「桐生君。このあと時間があるなら、次は僕につきあってほしいんだけど……」
駅まで帰る道すがら、思い切ってそう切り出した。
「いいよ。本屋か?」
彼も、僕が出かける場所といえば、そこしか思い浮かばないらしい。
僕は首を横に振った。
「小学生の頃の友達の家。その子はもう亡くなっているんだけど……」
桂君と別れて以降、どこか肩の力が抜けたようだった桐生君の顔が、一瞬で曇る。
「もしかして、前に……、入院中に一緒に花火を見たと言っていた?」
僕は小さく頷き、話を引き取った。
「その子が亡くなってから、一度もお焼香に行ってないんだ……。今日行くことは先方に伝えてあって、友達も一緒でいいと言ってもらってる。でも……、桐生君の知らない子だし、気が重いようなら、無理せず断ってくれていいよ」
「向こうがいいんなら行きたい。俺以外の橘平の友達に会える機会なんて、滅多にないだろうからな」
口の端を上げた表情はやわらかく、僕に気を使わせまいとしていることは伝わってくる。
「僕だって、友達くらいいますー」
照れ隠しで唇を尖らせながらも、胸の内では背中を押してもらった気分だった。
桐生君が言うように、参考書を買いに本屋に行くくらいしか一人で出かけたことのない僕は、いちいちネットを見ないと路線も乗るべき電車もわからない。僕がスマホを開くより先に、桐生君は駅名を聞いただけで乗り場がわかったようだ。それだけ物覚えがいいのに、なぜ学校のテストでは赤点なのだろうと不思議に思う。
彼に先導されて電車やバスを乗り継ぎ、およそ一時間かけて、中心部から離れた海沿いの街に到着した。
そこからスマホのナビを頼りに5分ほど歩くと、似たような鉄筋の建物がいくつも並んでいるのが見えてくる。母から聞いた話では、市営住宅であるその団地の2号棟4階に、彼――五十嵐湊君の母は住んでいるらしい。
湊君と出会った頃の記憶はない。
物心ついたときには、彼は僕にとって、病院でしか会うことのできない、特別な友達だった。人生で最初にできた友達とも言える。
母の話によれば、赤ん坊の頃、僕が心臓の手術を受け、小児の集中治療室であるPICUから一般の小児病棟に移って来たときに、胆道の病気で手術を受けた湊君も入院していたそうだ。初めて付き添いをする母は湊君のお母さんに色々と相談に乗ってもらい、連絡先を交換するくらい仲良くなったらしい。
湊君はクラスの男子と違って、穏やかな性格で、ゆっくり話すし、僕の話もニコニコと笑顔で聞いてくれる。僕と同じく本を読むのが好きで、読んだ本の感想を言い合ったり、空想した物語を披露し合ったりするのが楽しかった。外来を受診するとき、湊君も受診する予定と聞けば、嫌いな採血や心エコーも頑張れたし、一人で入院するようになってからも、彼が一緒なら寂しくなかった。
小学3年生の夏休みの入院を最後に、外来で顔を合わせることもなくなり、病院に行くたびに、彼は今ごろどうしているだろうと気になっていた。でも、入院中の彼が自分で歩けないくらいに弱っていたことや、彼のことを訊ねるたびに母が辛そうな顔をすることから、子供心になんとなく彼のことを訊ねてはいけない気がしていた。
中学生になり、あのまま、退院できずに彼が亡くなっていたことを知らされたときも、驚きよりも、やはりそうだったのかと腑に落ちる気持ちのほうが強かった。
母には、「お焼香に行きたいなら、玲子さんに頼んでみるわ」と言われたが、僕は「行きたい」とも「行かない」とも言えなかった。その答えを出せないまま、いつのまにか3年もの月日が過ぎていた。
エレベーターで4階に上がり、目当ての部屋の前に立つと、僕は大きく深呼吸した。
「大丈夫?」
桐生君が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「おばさんに会うのも久しぶりだから、緊張しているだけだよ」
ただ、僕の場合、極度に緊張すると、指先が冷たくなり、胸がきゅっとして息苦しくなる。
「じゃあ、緊張が解けるおまじない」
そう言うなり、桐生君が急に覆いかぶさってきた。
柔軟剤のかすかな甘い香りとぬくもりに、ふわりと包み込まれる。
気付いたときには、目の前に壁のような、彼の黒いジャケットがあった。
抱きしめられていることを硬直した体が自覚する。縮こまっていた血管がぶわっと開き、体中に血が巡る感覚は、それまでの緊張とは異なる。心臓はドキドキと煩いのに、息苦しさはやわらいでいた。
ただ、何故こうなっているのかは理解が追いつかない。
「いきなり、何?」とパニックに陥りかけて、「おまじない」という言葉を思い出した。
おそらくこのハグが彼の言う「おまじない」なのだろう。
でも、おまじないって、普通、掌に「人」を書いて飲むとか、そういうやつだよな……?
