風祭様。ご無沙汰しております。郷土史家の升谷です。
私の方でもあれから、「鬼虎伝説」について調べなおしてみたのですが、郷土史家仲間から大変興味深い情報を入手しました。ある郷土史家が偶然骨董市で発見した、筆者不明の手記に「鬼虎」という記述が登場することが分かったのです。知人を介してその郷土史家に連絡を取り、手記のコピーを提供していただくことが出来ました。まずは内容をご確認ください。
筆者不明の手記
予がこの筆を執るは、万が一後世の者が再び「鬼虎」の脅威に晒されし時の道標を残さんとするがためなり。他の者たちは忌々しき「鬼虎」の記憶さえも封印せしめんとしているようだが、それは後世の者に対する放責であると予は考える。
よってここに、大正十二年九月一日に起きた騒乱の詳細を記す。
事の始まりはその年の四月、四郎という幼子が突如として行衛知らずとなった。その後も村では幼子の行衛知らずが相次ぎ、その数三十を超える。近隣の村々でも同様の被害が起き、行衛知らずの幼子は幾そばくか知らず。
誰もが「鬼虎の迎え」と口を揃えるも、この年の「鬼虎」の食欲は留まるところを知らず、その被害たるや甚大。憤怒に赫村の男共は武器を手に取り、「鬼虎」討伐を決起する。
九月一日。決起した男共は虎倉井山へと分け入り、山狩りを決行。午の刻を待つ前、一人の男が山の中腹で「鬼虎」と遭遇。片腕を嚙み千切られる大怪我を追うも必死に応戦。駆け付けた男たちが長物で一斉に「鬼虎」を追い立て、負傷した「鬼虎」は敗走。男たちは止めを刺さんと巣穴まで「鬼虎」を追い詰めるも、午砲のなる直前、突如として大地猛り狂い、足下は波打つ海のごとく変じたり。後世、語り草となるべき九月一日の大震とは正にこれなり。
大震により「鬼虎」の巣穴が崩落。「鬼虎」は二度と塵界に影を落とすこと無かるべしと、村の者共は堵に安んじたり。此の封印を気に、「鬼虎」による忌まわしき悲劇の全てを忘却の彼方へと葬り去らんとす。されど予は、後世の安寧を案じずにいられない。
何人たりとも、此の封印を解くことは断じて許されず。斯様な不埒ならう企ては総力を上げて阻止すべし。さもなく「鬼虎」の恐怖は再び塵界に解き放たれん。
願わくばこの記録を後車の戒めとし、後世の安寧が永劫に守られんことを。再び斯かる惨劇の繰り返されぬよう、予はただ祈るのみなり。
手記はここで終わっている。
筆者は不明ですが、内容から察するに当時、虎倉井周辺に居住していた知識人によって書かれた手記だと思われます。
大正時代にどうして「鬼虎伝説」は突如として語られなくなったのか。手記の内容が事実だとすれば、「鬼虎」を巣穴に封印することに成功し、住民たちは忌々しい記憶を忘れようとしたということになります。旧虎倉井ブリーズワールドの地下で発見された大量の古い子供の人骨は、この時期に「鬼虎の迎え」に遭ってしまった犠牲者たちなのでしょう。時期も一致します。
しかし、「鬼虎」が封印されたのが大正12年の9月1日だったというのには驚きです。手記でも大きな揺れについて言及されていますが、この日は関東大震災が起きた日。その揺れが「鬼虎」の封印に影響を及ぼしたとは。
手記を書いた人物は「鬼虎伝説」を忘却の彼方とすることを良しとはせず、後世のために当時起きたことを文章に残した。本来であればそれはきっと、遠い未来。口伝さえも途絶えた先を見越してのことだったのでしょうが、危機は想像以上に早く訪れてしまった。
1983年頃から始まった、虎倉井山を切り開き、遊園地を建設する開発プロジェクト。大正12年は西暦に直すと1923年ですから、「鬼虎」封印から60年後の出来事ということになります。当時山狩りに参加していた方も、高齢ながらご存命だったでしょう。それより若い世代でも、幼少期に「鬼虎」の恐ろしさは教え込まれていたはずです。一度は忘却したはずの「鬼虎」に対する恐怖が、再び蘇ってきたことは想像に難くありません。山を切り開けば、崩落した地下の封印が解かれてしまうかもしれない。それを阻止するために、住民たちは反対運動に立ち上がったのでしょう。しかし、奮闘虚しく開発は強行されてしまった。遊園地完成後、反対運動をしていた住民の多くが転居したとのことですが、再び「鬼虎」の脅威に晒されるやもしれぬという恐怖に耐えられなかったのかもしれません。
一連の状況を見る限り、開発で山を切り開く中で、実際に「鬼虎」の封印は解かれてしまったのでしょうね。
「鬼虎」の存在が再び、塵界に影を落としたのです。
