だ!』
今度は井口の声がぐるぐると回り出す。
──分かってるって!
分かってる! けど……!
侑は、シーツをぎゅっと握りしめた。
『いなくならないよ』
『さっき会ったばっかだけど、もう成瀬に会いたい』
『帰宅部結成する前から本当は……』
桜井の声まで脳内で再生され始めた。
──桜井、俺も会いたい。
なあ、あのとき何て言おうとした?
退院したら、俺も、話したいことがある。
でも、怖いよ……。
* * *
まんじりともしないまま、夜明けを迎えた。
カーテンの隙間から部屋に一筋の光が差し込み、侑の顔に当たる。侑は眩しさに目を細めながら枕元のスマホを手に取って時間を確認した。ゆっくりと起き上がり、カーテンを開けた。
「嗚呼 青白くなって現実がはじまる」
小さく口ずさんだら、ふっと笑みが溢れた。
──こんなとこまで歌と同じかよ。
一階に降りて冷たい水で顔を洗う。
「おはよ」
キッチンに立つ母親に挨拶をし、冷蔵庫を開け、眠気覚ましにエナジードリンクを飲む。
「朝ごはんできてるよ」
テーブルにはトーストと目玉焼きにレタスが添えてあった。
「侑がバイト始めてお弁当要らないって言ってくれて助かるけど、ちゃんとお昼食べてる?」
「いただきます。うん。食ってる」
「バイトも良いけど勉強もちゃんとしなさいよ」
「分かってる」
侑はうんざりしながら朝食を済ませ、家を出た。
教室に入ると、井口がロッカーにリュックを詰めていた。
昨夜、井口に言われたことが引っかかって、どんな顔をすれば良いのか迷った。
「……おはよ」
侑が戸惑いながら声をかけると、井口もどうやら同じだったらしい。
「……おう。おはよ」
視線が一瞬ぶつかって、すぐに逸れた。いつもの軽いノリが完全に抜け落ちていて、二人ともぎこちない。
そんな二人のことを、上野が心配そうな顔で見ていた。
侑が席に着くと、井口はぐるりと振り返り、机の真ん中にレモンティーのブリックパックを置いた。
「何?」
侑が聞くと、井口は「昨日、なんか変な感じでゲーム終わらせちまったから」と素っ気なく言って、すぐに前を向いてしまった。
「ありがとな」
侑は井口の背中に向かって言った。井口は振り返らずに、軽く手を上げただけだった。
ブリックパックにストローを差し込み、スマホを取り出す。
桜井に、おはようのスタンプを送った。瞬時に既読がつき、桜井からスタンプが返ってきた。
『もうすぐ授業 古典眠くなる』
桜井はまたすぐにスタンプを送ってきた。猫がフライパンを叩きながら「起きろ」と言っている。侑は思わず笑ってしまった。
井口は上野と二人で話をしていた。侑がふと顔を上げると、井口の肩越しに上野と目が合った。彼は気まずそうに笑った。侑は立ち上がり、二人の側に行った。
「何の話?」
上野は『影も形も』というタイトルの文庫本を侑に見せた。
タイトルを見て、侑は思い出した。店長がくれた映画のチケットと同じだ。昨日、桜井を誘えなかったことを思い出し、侑は自分の優柔不断さにうんざりした。
「気になりすぎて一気読みした」
井口は言った。
「どんな話?」
侑が聞くと、上野は文庫本をパラパラと捲りながらあらすじを話す。
「被害者不明の殺人事件が起きるんだ。トラウマ持ちのベテラン不良刑事とエリート新人刑事のデコボコバディものだよ。井口と成瀬みたいな」
「どっちが俺? 俺がエリート新人刑事でデコだよな?」
井口が笑いながら言った。
「どの辺がエリートだよ」
侑が肘で井口を突付く。
「俺がエリートだよな?」
井口が上野に詰め寄ると、上野は引きつった笑顔になっていた。
──なんか、いつも通りって感じで安心する。
でも──。
