月明かりだけ頼りの薄暗い自室で、姿見に映る自分と向き合う。
月光を浴びた鏡の中で、自信がなさそうな冴えない顔が頑張って笑顔を作ろうとした。
自分とは違う誰かだったなら――。
私はもっと上手く、自分の気持ちとも、君とも向き合えたりするのかな。
◆◇◆
お昼休みが終わるまであと5分。
5時間目開始の本鈴の前に、いつもこの時間だけは予鈴が鳴る。それを合図に、図書室にいた人たちがぞろぞろと動き出した。
机に伏せて仮眠していた人はあくびをしながら伸び、勉強道具を広げていた人は気怠げに片付けを始める。読書に耽っていた人たちは書架に本を戻すか、図書委員の私がいる貸出しカウンターにやってくるのがこの時間のお決まりの流れだ。
一人の女子生徒が本を抱えてこちらに来るのが見えて、私は図書室への要望や意見が書けるアンケート用紙に今日から一週間後の返却日を日付スタンプで押印しながら待ち構えた。
「これ借ります」
「はい、貸出カードをお預かりしますね」
女子生徒はあらかじめ自身の貸出カードを用意してくれていたので、一冊の本と一緒にそれを受け取る。カードから本の順番でバーコードを読み取り、カウンターのデスクトップパソコンの画面にきちんとそれぞれの情報が表示されていることを確認した。図書委員になりたての半年前、カードのバーコードが読み込めていないのに本のバーコードを読み込んでしまってよくエラーを起こしていたのがもはや懐かしい。
最後に処理用のバーコードも読み込むと、本のページの間に先ほど用意しておいた紙を上部だけはみ出すように挟んだ。貸出カードと本を、返却日が見えるように女子生徒に差し出す。
「おまたせしました。こちら、貸出カードと本になります。返却日は10月8日金曜日です。またどうぞ」
「ありがとー」
私がカウンター業務を担当している金曜日のお昼休みにいつも本を借りていく女子生徒は、砕けた笑顔で本を受け取るとそのまま図書室をあとにした。
どうやらカウンターに用事があるのはあの女子生徒だけだったらしく、他の人はぞろぞろとそのまま出ていく。壁掛け時計を見るとあと3分で本鈴が鳴りそうだ。
すでに記入済みの図書委員日誌と自分のレモンイエローのペンケースを持って椅子から立ち上がったところで、隣の司書室から司書でもある先生が出てきた。
「三上さん、お仕事ありがとう。授業に遅れるからもういいよ」
「はい。あ、これ日誌です」
「確かに受け取りました。……あ、できれば帰る前にあの彼、起こしてあげてくれる? 同じクラスだよね」
先生が視線で示した閲覧席の奥の方に、まだ机に伏せて寝たままの男子生徒の姿があった。顔が見えなくてもすぐに誰かわかる。ずっとその姿はカウンターからも見えていた。
そして先生もあれが誰か把握しているほどに、あの男子生徒はこの時間に仮眠しに来ている常連だ。
「……わかりました。起こしてきます」
「ありがとう。また来週もよろしくね」
「はい」
先生が司書室に引っ込んだあと、こっそりと息を吐いた。それでも緊張し始めた鼓動はそう簡単には治まらない。
平常心、平常心……と心の中で自分に言い聞かせながら、男子生徒の背後に歩み寄る。
すぅ、と穏やかな小さい寝息が聞こえた。机の上で組んだ腕の中にすっぽりと顔を埋めているので寝顔は拝めないけれど、きっと心地よく眠っているに違いない。
深くゆっくりと呼吸しているのが、丸まった背中が上下する様から伝わってくる。
よく寝てる……。予鈴にも気付いてないくらいだもんね。
すやすやと寝ているところを起こすのはとても忍びないけれど、何せ次の授業まで時間がない。
私たちの2年1組の教室は図書室の前の渡り廊下を渡ったすぐ先なのでここからは近いとはいえ、さすがにあと2分ではギリギリすぎる。隣の校舎の職員室から来る先生より先に教室に入れたら御の字だ。
「……矢田くん、起きて」
意を決して名前を呼んだ。名前を呼ぶだけで鼓動がうるさくなったけど、震えた唇が紡いだのはか細い声だったらしく、肝心の矢田くんには届かなかったようだ。
「矢田くん、昼休みが終わるよ。次の授業に遅れちゃうよ」
さっきよりは声を大きくしたつもりだけど、図書室という場所のせいで無意識に声を抑えてしまったのか矢田くんは変わらず寝息を立てている。
図書室に残っているのは私たちだけだし、司書の先生にも頼まれてるし、今なら大声を出してもいいよね?