「ば、ばか! 人に見られるだろ!」
潜めた声で文句を言いつつも、何故かもがいて逃れる気にはならなかった。
「友達同士ハグをするくらい、普通だろ?」
「人んちの玄関の前でするのは普通じゃない!」
――いやでも、それって、人んちの玄関の前でなければいいって言ってるみたいじゃないか?
ふとよぎったツッコミは、胸の内にそっと仕舞う。
桐生君は僕を解放し、頭をぽんぽんと撫でた。
「よかった。さっきより顔色よくなってる」
心配してくれたことはわかるが、彼の距離感には、未だに慣れることができない。
この無自覚タラシが! という恨みを込めて、上目遣いで軽く睨みつけた。
とは言え、おかげで緊張が和らいだのも事実。
顔の熱が引くのを待ち、僕はインターホンを押した。
インターホン越しに挨拶をかわし、すぐにドアが開く。
現れた女性を見て、一瞬、用意してきた言葉が喉奥に絡まった。
『湊君ママ』こと五十嵐玲子さんは、記憶の中のその人よりも、随分と老け込んでいた。
頬はこけているのに、目の下は腫れぼったく濃い隈があり、額や口元には深い皺が刻まれている。休日の自宅だからか化粧っけがなく、無造作に一つに束ねられた髪には白いものが目立つ。
子どもの頃に病院で会っていたときは、休日でもきちんと化粧をしていた記憶しかないのに。母と同じくらいの年で四十そこそこのはずが、正直に言えば、孫がいても不思議じゃないと思えるほどだった。
「橘平君。随分大きくなったわね」
眉尻を下げ、申し訳なさそうに笑う控えめな笑顔だけは、昔と変わらない。
僕は我に返り、慌てて背筋を伸ばし頭を下げた。
「あの……、お久しぶりです。今日は突然お邪魔して、すみません」
「私もずっと会いたかったから、連絡をもらって嬉しかったわ。狭いところだけど、どうぞ上がって」
「お邪魔します」と言って桐生君と並んで靴を脱ぎ、家に上がる。
外から見た印象と同様に、部屋の中もそれなりに年季が入っていた。壁紙にはうっすらと染みが広がり、木目調の床はすり減って艶を失っている。
玄関を抜けるとすぐダイニングで、四人掛けのテーブルが置かれていた。リビングはなく、開け放たれた襖の向こうに和室が続いている。掃き出し窓は網戸になっていて、陽光がレースカーテンを透かして差し込んでいた。
室内は明るく、カーテンをなびかせ吹き込む風も心地よいのに、鬱屈としたものを感じてしまうのは、息子のいなくなった家に一人で暮らす母親を想像してしまうからだろうか。
壁には子供の描いた絵が貼られていて、テレビボードには車のおもちゃ、ラックには児童書が並んでいる。時を止めた空間の中で、玲子さんだけが生き急いでいるようだった。
和室へと通され、漂ってきていた線香の香りが濃くなる。部屋の奥に小さめの仏壇があり、花や果物が備えられていた。遺影の湊君は記憶の中より頬がふっくらしており、外来に通院していた頃の、一、二年生の頃のものに思える。悲しみよりも、懐かしさで胸がいっぱいになった。
中央に円形のちゃぶ台があり、座布団が三つ置かれている。座るよう促され、腰を下ろして待っていると、一度離れた玲子さんがお盆を手に戻って来た。
「お友達と一緒に来るって言ってたけど、先輩だったのね」
先輩? と戸惑い、遅れて理解する。
「あ、いえ、彼は桐生嘉晴君といって、同級生です。中学と高校が一緒で、湊君のことも話したことがあって、それで今日、一緒に来てもらいました」
理由としては不十分だとわかっているので、変に思われないか少しドキドキする。
湊君に、桐生君のことを紹介したかった。ただ、そう思った理由は、自分でもうまく説明できない。
玲子さんは不審がるそぶりはなく、ただ目を丸くした。
「え? 同級生? ということは、あなたも高校一年生なの? 大学生くらいかと思っちゃったわ」
「よく言われます」
平然と答える桐生君がおかしくて、場の空気がやわらいだ気がする。
玲子さんは僕たちの前にお茶と茶菓子を置き、テーブルを挟んだ向かいに腰を下ろした。
「長いことご挨拶に伺えず、すみませんでした」
僕は玲子さんに向かって、深く頭を下げた。
「橘平君にはしばらく話せそうにないってお母さんから聞いていたから、気にしないで。でも、どうして急に来ようと思ったの?」
