風祭竜也です。
先日お手紙をくださった虎倉井市民の方からご紹介をいただき、虎倉井市の歴史に詳しい、郷土史家の升谷健文先生からお話を伺うことが出来ました。その際に録音したボイスレコーダーの内容を文字に起こして、共有していきたいと思います。もちろん、升谷先生には音声の録音および、内容の取扱いに関する許可は頂いております。
【音声内容】
この度は、誠にご愁傷様でございます。ご遺族様に心よりお悔やみ申し上げます。
旧虎倉井ブリーズワールドを巡る一連の報道には大変驚きました。まるで現代の「鬼虎伝説」だ。触らぬ神に祟りなし。やはり虎倉井山は開発などはせずに、そっと眠らせておくべき土地だったのかもしれません。
先に名前を出してしまいましたが、虎倉井山の「鬼子伝説」についてお話します。虎倉井山には古くから、「鬼虎」と呼ばれる異形の怪物が棲んでいるとされてきました。鬼に虎と書いて「鬼虎」です。
鬼が恐ろしい存在であることはイメージがしやすいでしょう。虎は必ずしも恐怖の象徴ではありませんが、野生の虎が生息していない日本においてはその昔、虎という存在は、大陸から伝わる物語や絵の中でしか存在を確認することができない、伝説上の生物に近かったのです。故に「鬼虎」という名は「この世のものではない、恐ろしい存在」という意味合いでつけられたものであると、私は推測しています。
「鬼虎」の姿は、炭のように真っ黒で、目は紅玉のような怪しい輝きを放っていた。大きな頭と口を持つ、二本足で歩く巨大な猿のようであったと、伝承では語られています。
その異形の姿もさることながら、「鬼虎」の最も恐ろしいところは、人間を食らうこと。中でも幼い子供の肉が大好物であったそうです。山の周辺では大昔から、幼い子供が行方不明になってしまう騒ぎがよく起こっていたとされています。そのため地域では、いわゆる神隠しにあたる言葉として、子供の行方不明を「鬼虎の迎え」と呼ぶこともあったそうです。
山の名前が現在の虎倉井山という字になったのは近代になってからのこと。それ以前には子供が神隠しに遭う山が故に、子を食らう山と書いて、「子食らい山」と呼ばれていたそうです。あまりにも残酷な名前ですから、せめて字だけでも変えようとしたのでしょうね。現在は自治体の名前も虎倉井市になっていますが、郷土史的観点から見ると名前の原点には、血生臭い伝承が存在しているのです。
「鬼虎」は恐ろしい怪物であると同時に、山の神のような存在であると考えられていました。全ては神様のしたこと。故に昔の人々は「鬼虎」による被害を天災のようなものだと割り切り、この土地でたくましく生きていたようです。
そんな古くから地域に根差していた「鬼虎伝説」を取り巻く状況が、おおよその推定ですが大正時代頃を境に、突然大きく変化しました。「鬼虎伝説」に関する情報が突然、地域から消えてしまったのです。
古くからの伝承が時代の流れの中で段々と廃れていき、語られなくなっていくことは決して珍しい話ではありませんが「鬼虎伝説」の場合は少なくとも、大正時代に入ってすぐの頃までは、畏怖の象徴として語り継がれていたはずなのです。つまり、たった数年から十年程度の期間で突然、「鬼虎伝説」を誰も語らなくなり、記録も残さなくなったということになります。この性急さは自然の流れではあり得ない。当時の住民たちが示し合わせ、「鬼虎伝説」を無くしてしまおうとしたと見るべきでしょう。まるでその話自体を封印してしまうかのように。
とはいえ、それ以前に「鬼虎伝説」を語っていた時期まで無くなるわけではありません。地域の外へと伝わったものを中心に、文献や口伝も残っている。だからこそ現代でこうして、私のような郷土史家が「鬼虎伝説」についてお話することが出来ているわけです。
しかし、大正時代に当時の住民たちはどうして、地域から「鬼虎伝説」を無くしてしまおうとしたのでしょうか。確かに忌避間を覚える血生臭い伝承ですが、だからといって自分たちの世代でそれを無くしてしまおうと考え、住民全体で行動するところまで行きつくものでしょうか。何も積極的に排除せずとも、意識せずに生活していれば、長い年月の中で自然と消滅していたでしょうし。
裏を返せば、「鬼虎伝説」を無くそうと住民が一致団結するような、何か強い動機があったのかもしれません。
