姫が死んだ日

「ねぇ、夏帆」
「なに?」
「あのさ、2組の佳奈って子いるじゃん、あの子最近ちょっと調子乗ってない?」

トイレの前、一瞬足が止まった。

「分かる。彼氏できたからでしょ」
「てか彼氏の顔もそんなでもなくない?」
「死ぬんだけど」

水の流れる音。笑い声。私は、扉の前で息を止めた。

「勘違いしてる系って感じ」
「わかんの。佳奈可愛いとか言われてるけどうちには分からんわぁ。顔わりと普通だし」

高い笑い声が響く。胸の奥が、すうっと冷える。
鏡の前で噂されて、勝手に比べられて、笑われて、「調子に乗ってる」って決めつけられる。
頭の中に浮かぶ。

教室で笑っている佳奈ちゃん。
彼氏と話している佳奈ちゃん。
「かわいいね」って言われて、照れた表情を浮かべた佳奈ちゃん。

それだけで、誰かの不快になる。不快な気持ちや嫌悪が刃物みたいに誰かに向けられる。ドアノブに手を伸ばしかけて、止めた。
——いや、だ。
こうやって影で言われるのは。
トイレの中から、また笑い声がした。その音が、ひどく遠く感じる。私は、静かに踵を返した。今入ったら、たぶん、平気な顔をしなきゃいけない。
何も聞いていないふりをして、鏡の前で笑わなきゃいけないそんなの、できなかった。
廊下の窓から差し込む光が眩しい。その明るさが、少しだけ救いだった。
——こうなるのは、嫌だ。
私は、ぎゅっと拳を握った。

---

薫と出会ったのは、たしか春だった。
転校してきた薫は一人ぼんやり外を見ていた。私はなんとなく「きれいだな」と思った。その“きれい”は、顔のことじゃなかった。どこか壊れかけたガラスのような透明さに、目が離せなかったのだ。

「ねぇ、薫。なんで転校してきたの?」

何気なく聞いたつもりだった。なのに、彼女は悲しそうに顔を歪ませた。

「親友、が」

薫は転校する前の事を話してくれた。

親友が死んでしまったこと。
その責任が彼女にあること。

全部を。

胸の奥で何かがざらりと音を立てた。“かわいい”でしか価値を持てない私と、“誰かを失った罪”で自分を責め続ける薫。生きている理由を見失った者同士、私たちは自然と引き寄せられていった。そして思ったのだ。
ーーこの子と死にたい。と。
放課後の屋上。冬の風が頬を撫でる。
遠くでチャイムが鳴っているのに、世界の音はもう遠い。

「ねぇ、澪奈」
「ん?」
「死ぬのって、怖いと思う?」

私は少し考えて、笑ってみせた。

「生きる方が、怖いかも」

薫は目を細めた。

「私も、そう思う」

沈黙が流れた。
その沈黙は、不思議と心地よかった。
誰にも言えない本音を、ようやく言葉にできたような気がした。

「澪奈はさ、もし生まれ変われるなら、どうしたい?」

「……普通に、笑っていたい。
 かわいくなくても、愛される人になりたい」

薫は少しだけ俯いて、それから私を見た。きっと、私たちを救ってくれるのは。

「ねぇ、薫。こんな時間、終わりにしようよ」

「うん」

風がふたりの髪を揺らした。
空の色は薄く、冷たく、透き通っていた。その色を見ていると、なぜだか涙がこぼれそうになった。気づけば、薫の手を握っていた。冷たかった。でも、その冷たさが優しかった。


駿くんと初めてちゃんと話したのは、授業中のペアワークだった。

「じゃあ、二人一組で」

先生のその一言で、教室が一斉にざわつく。皆がペアになりたい子達を探し回る。私は反射的に周りを見た。誰と組むかを選ぶ前に、選ばれる側になることに、もう慣れてしまっていたから。