どうしてもざわつく胸を誤魔化せない。侑は上野が差し出した文庫本を手に取り、パラパラと捲って読んでいるふりをした。実際は上の空で目が滑って文章が理解できない。けれど『桜』という文字にだけは反応してしまう。
──桜井、今なにしてるかな。
侑は文庫本を机に置いて、ポケットからスマホを取り出した。
既読はついているのに、桜井からの返信は無かった。
「来週、映画公開だよね。観たいな」
上野が呟いた。
桜井を誘う勇気がないから、つい「チケットあるからあげるよ。井口と行ってくれば?」と言ってしまった。
井口の眉が、ピクリと動いた。
「いや、上野と観には行くけどチケットはいい」
井口はきっぱりと言った。
「そうそう、悪いよチケット貰っちゃったらさ!」
上野が言った。
「でもタダで貰ったやつだし」
「成瀬」
井口の声が、冷たく突き放すように聞こえた。
「分かってるだろ」
侑は、答えられなかった。
「俺らはいつ行こっか」
井口は上野と予定をすり合わせ始めた。
昼は、上野も一緒にいつもの体育館前のコンクリートの段に行き、三人で昼食を摂った。
侑は左手に焼きそばパン、右手でスマホを持ち、桜井とLINEのやり取りをし、井口と上野は小説の話をしている。
『今なにしてる?』
侑は桜井に送信した。
今度はすぐに既読がつき『昼飯』と返事がきた。
『退院前の説明聞いたり検査したりで忙しかった』
──そうか、もう退院なんだ。桜井に会えるんだ。
『退院は何時?』
侑は退院の時に会いに行くつもりで聞いた。ところが、桜井からの返信は『昼前』だった。
「あーっ! クソッ! 間に合わないじゃん!」
侑がスマホを握りしめたまま叫ぶと、上野は驚いて「どうした、成瀬?」と言った。
「ほっといていいよ」
井口は笑った。
* * *
いよいよ明日退院か、と思うと気持ちが焦る。悠貴は桜井が退院して体調が落ち着いたら告白すると言っていた。
侑はリュックのチェストベルトを嵌め、靴紐をぎゅっと結び校庭へと駆け出す。
──告白するとしたら、直接言いたい。でも、それまで待ってて大丈夫なのか?
……桜井が悠貴の告白を受け入れるかは分からない。もちろん、それは俺も同じだし……。
井口があれだけ言ってくれたのに、情けねぇな。
走っても走っても、モヤモヤした気持ちは振り切れない。
そのうち、バイト先のファミレスが見えてきた。
──とりあえず、今はバイトに集中!
侑は裏口のドアを開けた。
バイトが始まる。
自分がどう動いていたか思い出せないほど忙しいピークタイムを何とかこなし、タイムカードを押して、スマホを握ったまま、すぐ店を出る。
出た瞬間、通話ボタンをタップする。ワンコールで桜井の声が聞こえた。
「お疲れ様」
昨日よりも声に少し元気が出てきた気がする。本当にもう桜井は大丈夫なんだ、と安心する。
「桜井も入院お疲れ様」
「なにそれ」
桜井が笑うと耳元が擽ったい。
顔が熱くなるのが分かって、侑は無意識に左手で顔を扇ぐ。
「いやさ、明日シャバに出てこれるじゃん?」
「シャバって」
また桜井がくすくす笑う。
「お勤めご苦労さまです!」
「昔のヤクザ映画みたい。明日、病院の前でやってよ」
「行きたいけど、まだ学校だし」
「残念。出所飯は成瀬の特盛りポテトが良かったなぁ」
冗談を言いつつも、桜井の寂しそうな声に心が揺らぐ。
「……悠貴ってさ、今日もお見舞い来た?」
「悠貴? うん。来たよ」
「……そっか」
悠貴が、病院に来た。その言葉を聞いたとき、侑の心に現実が伸し掛かる。やはり、悠貴は当然のように桜井の隣にいるのだ。
「どうかした?」
「ううん、別に」
悠貴のこと、どう思ってる?
ただの幼馴染?
それとも特別?