ペンケースを持ったまま口の両側に手を添えて、思いきり息を吸い込んだ。
「矢田くーん! 数学の時間に遅れちゃうよ!」
「……うぇ、まじ……?」
大声で覚醒してくれたのか数学という言葉に反応したのかあやふやだけど、とりあえず矢田くんは目を覚ましてくれたらしい。矢田くんが身動ぎしながらくぐもった声を発した。
猫が顔を洗うように目元を擦った矢田くんは、ぐっと上に身体を伸ばしてから寝ぼけ眼でそばに立っている私を見上げた。
その表情があどけなくてかわいい。思わず上がってしまった口角を、唇を固く閉じて誤魔化そうとした。
「……あ、三上さん? やべぇ、俺寝過ごしてた」
時間を見た矢田くんが慌てて立ち上がる。寝起きのせいかふらついてガタガタと椅子の脚とぶつかった。
「だ、大丈夫?」
「ああ。起こしてくれてありがとうな。急ごう。三上さんまで遅刻する」
言うや否や矢田くんは図書室の出入口に向かうと、扉を開けて私に先に出るように促しながら待ってくれた。慌てて追いかけていた私は、頭を下げながらちょこちょこと先に行かせてもらう。
静かに扉を閉めた矢田くんは、私と並んで渡り廊下を歩き出した。まだ眠気が残っているか、大きなあくびをしている。
「次、数学だっけ」
「うん」
「だったら寝れねぇなー。社会だったら寝れたのに」
矢田くんはいたずらに失敗した子どもみたいに軽く笑う。
私もつられて笑うけどそれ以上会話を広げられずに言葉につまると、中途半端な愛想笑いになってしまった。
矢田くん、社会のときいつも寝てるもんね……はずっと矢田くんを見てるのがバレそうでなんかダメだ。どの授業でも寝ちゃダメだよ……はただのお節介だよね。せっかくの会話のチャンスなのに、私の会話の引き出しからはろくな言葉が出てこなかった。悶々と考えながら役立たずの引き出しをぎゅうぎゅうと押し込む。
そうこうしている間に渡り廊下の先の教室棟に辿り着き、そこで本鈴が鳴り始めた。教室棟に入ってすぐのところにある教室が私たちのクラスなので、どうやら授業には遅刻せずに済んだらしい。
だけどあっさりと、矢田くんと肩を並べて歩ける時間は終わってしまった。まともな会話らしい会話なんてできなかった。
本鈴が鳴っている間に矢田くんは黒板がある教室の前側のドアから中に入る。私は後ろのドアから入った。矢田くんの席は窓側の先頭で、私の席は廊下側の最後尾。見事に真反対の位置で、クラスメートだけどほとんど関わることすらない。
さっきの貴重な話せるチャンスを無駄にしてしまった後悔が着席してからじわじわと心を蝕んできた。ちらりと矢田くんの方を窺うと、周りの席の友達と楽しげに話して盛り上がっている。
離れていても惹きつけられてしまうくしゃっとした笑顔に胸が高鳴るけど、振ってもらった話にすらまともに対応できない私の前では絶対そんなふうに笑ってもらえないだろうなと自己嫌悪に陥ってしまった。
矢田千暁くん。明るくて友達も多くて、2年生だけどダンス部の部長も務めるようなリーダーシップもある、私がすごく尊敬している――好きな人。
矢田くんにとって私は、ただのクラスメート。それも、ほぼ関わりがないタイプ。接点なんてこれっぽっちもない。
ただ、矢田くんはいつも昼休みに図書室で仮眠をとっているらしく、それは私がカウンター当番になっている金曜日もだった。私は偶然のそれにあやかり、カウンターから眠っている矢田くんはの快眠をひっそりと願うことを楽しみにしていた。
今日は矢田くんが寝過ごしていたからたまたま話せただけ。来週もこの時間に話せるとは限らない。
やっぱり、惜しいことをしたなぁ……。
こっそりと吐いたため息は、余韻を残して鳴り終わる本鈴に重なって消えた。
◆◇◆
「里央ー、今日は部活あるんだっけ?」
放課後になった瞬間、友達の葵が声をかけてきた。これからテニスコートに向かう葵は大きなスポーツバッグを抱えている。
「うん、料理部に行くよ。もうすぐ文化祭だから、今日は最終チェックも兼ねて試食会だから」
「え~、いいなぁ。あたしも食べたいっ!」
スクールバッグの他にエプロンやバンダナや布巾などの料理部で使う衣類を入れたトートバッグを持つ私に、葵は目を輝かせて羨ましそうな顔になる。
「たぶん余りは持ち帰ることになるから、よかったら葵も食べる? 今日、一緒に帰れるんだよね?」
葵が声をかけてきたのは部活後の待ち合わせの確認をするためだと思っていた。料理部は火曜日と金曜日にしか活動がないけれど、その日は決まってテニス部の葵と帰る時間が重なるので一緒に帰るようにしていたから。
だけど私の試食のお裾分けの提案を聞いた葵は、気まずそうに眉尻を下げた。
「あー……それがさ、今日は一緒に帰れないんだよね。それを里央に言おうと思ってたの」
「そうなんだ? 珍しいね」
「うん……実は」
葵が私の耳元に顔を寄せる。内緒話の気配を感じて私も顔を傾けた。
「松田くんに、一緒に帰ろうって誘われちゃったの!」
小声だけど舞い上がった声色で言われて、私は驚きのあまり勢いよく葵に目を向けた。
えへへ、と笑う葵の頬が上気していて、喜びを抑えきれていないみたいに見えた。私もつられて、口元が緩んでしまう。興奮で声が大きくなってしまいそうになるのを必死に落ち着かせた。
