15時40分。
教室の清掃が終わると、ざわざわする廊下を早足で進み、一段飛ばしで軽快に階段を下る。
高校2年の春からファミレスでアルバイトを始めた成瀬 侑にとって、放課後は1分1秒でも無駄には出来ない。リュックのチェストベルトを留め、靴紐をぎゅっと締める。
「成瀬! 陸上部に来い! 先週の体育の100mの記録、11秒9だっただろ! その脚は磨けば光る! インターハイを狙おう! ウチに来い!」
後ろから、陸上部の顧問の暑苦しい大声がした。鼻息が荒く、目がギラギラしている。
しかし侑は、肩を掴まれる寸前に「バイトなんで失礼しまーす!」と言い放ち、昇降口から、まだ誰もいないグラウンドへと一気に駆け出す。
──部活やってる時間は無いんだ、すまない! 和田セン!
侑が放課後にダッシュするのは、バイトだけが理由ではない。バイトが無い日は、一刻も早く帰ってゲームがしたい。それと、侑は一番に正門を出る事に拘っていた。一番に出ていく瞬間が気持ち良い。おそらく、侑の脳内ではドーパミンがドバドバ溢れているに違いない。何と勝負をしているのか侑自身にも分かっていないが、とにかく『勝った』気がするのだ。
「桜井ーーーーー! 11秒72ーーーーー! 陸上部に……!」
校庭の真ん中辺りまで走ったところで、また和田の声が聞こえた。
「桜井? 誰だ?」
そう思った瞬間、ふわっとオレンジのような、レモンような瑞々しい香りがした。
その、ほんの僅かな隙に、侑の視界の横に誰かが並んだ。
目が合った。
一瞬、侑は、世界の全てがスローモーションになってしまったと錯覚した。
桜井は楽しそうに微笑っていた。
直後に、抜かれた。
風が通り抜けるように、軽やかに侑の前に出た。
侑はその背中に釘付けになってしまった。長い足の、大きなストライド。侑の回転力に頼った走りとは違って、優雅にすら見える。
──ヒョロガリな癖に、余裕がありやがる!
俺よりも速い!
侑はムキになって速度を上げる。
桜井が、先に正門を抜けた。
悔しい。そう思い、さらにピッチを上げるが、追いつけそうで追いつけない。
侑は、自分の帰り道と全く同じルートを進む桜井の背中を追うように走り続けた。信号の無い裏道で、塀の向こうからいつもの犬が吠える。
畦道を進む。公園を突っ切る。お爺さんが、二人の姿を目で追っていた。
神社の裏手に入る前に絶対に追い抜いてやる!と侑は懸命に腕を振り、脚を動かす。桜井よりも前に出たい気持ちが強く、どんどん前傾姿勢になっていく。それなのに、桜井が走るフォームは一切崩れていない。砂利を弾き飛ばしながら境内を駆け抜け、先に鳥居を潜ったのは桜井だった。
桜井は、チラッと侑を見て、今度はニヤリと微笑った。そして、侑とは反対の道へ走って行って、すぐに見えなくなった。
──なんだアイツ! なんだアイツ!!
いつもなら、侑はバイト先までノンストップで走って行くはずが、今日は立ち止まってしまった。
焼け付くように喉が渇く。
静まり返った神社の正面で、自分の荒い呼吸と心臓の音だけが、やけに大きく響く。侑は、汗が滴り落ちるのを拭いもせず、ただ、桜井が走り去った方を見て、立ち尽くしていた。
──アイツ、ぜんぜん息切れしてなかった! クソッ!
あの勝ち誇ったような一瞬の笑顔と、追いつけなかった背中が頭から離れない。
イライラ、モヤモヤする。けれど、同時に“綺麗だ”とも思った。
──男に対して“綺麗”とか変だろ! 何考えてんだ俺は! ……アイツ、名前何だっけ。和田セン、何て言ってた?