聞きたいのに、聞けない。
喉の奥に言葉がつっかえて、掠れた息が漏れた。
「どうした?」
桜井の優しい声がした。侑は平静を装って「なんでもない」と答えた。
「そう? なら良いんだけど」
「うん。大丈夫。退院したら、すぐ学校来れるの?」
「3日くらい休むかな、たぶん」
「そっか。まあそうだよな」
「特盛りポテトはもう少し先みたい」
「そのときは腹がはち切れるほど食わせてやるよ」
「そんなこと言っていいの? 味気ない病院食で溜まりに溜まった、僕のポテトへの欲望を全解放しても?」
桜井は笑った。
「店のポテト全部食い尽くすか?」
侑も笑った。
「全部食って出禁になったらやだな」
「食うのかよ!」
軽口を叩けるのに、会いたいとか寂しいとか、悠貴との関係とか、そういう言葉は口に出せない。でも、桜井は寝る前の通話の相手を、悠貴ではなく自分を選んでくれた。それだけが、今の侑の拠り所だった。
* * *
「荷物が届いたんだけど、またゲーム?」
侑が帰宅すると、キッチンから母親の声がした。
侑は急いでキッチンに行き、段ボール箱を見つけて大事そうに抱えた。
「バイト代は貯めておきなさいって言ったでしょ」
「分かってる」
侑はそそくさと自室に逃げた。
爪でガムテープの端を引っ掻き、一気に剥がす。金の箔押しでBlood Moonと書かれた黒い箱。中身はレェテネーヴのマグカップで、熱湯を注ぐとルーキフェルの絵に変わる。それから、気泡緩衝材で厳重に包まれたレェテネーヴのアクリルスタンド。
「思ったよりデカいな……」
最後に取り出したのは、不気味な装飾が施されたプラスチックの容器だ。安っぽい質感だが、ゲームの中に出てくる壺のデザインそのままだった。
壺の中身は“夜啼き鴉の目玉グミ”だ。これは完全にネタ枠だ。『食ったら人間性を失いそう』とか『人間やめたいから食べる』などと言われ、ファンの間で話題になって、一時期入手困難だった。
「良いタイミングで再販かかったな」
目玉グミを見た桜井がどんな顔をするのかを想像すると、自然に頬が緩んだ。
退院祝いだから、包装紙か何かでラッピングしたかった。だが、綺麗な紙など侑の部屋にはない。侑はクローゼットを漁り、持ち手がついたクラフト紙の紙袋を発見した。
「これでいいか」
グッズを丁寧に紙袋に詰め、パソコンデスクの横に置いた。
映画のチケットも一緒に紙袋に入れようとしたが、迷った末にやめた。
──桜井は喜んでくれる……はず。
少しだけ不安が残るのは、悠貴の言葉が毒のように侑をじわじわと蝕んでいるからだ。
「俺なら小さい頃から一緒だったから、カケちゃんのことは、よく分かってる。好きなものも嫌いなものも」という悠貴の言葉が頭の中で渦巻く。
——俺はイケメンじゃないし、可愛くもないし、これと言って凄いものもないし、俺なんかが……。
──すぐ、不安になる──。
桜井を好きな気持ちは揺るがなくとも、侑の自信はグラグラして悪い方へ傾いてしまう。
でも今の侑を繋ぎ止めているのは、胸の奥でずっと、じりじりと燻っている小さな熱だ。
「……好きだ」
声に出してみた。そうしたら、胸の中の温度が上がっていくのが分かって、侑はもう一度声に出した。
「……桜井が、好きだ……」
——桜井も、そうだったらいいのに。
自己肯定感は低いのに、欲だけがどんどん膨らんでいく。
もっと桜井の顔が見たい。
もっと桜井の声が聞きたい。
桜井のそばに行きたい。
悠貴に取られたくない。
俺の桜井でいて欲しい──。
そんな欲が溢れ出しそうになって、でもそれが怖くて——、侑は座り込んで膝を抱えた。
侑のスマホがポンと鳴った。
蹲ったまま、ポケットから取り出す。
——桜井……まだ起きてたんだ……。
『寝れねぇ』
たった一言だった。
でも、侑の沈んだ心はそれだけで浮上する。
『羊でも数えとけ』
ふっと笑いがこみ上げる。
すぐに桜井から返信がくる。
『明日、退院だと思うとなんか寝れない』
『遠足前の小学生かよ』
侑は、リュックを背負った猫のスタンプも送信した。