無意識に、桐生君を横目で見てしまっていた。「大丈夫」と言いたげな穏やかな眼差しに、背中を押された気がする。
僕は恐縮しながらも、言葉を絞り出した。
「僕……、湊君にどんな顔で会えばいいか、わからなかったんです」
小学3年生の入院を境に急に会えなくなった友達。何かがおかしいとわかっていて、僕は事実を知ろうとはしなかった。無意識に、自分の中から、湊君という存在を消していたのだと思う。
それはきっと、体育の時間や外で遊ぶとき、僕のことをその場にいないものとして扱うクラスメイトたちと、何ら変わりない。
中学生になって彼が随分前に亡くなっていたことを知らされたとき、4年もの間、たまに気にかかるくらいでほとんどの時間を彼のことを考えずに過ごしてきた自分を、とても冷淡な人間だと思った。今までずっと忘れていたくせに、今更どんな顔で会えばいいかわからなかったのだ。
それだけじゃない。
「それに……、湊君から預かっていたものもあって……。それを湊君ママに見せていいのかどうかもわからなくて……。答えを出すのを先延ばしにしていました……」
僕は座布団の横に置いていたショルダーバックから、一冊の単行本を取り出した。
表紙には、星を散りばめた深い群青の宇宙を背景に、巨大な本棚を積んだ宇宙船が描かれている。宇宙船の中にいるのは、赤毛の少年ひとり。彼は窓から身を乗り出して手を伸ばしていて、その手の先で、半透明の本のページが風に舞い後方に飛ばされている。
『星渡りの移動図書館』――。
金属のプレートに刻まれたようなタイトルの下には、副題で、『失われたページと風の道しるべ』と書かれている。
僕も湊君も大好きだったシリーズものの児童書で、それはシリーズ五作目にあたる。
テーブルの上に置くと、視線を落とした玲子さんが表情をこわばらせた。
小学3年生の夏休みに入院したとき、発売されたばかりのその本を、湊君はまだ読んでいないと言っていた。いつもは新刊が発売されたらお母さんがすぐに買ってきてくれるのに、今回は、「なかなか本屋さんに行く時間がなくて」と言って買ってきてくれないという。
僕もまだ途中までしか読んでおらず、入院中に読み終える予定で持参していたが、その話を聞いて「先に読んでいいよ」と湊君に貸してあげた。どうせ僕はカテーテル治療が終わらないことには物語の世界に集中できそうにないし、湊君なら、僕が退院するまでに楽に読み終える分量だったから。
玲子さんがその本を買ってあげなかった理由に気づいたのは、中学生になって、あのまま退院できずに湊君が亡くなっていたことを知ったときだった。
『星渡りの移動図書館』は、孤児として育った少年、エリオットが、星々を巡る移動図書館の司書になり、立ち寄った星で住人が抱える問題を本の知識を元に解決していく冒険ファンタジー小説だ。基本的にその巻だけで話が独立している一話完結型だが、五巻目だけは少し違っている。
エリオットの旅の一番の目的は、自分の両親を探すことにある。星々を巡りながら、同じように移動図書館の司書をしていた両親の足跡を辿り、消息を追っていた。けれどその足取りが、五巻目で途絶える。戦争により荒廃したその星で、両親が亡くなっていたことを知らされるのだ。自分が向かうべき場所を見失った失意のうちに、五巻目は終わってしまう。
母から聞いた話では、当時の湊君の病状は重く、脳死の肝移植ドナーが現れなければその年を越えることも難しい状況だったそうだ。玲子さんが五巻目を買ってあげなかったのは、好きな物語を悲しい結末で終わらせたくないという親心でもあり、きっとドナーが現れるはずだから、移植をして元気になったら買ってあげようという希望の表れでもあったのかもしれない。
それなのに僕は、玲子さんのそんな苦悩を知ることもなく、安易に本を貸してしまった。
中学生になり湊君の訃報を知らされたとき、僕は後悔に襲われ、久々にこの本を手に取った。そして――。
僕はテーブルに置いた本の、しおりを挟んでいたページを開いた。
そこには、しおりと別に、ピンク色に白い波模様が入った薄い紙が挟まれている。縦長で、上のほうに丸い穴が空いたそれは、見るからに七夕の短冊だった。短冊らしく、油性ペンで文字が書かれている。
大きく目を見開いた玲子さんの目に、みるみるうちに涙がせり上がって来る。すぐにそれは大粒の雫となって彼女の頬を伝い、ぽたぽたとテーブルの上に落ちた。