「……あ」

隣の席の男子が、少しだけ戸惑ったようにこちらを見た。駿くんだ。

「一緒にやる?」

探るみたいな聞き方だった。期待が含まれていない声だ。

「うん。よろしくね」

そう答えると、彼はほっとしたように頷いた。机を寄せて、プリントを広げる。問題文を読む声が、落ち着いていて聞き取りやすい。

「ここ、どう思う?」
「私は、こっちかな」

会話は、必要最低限。なのに、沈黙が気まずくない。途中で、私が髪を耳にかけると、いつもなら感じる視線が、なかった。……あれ?
駿くんは、プリントから目を離さない。

「澪奈、字きれいなんだな」

一瞬、胸が跳ねた。

「ありがとう」
「やっぱ読みやすいと助かるわ」

それだけ。ペアワークが終わって、
先生が次の説明を始める。

「ありがと」
「うん。助かった」

立ち上がるとき、
駿くんが少しだけ笑った。

「澪奈って、思ってたより静かなんだね」
「……そうかな?」
「俺はそう思うけど。いい意味で」

いい意味、ってなんだろう。そう聞き返す前に、授業が再開した。でも、その一言が、ずっと胸の奥に残った。かわいいでも、完璧でも、お姫様でもない。ただ、“静かな人”とだけ言った。

その日の帰り、私はなぜか、自分の机に置いたペンを、何度も握り直していた。

——駿くんは、私をどう見てたんだろう。

放課後のチャイムが鳴ったあと、教室には少しだけざわめきが残っていた。
鞄を閉じる音、椅子を引く音、窓の外から聞こえる部活の掛け声。澪奈はノートをしまいながら、胸の奥に引っかかるような視線を感じていた。

「……澪奈。」

呼ばれて顔を上げると、そこにいたのは駿だった。少しだけ緊張したような表情で、いつもの余裕がない。

「今、ちょっといい?」

その一言だけで、心臓が跳ねる。

「う、うん……」

教室を出て、廊下を並んで歩く。
窓から差し込む夕方の光が、床をオレンジ色に染めていた。沈黙が長い。でも、嫌じゃなかった。駿は何度か口を開きかけては閉じて、最後にぽつりと言った。

「……中庭、行かない?」

人の少ない場所。それだけで、胸がざわつく。中庭には、もうほとんど人がいなかった。ベンチのそばで立ち止まると、風が制服の裾を揺らす。

「……急に呼び出して、ごめん」

駿くんはそう言って、澪奈から少し距離を取った。目が合わない。手が、ぎゅっと握られている。

「俺、澪奈と一緒にいると、落ち着くんだ。」

澪奈は、何も言えなかった。

「澪奈のそういうとこが好き、で」

風の音が、一瞬だけ遠くなる。

「だから……」

駿くんは深く息を吸って、まっすぐ私を見た。

「俺と、付き合ってください。」

時間が止まったみたいだった。
頭の中が真っ白で、心臓の音だけがうるさい。

「……よ、よろしくお願いしますっ」

声が震えたけれど、確かにそう言えた。駿くんは一瞬きょとんとして、それから、少し照れたように笑った。

「マジ?……よかったぁ」

夕暮れの空が、やけにきれいだった。
私を好きになってくれたのが嬉しくて、いっきに甘い感情が私の胸を満たした。駿くんは嬉しそうだけどちょっと恥ずかしそうで、愛おしかった。
初めての、私の、彼氏。
そう思うだけでくすぐったかった。でも、同じくらい嬉しかった。

放課後、ふたりで歩く帰り道は、いつもより少しだけ静かだった。

「緊張するね」

笑いながら私がそう言うと、駿くんは一瞬驚いた顔をしてから、ふっと笑った。

「俺も。いざ付き合うってなっても、こう…なに話していいかわかんないな」

その言い方が、妙に安心した。完璧で、余裕があって、なんでもできる人だと思っていたのに。駿くんは、少しだけ不器用で、少しだけ照れていた。

「じゃ、改めて自己紹介、とか?」

私は若干真剣にそう言ってみた。

「え?今?」

駿くんは驚きながらも笑って言った。
その驚いた顔が珍しくて、面白くて思わず吹き出してしまった。その時二人で笑った時の私の顔は薫といる時の私と似ている気がした。
ふとコンビニの前を通り過ぎるとき、ガラスに映った自分の顔を見た。前髪は少し乱れていて、リップも落ちかけている。完璧にかわいい、とは言えない顔。無意識に、直そうとして手を上げかけた、そのとき。

