一匹狼と妖精さん

 
 あの日から何日が過ぎただろうか。
日にちにすれば数日であるだろうに、果てしなく長い時間だったように感じられた。

 焼け付くような日差しは和らいで空は高く澄みわたり、風が肌に気持ち良い。
どこからか微かに香るキンモクセイが、季節の移ろいを実感させる。

 昼休み。
屋上の空気はこんなにも心地好いのに、俺の気持ちは晴れることなどなかった。
ここに来れば会えるかもしれないなんて、淡い期待を抱いて来てみては、予鈴が鳴る頃にはまた一人で過ごすオチとなった事を後悔する。
 アイツは…水澄は今頃誰かと一緒に過ごしているのだろうか……
例えば、あの時のイケメンとか。
会えるかも…以前に、待ち合わせの連絡を取り合っていた訳でもないのに。
日差しを避けて給水塔の日陰で過ごした日々を思い出しては、胸を締め付けられ喉の奥が苦しくなる。
 それならば、いつものように待ち合わせをすれば…なんて。
できるわけもない。
俺に会いたくないと思っているであろう水澄と、以前と変わりなく顔を合わせられるほど、俺のメンタルだって強靭ではない。
 会いたいのに、会いたくない。
なぜ、こんな事になってしまったのだ?
そうしてみすみす手放し、失ってしまうのか?
『大切なものほど、簡単に奪われてしまったり、手の中からすり抜けてしまう。』
いつぞやの村前の言葉が脳裏を掠めた。
きっと今がその時なのだ。
わかっているのに、そんな俺にブレーキをかけるものがあった。
 目に浮かぶのは、昨日の放課後の光景……
昇降口のガラス扉の前、水澄の部休日である今日こそはとスマホを手に取った俺の目に飛び込んできた光景は、今の俺に更なる追い討ちをかけた。
それは、誰かに手を引かれていく水澄の姿だった。
その誰かというのが、ミスコンの時のイケメン執事。
当の水澄は困ったような顔をしながらも、その手を振りほどくこともしない。
 その瞬間、全てが崩れていくような感覚に陥った。
二人を引き留めたいのに、まるで枷のように俺の身体を拘束したのは、あの時と同じ感情。
『水澄の隣にいるのが、俺であるべき理由がわからない』
あの日に知った嫉妬心は形を変えて、卑屈なまでに俺の自己肯定を奪った。
水澄が笑って過ごせるなら、水澄らしくいられるのなら、その隣にいるのは俺である必要は無いのかもしれない。
 誰にも傷付けさせない。
誰にも奪わせない……
あれほど執着し、愛して止まないと思っていたのに。
これからも二人で、二人でしか得られない時間を過ごしていきたいと思っていたのに。
こんなにもあっさりと諦めて、手放してしまうのか?
たった一瞬の光景を見ただけで、この先の水澄を信じてやれないのか?
水澄を追いかけることも、ただ一言『会いたい』のメッセージを送る事すらもできず、ただ呆然と立ち尽くことしかできなかった。
 
 重怠い気持ちを抱えたまま午後の授業をやり過ごし、ホームルームを終えた。
誰とも言葉を交わす事もなく淡々と帰り支度をして教室を出る。
それは以前までの俺の日常、これが普通だったはず。
水澄といた時間が特別だっただけ。
そしていつも通りに昇降口へと向かった。

 「…。…!」
「……?」

完全にシャットアウト状態だった俺の耳に、微かに誰かの声が聞こえた。
俺が呼ばれているのか?
その声が次第にはっきりと聞こえた。

「国分?!大丈夫か?」

ようやく我に返り声の方を振り返ると、そこにいたのは担任の西岡だった。

「あー…すみません。
ちょっと…考え事してて……」
「そうか、ちょうど国分の姿が見えたから、伝えておこうと思ってな」
「…っと、何をですか?」
「そろそろ推薦状が出来上がる頃だろうから、その心づもりをしておくようにとな。
併せて受験票の準備も必要となるからな」
「あー…、わかりました。」
「近々、模擬面接も予定しているから、参加すると良い」
「ありがとうございます。」

大切な話のはずなのに、話がどこか宙ぶらりんに聞こえてくる。話に一区切りがつき、「では…」と言いかけたところで、更に担任が言葉を続けた。

「なぁ、国分…」
「なんですか?」
「何か…あったのか?」
「えっ…?…何か…ですか?」

思わぬ言葉に、耳の奥にかかっていた靄が晴れる心地がした。

「そうだな、最近浮かない顔をしていることが多いと思ってな……
学祭の頃を思えば、今また近づき難いオーラが増してるように見える」
「近づき難いって……」

相変わらず担任は、生徒の機微に敏感だ。

「まぁ…受験も近いだけにナーバスになるのも無理ないだろう。

あまり思い詰めないようにな」
「大丈夫ですよ、俺、多分本番には強いと思ってるんで」
「そうだな、国分なら心配ないとは思っている」
「先生がそう言ってくれるなら、尚更。」
「ただ、心配事はできる限り手を打っておくに越したことはない。
私にできることなら、力にもなるからな」
「それはまぁ…俺の個人的な事でもあるし……
でも、ありがとうございます。」