――ママがまた、本当に笑えますように。 みなと
子供特有の少しバランスの悪い大きな文字で、短冊にはそう書かれていた。
「この本、前に入院中に湊君に貸していて……。中学生になってこの本を久々に開いたときに、これを見つけたんです。でも、人に見せていいものかどうかわからなくて、今まで誰にも言えずにいました……」
七夕の短冊なのに本に挟んであるということは、笹には飾らなかったということだ。
湊君がこれを書いた気持ちも、笹に下げられなかった気持ちも、痛いほどにわかった。
玲子さんも僕の母も、病室では明るく振る舞っていたけど、僕たちの見えないところでたくさん泣いてきたことを知っている。
いつかまた、お母さんが心から笑える日が来てほしい。でも、その願いを知られれば、また無理をさせて、辛いときにも作り笑いをさせてしまう。
挟まっていたのが既に僕が読み終えていたページだったということは、そんな思いを気づかれなくてもいいと思っていたのかもしれない。でも、誰にも知られないように、びりびりに破いてゴミ箱に捨てることもできなかったのだろう。
短冊を僕に委ねた理由は、いくら考えてもわからなかった。
子供を亡くした母親に、いつかまた心から笑ってほしいという願いを伝えることが、正解なのかどうかも。
「僕、湊君に会いに行こうと決めたとき、ようやく母にこのことを相談したんです。母も、正解はわからないと言っていました。でも……」
――私なら、橘平や咲月がお母さんのことを思ってくれる気持ちは、どんな気持ちでも宝物よ。
玲子さんみたいに、短冊を見た瞬間に母も涙した。
涙ぐみながら、そう言ってくれた。
どうするかは僕がどうしたいかで決めたらいいと言われて、僕はこの短冊のことを、玲子さんに知ってほしいと思った。
そのことを伝えると、彼女の嗚咽は一層激しくなった。
「私……、この本を買ってあげなかったこと、ずっと後悔していたの……。通院や入院でいっぱい我慢させて、頑張らせてきたのに……。あんなに短い人生だったのに、どうして、ささやかな願いも叶えてあげられなかったんだろうって……。ずっと、ずっと、後悔して…………」
玲子さんは肩を震わせ、しゃくりあげながら声を絞り出す。
僕の目にも熱いものが込み上げてきた。
桐生君がそっとその場から離れ、ダイニングからボックスティッシュを取って来てくれた。僕に数枚取って渡し、玲子さんに箱ごと差し出した。
ティッシュで目元を拭いながら、玲子さんは顔を上げた。
「あの子……、大好きだったこの本、ちゃんと読めたのね…………。ありがとう……。教えてくれて、本当にありがとう…………」
目に涙を溜め、口の端をかすかに上げた顔は、昔から変わらない、どこか申し訳なさそうな湊君ママの笑顔だった。
でも、僕には、本当の笑顔に思えた。
玲子さんの嗚咽が落ち着いたところで、僕と桐生君はお仏壇に参らせてもらうことにした。
事前に買っておいた本を、許可をもらってお仏壇に供える。
お供えしたのは、『星渡りの移動図書館』シリーズの最終巻である第六巻。副題は、『黎明の大地に星々の唄が響くとき』。
花やお菓子よりも、湊君はそれを一番喜んでくれる気がした。
手を合わせて目を閉じると、僕が退院する日、湊君が本を読み終えて返してくれたときのことが浮かんでくる。
『ずっとずーっと先でいいから、今度会ったとき、本の続きを教えてね』
そう言われて、僕は次に外来で会うときのことを言われているのだと思った。
『いいよ。新刊出てたら持ってくるから。また貸してあげる』
『いいの。橘平君が教えてくれたらいい。そのかわり、ずーっと先だから、ちゃんと覚えててね』
僕は、湊君があまりにも『ずっと先』を強調するものだから、てっきり冗談を言われてるんだと思った。
『ずーっと先ってどのくらい?』
『うんとね、百年後くらい』
『百年後って、僕たちおじいちゃんじゃん』
そう言って、何も知らずに二人で笑いあった日のことを思い出し、また瞼が熱くなった。
――湊君。エリオットの両親は、生きてたんだよ。
湊君に、心の中でそっと語りかける。
物語の主人公、エリオットの両親は本を貸す旅をしながら、一定の年齢で成長が止まり、大人になれない病気を抱えた息子のために、その治療法を探していた。