「そのままでいいよ」

駿くんが、当たり前みたいに言った。

「え……?」
「澪奈、今の顔。息苦しくなさそうで安心した」

胸が、きゅっと縮まった。
どうしてそんな言葉を、そんなに簡単に言えるんだろう。“かわいい”を必死に守ってきた私には、それが少し怖くて、でも救いだった。

「……そんなの、変だよ」
「変でもいいじゃん」

駿くんはそう言って、照れ隠しみたいに前を向いた。

「俺はさ、澪奈が無理してるのが無理なんだよ。澪奈はそのままで、いいんだよ」

その言葉は、王冠を褒める声じゃなかった。飾られた私じゃなくて、今ここに立っている“私”に向けられていた。

「無理しなくていい。すっぴんでも、泣いてても。どれだけ澪奈が自分を可愛いと思ってても、自信がなくても、多分俺は、澪奈の事好きになると思う」

はじめて言われたそんな言葉に目尻に熱いものが込み上げてきた。泣きそうになってになって、慌てて笑った。

「今じゃなきゃ言えない気がしたから、今言ってみた」

駿くんは頬を緩めてそう言った。その優しさが、あまりにも真っ直ぐで。胸の奥で、長い間締めつけられていた何かが、少しだけ緩んだ気がした。でも同時に、怖くもなった。
——こんなふうに愛されたら。
私は、今までの“かわいい私”を、どうすればいいんだろう。駿くんは、そんな私の迷いはきっと知らない。いつも通りの歩幅で歩いていく。私はその隣で、初めて「愛されること」を初めて、ちゃんと考え始めていた。

--

自分がこんなふうに思う人間だとは、知らなかった。

二人が並んで歩いているのを見た瞬間、胸の奥が、ひどくざらついた。
澪奈が笑っている。私の見た事ない顔で。
隣には駿がいて、当たり前みたいに手を伸ばしている。

――やっと、手に入れたのに。

薫は唇を噛んだ。
澪奈が、少しずつ心を開いてくれた。
冗談にちゃんと笑って、弱いところも見せてくれるようになった。
時間はかかったけれど、確かに近づいていたはずだった。

それを、ぽっと出の男に一瞬で持っていかれた。

「……村田さん?」

声をかけられて、我に返る。
気づけば、二人の前に立っていた。
澪奈は少し驚いた顔をして、でもすぐに、気まずそうに視線を逸らした。
その仕草が、ものすごく腹が立った。

「話、あるんだけどいい?」

私は澪奈ではなく、駿を見た。
駿は一瞬戸惑ったあと、澪奈に目配せをする。

「先、帰ってて」

澪奈は小さく頷いて、私たちから離れていった。背中が見えなくなった瞬間、私の中で、何かが決壊した。

「……駿くんさ」

かけた声が思ったよりもかなり低かった。

「澪奈のこと、分かってないよ」

駿は目を見開いた。

「は?」
「分かってないって、言ったの」

薫は一歩近づいた。言葉を選ぶ余裕なんて、もうなかった。

「どうせ、気づいてないんでしょう」

「……何が、言いたいんだよ」

駿の声に苛立ちが混じり、少しだけ強くなる。

「澪奈はね、平気な顔をするのが一番上手い人なんだよ」

私は一息に言い切った。

「駿くんは澪奈のこと理解してないよ」

駿は黙って私を睨んだ。はっきりとした敵意がこちらに向けられる。

「駿くんが好きなのは、今の澪奈でしょ」

「……違う」

「違わないよ」

薫は即答した。

「駿くんは大丈夫そうな澪奈が好きなんだよ。そうじゃない澪奈を、ちゃんと見ようとしてないじゃん」

多分、私は今言っちゃ行けないことを言っている。ようやく気づいた。
これは忠告なんかじゃない。
ただの、嫉妬だ。

奪われた。
やっと手に入れたと思ったものを。

それでも、言わずにはいられなかった。

「……あの子は、好きな人にほど、弱いところ見せないだよ」

駿の表情が、わずかに揺れた。

「だからさ」

薫は、最後に吐き捨てる。

「守ってるつもりでいるなら澪奈と一緒にいるの、やめて」

薫は踵を返した。
背中に、駿の視線を感じながら。

嫌だった。
奪われたのが。

あーあ、本当に呆れる。

私は本当に心の底からクズなんだ。


---

夜の洗面所は、昼間よりも少しだけ寒かった。
蛍光灯の白い光が、鏡の中の私を平等に照らしている。

リップを落とす。
コットンに色が移るたび、唇の輪郭が少しずつ薄くなっていく。

「……わ」

鏡に映る私はいつもの私じゃなかった。
なんとなく、笑顔を鏡に向けてみた。
それはクラスで見せる笑顔でも、
何度も何度も撮って体に染み付いた写真用の角度でもなかった。