「えっ、いつの間に葵、そんなことになってたの!?」
「あたしも急展開すぎて何が何やら……。今日の朝練の片付け中に部活のみんなで映画の話で盛り上がってさ、そのときに男子も話に混ざってきたの」
「うんうん」
「最初はネットで配信してる映画の話だったんだけど、今上映中の映画の話に変わってさ。それで観たいと思ってる映画が松田くんと同じだーってなったの。それで軽い気持ちで、“じゃあ一緒に観に行っちゃう?”って言ってみたら“いいよ”って返ってきて。それからなんかあれよあれよと話が進んじゃって……!」
「えー! すごいじゃん葵! じゃあ、部活終わりに映画に行くの?」
「ううん、それは明日……。なんか今日は、単に一緒に帰ろうって誘ってくれたんだ。映画の話をもっとしたいからって」
いきさつを話してくれる葵の表情は夢見心地で、とてもきらきらとしていて可愛らしかった。
松田くんは葵と同じ硬式テニス部で、葵は1年生の頃から片思いしている。松田くんの前では緊張してしまってなかなか上手く話せないとよく私にも言っていたのに、瞬く間に急接近していている雰囲気に驚きもあった。
手を合わせた葵の眉は八の字になっている。
「言うのが遅くなっちゃってごめんね! なんだか自分でも信じられない気持ちが大きくてなかなか実感も湧かなくてさ、口にしたら夢から覚めちゃうような気もして……。一緒に帰れないって言うのが遅くなっちゃった」
「そんなの全然いいよー! 教えてくれてありがとうだよ。よかったね葵!」
「里央ー、ありがとう!」
「今日もだけど、明日のデートも楽しんできてね! 葵の惚気話、楽しみにしてるから!」
「デートだなんて……!」
葵は耳まで真っ赤になりながら瞬きをする。葵のこういう素直に感情が顔に出るところがいいなと思う。本人は必死に手で顔を仰いで頬に集まった熱を逃がそうとしているけれど。
「そっか二人きりでお出かけってことは一応デートなんだよね!? どうしよ急に緊張してきた~! 一緒に帰るのも初めてだし、上手く話せなかったら嫌われちゃうかも……」
浮かれていた葵が唐突に現実を意識しておろおろし始める。毎日部活で松田くんと顔を合わせていても緊張してほとんど目も合わせられないと嘆いている普段の葵らしい焦り方だ。
落ち着かせようと、葵の背中を優しく擦る。
「大丈夫だよ葵。これは葵が頑張って映画に誘ったから掴んだチャンスなんだもん。松田くんだって葵と観に行きたいって、話したいって思ってくれたんだから、自信持っていいと思うよ。それに、松田くんが簡単に人を嫌うような人じゃないって葵ならわかるんじゃない?」
「うん……うん、絶対そう。もしかしたら呆れたりはするかもしれないけど、松田くんは優しいからきっと嫌ったりはしない……はず」
まだ完全には不安を払拭できたわけではなさそうだけど、言い聞かせるように頷く葵の表情は徐々に明るくなっていった。
「里央の言う通りだよね、自信……持っていいよね」
「そうだよ。私からしたら、さらっと映画に誘えてる時点で十分すごいとも思うもん。あんなに今まで話しかけられない~って言ってたのに、本当にすごいよ」
「だよねー。自分でも急に誘えたこと、いまだにびっくりしてるもん。……まさか、あのおまじないのおかげなのかな」
ふと、何かを思い出したように葵がブレザーのポケットからスマホを取り出した。私は首を傾げる。
「おまじない?」
「なんかね、最近SNSでやたらおすすめ欄に出てくるおまじない特集があったの。……そうそう、これだわ」
スマホの画面をスワイプしていた葵の指が止まる。
向けてくれた画面を二人で覗き込むと、ビビットカラーな【超絶☆サイキョーおまじない♪】の見出しが目に飛び込んできた。華やかなドッド柄の背景なページに何やら写真と文字が並んでいてとてもインパクトがある。紙のページを直撮りしたものに見えた。
「なんか、平成のときに流行ったおまじないがまた流行ってるらしいよ。当時のファッション雑誌とか漫画雑誌ではよく特集ページもあったらしくて、その写真が今出回ってるみたい」
「へー、初めて見た。葵がこういうの興味持つの意外だったかも。占いもあんまり見ないんでしょう?」
私なんて毎朝ニュース番組の星座占いを見て一喜一憂が忙しない。ちなみに今日の射手座は3位。ラッキーカラーがレモンイエローで、ちょうど自分のペンケースの色がそうだったからそれだけで気分はよかった。
「そうなの、特に占いを信じるタイプでもなかったんだけどさ……。なんか、おまじないには無性に惹かれちゃったんだよねー。今流行ってるし、コメント見てたら本当に効くって声が大きかったから、つい試してみたくなったの」
葵は画面から目を離さないまま続ける。
「“好きな人と話すチャンスができるおまじない”をね、ちょうど昨日試したばかりだったから、もしかしたらそれで話す勇気をもらえたのかもね」
茶目っ気たっぷりな笑顔で葵はそう言った。
「いいね、おまじないが背中を押してくれたんだ」
「うん、なんだかそんな気がするよ。普段のあたしなら絶対誘えないもん」