その病気の研究施設のある国で紛争が起こり、研究成果が侵略者に奪われようとしていることを知り、両親は幼いエリオットを避難する人たちに預け、研究成果を取り戻しに行く。その後、消息不明になり、亡くなったことにされていた。
でも、両親は捕虜として囚われ、生きていたのだ。
最終巻ではこれまで問題を解決してきた星々の住人の力を借り、エリオットは無事に両親を救い出す。病気も治ってちゃんと大人になり、愛する人と結婚し、家族で本を届ける旅を続けることになるのだ。
そんなあらすじを思い浮かべながら、言葉を続けた。
――詳しく話すと長くなるから、今度会ったときにゆっくり話すね。ずっと、ずーっと先になるかもしれないけど。楽しみに待っててね。
お焼香を終えたときには昼近かったため、玲子さんがお寿司を取ってくれた。遠慮したものの、「うちがこんなに賑やかになることなんてないから」と言われたら、それ以上は断れなかった。
お寿司が届くまでの間、湊君のアルバムを見せてもらいながら昔話をしたり、互いの近況を語り合った。桐生君はさすが人たらしで、初対面とは思えないほど最初から玲子さんと打ち解けていた。
湊君が亡くなってしばらくのち、玲子さんは事務職から総合職に部署異動したのだそうだ。それまで湊君の病状次第で時間休を取ったり急遽休みを取ることがしょっちゅうだったため、その埋め合わせをしようとかなり無理な働き方をしてきたようだった。
「一人なら、そんなにあくせく働かなくても食べていけるしね。これからは仕事も含めて、もう少し余裕のある生活をして、自分のしたいことを探してみるのも悪くないわね」
身体のことを心配する僕に、玲子さんはどこか吹っ切れたような顔でそう言ってくれて、少しだけホッとした。
お寿司を頂いてひと息ついた後、僕たちは玲子さんにお礼を言って家を出た。
「つきあってくれてありがとう」
エレベーターを降りたところで、桐生君にお礼を言う。
「僕と玲子さんだけだと重い空気になりそうだったから、桐生君がいてくれて助かった」
「俺を連れて行ったのは、緩衝材のためだけ?」
「え?」
バス停へと歩を進めながら、僕は隣を歩く長身を見上げる。
向けられる流し目には、からかいと、探るような色が混じっている。
「あの子に、俺のこと、なんて紹介したの?」
「普通に、友達って……」
僕は身構えつつ答えた。
面識のない友達の家に連れて行ってるのだから、「紹介してない」と答えるほうが不自然な気がする。
「普通の友達?」
桐生君が助詞を変えて畳みかけてくる。
本当は、湊君には桐生君のことを、「湊君の次に、ちゃんと話せるようになった友達だよ」と心の中で紹介した。「ちゃんと話せる」というのは、「自分の気持ちを言葉にできる」という意味だ。
でも、正直にそれを言うのは照れくさい。
「『普通じゃない』友達なんていないだろ?」
「普通の友達だから、いつまでも俺のこと、苗字呼びなのか?」
誤魔化したら、予想外の返しがきた。
……なんだろう。気を悪くしている感じではなさそうだけど、やけに絡んでくるな。
「熊さんや咲月だって、桐生君のこと、苗字で呼んでるじゃん」
「俺も、熊や神楽のことは苗字で呼んでるだろ」
これ以上は、「ああ言えばこう言う」になってしまうので、「『熊』って、熊さんの苗字じゃないじゃん」という反論は飲み込む。
会話の流れから、彼が名前で呼ばれたがっていることはわかる。
桐生君は僕を名前で呼んでいるから、僕も彼を名前で呼ぶのが友達として対等と言いたいのだろうか……。
でも、僕が桐生君を名前で呼ぶなんて、桐生君のファンに知られたら、とんだ勘違い野郎扱いされてしまう気がする。咲月も、「何でおにぃが桐生君を名前で呼んでんの?」とぶち切れるに違いない。
……だったら、二人きりのときなら、いいのだろうか。
「よ……」
試しに「嘉晴」と呼んでみようとしたが、最初の一文字で断念した。みるみるうちに顔が赤くなって、言葉が続かない。
「ご、ごめん……。僕には、やっぱ無理……」
止めていた息を一気に吐き出し、泣き言めいた声を出す。
ははっ、と声をあげて笑い、桐生君は僕の髪をくしゃっとかき回した。
「いいよ。すぐじゃなくても。楽しみに待ってるから」
それは、いつかは僕に名前で呼べということか?
