ゲームがしたいだけなのに…!

 ──足音と、荒い呼吸音と、誰かの気配──。

『……桜井……桜井……』
 
 成瀬の声?

 どうして声が……

 瞼が重く、身体は深く沈み込むように、重力に逆らえない。身体は重いのに、頭だけはふわふわとどこか漂うような感覚──。
  
 桜井は、自分の身体の側に熱を感じた。
 荒い息遣いが聞こえる。
 それと、桜井、と何度も途切れ途切れに自分を呼ぶ声。
 ふわふわと霧散していた意識が一点に集約されるような感覚がして、桜井はゆっくりと目を開いた。
 その熱源は、侑だった。肩で息をし、今にも泣き出しそうな顔でベッドの脇に立っていた。
 
 まだ夢の続きのような感覚のまま、桜井は「……成瀬?」と掠れた声で言った。
「……なんで……ここに?」
 まだ少し、焦点の定まらない瞳が、侑を懸命に捉えようとしていた。目の前の光景が信じられない様子で、桜井は半分うわ言のようにまた「成瀬」と呟いた。 
 桜井の声は、酸素マスクに覆われて少しくぐもって聞こえた。
「……成瀬の夢、見てた」
 静かな病室に、桜井の呼吸に合わせて、ぶくぶくと水泡音が断続的に聞こえる。
 侑は、動けないまま、今にも零れそうな涙を堪えて見下ろしていた。

 桜井は、少し苦しげに息を吐き「……ああ……こんな姿、成瀬に見られたくなかったなぁ……」とぽつりと漏らした。
 その一言に、侑は奥歯をギリッと噛み締めた。
「……桜井……お前、バカすぎるだろ……!」
 点滴、胸に繋がるドレーン、酸素マスク。指先には、パルスオキシメーター。それらを見て、侑はベッドの柵をぐっと握った。
「いや、俺のせいだ。俺があのとき、もっとちゃんと引き留めておけば、こんな事にならなかったのに! ……ごめん、ほんとにごめん……」
「……成瀬のせいじゃない」
 桜井は、ゆっくり右手を上げ、侑の手の上にそっと重ねた。その動作があまりにも弱々しく、侑は胸が締め付けられた。がくりと膝を落とし、重なった桜井の手の上に額を押しつけた。
「俺が、桜井を雨に濡らしたから……ぜんぜん気づかなくて、それで……桜井が……」
「……違う……違うよ」
「違わない! 俺がっ……俺が、桜井に風邪を引かせたせいで……」
「違うよ」
 額を押し当てたままの侑の頭を、桜井の手がゆっくりと、あやすように撫でる。でも、あの抱きしめられたときとは違う、力のない手。今は指先を動かすことさえ必死なんだと伝わってくる。
 侑が強く目を閉じると、溜まっていた涙が溢れた。
「肺が萎んでたんだ」
 その桜井の一言があまりにも衝撃的で、侑は顔を上げた。
「……だから、成瀬のせいじゃない」
「でも……」
 頭を撫でていた桜井の手が離れ、親指で侑の涙を拭った。
「泣くなよ」 
 桜井は、酸素マスクの下で微かに口角を上げた。
「……怖かったんだよ……ほんとに……桜井が……いなくなったら俺……」
 息が小刻みになって、喉が詰まって、侑は上手く喋れなかった。
「いなくならないよ」
 小さく、だけどはっきりと桜井が言った。
「すぐ治すから。ね」
「……うん」
「待ってて」
「……うん」
 侑はもう、頷くことしかできなくなっていた。桜井は黙ったまま、侑の手をそっと握っていた。
 桜井の手に、侑の涙がぼたぼたと零れ落ちる。また、桜井は侑の涙を拭った。
 侑は、ハッとして顔を上げた。

 ──俺が泣いてちゃだめだ。今、一番辛いのは、桜井なのに。

「……桜井が元気になるまで待ってる」
 零れ落ちそうになった涙を、手の甲でぐっと拭った。

* * *

 気持ちが落ち着いてくると、桜井の前で泣いてしまったことが急に恥ずかしくなって、侑は目を逸らした。
 そんな侑の様子を見て、桜井は「そこの引き出しのスマホ取って」と言って、痛みに顔を顰めながら床頭台に顔を向けた。
 その表情は、あの時侑を冷たく拒絶したように見えたものと同じだった。

 ──そうか、桜井は痛くて苦しくて、あんな顔してたんだ──。
 こんな姿、見られたくなかったって、そういうことだったのか。
 ……でもさ、頼って欲しかったなぁ。
 
 侑は引き出しからスマホを出し、桜井に渡した。
「入院中、暇でしょうがないから話し相手になって」
 そう言って、桜井はスマホの画面にLINEのQRコードを表示させた。
「あっ、えっ?」
 突然すぎて、侑は困惑した。
「……もう、後悔したくないから」
 そう言って、桜井は侑の目を見つめた。だが、侑はまだ状況が飲み込めていなかった。
「ダメ?」
 桜井の眉が下がる。
「……いや、ダメじゃない!」
 やっと意味がわかって、慌ててスマホを取り出した。
 侑が震える手でスマホをコードにかざすと、友達登録が完了した。
「成瀬と繋がれた。嬉しい」
 桜井は、また少し笑った。
「……うん。俺も」
 侑は、新たに加わった桜井のアイコンを愛おしげに見つめた。三毛猫の写真だった。
「猫のアイコン……」
「うん。パッチって名前」
「いいなぁ。猫」
「いつか見せてあげるよ」
「いいの?」
「うん」
 さっきまで、消えそうだと思っていた桜井と、未来の約束が出来た。それがたまらなく嬉しくて、侑はまた泣きそうになった。

 扉が開き、いかにもベテランという風情の看護師が入ってきた。
「桜井くん、バイタルチェックするね。あら、お友達?」
 看護師は侑を見て言った。
「あ、はい」
「ふふ。いいねぇ。お友達が来たから、ちょっと元気出たかな?」
 看護師は話しながら、点滴の残量やパルスオキシメーター、胸に繋がっているドレーンなどを手際よくチェックし、電子カルテに記入する。侑は、邪魔にならないようにと少し下がってそれを見ていた。看護師は、ナースカートから血圧計を取り、桜井の細い腕にマンシェットを巻きつけた。
 暫くすると、シューっと空気が抜ける音がした。
「うん、順調。若いっていいね、回復が早くて。酸素マスクもすぐ取れるよ」
「……順調……」
 その言葉を聞いた瞬間、侑の肩の力が抜け、緊張が少しだけ解けた。
 看護師は腕時計を見ながら「ごめんね、もうすぐ面会時間は終わりなのよ」と言った。
「じゃあ、帰ったらLINEする」
 侑がそう言うと、桜井は小さく頷いた。
 あの、若いガゼルのようなしなやかな生命力が今は見えない。順調、と言われても、不安は完全に消えていない。だからまだ桜井の側にいたい、と侑は思った。けれど、ただ側にいたいという自分のわがままで桜井の体に負担をかけたり、決められた時間を超えるわけにはいかない。
 侑は後ろ髪を引かれながらも、看護師に会釈して病室を出た。

 離れていても、スマホでいつでも桜井と繋がれる。それがたまらなく嬉しくて、侑はスマホを握ったまま病棟の白い廊下を歩いた。連絡を取れるというだけで不安が少しだけ軽くなった。