「いやいや、葵が頑張ったっていうのも大きいと思うけどね。でも、あやかれるものにはあやかりたいよねー」
「そうそう、いいものにはあやからなくちゃ! あっ、里央もおまじない試してみる? よかったらDMで送るよ」
「そうだね、一回試してみようかな。どんなのがあるかも気になるし」
「そう言うと思った。里央は占いとか好きだもんね~」
お互いの好きなものは把握済みなので、葵は私の返事に納得の表情で頷く。そのままスマホを操作してすぐにDMを送ってくれたようだ。
私のブレザーの右ポケットでスマホが震える。通知を確認しようとスマホの画面をつけたところで、ディスプレイに表示された時刻が大事なことを思い出させてくれた。
「あ、まずいよ葵。私もだけど、部活行かなくちゃ!」
「ほんとだ! 急がなくちゃ!」
慌ててスマホをしまった葵はそのまま教室を出ていこうとするけど、言い残したことがあると言わんばかりに振り返った。
「里央、おまじないの効果があったら教えてね。きっと、あの人と話せるようなおまじないを試すでしょう?」
ニヤニヤと笑う葵が思い浮かべているのは矢田くんだろう。私が矢田くんを好きだけどクラスメートなのにほとんど話したことがないと知っているから、おまじないがどれだけ効くのか気になるのかもしれない。
確かに試すなら葵みたいに好きな人と話せるようなおまじないがいいなと思っていたけど、あまりにも図星をつかれてちょっと恥ずかしかった。
それに本当に効果があったら、それはそれで私は緊張と嬉しさでどうにかなってしまうかもしれない。想像しただけで顔どころが全身が熱くなってくる気がして、葵に返す声がおのずと控えめになる。
「……わかった。効いたら、ちゃんと葵に言うよ」
「うん、楽しみにしてる! じゃあまた月曜日に! またねー!」
「またね葵、楽しんでね」
ありがとー、と葵は満面の笑顔を浮かべるとパタパタと駆け出していった。
教室棟から運動部の部室棟に行くには結構遠いから、無事に間に合うといいけれど……。私も遅れないように早く行かなくちゃ。
葵ほどの駆け足ではないけれど、私も早足で隣の校舎の調理室へと向かった。
◆◇◆
葵におまじないの話を聞いたその日の夜。私はベッドに寝転びながらさっそく教えてもらったおまじないの投稿を読んでいた。
投稿に載せられている雑誌のページの切り抜きには【超絶☆サイキョーおまじない♪】の他にも【意中のカレと急接近♡ウチらの恋のおまじない】や【~ズッ友の絆を結んじゃおう~】や【キレイなメイクでおまじない効果】や【おまじないで寝るだけでテスト対策ばっちり!】などなど、ジャンルに特化したようなおまじない特集が揃っていた。
占い師さんが監修しているようなものもあれば、ファッション雑誌の専属モデルさんたちのルーティン的なものなどもあり、おまじないと呼んでいいのか微妙なものもあった。
あくまでも、気持ちを切り替えるきっかけになればというスタンスで紹介しているのだろう。効果を必ずしも保証しているわけではないし、本当におまじないだけで簡単に好きな人と仲良くなれたり頭がよくなるわけではないのはさすがにわかる。そのへんは占いと同じだろう。
それでも、あやかれるものは試してみたい。自分だけでは力不足だから、縋れるものには手を伸ばしたい。
そう思ったことがあるから、おまじないのページを夢中になって読み込んでいた。そしてその中で一つ、今すぐにでも試せそうなおまじないがあった。
「“自分に自信がもてるおまじない”……」
必要なのは全身が映る姿見。それと月の光。
月の光を浴びせた姿見に全身を映し、「私が一番素敵」と鏡の中の自分に笑いかけるらしい。
おまじないというよりは自己暗示っぽいけど、これなら簡単だしちょっとやってみようかな。
寝転んでいた身体を起こし、閉めていた部屋のカーテンの端をつまんで夜空に月があるか確認する。ちょうど部屋の窓から見やすい位置に大きな満月が浮かんでいた。
月も出ている。それに、姿見も私の部屋にはある。これは今こそ試すべきなのかもしれない、だんだん強くそう思えてきた。
何かに背中を押されるように意欲が湧いてきた私は、クローゼットの横に置いてある全身鏡をカーテンを開けた窓辺に運んだ。それから電気を消して、月光が鏡に届いているか観察する。
電気を消した瞬間は真っ暗に思えたけど、目が慣れてくると薄暗いとはいえ月明かりだけでも十分部屋の様子がわかるようになった。
鏡に、大きな月が映り込んでいる。
どれくらい月光を浴びせればいいのかは書いてくれてなかったけど、浴びせながらおまじないを実行するなら大丈夫だと思うことにした。
「……よし、やってみよう」
小さく決意じみた呟きを落とし、姿見と月の位置を確かめながら自分の姿も鏡に映るように立った。
月明かりだけ頼りの薄暗い自室で、姿見に映る自分と向き合う。鏡の中で、自信がなさそうな冴えない顔が頑張って笑顔を作ろうとした。
――もしも、自信があったら。
明るくて、笑顔もかわいくて、誰とでも気さくに話せるような、自分とは違う誰かを想像する。
そんな理想みたいな自分になれたら自信ももてるかもしれない。
「私が……私が、一番素敵」