そんなしょうもないこと、楽しみに待ってるなよ――という文句を込めて、ジロリと横目で睨む。
それでも、「いつかそのうち」と思うのは、僕も、桐生君に初めて名前で呼ばれたとき、嬉しかったからだ。
「桐生君のこと……、湊君に紹介したかったんだ……」
名前を呼べないかわりに、せめてそれだけは正直に伝えた。
緩衝材なんかじゃない。
普通の友達でもなくて、桐生君は僕にとって、湊君と同じ特別な友達。
照れくさくて、口にはできない思いも舌に乗せて。
ニヤニヤとからかうようだった桐生君の口元が、キュッと引き締まる。
「俺も……、橘平のこと、ずっと大事にしますって、あの子に約束した」
「ずっと大事にします」って、なんか結婚相手の両親に言うような台詞だな……。
戸惑いと気恥ずかしさはあるものの、桐生君が僕のことを大事な友達と思ってくれていることは心から嬉しかったから、照れくささを押し殺して「ありがとう」と伝えた。
団地を離れて交通の少ない静かな通りを歩いていると、かすかに潮の香が漂ってくる。来たときは緊張していて気づかなかったが、そう言えば海が近かったことを思い出した。
ハナミズキの街路樹が並ぶ歩道には、赤く色づいた葉が風に揺れ、さらさらと音を立てている。
「俺、またサッカーやってみようと思ってる」
気負いのない言葉で桐生君がそう言ったのは、5分ほど歩き、バス停が見えてきたときだった。
桂君に会いに行くと聞いた時点で、そのつもりかもしれないとは薄々感じていた。
以前に比べて顔が引き締まってきたから、もしかしたらランニングや筋トレなんかは既に始めているのかもしれない。
でも、改めて桐生君の口からその決意を聞くと、様々な感慨で胸がいっぱいになる。
「いいんじゃないか? やりたいことは、やれるときにやっておいたほうがいいと僕も思う」
頬が緩みそうになるのを奥歯を噛みしめてぐっと堪え、努めて軽い調子で答えた。
「『人生には、いつでもあるものなんて何にもない』だっけ?」
笑みを孕んだやわらかな声が返ってくる。
「桐生君もあの本、読んでたの?」
聞き覚えのある台詞は、『星渡りの移動図書館』に出てくるものだった。
古い灯台のある星で、妻を亡くし、何十年も灯台に明かりを灯しながら暮らしている老人が主人公に言った台詞で、両親が亡くなっていることを読者に予感させるフラグでもある。
幼い頃から入院を繰り返してきた僕にとっては、身につまされる言葉で、好きなシーンの一つとして記憶に残っている。
「本は読んでない。短冊の挟まってたページにその言葉があって、目に入った」
「……そう言えば、あのページだったね……」
奇しくも、短冊は、その言葉の書かれたページに挟んであった。
最初に気づいたときは、短冊の衝撃が大きくて、ページの内容に気を留める余裕はなかった。今は、湊君はきっと意図的に、そのページに短冊を挟んだのだろうと思っている。
『人生には、いつでもあるものなんて何にもない』
その言葉の重みを誰よりも知っていたのは、彼だから。
湊君が託した願いに思いを馳せたのか、桐生君もしばらく口を噤んでいた。
互いに無言でも、同じ思いを分かち合っている感覚がある。それは、双子である咲月に対して、人よりも彼女の気持ちを理解できる感覚とも違っていて、湊君といたときのような不思議な居心地のよさを感じた。
バス停には、他に人はいなかった。
ベンチのある屋根付きのスペースで足を止めると、桐生君が再び口を開いた。
「またサッカーをやりたいって気持ちには、もう迷いがない。ただ一つだけ、困ることがある」
僕は桐生君の話に耳を傾けながら、時刻表の前に立った。話が途切れ、ふいに耳元で声がする。
「一足遅かったみたいだな。15分待ちか」
桐生君が背後から僕の肩に顎を乗せ、バスの時刻を確認していた。
普通に隣に立って見ることもできるのに。
陽キャの習性なのか、こんなふうに唐突にパーソナルスペースを詰めてくるところには、未だに慣れない。急に酸素が薄くなり、石像になったみたいに体が固まる。
僕の猫毛とは違う硬質な髪が耳に触れ、桐生君の纏う甘い香りが濃くなると、頭がクラクラするような落ち着かない気分になる。
「一つだけ困ること」というのは、ブランクが長すぎるとか、そういうことだろうか……。
考えながら、錆びついたロボットのようなぎこちない動きで、そろそろと真横に足を踏み出し、距離を取った。
「あ、ごめん。嫌だった?」
顔を覗き込まれ、改めて訊ねられると、返答に困る。
