校舎脇の桜はすっかり散って、青々とした葉が茂っている。風に揺れて、ちらちらと木漏れ日が光る。井口は目を細めて動く光を眺めていた。侑は両腕をぐっと上げて、思い切り伸びをする。
侑と井口は、昼休みにいつもの体育館のコンクリートの段に座って昼食を摂る。侑は「今日、暑いな」と言って、ジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩め、シャツの袖を捲った。
井口もジャケットを脱いで脇に置き、手でパタパタと扇いだ。
侑の、畳んだジャケットの上でスマホが震えた。侑は急いで取り、通知を確認した。
『病院の飯』
桜井から、お粥の画像が送られてきた。その次に、しょぼくれた猫のスタンプ。
昨日は水しか飲めないと言っていたから、それを見て桜井が回復に向かっていることが分かって、侑は安堵した。表情が柔らかくなり、自然に笑みが溢れる。
『ちゃんと食えよ』
侑はツナマヨおにぎりを片手に、スイスイとフリック入力しては送信している。
「桜井と?」
隣に座った井口が言う。
画面を覗かれたわけでもないのに、侑はスマホを伏せた。
「だらしなぁーく緩んでるんだよなぁ、侑の顔」
「は? 緩んでねぇし」
幸せを垂れ流していることに無自覚な侑が面白くて、井口はふっと笑ってミックスサンドに齧り付いた。
「フレンドコード聞けたか?」
「いや、まだ」
もうとっくに聞いているものだと思ったから、井口は開いた口が塞がらなかった。
「まだ? こんなにやり取りしてるのに?」
「だってまだ、入院中だし……」
「退院したら聞く?」
「うっ……」
「もう、よく知らん奴じゃないだろ?」
「でも……」
井口はニヤリと笑い、侑からスマホを奪った。
「あ、ちょ、井口!」
侑はスマホを取り返そうとするが、井口はヒョイっと避けながら器用に何か入力し、侑にスマホを返した。
「なにやってんだよ」
侑が画面を見ると『フレンドコード教えて』と入力されていた。井口は肩を揺らして笑っている。
「おい、ふざけんなよ」
侑は、そのメッセージを消去しようとした。けれど、☓の上に親指をかけたまま、一瞬止まった。
「早く送っちまえ」
井口が肘で侑を突いた。
突かれた拍子に、送信ボタンに指が触れた。
「おい、井口!」
侑がスマホを持つ手が震えている。
「どうしてくれるんだよ!」
井口の肩を揺さぶって抗議しているが、井口は意に介さず、ニヤニヤしているだけだ。
じゃれ合っていると、スマホが震えた。
侑は恐る恐るスマホの画面を見た。
『いいよ でも今わかんないから退院したらね』
侑は、スマホの画面を食い入るように見たまま、固まった。
みるみるうちに、顔が真っ赤に染まっていく。
『Blood Moonやろう』
『楽しみが増えた』
桜井から続けてメッセージが送られてきた。
侑は、ニヤついている井口に向かって「返事きた……」とだけ呟いた。
「なんて?」
「……いいよって」
井口は吹き出し、両手を叩いた。侑はそんな井口を恨めしそうな目で見つつも、内心は少し感謝していた。
「やったじゃん」
井口はまた侑を肘で突いた。
「俺も桜井と闘技場で対決してぇな。あ、邪魔か」
「そんなことない!」
侑は『井口も良いかな? 闘技場やりたいんだって』と送信した。
暫くして、OKのスタンプが送られてきた。