そんな願いを込めて、おまじないをする。
鏡の中の私が不器用なりに目一杯の笑顔を浮かべた。
――その瞬間、鏡が突然輝きだす。
「えっ、何!?」
鏡面が白く眩しい光で満たされて、目の前にいた私はあまりの眩しさに耐えられずに目を瞑った。閉じた瞼の裏がチカチカする。
どれくらい、そうしていたのかわからない。
ただ、そろそろ大丈夫な気がしてゆっくりと瞼を上げると、思った通り鏡の変な光は消えていた。
もとの月明かりだけの薄暗い部屋に安堵する。
「……はあ、なんだったのあれ」
「……はあ、なんだったのあれ」
だけど、一人言が二重に響いたことで、おかしな状態がまたしても起こっていることに気付いた。
鏡を見た私が違和感に気付いて目を見開く。
若干遅れて、鏡の中の私も驚いた顔になった。
「「え?」」
私と、鏡の中の私の声が重なった。
1話了
月光を浴びた鏡の中で、自信がなさそうな冴えない顔が頑張って笑顔を作ろうとした。
自分とは違う誰かだったなら――。
私はもっと上手く、自分の気持ちとも、君とも向き合えたりするのかな。
◆◇◆
お昼休みが終わるまであと5分。
5時間目開始の本鈴の前に、いつもこの時間だけは予鈴が鳴る。それを合図に、図書室にいた人たちがぞろぞろと動き出した。
机に伏せて仮眠していた人はあくびをしながら伸び、勉強道具を広げていた人は気怠げに片付けを始める。読書に耽っていた人たちは書架に本を戻すか、図書委員の私がいる貸出しカウンターにやってくるのがこの時間のお決まりの流れだ。
一人の女子生徒が本を抱えてこちらに来るのが見えて、私は図書室への要望や意見が書けるアンケート用紙に今日から一週間後の返却日を日付スタンプで押印しながら待ち構えた。
「これ借ります」
「はい、貸出カードをお預かりしますね」
女子生徒はあらかじめ自身の貸出カードを用意してくれていたので、一冊の本と一緒にそれを受け取る。カードから本の順番でバーコードを読み取り、カウンターのデスクトップパソコンの画面にきちんとそれぞれの情報が表示されていることを確認した。図書委員になりたての半年前、カードのバーコードが読み込めていないのに本のバーコードを読み込んでしまってよくエラーを起こしていたのがもはや懐かしい。
最後に処理用のバーコードも読み込むと、本のページの間に先ほど用意しておいた紙を上部だけはみ出すように挟んだ。貸出カードと本を、返却日が見えるように女子生徒に差し出す。
「おまたせしました。こちら、貸出カードと本になります。返却日は10月8日金曜日です。またどうぞ」
「ありがとー」
私がカウンター業務を担当している金曜日のお昼休みにいつも本を借りていく女子生徒は、砕けた笑顔で本を受け取るとそのまま図書室をあとにした。
どうやらカウンターに用事があるのはあの女子生徒だけだったらしく、他の人はぞろぞろとそのまま出ていく。壁掛け時計を見るとあと3分で本鈴が鳴りそうだ。
すでに記入済みの図書委員日誌と自分のレモンイエローのペンケースを持って椅子から立ち上がったところで、隣の司書室から司書でもある先生が出てきた。
「三上さん、お仕事ありがとう。授業に遅れるからもういいよ」
「はい。あ、これ日誌です」
「確かに受け取りました。……あ、できれば帰る前にあの彼、起こしてあげてくれる? 同じクラスだよね」
先生が視線で示した閲覧席の奥の方に、まだ机に伏せて寝たままの男子生徒の姿があった。顔が見えなくてもすぐに誰かわかる。ずっとその姿はカウンターからも見えていた。
そして先生もあれが誰か把握しているほどに、あの男子生徒はこの時間に仮眠しに来ている常連だ。
「……わかりました。起こしてきます」
「ありがとう。また来週もよろしくね」
「はい」
先生が司書室に引っ込んだあと、こっそりと息を吐いた。それでも緊張し始めた鼓動はそう簡単には治まらない。
平常心、平常心……と心の中で自分に言い聞かせながら、男子生徒の背後に歩み寄る。
すぅ、と穏やかな小さい寝息が聞こえた。机の上で組んだ腕の中にすっぽりと顔を埋めているので寝顔は拝めないけれど、きっと心地よく眠っているに違いない。
深くゆっくりと呼吸しているのが、丸まった背中が上下する様から伝わってくる。
よく寝てる……。予鈴にも気付いてないくらいだもんね。
すやすやと寝ているところを起こすのはとても忍びないけれど、何せ次の授業まで時間がない。
私たちの2年1組の教室は図書室の前の渡り廊下を渡ったすぐ先なのでここからは近いとはいえ、さすがにあと2分ではギリギリすぎる。隣の校舎の職員室から来る先生より先に教室に入れたら御の字だ。
「……矢田くん、起きて」
意を決して名前を呼んだ。名前を呼ぶだけで鼓動がうるさくなったけど、震えた唇が紡いだのはか細い声だったらしく、肝心の矢田くんには届かなかったようだ。
「矢田くん、昼休みが終わるよ。次の授業に遅れちゃうよ」
さっきよりは声を大きくしたつもりだけど、図書室という場所のせいで無意識に声を抑えてしまったのか矢田くんは変わらず寝息を立てている。
図書室に残っているのは私たちだけだし、司書の先生にも頼まれてるし、今なら大声を出してもいいよね?