そうして「鬼虎伝説」は一度眠りにつきましたが、1980年代に入り、虎倉井山の開発計画が持ち上がると、再びその名が表に現れるようになった。地元住民たちの反対運動の根幹にあったのは間違いなく「鬼虎伝説」です。当時の新聞記事では「祟り」や「罰当たり」という言葉が並んでいましたが、住民たちは「鬼虎」が棲んでいるとされる、虎倉井山が切り開かれることを過度に恐れていた。しかし反対活動も虚しく開発は強行され、切り開かれた虎倉井山には虎倉井ブリーズワールドが建設された。
それから何事もなく月日が流れたとばかり思っていましたが、現代になってあの土地の地下から大量の人骨が発見された。私は一郷土史家に過ぎませんから、遊園地で行方不明になったお子さんのご遺体が見つかった件については、何も語れることはありません。
ですが、一緒に発見されたという大量の古い子供の人骨については少々思い当たる節があります。大量の人骨はおおよそ100年ほど昔のものだと報道されていました。だとすれば、大正時代後期頃のものである可能性もあるのではないでしょうか。実は当時の記録によると、周辺地域では子供が行方不明になる事件が数多く発生していたようなのです。古い人骨はこの当時行方不明になった子供たちの可能性もあるのではないでしょうか。公表していないだけで、恐らく警察もすでにこの可能性については把握していることでしょう。
仮に大量の人骨が大正時代のものだとすると、同時期に住民たちが「鬼虎伝説」を無くそうとしたことと、無関係とは思えません。子供の行方不明が多発したことで危機感を覚えた住民たちが結束を強めたのかもしれません。しかしそれがどうして、「鬼虎伝説」を無くすことに繋がっていくのか。子供を食らうとされる「鬼虎」の存在が想起される事件ですが、伝承はあくまでも伝承です。「鬼虎伝説」だって、「鬼虎」とは山の恐ろしさの比喩のような存在で、無暗に山に入ってはいけないという、教訓を伝えるための昔話だと私はずっと考えていました。
しかし、実際にあの謎の地下空間からは実際に大量の人骨が見つかったことで、正直なところ私も、何が何だか分からなくなってきました。
まさか本当に「鬼虎」が存在している、なんてことはあり得ないと信じたいですがね。
音声の内容は以上となります。
先日お手紙をくださった虎倉井市民の方からご紹介をいただき、虎倉井市の歴史に詳しい、郷土史家の升谷健文先生からお話を伺うことが出来ました。その際に録音したボイスレコーダーの内容を文字に起こして、共有していきたいと思います。もちろん、升谷先生には音声の録音および、内容の取扱いに関する許可は頂いております。
【音声内容】
この度は、誠にご愁傷様でございます。ご遺族様に心よりお悔やみ申し上げます。
旧虎倉井ブリーズワールドを巡る一連の報道には大変驚きました。まるで現代の「鬼虎伝説」だ。触らぬ神に祟りなし。やはり虎倉井山は開発などはせずに、そっと眠らせておくべき土地だったのかもしれません。
先に名前を出してしまいましたが、虎倉井山の「鬼子伝説」についてお話します。虎倉井山には古くから、「鬼虎」と呼ばれる異形の怪物が棲んでいるとされてきました。鬼に虎と書いて「鬼虎」です。
鬼が恐ろしい存在であることはイメージがしやすいでしょう。虎は必ずしも恐怖の象徴ではありませんが、野生の虎が生息していない日本においてはその昔、虎という存在は、大陸から伝わる物語や絵の中でしか存在を確認することができない、伝説上の生物に近かったのです。故に「鬼虎」という名は「この世のものではない、恐ろしい存在」という意味合いでつけられたものであると、私は推測しています。
「鬼虎」の姿は、炭のように真っ黒で、目は紅玉のような怪しい輝きを放っていた。大きな頭と口を持つ、二本足で歩く巨大な猿のようであったと、伝承では語られています。
その異形の姿もさることながら、「鬼虎」の最も恐ろしいところは、人間を食らうこと。中でも幼い子供の肉が大好物であったそうです。山の周辺では大昔から、幼い子供が行方不明になってしまう騒ぎがよく起こっていたとされています。そのため地域では、いわゆる神隠しにあたる言葉として、子供の行方不明を「鬼虎の迎え」と呼ぶこともあったそうです。
山の名前が現在の虎倉井山という字になったのは近代になってからのこと。それ以前には子供が神隠しに遭う山が故に、子を食らう山と書いて、「子食らい山」と呼ばれていたそうです。あまりにも残酷な名前ですから、せめて字だけでも変えようとしたのでしょうね。現在は自治体の名前も虎倉井市になっていますが、郷土史的観点から見ると名前の原点には、血生臭い伝承が存在しているのです。