ニヤニヤして井口をちらちらと見ながら『闘技場でぶちのめすって言ってた』と返信すると、桜井は『返り討ちにする』という言葉と、猫がギラリと光る爪を研いでいるスタンプを送ってきた。
『嘘。冗談。井口はいいヤツだから、一緒にオンラインやったら楽しいよ』
その侑のメッセージのあと、桜井は、ジト目の猫スタンプを送信してきた。
侑は、思わず吹き出してしまった。
「おい、侑、何か変なこと送ってないか!?」
「ないない。桜井も井口と遊びたいってさ」
井口と笑ってふざけ合いながらも、ふとした瞬間、悠貴の言葉が侑の脳裏を過って不安になる。
『今 井口と一緒? いいな』
『早く会いたい』
けれど、この桜井からのメッセージが一瞬で悠貴の影を隠してしまう。
「早く良くなるといいな。桜井に会いたいって顔に出てるぞ」
井口がまた、侑を誂う。
特盛りポテトドリンクバーセットにオンラインプレイ。それに、退院祝いのプレゼント。桜井との未来の約束が、増えていく。今の侑には、それが幸せでたまらなかった。
放課後、侑は急いで教室を出た。昇降口で靴ひもをギュッと結び、一番に校舎を出る。
和田が「成瀬ー! 陸上部に入れ!」と叫ぶ。「バイトあるんで無理っす!」と答えて、和田を振り切って校庭を駆け抜ける。
──なんであんなに一番に正門を抜けることに拘ってたんだろう。
ふと、自分の今までの行動が可笑しく思えた。
──でも、そのおかげで桜井と出会えた。
桜井が帰ってきたらまた……。
いや、今度はもっとゆっくり──。
* * *
20時30分。
侑はバイトが終わるとすぐにタイムカードを押した。いち早く外に飛び出そうとしたその時、店長に呼び止められた。
桜井の消灯時間まで通話をする約束をしていたのに……。侑は逸る気持ちを抑えて、振り返った。
「成瀬くん、これあげる」
店長が映画のチケットを二枚、差し出した。
「成瀬くん、好きな子でも誘って行ってきたら?」
「……好き……な……」
侑がチケットを見ると、映画のチケットの日付は、桜井の退院の約二週間後だった。
「じゃあ成瀬くん、お疲れ様」
「ありがとうございます!」
チケットをリュックに入れ、店を飛び出した。
消灯時間まであと僅か。侑は急いでスマホを取り出し、通話ボタンを押す。ワンコール鳴るか鳴らないかで桜井の声がした。
「おつかれ」
小さく、囁くような声が耳元で聞こえて、心地良いような擽ったいような、不思議な感覚だった。
「今店を出たとこ。桜井は? 歯磨いた?」
間抜けな質問をしたと思って、益々顔が熱くなった。
「あはは。なにそれ。磨いたよ。もう色々歩いて行けるし」
侑の火照った頬を冷やすには、夜の空気はもう随分暖かくなっていた。
侑は真っ直ぐ家に帰らず、ファミレスの側の小さな公園まで歩いた。
さっき貰った映画のチケットのことを、桜井に言い出せない。だから、つい学校での出来事を話してしまう。
「井口が桜井と闘技場で対戦したいって言ってたじゃん?」
「……うん」
「本当は桜井のこと、ぶちのめすなんて言ってないから。井口はマジでいい奴だから、桜井とも仲良くなれると思うんだ」
侑はベンチに座った。
「でね、今日は井口がさ」
侑が言いかけたとき、桜井の相槌がなくなっていたことに気づいた。
「……桜井?」
胸騒ぎがした。
──まさか、また苦しくなった?