さすがに色恋沙汰を話すわけにもいかない。

「では、そういうことで。俺は失礼します」
「ああ。気を付けて帰るようにな」

 担任の『国分なら心配ない』の言葉が妙に響いた。
途端に、今まで影を潜めていた強烈な感情が目を覚ました。
そうだ。何のために俺は自分のこれからを真剣に考えていたんだ。
俺には今、やらなければならないことがある。
今の状況にけじめをつける時なのだ。
足早に校門を出た俺は、いつもの帰り道とは逆方向へと向かった。

 切なさを色濃く印象付けていたキンモクセイの香りは、いつしか俺の前進を後押しするようだった。



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 もう何日、こんな日々を過ごしているのだろうか。
日にちが過ぎれば過ぎるほど、お互いの心が離れていくようで、尚更何もできなくなる。

 高く澄んだ空とは裏腹に、僕の心は曇ったままだ。
外に出れば、キンモクセイの香りが鼻を擽る。
もう、あの人の事は忘れなければならないのだろうか…
朝も、昼休みも、放課後も…
屋上で、昇降口で…
あの頃のように、うまく時間を合わせれば会えるはず。
物理的には。
 会いたいのに、会いたくない。
きっとこれから先、この切なさを印象付けたキンモクセイの香りに出会す度に、胸を締め付けられる思いを繰り返すのだろう。
鼻の奥がツンと痛む。
それは涙で視界が揺れる前触れ。

 そんな僕に追い討ちをかけたのが昨日の放課後。
帰り間際に顔を合わせた石山君との思わぬ展開に、今朝はどんな顔をして教室に入れば良いのかわからなかった。
それなのに、恐る恐る扉を開けた僕に向けられたのは、いつもと変わりない笑顔と『おはよう』の挨拶だった。
何事もなかったかのように……
その気遣いがまた、僕の無力さを抉る。
きっと彼にはそんなつもりも無ければ自覚も無いのだろう。
客観的に見れば誰も悪くない。
 『気まずくなったりしないで』なんて、無理だよ…
けれど僕がいつまでもこんな調子でいては、石山君の気持ちを全て無碍にしてしまうことになる。
それこそ僕の望むところではない。
ならば僕はちゃんと向き合うべきなのだ。
石山君にはもちろんのこと、あの人とも。
 昼休み。
今日も僕のスマホにはメッセージの通知は来ていない。
四限目の授業が移動教室だったこともあり、教室に戻った時点でメッセージが無いということは、今日も一緒に過ごすことは無いだろう。
落胆の感情を飲み込んで弁当バッグを取り出す。
いつも通りに…と思う程、怖じ気付いてしまう。
結局今日は教室で過ごす気分にはなれず、非常階段で一人昼食を済ませると、久しぶりに図書室へと足を運んだ。
 静かに流れる時間が、心なしか僕の気持ちを落ち着けた。
手に取った一冊の参考書は、いつしかあの人が勧めてくれた物だ。
開けばきっと、ここで過ごした時間を思い出して辛くなるだけだ。
参考書を棚に戻し、目についた数冊の本を手に席に着いた。
ところが、どれを開いてみてもことごとく内容が頭に入ってこない。
それでも、昼休みをやり過ごす当てはないので、そのままなんとなくページを捲っていた。
 予鈴が鳴って本を閉じる。
気に入る一冊があれば借りようかとも考えたけれど、カウンター内では部屋を閉める準備をしているのが見えて、僕は見ていた本をそっと棚に戻して図書室を出た。
わかっているとはいえ、カウンターにいる誰かがあの人ではないということを目の当たりにすれば、きっと僕はまた距離を自覚して落胆するだけ。
ならば、避けて通るのも無駄に傷付かない為の術なのだ。
 そうやって僕はまた目を背けて、逃げるのか。
そもそも僕はどうしたいのか。
目を向けなければならないのは?
…答えなんて、とうに出ているはず。
僕の気持ちを包み隠すことなく全て伝えなければ、本当に失ってしまう。
『大切なものほど、簡単に奪われてしまったり、手の中からすり抜けてしまう』
いつかの本庄先輩の言葉が耳の奥に蘇る。
石山君を拒んでまでも、僕が隣に居たいのは…嵐さんただ一人のはず。
あの人の笑顔が、優しさが、僕だけに向けられることを強欲なまでに望んでいるのだから……

 会いたい。

 窓から通り抜ける風が、肌に心地好い。
出会す度に胸を締め付けていたキンモクセイの香りは、いつしか甘く柔らかく心をほどいていくのだった。