「い……、いや、とかじゃないけど……、人と近いのに慣れてなくて、ごめん」
桐生君にとっては友達同士の普通の距離感なのに。
意識していることがバレバレの、キモい反応をしてしまったことを自覚し、顔が熱を持つ。
「……橘平、さっきの話の続きだけど……」
桐生君が少し緊張した面持ちで、ふいに話題を変えた。
「サッカー始めたら、放課後も休日もほとんど部活で潰れて、橘平といる時間がなくなるだろ?」
「さっきの話」というのは、サッカーをする上で「一つだけ困ること」という話をしていたはずだ。なのに、急に僕の話。話にまとまりがなく、桐生君が何を言いたいのかよくわからなかった。
桐生君はサッカーを始める上で一つだけ困ることがある。サッカーを始めたら僕といる時間がなくなる。 僕が役に立てるとしたら、勉強だけ。
「えっと……、僕に勉強を教わる時間がなくなるから、また赤点を取るかもしれないことを心配してるってこと? 桐生君が勉強する気があるんなら、僕もできる範囲で協力するよ」
三段論法で導かれる答えはそれしかない。
「赤点を心配してんじゃねーよ」
桐生君は焦れったそうに、ガシガシと自身の横髪を掻いた。
並んで立っていた桐生君が、体ごとこちらに向き直った。
面と向かって話したい――そんな改まった空気を察し、僕も姿勢を正して向き合う。
見下ろしてくる切れ長の目には、どことなく緊張を感じ取れる。目が合った瞬間にさりげなく逸らされるのは、いつもの桐生君らしくなかった。
「前に俺が言ったこと、覚えてる? 暇潰しとか性欲発散とか、そういうのなしでただ一緒にいたいと思えるのは、すげーことだと思うって話」
「あ、うん。覚えてる」
咲月と桐生君がグループでテーマパークに行った日のことだ。桐生君が約束より早く来て、咲月を待っている間に、そのようなことを言われた。追試の日に桐生君と元カノの修羅場に巻き込まれた後、僕が病気を理由にまともな恋愛ができないことを愚痴ってしまったから、そのことを慰めてくれた形だった。
「俺……、それ、なんとなくわかった気がする」
「え……?」
――『それ』って何のこと?
桐生君の言葉を頭の中で反芻する。
「サッカー部に入ることを考えたとき、最後まで迷った理由が橘平だった。人間関係とか、練習がきついのは頑張れそうだけど、橘平といる時間が減るのは困る。そう思ったら、橘平は俺にとって、『あれ』だと気が付いた。……暇潰しとか性欲発散とか、そういうのなしでただ一緒にいたいと思える相手」
「……へ…………?」
半開きにした口を閉じることを忘れ、ぱちぱちと瞬きをする。
鳩が豆鉄砲を食らったような顔というのは、今の僕みたいな顔をいうんじゃないかと思った。
……いやでもあれって、恋愛の話じゃなかったっけ?
またもや話についていけないでいる僕に構うことなく、桐生君が一方的に、訥々と話を続ける。
「……でも…………、ただ一緒にいられるだけでいいけど……、なんつーか……、ぶっちゃけると、そういう欲も湧いてくる。目の前にいたらすげー触りたくなるし、できればそれ以上のことも……」
桐生君は少し赤くなった顔を俯かせ、ごにょごにょと語尾を濁した。
恋愛経験ゼロの僕にも、彼の喋っている日本語は理解できる。
驚く以上に信じられない気持ちのほうが強く、白昼夢を見ている気分だった。
ただ、冗談や、友達同士の罰ゲームで言っているのでないことはわかる。
「僕って、桐生君からしたら、女子側ってこと?」
不快に思ったわけではない。
ただ、そう考えたら、多少は納得できた。
僕は背も低いし、顔も、咲月に似ていて、女性的と言える。しかも女子より体が弱いときたら、桐生君のような人からしたら、無意識に庇護欲を覚えるというか、それを恋愛的な感情と錯覚してしまうこともありえるのかもしれない。
「そういうわけじゃ……、あ、いや、でも、まぁ……」
桐生君は言い淀み、片手で顔を覆い、僕の視線から逃れるように横を向いた。
「ポジション的なことでいうと、無意識に役割分担を決めてしまっているところはあるな……。でも、橘平を女子っぽいと思ったことは一度もない。触りたくなるのも、下心とかそういうんじゃなくて、存在を実感したいとかそんな感じで……」
顔を隠していた手を外し、桐生君が真っすぐに僕を見据える。
「……お前は? 橘平は、俺に触りたいと思うことはないのか?」
「ぼ……僕? あ……あるわけないじゃん!」
桐生君に触りたいだなんて、恐れ多くて思ったこともない。