『すぐじゃないけど、侑に会えると思うとさ』
——あ……“侑”って……。
画面を見つめたまま、侑の指が止まる。
——いきなりそれはずるいだろ……。
侑はスマホを持ったまま、また蹲って膝の間に顔を埋めた。
——いや、友達なんだから、名前で呼んだって別に……。
でも、井口は俺のこと成瀬って呼ぶし、上野だって、他のみんなも……。
自意識過剰だとは思う。
けれど、もしも、と侑は思ってしまう。
——もしも、桜井も俺のことを好きだとしたら——。
Blood Moonが『好き』って言ったのも、そっちから通話切ってって言ったのも、会いたくなった、って言ったのも全部……。
だったら、俺……。
『早く侑とBlood Moonやりたい。やれてないから腕鈍ってるかも』
桜井からのメッセージを見て、侑は深く息を吐いた。
——俺の思い上がりかも——。
『一緒にやろう。楽しみ』
そう送るのが精一杯だった。
『おやすみ』
それで桜井のLINEは途絶えてしまった。
——あーあ……。
俺も寝れなくなっちまった……。
桜井のせいだ……。
スマホの画面の、桜井からのメッセージを読み返す。
胸がギュッと締め付けられて切ないような、でも温かくて幸せなような、言葉に出来ない感情に飲まれそうになる。
──俺も“駆”って呼んだら、桜井はどう思うかな……。
……言ってみようかな……。
「……駆……」
口に出すと、生々しい感情が一緒に溢れ出そうになる。
「駆、好きだよ……」
目頭が熱くなって、侑は抱えた膝に目を押し当てた。零れた涙は、制服のズボンに吸われていった。
深夜二時過ぎの、静か過ぎる部屋の居心地は悪い。侑は動画サイトを開いた。
好きな曲を集めたプレイリストから、音楽動画を再生する。
跳ねるようなピアノのイントロのあと、透き通るようなハイトーンの女性ボーカルの歌声が耳に流れ込む。
気持ちに名前が付いたんだ
気づいちゃったんだ 真っ赤になったんだ
それはとても明るくて
夜になっても眩しくて眠れやしなかった
目を閉じても君、君、君
残像ばっか 脳裏で責め立てる
君が握った僕の心臓が痛いんだ
放してよ 話せない 離れられないよ
ぐずぐず愚にもつかないの
疚しさ50% 確かにそうです認めます
嗚呼、青白くなってもう現実が始まる時間
素知らぬ顔でまた会えるかな
何となく好きなだけで、侑は今まで歌詞の意味を考えたことがなかった。
——“好き”って直接言ってないけど、恋してる歌だ……。
今まで分からなかったはずの歌詞が、急に自分の為に書かれたもののように聞こえて、侑は戸惑った。記号の羅列のようだった言葉たちが、意味を持って胸を締め付けてくる。
“気持ちに名前が付いたんだ”
さっき、桜井が好きだと自覚した。
“夜になっても眩しくて眠れない”
まさに今。
そして“ぐずぐず愚にもつかない“のは自分の心。
──全部俺じゃん……。
心の中を暴かれるような気がして、最後まで聴くことに耐えきれず、ヘッドホンを外してベッドにダイブした。
眠ろうと思っても、胸のざわつきは一向に収まらない。
どんな姿勢になっても身の置き場が無くて、ベッドの中で何度も体勢を変えた。
『じゃあ、僕らはライバルだね』
『僕とカケちゃんの間には、成瀬くんが知らない二人だけの時間が今も続いてる』
『そんなんで勝てると思わないでよね』
悠貴の言葉が、頭の中で不快な音が鳴り響くようにリフレインする。
──うるせえよ! 知ってるよそんなの!
『侑は黙って指を咥えて見てるだけってことだな。その幼馴染に桜井が奪われていくのを』
『臆病風に吹かれて震えてろ!』
『手が届きそうな幸せを掴もうとしないお前が嫌だ!』
今度は井口の声がぐるぐると回り出す。
──分かってるって!
分かってる! けど……!
侑は、シーツをぎゅっと握りしめた。
『いなくならないよ』
『さっき会ったばっかだけど、もう成瀬に会いたい』
『帰宅部結成する前から本当は……』
桜井の声まで脳内で再生され始めた。
──桜井、俺も会いたい。
なあ、あのとき何て言おうとした?