「おい、桜井!? 桜井!?」
嫌な冷や汗が吹き出す。侑は何度も桜井に呼びかけた。
「……井口の話ばっかじゃん」
「……え……?」
桜井の声が聞こえた安堵と、言われたことの意味が分からなかったから、侑の頭は混乱した。
「井口の話じゃなくて成瀬のことが聞きたい」
「お、俺?」
「うん。成瀬の話、して。好きな食べ物とか、何でもいいから」
「あ……えと……じゃあハンバーグ? と……唐揚げ。あとカレーとか? 特に嫌いなものは無いし、わりと何でも食べるかな」
「そうなんだ。またひとつ、成瀬のことを知れた」
桜井は、スマホの向こうで小さく笑った。その声は、とても柔らかだった。
「桜井は? 何が好き?」
侑が質問したあと、桜井は一瞬黙った。
すう、と桜井が息を吸う音がした。
「……クリームソーダ。あと、成瀬がバイトしてる店の特盛りポテト」
「いつもそれだもんな」
「うん。早く退院して食べに行きたい。退院祝い、楽しみにしてる。ああ、ポテトの話してたら、腹減ってきた」
桜井の情けない声に、 思わず笑いがこみ上げた。
笑って話せている今なら言っても大丈夫な気がして、侑はずっと胸に引っかかっていたことを口にした。
「……俺さ、桜井に嫌われたと思ったんだ」
「嫌ってない」
桜井は即答した。それが、侑の心の蟠りを完全に溶かした。
「学校で桜井にシカトされた時はガチでへこんだ。でも今考えたら、あの時から体調が悪かったんだよな」
「……学校で?」
「うん」
「学校……?」
「傘を返した日に、廊下で桜井を見かけたとき」
「……あの日か。あの時はメガネもコンタクトも着ける余裕くて、たぶん成瀬が見えてなかった」
そう言われて、あの日の桜井の態度が腑に落ちた。
「……成瀬、ほんとにごめん」
「……ううん。今はちゃんと、理由が分かったし大丈夫」
スマホ越しだから、桜井には見えていないのに侑は首を横に振った。
「……あのさ、成瀬」
「なに?」
「帰宅部結成する前から本当は」
言いかけて、桜井は黙ってしまった。
「何?」
「……いや、何でもない」
「言えよ」
もう、あのときのように桜井に隠し事をされたくなかった。
「病気のときみたいに、隠すな!」
侑の言葉が強くなった。
「隠さないよ」
桜井は、はっきり答えた。
「でも……」
「でも?」
「成瀬に直接言いたいから、登校する日に言う」
「なんで?」
「今は言わない。今はね。元気になるまで待ってて」
桜井は、静かに優しい声で言った。
「僕は成瀬を待たせてばかりだな。ごめん」
「謝るなよ。でもさ、次にまた体調が悪くなったら言えよ。絶対」
「うん。言う」
「約束だぞ」
「うん。あ、もう消灯時間だ……戻らなきゃ」
桜井の声が、僅かに沈んだ。
「今どこなの?」
「デイルーム。病室じゃ通話できないから」
「寝てなくて大丈夫?」
「うん。軽く動いた方が回復が早いって医者も言ってたし」
「そっか……良かった……でも、俺の目が届かないからって無理するなよ?」
侑が怒ったように言うと、桜井はふふっと笑った。
「……じゃあ、戻るよ。本当はもう少しこうしていたいけど……」
「俺も。もうちょっと桜井と話したかった」
──あれ?
何言ってんだ、俺?
……でも、どうしてこんなに寂しさを感じるんだろう?
また明日、通話すればいいだけなのに。
侑は、桜井に“早く寝ろよ”と言いたかったのに、声に出せなかった。
「ねえ、成瀬から切って」
暫くの沈黙のあと、桜井の、少し甘えたような声がした。
「え……桜井が切れよ」
「やだ。切れない」
「でももう消灯時間だろ?」
「切りたくない」
「俺もそうだけど……わかった。俺から切るから、早く寝ろよ」
少しつっけんどんな言い方になってしまった。
「じゃあ、切るよ」
「……うん」
通話終了ボタンの上に指をかけた。