ペンケースを持ったまま口の両側に手を添えて、思いきり息を吸い込んだ。
「矢田くーん! 数学の時間に遅れちゃうよ!」
「……うぇ、まじ……?」
大声で覚醒してくれたのか数学という言葉に反応したのかあやふやだけど、とりあえず矢田くんは目を覚ましてくれたらしい。矢田くんが身動ぎしながらくぐもった声を発した。
猫が顔を洗うように目元を擦った矢田くんは、ぐっと上に身体を伸ばしてから寝ぼけ眼でそばに立っている私を見上げた。
その表情があどけなくてかわいい。思わず上がってしまった口角を、唇を固く閉じて誤魔化そうとした。
「……あ、三上さん? やべぇ、俺寝過ごしてた」
時間を見た矢田くんが慌てて立ち上がる。寝起きのせいかふらついてガタガタと椅子の脚とぶつかった。
「だ、大丈夫?」
「ああ。起こしてくれてありがとうな。急ごう。三上さんまで遅刻する」
言うや否や矢田くんは図書室の出入口に向かうと、扉を開けて私に先に出るように促しながら待ってくれた。慌てて追いかけていた私は、頭を下げながらちょこちょこと先に行かせてもらう。
静かに扉を閉めた矢田くんは、私と並んで渡り廊下を歩き出した。まだ眠気が残っているか、大きなあくびをしている。
「次、数学だっけ」
「うん」
「だったら寝れねぇなー。社会だったら寝れたのに」
矢田くんはいたずらに失敗した子どもみたいに軽く笑う。
私もつられて笑うけどそれ以上会話を広げられずに言葉につまると、中途半端な愛想笑いになってしまった。
矢田くん、社会のときいつも寝てるもんね……はずっと矢田くんを見てるのがバレそうでなんかダメだ。どの授業でも寝ちゃダメだよ……はただのお節介だよね。せっかくの会話のチャンスなのに、私の会話の引き出しからはろくな言葉が出てこなかった。悶々と考えながら役立たずの引き出しをぎゅうぎゅうと押し込む。
そうこうしている間に渡り廊下の先の教室棟に辿り着き、そこで本鈴が鳴り始めた。教室棟に入ってすぐのところにある教室が私たちのクラスなので、どうやら授業には遅刻せずに済んだらしい。
だけどあっさりと、矢田くんと肩を並べて歩ける時間は終わってしまった。まともな会話らしい会話なんてできなかった。
本鈴が鳴っている間に矢田くんは黒板がある教室の前側のドアから中に入る。私は後ろのドアから入った。矢田くんの席は窓側の先頭で、私の席は廊下側の最後尾。見事に真反対の位置で、クラスメートだけどほとんど関わることすらない。
さっきの貴重な話せるチャンスを無駄にしてしまった後悔が着席してからじわじわと心を蝕んできた。ちらりと矢田くんの方を窺うと、周りの席の友達と楽しげに話して盛り上がっている。
離れていても惹きつけられてしまうくしゃっとした笑顔に胸が高鳴るけど、振ってもらった話にすらまともに対応できない私の前では絶対そんなふうに笑ってもらえないだろうなと自己嫌悪に陥ってしまった。
矢田千暁くん。明るくて友達も多くて、2年生だけどダンス部の部長も務めるようなリーダーシップもある、私がすごく尊敬している――好きな人。
矢田くんにとって私は、ただのクラスメート。それも、ほぼ関わりがないタイプ。接点なんてこれっぽっちもない。
ただ、矢田くんはいつも昼休みに図書室で仮眠をとっているらしく、それは私がカウンター当番になっている金曜日もだった。私は偶然のそれにあやかり、カウンターから眠っている矢田くんはの快眠をひっそりと願うことを楽しみにしていた。
今日は矢田くんが寝過ごしていたからたまたま話せただけ。来週もこの時間に話せるとは限らない。
やっぱり、惜しいことをしたなぁ……。
こっそりと吐いたため息は、余韻を残して鳴り終わる本鈴に重なって消えた。
◆◇◆
「里央ー、今日は部活あるんだっけ?」
放課後になった瞬間、友達の葵が声をかけてきた。これからテニスコートに向かう葵は大きなスポーツバッグを抱えている。
「うん、料理部に行くよ。もうすぐ文化祭だから、今日は最終チェックも兼ねて試食会だから」
「え~、いいなぁ。あたしも食べたいっ!」
スクールバッグの他にエプロンやバンダナや布巾などの料理部で使う衣類を入れたトートバッグを持つ私に、葵は目を輝かせて羨ましそうな顔になる。
「たぶん余りは持ち帰ることになるから、よかったら葵も食べる? 今日、一緒に帰れるんだよね?」
葵が声をかけてきたのは部活後の待ち合わせの確認をするためだと思っていた。料理部は火曜日と金曜日にしか活動がないけれど、その日は決まってテニス部の葵と帰る時間が重なるので一緒に帰るようにしていたから。
だけど私の試食のお裾分けの提案を聞いた葵は、気まずそうに眉尻を下げた。
「あー……それがさ、今日は一緒に帰れないんだよね。それを里央に言おうと思ってたの」
「そうなんだ? 珍しいね」
「うん……実は」
葵が私の耳元に顔を寄せる。内緒話の気配を感じて私も顔を傾けた。
「松田くんに、一緒に帰ろうって誘われちゃったの!」
小声だけど舞い上がった声色で言われて、私は驚きのあまり勢いよく葵に目を向けた。
えへへ、と笑う葵の頬が上気していて、喜びを抑えきれていないみたいに見えた。私もつられて、口元が緩んでしまう。興奮で声が大きくなってしまいそうになるのを必死に落ち着かせた。
「えっ、いつの間に葵、そんなことになってたの!?」
「あたしも急展開すぎて何が何やら……。今日の朝練の片付け中に部活のみんなで映画の話で盛り上がってさ、そのときに男子も話に混ざってきたの」