退院したら、俺も、話したいことがある。
でも、怖いよ……。
* * *
まんじりともしないまま、夜明けを迎えた。
カーテンの隙間から部屋に一筋の光が差し込み、侑の顔に当たる。侑は眩しさに目を細めながら枕元のスマホを手に取って時間を確認した。ゆっくりと起き上がり、カーテンを開けた。
「嗚呼 青白くなって現実がはじまる」
小さく口ずさんだら、ふっと笑みが溢れた。
──こんなとこまで歌と同じかよ。
一階に降りて冷たい水で顔を洗う。
「おはよ」
キッチンに立つ母親に挨拶をし、冷蔵庫を開け、眠気覚ましにエナジードリンクを飲む。
「朝ごはんできてるよ」
テーブルにはトーストと目玉焼きにレタスが添えてあった。
「侑がバイト始めてお弁当要らないって言ってくれて助かるけど、ちゃんとお昼食べてる?」
「いただきます。うん。食ってる」
「バイトも良いけど勉強もちゃんとしなさいよ」
「分かってる」
侑はうんざりしながら朝食を済ませ、家を出た。
教室に入ると、井口がロッカーにリュックを詰めていた。
昨夜、井口に言われたことが引っかかって、どんな顔をすれば良いのか迷った。
「……おはよ」
侑が戸惑いながら声をかけると、井口もどうやら同じだったらしい。
「……おう。おはよ」
視線が一瞬ぶつかって、すぐに逸れた。いつもの軽いノリが完全に抜け落ちていて、二人ともぎこちない。
そんな二人のことを、上野が心配そうな顔で見ていた。
侑が席に着くと、井口はぐるりと振り返り、机の真ん中にレモンティーのブリックパックを置いた。
「何?」
侑が聞くと、井口は「昨日、なんか変な感じでゲーム終わらせちまったから」と素っ気なく言って、すぐに前を向いてしまった。
「ありがとな」
侑は井口の背中に向かって言った。井口は振り返らずに、軽く手を上げただけだった。
ブリックパックにストローを差し込み、スマホを取り出す。
桜井に、おはようのスタンプを送った。瞬時に既読がつき、桜井からスタンプが返ってきた。
『もうすぐ授業 古典眠くなる』
桜井はまたすぐにスタンプを送ってきた。猫がフライパンを叩きながら「起きろ」と言っている。侑は思わず笑ってしまった。
井口は上野と二人で話をしていた。侑がふと顔を上げると、井口の肩越しに上野と目が合った。彼は気まずそうに笑った。侑は立ち上がり、二人の側に行った。
「何の話?」
上野は『影も形も』というタイトルの文庫本を侑に見せた。
タイトルを見て、侑は思い出した。店長がくれた映画のチケットと同じだ。昨日、桜井を誘えなかったことを思い出し、侑は自分の優柔不断さにうんざりした。
「気になりすぎて一気読みした」
井口は言った。
「どんな話?」
侑が聞くと、上野は文庫本をパラパラと捲りながらあらすじを話す。
「被害者不明の殺人事件が起きるんだ。トラウマ持ちのベテラン不良刑事とエリート新人刑事のデコボコバディものだよ。井口と成瀬みたいな」
「どっちが俺? 俺がエリート新人刑事でデコだよな?」
井口が笑いながら言った。
「どの辺がエリートだよ」
侑が肘で井口を突付く。
「俺がエリートだよな?」
井口が上野に詰め寄ると、上野は引きつった笑顔になっていた。
──なんか、いつも通りって感じで安心する。
でも──。
どうしてもざわつく胸を誤魔化せない。侑は上野が差し出した文庫本を手に取り、パラパラと捲って読んでいるふりをした。実際は上の空で目が滑って文章が理解できない。けれど『桜』という文字にだけは反応してしまう。
──桜井、今なにしてるかな。
侑は文庫本を机に置いて、ポケットからスマホを取り出した。
既読はついているのに、桜井からの返信は無かった。
「来週、映画公開だよね。観たいな」
上野が呟いた。
桜井を誘う勇気がないから、つい「チケットあるからあげるよ。井口と行ってくれば?」と言ってしまった。
井口の眉が、ピクリと動いた。
「いや、上野と観には行くけどチケットはいい」
井口はきっぱりと言った。
「そうそう、悪いよチケット貰っちゃったらさ!」
上野が言った。
「でもタダで貰ったやつだし」
「成瀬」
井口の声が、冷たく突き放すように聞こえた。
「分かってるだろ」
侑は、答えられなかった。
「俺らはいつ行こっか」
井口は上野と予定をすり合わせ始めた。
昼は、上野も一緒にいつもの体育館前のコンクリートの段に行き、三人で昼食を摂った。
侑は左手に焼きそばパン、右手でスマホを持ち、桜井とLINEのやり取りをし、井口と上野は小説の話をしている。
『今なにしてる?』
侑は桜井に送信した。
今度はすぐに既読がつき『昼飯』と返事がきた。
『退院前の説明聞いたり検査したりで忙しかった』
──そうか、もう退院なんだ。桜井に会えるんだ。
『退院は何時?』
侑は退院の時に会いに行くつもりで聞いた。ところが、桜井からの返信は『昼前』だった。
「あーっ! クソッ! 間に合わないじゃん!」
侑がスマホを握りしめたまま叫ぶと、上野は驚いて「どうした、成瀬?」と言った。
「ほっといていいよ」
井口は笑った。
* * *
いよいよ明日退院か、と思うと気持ちが焦る。悠貴は桜井が退院して体調が落ち着いたら告白すると言っていた。
侑はリュックのチェストベルトを嵌め、靴紐をぎゅっと結び校庭へと駆け出す。
──告白するとしたら、直接言いたい。でも、それまで待ってて大丈夫なのか?