風が吹いて、どこからか桜の花びらが舞ってきて、侑は我に返った。
「……あっ! バイト! やべ!」
慌てて、再び走り出した。
教室の清掃が終わると、ざわざわする廊下を早足で進み、一段飛ばしで軽快に階段を下る。
高校2年の春からファミレスでアルバイトを始めた成瀬 侑にとって、放課後は1分1秒でも無駄には出来ない。リュックのチェストベルトを留め、靴紐をぎゅっと締める。
「成瀬! 陸上部に来い! 先週の体育の100mの記録、11秒9だっただろ! その脚は磨けば光る! インターハイを狙おう! ウチに来い!」
後ろから、陸上部の顧問の暑苦しい大声がした。鼻息が荒く、目がギラギラしている。
しかし侑は、肩を掴まれる寸前に「バイトなんで失礼しまーす!」と言い放ち、昇降口から、まだ誰もいないグラウンドへと一気に駆け出す。
──部活やってる時間は無いんだ、すまない! 和田セン!
侑が放課後にダッシュするのは、バイトだけが理由ではない。バイトが無い日は、一刻も早く帰ってゲームがしたい。それと、侑は一番に正門を出る事に拘っていた。一番に出ていく瞬間が気持ち良い。おそらく、侑の脳内ではドーパミンがドバドバ溢れているに違いない。何と勝負をしているのか侑自身にも分かっていないが、とにかく『勝った』気がするのだ。
「桜井ーーーーー! 11秒72ーーーーー! 陸上部に……!」
校庭の真ん中辺りまで走ったところで、また和田の声が聞こえた。
「桜井? 誰だ?」
そう思った瞬間、ふわっとオレンジのような、レモンような瑞々しい香りがした。
その、ほんの僅かな隙に、侑の視界の横に誰かが並んだ。
目が合った。
一瞬、侑は、世界の全てがスローモーションになってしまったと錯覚した。
桜井は楽しそうに微笑っていた。
直後に、抜かれた。
風が通り抜けるように、軽やかに侑の前に出た。
侑はその背中に釘付けになってしまった。長い足の、大きなストライド。侑の回転力に頼った走りとは違って、優雅にすら見える。
──ヒョロガリな癖に、余裕がありやがる!
俺よりも速い!
侑はムキになって速度を上げる。
桜井が、先に正門を抜けた。
悔しい。そう思い、さらにピッチを上げるが、追いつけそうで追いつけない。
侑は、自分の帰り道と全く同じルートを進む桜井の背中を追うように走り続けた。信号の無い裏道で、塀の向こうからいつもの犬が吠える。
畦道を進む。公園を突っ切る。お爺さんが、二人の姿を目で追っていた。
神社の裏手に入る前に絶対に追い抜いてやる!と侑は懸命に腕を振り、脚を動かす。桜井よりも前に出たい気持ちが強く、どんどん前傾姿勢になっていく。それなのに、桜井が走るフォームは一切崩れていない。砂利を弾き飛ばしながら境内を駆け抜け、先に鳥居を潜ったのは桜井だった。
桜井は、チラッと侑を見て、今度はニヤリと微笑った。そして、侑とは反対の道へ走って行って、すぐに見えなくなった。
──なんだアイツ! なんだアイツ!!
いつもなら、侑はバイト先までノンストップで走って行くはずが、今日は立ち止まってしまった。
焼け付くように喉が渇く。
静まり返った神社の正面で、自分の荒い呼吸と心臓の音だけが、やけに大きく響く。侑は、汗が滴り落ちるのを拭いもせず、ただ、桜井が走り去った方を見て、立ち尽くしていた。
──アイツ、ぜんぜん息切れしてなかった! クソッ!
あの勝ち誇ったような一瞬の笑顔と、追いつけなかった背中が頭から離れない。
イライラ、モヤモヤする。けれど、同時に“綺麗だ”とも思った。
──男に対して“綺麗”とか変だろ! 何考えてんだ俺は! ……アイツ、名前何だっけ。和田セン、何て言ってた?
風が吹いて、どこからか桜の花びらが舞ってきて、侑は我に返った。
「……あっ! バイト! やべ!」
慌てて、再び走り出した。