「うんうん」
「最初はネットで配信してる映画の話だったんだけど、今上映中の映画の話に変わってさ。それで観たいと思ってる映画が松田くんと同じだーってなったの。それで軽い気持ちで、“じゃあ一緒に観に行っちゃう?”って言ってみたら“いいよ”って返ってきて。それからなんかあれよあれよと話が進んじゃって……!」
「えー! すごいじゃん葵! じゃあ、部活終わりに映画に行くの?」
「ううん、それは明日……。なんか今日は、単に一緒に帰ろうって誘ってくれたんだ。映画の話をもっとしたいからって」
いきさつを話してくれる葵の表情は夢見心地で、とてもきらきらとしていて可愛らしかった。
松田くんは葵と同じ硬式テニス部で、葵は1年生の頃から片思いしている。松田くんの前では緊張してしまってなかなか上手く話せないとよく私にも言っていたのに、瞬く間に急接近していている雰囲気に驚きもあった。
手を合わせた葵の眉は八の字になっている。
「言うのが遅くなっちゃってごめんね! なんだか自分でも信じられない気持ちが大きくてなかなか実感も湧かなくてさ、口にしたら夢から覚めちゃうような気もして……。一緒に帰れないって言うのが遅くなっちゃった」
「そんなの全然いいよー! 教えてくれてありがとうだよ。よかったね葵!」
「里央ー、ありがとう!」
「今日もだけど、明日のデートも楽しんできてね! 葵の惚気話、楽しみにしてるから!」
「デートだなんて……!」
葵は耳まで真っ赤になりながら瞬きをする。葵のこういう素直に感情が顔に出るところがいいなと思う。本人は必死に手で顔を仰いで頬に集まった熱を逃がそうとしているけれど。
「そっか二人きりでお出かけってことは一応デートなんだよね!? どうしよ急に緊張してきた~! 一緒に帰るのも初めてだし、上手く話せなかったら嫌われちゃうかも……」
浮かれていた葵が唐突に現実を意識しておろおろし始める。毎日部活で松田くんと顔を合わせていても緊張してほとんど目も合わせられないと嘆いている普段の葵らしい焦り方だ。
落ち着かせようと、葵の背中を優しく擦る。
「大丈夫だよ葵。これは葵が頑張って映画に誘ったから掴んだチャンスなんだもん。松田くんだって葵と観に行きたいって、話したいって思ってくれたんだから、自信持っていいと思うよ。それに、松田くんが簡単に人を嫌うような人じゃないって葵ならわかるんじゃない?」
「うん……うん、絶対そう。もしかしたら呆れたりはするかもしれないけど、松田くんは優しいからきっと嫌ったりはしない……はず」
まだ完全には不安を払拭できたわけではなさそうだけど、言い聞かせるように頷く葵の表情は徐々に明るくなっていった。
「里央の言う通りだよね、自信……持っていいよね」
「そうだよ。私からしたら、さらっと映画に誘えてる時点で十分すごいとも思うもん。あんなに今まで話しかけられない~って言ってたのに、本当にすごいよ」
「だよねー。自分でも急に誘えたこと、いまだにびっくりしてるもん。……まさか、あのおまじないのおかげなのかな」
ふと、何かを思い出したように葵がブレザーのポケットからスマホを取り出した。私は首を傾げる。
「おまじない?」
「なんかね、最近SNSでやたらおすすめ欄に出てくるおまじない特集があったの。……そうそう、これだわ」
スマホの画面をスワイプしていた葵の指が止まる。
向けてくれた画面を二人で覗き込むと、ビビットカラーな【超絶☆サイキョーおまじない♪】の見出しが目に飛び込んできた。華やかなドッド柄の背景なページに何やら写真と文字が並んでいてとてもインパクトがある。紙のページを直撮りしたものに見えた。
「なんか、平成のときに流行ったおまじないがまた流行ってるらしいよ。当時のファッション雑誌とか漫画雑誌ではよく特集ページもあったらしくて、その写真が今出回ってるみたい」
「へー、初めて見た。葵がこういうの興味持つの意外だったかも。占いもあんまり見ないんでしょう?」
私なんて毎朝ニュース番組の星座占いを見て一喜一憂が忙しない。ちなみに今日の射手座は3位。ラッキーカラーがレモンイエローで、ちょうど自分のペンケースの色がそうだったからそれだけで気分はよかった。
「そうなの、特に占いを信じるタイプでもなかったんだけどさ……。なんか、おまじないには無性に惹かれちゃったんだよねー。今流行ってるし、コメント見てたら本当に効くって声が大きかったから、つい試してみたくなったの」
葵は画面から目を離さないまま続ける。
「“好きな人と話すチャンスができるおまじない”をね、ちょうど昨日試したばかりだったから、もしかしたらそれで話す勇気をもらえたのかもね」
茶目っ気たっぷりな笑顔で葵はそう言った。
「いいね、おまじないが背中を押してくれたんだ」
「うん、なんだかそんな気がするよ。普段のあたしなら絶対誘えないもん」
「いやいや、葵が頑張ったっていうのも大きいと思うけどね。でも、あやかれるものにはあやかりたいよねー」
「そうそう、いいものにはあやからなくちゃ! あっ、里央もおまじない試してみる? よかったらDMで送るよ」
「そうだね、一回試してみようかな。どんなのがあるかも気になるし」
「そう言うと思った。里央は占いとか好きだもんね~」
お互いの好きなものは把握済みなので、葵は私の返事に納得の表情で頷く。そのままスマホを操作してすぐにDMを送ってくれたようだ。