……桜井が悠貴の告白を受け入れるかは分からない。もちろん、それは俺も同じだし……。
井口があれだけ言ってくれたのに、情けねぇな。
走っても走っても、モヤモヤした気持ちは振り切れない。
そのうち、バイト先のファミレスが見えてきた。
──とりあえず、今はバイトに集中!
侑は裏口のドアを開けた。
バイトが始まる。
自分がどう動いていたか思い出せないほど忙しいピークタイムを何とかこなし、タイムカードを押して、スマホを握ったまま、すぐ店を出る。
出た瞬間、通話ボタンをタップする。ワンコールで桜井の声が聞こえた。
「お疲れ様」
昨日よりも声に少し元気が出てきた気がする。本当にもう桜井は大丈夫なんだ、と安心する。
「桜井も入院お疲れ様」
「なにそれ」
桜井が笑うと耳元が擽ったい。
顔が熱くなるのが分かって、侑は無意識に左手で顔を扇ぐ。
「いやさ、明日シャバに出てこれるじゃん?」
「シャバって」
また桜井がくすくす笑う。
「お勤めご苦労さまです!」
「昔のヤクザ映画みたい。明日、病院の前でやってよ」
「行きたいけど、まだ学校だし」
「残念。出所飯は成瀬の特盛りポテトが良かったなぁ」
冗談を言いつつも、桜井の寂しそうな声に心が揺らぐ。
「……悠貴ってさ、今日もお見舞い来た?」
「悠貴? うん。来たよ」
「……そっか」
悠貴が、病院に来た。その言葉を聞いたとき、侑の心に現実が伸し掛かる。やはり、悠貴は当然のように桜井の隣にいるのだ。
「どうかした?」
「ううん、別に」
悠貴のこと、どう思ってる?
ただの幼馴染?
それとも特別?
聞きたいのに、聞けない。
喉の奥に言葉がつっかえて、掠れた息が漏れた。
「どうした?」
桜井の優しい声がした。侑は平静を装って「なんでもない」と答えた。
「そう? なら良いんだけど」
「うん。大丈夫。退院したら、すぐ学校来れるの?」
「3日くらい休むかな、たぶん」
「そっか。まあそうだよな」
「特盛りポテトはもう少し先みたい」
「そのときは腹がはち切れるほど食わせてやるよ」
「そんなこと言っていいの? 味気ない病院食で溜まりに溜まった、僕のポテトへの欲望を全解放しても?」
桜井は笑った。
「店のポテト全部食い尽くすか?」
侑も笑った。
「全部食って出禁になったらやだな」
「食うのかよ!」
軽口を叩けるのに、会いたいとか寂しいとか、悠貴との関係とか、そういう言葉は口に出せない。でも、桜井は寝る前の通話の相手を、悠貴ではなく自分を選んでくれた。それだけが、今の侑の拠り所だった。
* * *
「荷物が届いたんだけど、またゲーム?」
侑が帰宅すると、キッチンから母親の声がした。
侑は急いでキッチンに行き、段ボール箱を見つけて大事そうに抱えた。
「バイト代は貯めておきなさいって言ったでしょ」
「分かってる」
侑はそそくさと自室に逃げた。
爪でガムテープの端を引っ掻き、一気に剥がす。金の箔押しでBlood Moonと書かれた黒い箱。中身はレェテネーヴのマグカップで、熱湯を注ぐとルーキフェルの絵に変わる。それから、気泡緩衝材で厳重に包まれたレェテネーヴのアクリルスタンド。
「思ったよりデカいな……」
最後に取り出したのは、不気味な装飾が施されたプラスチックの容器だ。安っぽい質感だが、ゲームの中に出てくる壺のデザインそのままだった。
壺の中身は“夜啼き鴉の目玉グミ”だ。これは完全にネタ枠だ。『食ったら人間性を失いそう』とか『人間やめたいから食べる』などと言われ、ファンの間で話題になって、一時期入手困難だった。
「良いタイミングで再販かかったな」