洗面台の縁に両手をついて、鏡を見つめる。かわいいだなんて思わなかったけど嫌な気はしなかった。

蛇口をひねると、水の音がやけに大きく聞こえた。
蛇口から零れる冷たい水を顔に思い切りぱしゃぱしゃとかける。
その音に紛れるように、深く息を吐く。

「…疲れた」

顎から滴る水も気にせずにその言葉は自然と口から零れ落ちた。
リビングから聞こえてくるテレビの音。ママはもう寝たのかもしれない。
それとも、まだ起きているのかもしれない。

もうどっちでも、よかった。

顔の水分をタオルで拭いて化粧水を塗る。しっとりとした肌を指でなぞって肌の綺麗さを再確認した。最後に肌が荒れないように美容液を塗って念入りにスキンケアした。

洗面所を出る前、スマホを手に取って、何気なくカメラを起動する。

画面に映るのは、メイクもしていない、笑ってもいない私。

シャッターを切りかけて、指が止まる。

アプリを閉じた。部屋に戻って、制服を脱ぎ、ベッドの端に座り込む。スカートは畳まず、カーディガンも床に落としたまま。
それでも、誰にも怒られない。誰にも見られていない。布団に潜り込んで、天井を見上げる。私の目には、何も映らなかった。

目を閉じると、今日一日で何度も貼り付けた笑顔が、ゆっくりと剥がれていく気がした。

その下に残ったのは、
疲れていて、
空っぽで。
でも確かに私だった。

---

放課後の教室は、夕方の光がやけにやさしかった。
机の角がオレンジ色に染まって、黒板の文字が少し滲んで見える。

薫は窓側の席に座って、外を見ていた。その横顔を見ていると、理由もなく落ち着く。

「ねぇ、薫」

声をかけると、ゆっくりこちらを向いた。

「なに?」
「来年さ、クラス替えあるじゃん」

自分でも、どうしてそんな話を振ったのか分からなかった。ただ、口からこぼれただけ。

「……あるね」
「同じクラスだったら、いいなぁって」

冗談みたいに笑ってみせたけど、胸の奥では、別の答えを待っていた。薫は少し考えてから言う。

「別でも、会うでしょ?」

その言葉に、少しだけ安心してしまった自分がいた。

「だよね」

私は頷いて、机に指先を滑らせる。

「クラス別になっても放課後コンビニ寄ったり、屋上で話したりしようね」
「うん」

薫の声は、静かだった。
でも、その静かさが、なぜか胸に引っかかる。

「卒業したら、どうするんだろうね。私たち」

自分で言っておいて、少し笑ってしまう。
本気で考えてないふりをする癖が、自然と出た。

「考えたこと、なかったかも」
「私も」

天井を見上げる。
そこには未来なんて書いてない。

「普通に大学行って、どっかで一人暮らしとかしてさぁ」

今思えば、それが本当の願望だったのかもしれない。

「澪奈、料理できないじゃん」
「努力すれば出来るかもしれないでしょ?」
「コンビニ弁当」
「ひどい!」

二人で笑った。
その笑いは、写真用でも、作った角度でもなかった。

今の私、かわいくなくても笑えてる。
そう思った瞬間、同時になぜか怖くなった。

「……ねぇ」

声が少し低くなる。

「私たち、来年はどうなってると思う?」

薫は答えなかった。沈黙は気まずいものではなかった。むしろ、その沈黙で十分だった。私は、先に笑った。

「だよね」

自分で扉を閉める音が、頭の中で響いた。

軽く言えた自分が、少し上手だと思ってしまう。こうやって何度も何度も、逃げてきたから。

立ち上がって、鞄を肩にかける。
ずしりと肩に圧がかかる。

「帰ろっか」
「……うん」

教室を出る前、ほんの一瞬だけ振り返って、薫を見る。

もし、ここで「それでも生きたい」って言えたら、何か変わったのかな。

でも、言わなかった。いや、
――言えなかった。