私のブレザーの右ポケットでスマホが震える。通知を確認しようとスマホの画面をつけたところで、ディスプレイに表示された時刻が大事なことを思い出させてくれた。
「あ、まずいよ葵。私もだけど、部活行かなくちゃ!」
「ほんとだ! 急がなくちゃ!」
慌ててスマホをしまった葵はそのまま教室を出ていこうとするけど、言い残したことがあると言わんばかりに振り返った。
「里央、おまじないの効果があったら教えてね。きっと、あの人と話せるようなおまじないを試すでしょう?」
ニヤニヤと笑う葵が思い浮かべているのは矢田くんだろう。私が矢田くんを好きだけどクラスメートなのにほとんど話したことがないと知っているから、おまじないがどれだけ効くのか気になるのかもしれない。
確かに試すなら葵みたいに好きな人と話せるようなおまじないがいいなと思っていたけど、あまりにも図星をつかれてちょっと恥ずかしかった。
それに本当に効果があったら、それはそれで私は緊張と嬉しさでどうにかなってしまうかもしれない。想像しただけで顔どころが全身が熱くなってくる気がして、葵に返す声がおのずと控えめになる。
「……わかった。効いたら、ちゃんと葵に言うよ」
「うん、楽しみにしてる! じゃあまた月曜日に! またねー!」
「またね葵、楽しんでね」
ありがとー、と葵は満面の笑顔を浮かべるとパタパタと駆け出していった。
教室棟から運動部の部室棟に行くには結構遠いから、無事に間に合うといいけれど……。私も遅れないように早く行かなくちゃ。
葵ほどの駆け足ではないけれど、私も早足で隣の校舎の調理室へと向かった。
◆◇◆
葵におまじないの話を聞いたその日の夜。私はベッドに寝転びながらさっそく教えてもらったおまじないの投稿を読んでいた。
投稿に載せられている雑誌のページの切り抜きには【超絶☆サイキョーおまじない♪】の他にも【意中のカレと急接近♡ウチらの恋のおまじない】や【~ズッ友の絆を結んじゃおう~】や【キレイなメイクでおまじない効果】や【おまじないで寝るだけでテスト対策ばっちり!】などなど、ジャンルに特化したようなおまじない特集が揃っていた。
占い師さんが監修しているようなものもあれば、ファッション雑誌の専属モデルさんたちのルーティン的なものなどもあり、おまじないと呼んでいいのか微妙なものもあった。
あくまでも、気持ちを切り替えるきっかけになればというスタンスで紹介しているのだろう。効果を必ずしも保証しているわけではないし、本当におまじないだけで簡単に好きな人と仲良くなれたり頭がよくなるわけではないのはさすがにわかる。そのへんは占いと同じだろう。
それでも、あやかれるものは試してみたい。自分だけでは力不足だから、縋れるものには手を伸ばしたい。
そう思ったことがあるから、おまじないのページを夢中になって読み込んでいた。そしてその中で一つ、今すぐにでも試せそうなおまじないがあった。
「“自分に自信がもてるおまじない”……」
必要なのは全身が映る姿見。それと月の光。
月の光を浴びせた姿見に全身を映し、「私が一番素敵」と鏡の中の自分に笑いかけるらしい。
おまじないというよりは自己暗示っぽいけど、これなら簡単だしちょっとやってみようかな。
寝転んでいた身体を起こし、閉めていた部屋のカーテンの端をつまんで夜空に月があるか確認する。ちょうど部屋の窓から見やすい位置に大きな満月が浮かんでいた。
月も出ている。それに、姿見も私の部屋にはある。これは今こそ試すべきなのかもしれない、だんだん強くそう思えてきた。
何かに背中を押されるように意欲が湧いてきた私は、クローゼットの横に置いてある全身鏡をカーテンを開けた窓辺に運んだ。それから電気を消して、月光が鏡に届いているか観察する。
電気を消した瞬間は真っ暗に思えたけど、目が慣れてくると薄暗いとはいえ月明かりだけでも十分部屋の様子がわかるようになった。
鏡に、大きな月が映り込んでいる。
どれくらい月光を浴びせればいいのかは書いてくれてなかったけど、浴びせながらおまじないを実行するなら大丈夫だと思うことにした。
「……よし、やってみよう」
小さく決意じみた呟きを落とし、姿見と月の位置を確かめながら自分の姿も鏡に映るように立った。
月明かりだけ頼りの薄暗い自室で、姿見に映る自分と向き合う。鏡の中で、自信がなさそうな冴えない顔が頑張って笑顔を作ろうとした。
――もしも、自信があったら。
明るくて、笑顔もかわいくて、誰とでも気さくに話せるような、自分とは違う誰かを想像する。
そんな理想みたいな自分になれたら自信ももてるかもしれない。
「私が……私が、一番素敵」
そんな願いを込めて、おまじないをする。
鏡の中の私が不器用なりに目一杯の笑顔を浮かべた。
――その瞬間、鏡が突然輝きだす。
「えっ、何!?」
鏡面が白く眩しい光で満たされて、目の前にいた私はあまりの眩しさに耐えられずに目を瞑った。閉じた瞼の裏がチカチカする。
どれくらい、そうしていたのかわからない。
ただ、そろそろ大丈夫な気がしてゆっくりと瞼を上げると、思った通り鏡の変な光は消えていた。
もとの月明かりだけの薄暗い部屋に安堵する。
「……はあ、なんだったのあれ」
「……はあ、なんだったのあれ」
だけど、一人言が二重に響いたことで、おかしな状態がまたしても起こっていることに気付いた。
鏡を見た私が違和感に気付いて目を見開く。
若干遅れて、鏡の中の私も驚いた顔になった。
「「え?」」
私と、鏡の中の私の声が重なった。
1話了