目玉グミを見た桜井がどんな顔をするのかを想像すると、自然に頬が緩んだ。
退院祝いだから、包装紙か何かでラッピングしたかった。だが、綺麗な紙など侑の部屋にはない。侑はクローゼットを漁り、持ち手がついたクラフト紙の紙袋を発見した。
「これでいいか」
グッズを丁寧に紙袋に詰め、パソコンデスクの横に置いた。
映画のチケットも一緒に紙袋に入れようとしたが、迷った末にやめた。
──桜井は喜んでくれる……はず。
少しだけ不安が残るのは、悠貴の言葉が毒のように侑をじわじわと蝕んでいるからだ。
「俺なら小さい頃から一緒だったから、カケちゃんのことは、よく分かってる。好きなものも嫌いなものも」という悠貴の言葉が頭の中で渦巻く。
——俺はイケメンじゃないし、可愛くもないし、これと言って凄いものもないし、俺なんかが……。
──すぐ、不安になる──。
桜井を好きな気持ちは揺るがなくとも、侑の自信はグラグラして悪い方へ傾いてしまう。
でも今の侑を繋ぎ止めているのは、胸の奥でずっと、じりじりと燻っている小さな熱だ。
「……好きだ」
声に出してみた。そうしたら、胸の中の温度が上がっていくのが分かって、侑はもう一度声に出した。
「……桜井が、好きだ……」
——桜井も、そうだったらいいのに。
自己肯定感は低いのに、欲だけがどんどん膨らんでいく。
もっと桜井の顔が見たい。
もっと桜井の声が聞きたい。
桜井のそばに行きたい。
悠貴に取られたくない。
俺の桜井でいて欲しい──。
そんな欲が溢れ出しそうになって、でもそれが怖くて——、侑は座り込んで膝を抱えた。
侑のスマホがポンと鳴った。
蹲ったまま、ポケットから取り出す。
——桜井……まだ起きてたんだ……。
『寝れねぇ』
たった一言だった。
でも、侑の沈んだ心はそれだけで浮上する。
『羊でも数えとけ』
ふっと笑いがこみ上げる。
すぐに桜井から返信がくる。
『明日、退院だと思うとなんか寝れない』
『遠足前の小学生かよ』
侑は、リュックを背負った猫のスタンプも送信した。
『すぐじゃないけど、侑に会えると思うとさ』
——あ……“侑”って……。
画面を見つめたまま、侑の指が止まる。
——いきなりそれはずるいだろ……。
侑はスマホを持ったまま、また蹲って膝の間に顔を埋めた。
——いや、友達なんだから、名前で呼んだって別に……。
でも、井口は俺のこと成瀬って呼ぶし、上野だって、他のみんなも……。
自意識過剰だとは思う。
けれど、もしも、と侑は思ってしまう。
——もしも、桜井も俺のことを好きだとしたら——。
Blood Moonが『好き』って言ったのも、そっちから通話切ってって言ったのも、会いたくなった、って言ったのも全部……。
だったら、俺……。
『早く侑とBlood Moonやりたい。やれてないから腕鈍ってるかも』
桜井からのメッセージを見て、侑は深く息を吐いた。
——俺の思い上がりかも——。
『一緒にやろう。楽しみ』
そう送るのが精一杯だった。
『おやすみ』
それで桜井のLINEは途絶えてしまった。
——あーあ……。
俺も寝れなくなっちまった……。
桜井のせいだ……。
スマホの画面の、桜井からのメッセージを読み返す。
胸がギュッと締め付けられて切ないような、でも温かくて幸せなような、言葉に出来ない感情に飲まれそうになる。
──俺も“駆”って呼んだら、桜井はどう思うかな……。
……言ってみようかな……。
「……駆……」
口に出すと、生々しい感情が一緒に溢れ出そうになる。
「駆、好きだよ……」
目頭が熱くなって、侑は抱えた膝に目を押し当てた。零れた涙は、制服のズボンに吸われていった。