「鬼虎」は恐ろしい怪物であると同時に、山の神のような存在であると考えられていました。全ては神様のしたこと。故に昔の人々は「鬼虎」による被害を天災のようなものだと割り切り、この土地でたくましく生きていたようです。
そんな古くから地域に根差していた「鬼虎伝説」を取り巻く状況が、おおよその推定ですが大正時代頃を境に、突然大きく変化しました。「鬼虎伝説」に関する情報が突然、地域から消えてしまったのです。
古くからの伝承が時代の流れの中で段々と廃れていき、語られなくなっていくことは決して珍しい話ではありませんが「鬼虎伝説」の場合は少なくとも、大正時代に入ってすぐの頃までは、畏怖の象徴として語り継がれていたはずなのです。つまり、たった数年から十年程度の期間で突然、「鬼虎伝説」を誰も語らなくなり、記録も残さなくなったということになります。この性急さは自然の流れではあり得ない。当時の住民たちが示し合わせ、「鬼虎伝説」を無くしてしまおうとしたと見るべきでしょう。まるでその話自体を封印してしまうかのように。
とはいえ、それ以前に「鬼虎伝説」を語っていた時期まで無くなるわけではありません。地域の外へと伝わったものを中心に、文献や口伝も残っている。だからこそ現代でこうして、私のような郷土史家が「鬼虎伝説」についてお話することが出来ているわけです。
しかし、大正時代に当時の住民たちはどうして、地域から「鬼虎伝説」を無くしてしまおうとしたのでしょうか。確かに忌避間を覚える血生臭い伝承ですが、だからといって自分たちの世代でそれを無くしてしまおうと考え、住民全体で行動するところまで行きつくものでしょうか。何も積極的に排除せずとも、意識せずに生活していれば、長い年月の中で自然と消滅していたでしょうし。
裏を返せば、「鬼虎伝説」を無くそうと住民が一致団結するような、何か強い動機があったのかもしれません。
そうして「鬼虎伝説」は一度眠りにつきましたが、1980年代に入り、虎倉井山の開発計画が持ち上がると、再びその名が表に現れるようになった。地元住民たちの反対運動の根幹にあったのは間違いなく「鬼虎伝説」です。当時の新聞記事では「祟り」や「罰当たり」という言葉が並んでいましたが、住民たちは「鬼虎」が棲んでいるとされる、虎倉井山が切り開かれることを過度に恐れていた。しかし反対活動も虚しく開発は強行され、切り開かれた虎倉井山には虎倉井ブリーズワールドが建設された。
それから何事もなく月日が流れたとばかり思っていましたが、現代になってあの土地の地下から大量の人骨が発見された。私は一郷土史家に過ぎませんから、遊園地で行方不明になったお子さんのご遺体が見つかった件については、何も語れることはありません。
ですが、一緒に発見されたという大量の古い子供の人骨については少々思い当たる節があります。大量の人骨はおおよそ100年ほど昔のものだと報道されていました。だとすれば、大正時代後期頃のものである可能性もあるのではないでしょうか。実は当時の記録によると、周辺地域では子供が行方不明になる事件が数多く発生していたようなのです。古い人骨はこの当時行方不明になった子供たちの可能性もあるのではないでしょうか。公表していないだけで、恐らく警察もすでにこの可能性については把握していることでしょう。
仮に大量の人骨が大正時代のものだとすると、同時期に住民たちが「鬼虎伝説」を無くそうとしたことと、無関係とは思えません。子供の行方不明が多発したことで危機感を覚えた住民たちが結束を強めたのかもしれません。しかしそれがどうして、「鬼虎伝説」を無くすことに繋がっていくのか。子供を食らうとされる「鬼虎」の存在が想起される事件ですが、伝承はあくまでも伝承です。「鬼虎伝説」だって、「鬼虎」とは山の恐ろしさの比喩のような存在で、無暗に山に入ってはいけないという、教訓を伝えるための昔話だと私はずっと考えていました。
しかし、実際にあの謎の地下空間からは実際に大量の人骨が見つかったことで、正直なところ私も、何が何だか分からなくなってきました。
まさか本当に「鬼虎」が存在している、なんてことはあり得ないと信じたいですがね。
音声の内容は以上となります。