でも、最後の一押しが出来ない。
「……おやすみ」
桜井の、寂しげな声がした。でも、今はどれだけ後ろ髪を引かれても、桜井の体のことを考えたらこれ以上はダメだ。
「おやすみ。また明日、絶対に電話する」
そう言って、通話を終えた。
静かすぎる夜の中に、侑は一人佇んだ。通話が切れると、急に一人きりを強烈に感じてしまう。
消灯時間という制限がなかったら、もっと桜井と繋がっていられたのに。そんな風に考えて欲が出て“もう少し”が“もっと”に変化している自分に気づいた。
公園の脇の道を、時折車が通る音がする。
春はもうすぐ終わりだというのに、夜の空気はまだ冷たい。
帰らなければいけないのに、侑はまだベンチから動けずにいた。もう少しだけ、一人でいたかった。
桜井は今頃、病室のベッドの中で何を考えているのだろう。通話を切る直前、凄く寂しそうだった。桜井の寂しさと、自分の寂しさは、同じものだろうか。そんなことを思いながら、侑は手の中のスマホをぼんやりと見つめた。
侑の中には、桜井の低い声の余韻と、熱い寂しさが残っていた。
侑と井口は、昼休みにいつもの体育館のコンクリートの段に座って昼食を摂る。侑は「今日、暑いな」と言って、ジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩め、シャツの袖を捲った。
井口もジャケットを脱いで脇に置き、手でパタパタと扇いだ。
侑の、畳んだジャケットの上でスマホが震えた。侑は急いで取り、通知を確認した。
『病院の飯』
桜井から、お粥の画像が送られてきた。その次に、しょぼくれた猫のスタンプ。
昨日は水しか飲めないと言っていたから、それを見て桜井が回復に向かっていることが分かって、侑は安堵した。表情が柔らかくなり、自然に笑みが溢れる。
『ちゃんと食えよ』
侑はツナマヨおにぎりを片手に、スイスイとフリック入力しては送信している。
「桜井と?」
隣に座った井口が言う。
画面を覗かれたわけでもないのに、侑はスマホを伏せた。
「だらしなぁーく緩んでるんだよなぁ、侑の顔」
「は? 緩んでねぇし」
幸せを垂れ流していることに無自覚な侑が面白くて、井口はふっと笑ってミックスサンドに齧り付いた。
「フレンドコード聞けたか?」
「いや、まだ」
もうとっくに聞いているものだと思ったから、井口は開いた口が塞がらなかった。
「まだ? こんなにやり取りしてるのに?」
「だってまだ、入院中だし……」
「退院したら聞く?」
「うっ……」
「もう、よく知らん奴じゃないだろ?」
「でも……」
井口はニヤリと笑い、侑からスマホを奪った。
「あ、ちょ、井口!」
侑はスマホを取り返そうとするが、井口はヒョイっと避けながら器用に何か入力し、侑にスマホを返した。
「なにやってんだよ」
侑が画面を見ると『フレンドコード教えて』と入力されていた。井口は肩を揺らして笑っている。
「おい、ふざけんなよ」
侑は、そのメッセージを消去しようとした。けれど、☓の上に親指をかけたまま、一瞬止まった。
「早く送っちまえ」
井口が肘で侑を突いた。
突かれた拍子に、送信ボタンに指が触れた。
「おい、井口!」
侑がスマホを持つ手が震えている。
「どうしてくれるんだよ!」
井口の肩を揺さぶって抗議しているが、井口は意に介さず、ニヤニヤしているだけだ。
じゃれ合っていると、スマホが震えた。
侑は恐る恐るスマホの画面を見た。
『いいよ でも今わかんないから退院したらね』
侑は、スマホの画面を食い入るように見たまま、固まった。
みるみるうちに、顔が真っ赤に染まっていく。
『Blood Moonやろう』
『楽しみが増えた』
桜井から続けてメッセージが送られてきた。
侑は、ニヤついている井口に向かって「返事きた……」とだけ呟いた。