私の方でもあれから、「鬼虎伝説」について調べなおしてみたのですが、郷土史家仲間から大変興味深い情報を入手しました。ある郷土史家が偶然骨董市で発見した、筆者不明の手記に「鬼虎」という記述が登場することが分かったのです。知人を介してその郷土史家に連絡を取り、手記のコピーを提供していただくことが出来ました。まずは内容をご確認ください。
筆者不明の手記
予がこの筆を執るは、万が一後世の者が再び「鬼虎」の脅威に晒されし時の道標を残さんとするがためなり。他の者たちは忌々しき「鬼虎」の記憶さえも封印せしめんとしているようだが、それは後世の者に対する放責であると予は考える。
よってここに、大正十二年九月一日に起きた騒乱の詳細を記す。
事の始まりはその年の四月、四郎という幼子が突如として行衛知らずとなった。その後も村では幼子の行衛知らずが相次ぎ、その数三十を超える。近隣の村々でも同様の被害が起き、行衛知らずの幼子は幾そばくか知らず。
誰もが「鬼虎の迎え」と口を揃えるも、この年の「鬼虎」の食欲は留まるところを知らず、その被害たるや甚大。憤怒に赫村の男共は武器を手に取り、「鬼虎」討伐を決起する。
九月一日。決起した男共は虎倉井山へと分け入り、山狩りを決行。午の刻を待つ前、一人の男が山の中腹で「鬼虎」と遭遇。片腕を嚙み千切られる大怪我を追うも必死に応戦。駆け付けた男たちが長物で一斉に「鬼虎」を追い立て、負傷した「鬼虎」は敗走。男たちは止めを刺さんと巣穴まで「鬼虎」を追い詰めるも、午砲のなる直前、突如として大地猛り狂い、足下は波打つ海のごとく変じたり。後世、語り草となるべき九月一日の大震とは正にこれなり。
大震により「鬼虎」の巣穴が崩落。「鬼虎」は二度と塵界に影を落とすこと無かるべしと、村の者共は堵に安んじたり。此の封印を気に、「鬼虎」による忌まわしき悲劇の全てを忘却の彼方へと葬り去らんとす。されど予は、後世の安寧を案じずにいられない。
何人たりとも、此の封印を解くことは断じて許されず。斯様な不埒ならう企ては総力を上げて阻止すべし。さもなく「鬼虎」の恐怖は再び塵界に解き放たれん。
願わくばこの記録を後車の戒めとし、後世の安寧が永劫に守られんことを。再び斯かる惨劇の繰り返されぬよう、予はただ祈るのみなり。
手記はここで終わっている。
筆者は不明ですが、内容から察するに当時、虎倉井周辺に居住していた知識人によって書かれた手記だと思われます。
大正時代にどうして「鬼虎伝説」は突如として語られなくなったのか。手記の内容が事実だとすれば、「鬼虎」を巣穴に封印することに成功し、住民たちは忌々しい記憶を忘れようとしたということになります。旧虎倉井ブリーズワールドの地下で発見された大量の古い子供の人骨は、この時期に「鬼虎の迎え」に遭ってしまった犠牲者たちなのでしょう。時期も一致します。
しかし、「鬼虎」が封印されたのが大正12年の9月1日だったというのには驚きです。手記でも大きな揺れについて言及されていますが、この日は関東大震災が起きた日。その揺れが「鬼虎」の封印に影響を及ぼしたとは。
手記を書いた人物は「鬼虎伝説」を忘却の彼方とすることを良しとはせず、後世のために当時起きたことを文章に残した。本来であればそれはきっと、遠い未来。口伝さえも途絶えた先を見越してのことだったのでしょうが、危機は想像以上に早く訪れてしまった。
1983年頃から始まった、虎倉井山を切り開き、遊園地を建設する開発プロジェクト。大正12年は西暦に直すと1923年ですから、「鬼虎」封印から60年後の出来事ということになります。当時山狩りに参加していた方も、高齢ながらご存命だったでしょう。それより若い世代でも、幼少期に「鬼虎」の恐ろしさは教え込まれていたはずです。一度は忘却したはずの「鬼虎」に対する恐怖が、再び蘇ってきたことは想像に難くありません。山を切り開けば、崩落した地下の封印が解かれてしまうかもしれない。それを阻止するために、住民たちは反対運動に立ち上がったのでしょう。しかし、奮闘虚しく開発は強行されてしまった。遊園地完成後、反対運動をしていた住民の多くが転居したとのことですが、再び「鬼虎」の脅威に晒されるやもしれぬという恐怖に耐えられなかったのかもしれません。
一連の状況を見る限り、開発で山を切り開く中で、実際に「鬼虎」の封印は解かれてしまったのでしょうね。
「鬼虎」の存在が再び、塵界に影を落としたのです。