「なんて?」
「……いいよって」
井口は吹き出し、両手を叩いた。侑はそんな井口を恨めしそうな目で見つつも、内心は少し感謝していた。
「やったじゃん」
井口はまた侑を肘で突いた。
「俺も桜井と闘技場で対決してぇな。あ、邪魔か」
「そんなことない!」
侑は『井口も良いかな? 闘技場やりたいんだって』と送信した。
暫くして、OKのスタンプが送られてきた。
ニヤニヤして井口をちらちらと見ながら『闘技場でぶちのめすって言ってた』と返信すると、桜井は『返り討ちにする』という言葉と、猫がギラリと光る爪を研いでいるスタンプを送ってきた。
『嘘。冗談。井口はいいヤツだから、一緒にオンラインやったら楽しいよ』
その侑のメッセージのあと、桜井は、ジト目の猫スタンプを送信してきた。
侑は、思わず吹き出してしまった。
「おい、侑、何か変なこと送ってないか!?」
「ないない。桜井も井口と遊びたいってさ」
井口と笑ってふざけ合いながらも、ふとした瞬間、悠貴の言葉が侑の脳裏を過って不安になる。
『今 井口と一緒? いいな』
『早く会いたい』
けれど、この桜井からのメッセージが一瞬で悠貴の影を隠してしまう。
「早く良くなるといいな。桜井に会いたいって顔に出てるぞ」
井口がまた、侑を誂う。
特盛りポテトドリンクバーセットにオンラインプレイ。それに、退院祝いのプレゼント。桜井との未来の約束が、増えていく。今の侑には、それが幸せでたまらなかった。
放課後、侑は急いで教室を出た。昇降口で靴ひもをギュッと結び、一番に校舎を出る。
和田が「成瀬ー! 陸上部に入れ!」と叫ぶ。「バイトあるんで無理っす!」と答えて、和田を振り切って校庭を駆け抜ける。
──なんであんなに一番に正門を抜けることに拘ってたんだろう。
ふと、自分の今までの行動が可笑しく思えた。
──でも、そのおかげで桜井と出会えた。
桜井が帰ってきたらまた……。
いや、今度はもっとゆっくり──。
* * *
20時30分。
侑はバイトが終わるとすぐにタイムカードを押した。いち早く外に飛び出そうとしたその時、店長に呼び止められた。
桜井の消灯時間まで通話をする約束をしていたのに……。侑は逸る気持ちを抑えて、振り返った。
「成瀬くん、これあげる」
店長が映画のチケットを二枚、差し出した。
「成瀬くん、好きな子でも誘って行ってきたら?」
「……好き……な……」
侑がチケットを見ると、映画のチケットの日付は、桜井の退院の約二週間後だった。
「じゃあ成瀬くん、お疲れ様」
「ありがとうございます!」
チケットをリュックに入れ、店を飛び出した。
消灯時間まであと僅か。侑は急いでスマホを取り出し、通話ボタンを押す。ワンコール鳴るか鳴らないかで桜井の声がした。
「おつかれ」
小さく、囁くような声が耳元で聞こえて、心地良いような擽ったいような、不思議な感覚だった。
「今店を出たとこ。桜井は? 歯磨いた?」
間抜けな質問をしたと思って、益々顔が熱くなった。
「あはは。なにそれ。磨いたよ。もう色々歩いて行けるし」
侑の火照った頬を冷やすには、夜の空気はもう随分暖かくなっていた。
侑は真っ直ぐ家に帰らず、ファミレスの側の小さな公園まで歩いた。
さっき貰った映画のチケットのことを、桜井に言い出せない。だから、つい学校での出来事を話してしまう。
「井口が桜井と闘技場で対戦したいって言ってたじゃん?」
「……うん」
「本当は桜井のこと、ぶちのめすなんて言ってないから。井口はマジでいい奴だから、桜井とも仲良くなれると思うんだ」
侑はベンチに座った。
「でね、今日は井口がさ」
侑が言いかけたとき、桜井の相槌がなくなっていたことに気づいた。
「……桜井?」
胸騒ぎがした。
──まさか、また苦しくなった?
「おい、桜井!? 桜井!?」
嫌な冷や汗が吹き出す。侑は何度も桜井に呼びかけた。
「……井口の話ばっかじゃん」
「……え……?」
桜井の声が聞こえた安堵と、言われたことの意味が分からなかったから、侑の頭は混乱した。
「井口の話じゃなくて成瀬のことが聞きたい」
「お、俺?」
「うん。成瀬の話、して。好きな食べ物とか、何でもいいから」
「あ……えと……じゃあハンバーグ? と……唐揚げ。あとカレーとか? 特に嫌いなものは無いし、わりと何でも食べるかな」
「そうなんだ。またひとつ、成瀬のことを知れた」
桜井は、スマホの向こうで小さく笑った。その声は、とても柔らかだった。
「桜井は? 何が好き?」
侑が質問したあと、桜井は一瞬黙った。
すう、と桜井が息を吸う音がした。
「……クリームソーダ。あと、成瀬がバイトしてる店の特盛りポテト」
「いつもそれだもんな」
「うん。早く退院して食べに行きたい。退院祝い、楽しみにしてる。ああ、ポテトの話してたら、腹減ってきた」
桜井の情けない声に、 思わず笑いがこみ上げた。
笑って話せている今なら言っても大丈夫な気がして、侑はずっと胸に引っかかっていたことを口にした。
「……俺さ、桜井に嫌われたと思ったんだ」
「嫌ってない」
桜井は即答した。それが、侑の心の蟠りを完全に溶かした。
「学校で桜井にシカトされた時はガチでへこんだ。でも今考えたら、あの時から体調が悪かったんだよな」
「……学校で?」
「うん」
「学校……?」
「傘を返した日に、廊下で桜井を見かけたとき」
「……あの日か。あの時はメガネもコンタクトも着ける余裕くて、たぶん成瀬が見えてなかった」
そう言われて、あの日の桜井の態度が腑に落ちた。
「……成瀬、ほんとにごめん」
「……ううん。今はちゃんと、理由が分かったし大丈夫」
スマホ越しだから、桜井には見えていないのに侑は首を横に振った。
「……あのさ、成瀬」
「なに?」
「帰宅部結成する前から本当は」
言いかけて、桜井は黙ってしまった。
「何?」
「……いや、何でもない」
「言えよ」
もう、あのときのように桜井に隠し事をされたくなかった。
「病気のときみたいに、隠すな!」
侑の言葉が強くなった。
「隠さないよ」
桜井は、はっきり答えた。
「でも……」
「でも?」
「成瀬に直接言いたいから、登校する日に言う」
「なんで?」
「今は言わない。今はね。元気になるまで待ってて」
桜井は、静かに優しい声で言った。
「僕は成瀬を待たせてばかりだな。ごめん」
「謝るなよ。でもさ、次にまた体調が悪くなったら言えよ。絶対」
「うん。言う」
「約束だぞ」
「うん。あ、もう消灯時間だ……戻らなきゃ」
桜井の声が、僅かに沈んだ。
「今どこなの?」
「デイルーム。病室じゃ通話できないから」
「寝てなくて大丈夫?」
「うん。軽く動いた方が回復が早いって医者も言ってたし」
「そっか……良かった……でも、俺の目が届かないからって無理するなよ?」
侑が怒ったように言うと、桜井はふふっと笑った。
「……じゃあ、戻るよ。本当はもう少しこうしていたいけど……」
「俺も。もうちょっと桜井と話したかった」
──あれ?
何言ってんだ、俺?
……でも、どうしてこんなに寂しさを感じるんだろう?
また明日、通話すればいいだけなのに。
侑は、桜井に“早く寝ろよ”と言いたかったのに、声に出せなかった。
「ねえ、成瀬から切って」
暫くの沈黙のあと、桜井の、少し甘えたような声がした。
「え……桜井が切れよ」
「やだ。切れない」
「でももう消灯時間だろ?」
「切りたくない」
「俺もそうだけど……わかった。俺から切るから、早く寝ろよ」
少しつっけんどんな言い方になってしまった。
「じゃあ、切るよ」
「……うん」
通話終了ボタンの上に指をかけた。
でも、最後の一押しが出来ない。
「……おやすみ」
桜井の、寂しげな声がした。でも、今はどれだけ後ろ髪を引かれても、桜井の体のことを考えたらこれ以上はダメだ。
「おやすみ。また明日、絶対に電話する」
そう言って、通話を終えた。
静かすぎる夜の中に、侑は一人佇んだ。通話が切れると、急に一人きりを強烈に感じてしまう。
消灯時間という制限がなかったら、もっと桜井と繋がっていられたのに。そんな風に考えて欲が出て“もう少し”が“もっと”に変化している自分に気づいた。
公園の脇の道を、時折車が通る音がする。
春はもうすぐ終わりだというのに、夜の空気はまだ冷たい。
帰らなければいけないのに、侑はまだベンチから動けずにいた。もう少しだけ、一人でいたかった。
桜井は今頃、病室のベッドの中で何を考えているのだろう。通話を切る直前、凄く寂しそうだった。桜井の寂しさと、自分の寂しさは、同じものだろうか。そんなことを思いながら、侑は手の中のスマホをぼんやりと見つめた。
侑の中には、桜井の低い声の余韻と、熱い寂しさが残っていた。