「そうか……。だとしたら、お前は俺とは違うんだな」
桐生君は眉尻を下げ、あからさまにしゅんとした顔をした。
「今までは、一緒に登下校したり土日に顔を見るだけでも我慢できていたんだ。でも、これから会う時間が減れば、我慢できる自信がない」
触りたいと思ったことはないけど、桐生君に触られるのは嫌じゃない。
ドキドキして、落ち着かない気分にはなるけれども。
そのことを伝えたほうがいいのだろうかと迷っていると、両肩にそっと手を置かれた。
やわらかな光を帯びた、いつもより色素の薄い瞳の中に、その眼に吸い込まれそうな僕が映っている。
「だからさ、橘平が嫌じゃなければ、できればこれからは、俺のことを『そういう相手』に選んでくれないか? 二人で一緒に考えながら進んでいく相手」
――『だからもし、そんな相手ができたら、最初から諦めるのはもったいないと思って。相手も同じ気持ちだったら、二人で一緒に考えながら進んでいくのもありじゃないかと思ったんだ……』
桐生君があのとき言ってくれた言葉を思い出した。
「……えっと……、でも、それって……、こい……男女交際みたいなおつきあいをするってこと?」
「恋人」という言葉は、あまりに甘すぎて言い換えた。
「橘平が俺と同じ気持ちになってくれるまでは、お試し期間ってことでいい。橘平が嫌がることはしないと約束するから、嫌じゃない範囲で、俺が橘平に触ることは許してくれないか?」
「僕、男だよ。それに勉強ができる以外、何の取り柄もない。僕でいいんなら、咲月にしたらいいだろ? あいつなら、女子だし、お試しじゃなく最初から普通に付き合える」
喋りながら、胸のあたりに重苦しいものを感じた。でもそれは、運動場で鬼ごっこをするクラスメイトたちを見ていたときと同じ種類のものだと、自分に言い聞かせる。
望んではいけないことだとわかっていたら、諦められる程度のものだ。
桐生君は言葉を探すようにしばらく僕を見下ろしていたが、やがて。
「ハグ、してもいいか?」
そんなことを訊ねてきた。
「何で?」
「俺はしたいから。嫌ならいい」
きょろきょろと辺りを見回す。見える範囲には車も人もいなかった。
嫌ではない。
むしろ、して欲しいとさえ思っている。
でも、それを言葉にしてはいけない気がする。
「拒絶しないなら、『OK』だと都合よく判断するけど、いいか?」
辺りを見回したことで、僕の気持ちはバレていたのかもしれない。
桐生君の両腕が伸びて来て、彼の胸に倒れ込むように抱き寄せられる。
湊君の家を訪ねる前に、「おまじない」と称してハグをされたときとは全然違う。腕に込められる力強さや、髪にすり寄せられる頬の熱さから、桐生君の気持ちが伝わってくる。
軽くパニックに陥ったけど、不快ではなかった。走ってもいないのに、口から出そうなほどに心臓がドキドキし、顔が熱くなるのは、初めて感じる体の異変だった。
「俺は、サッカー以外の時間は、こんなふうに橘平にくっついて、元気をもらいたいんだ。こういうことがしたいのは、橘平だけだ。女子と付き合うより、橘平と一緒にいたい」
「でも……、女の子とするようなことは、できないぞ」
桐生君が体を離し、少し呼吸がしやすくなる。
「キスもそれ以上のことも、男同士でもできるぞ」
上から顔を覗き込まれ、さも当然のことのように言われた。
「いや、その……、そういうことも含めて、心臓がついていけなさそうだから」
ハグだけでも、軽く走ったくらいの動悸がしている。それ以上のこととなると、きっと僕にとっては全力疾走レベルだと思う。今の心臓のままなら。
「それって、そういうことをすること自体は嫌じゃないってことでいいんだよな?」
確かに。言われてみれば、心臓がもたなそうとは思ったが、桐生君とキスやそれ以上のことをするのが嫌だという発想は沸かなかった。
でも、問題はある。咲月のことだ。
熊さんの話では、あいつは「桐生君がフリーなら告白するのに」と言っていたらしい。
僕が桐生君と友達以上の関係になるということは、咲月を傷つけるということだ。
そう思って返事をできずにいると、桐生君は子供をあやすように、僕の背中をぽんぽんと撫でた。
「初めてなんだ……。自分から好きになって、付き合いたいと思った人間は。だから時間がかかってもいいから、真剣に考えてほしい」
やがてバス来るのが視界に入ったようで、抱擁は解かれた。
その後の帰り道では気まずさがハンパなく、お互いにほとんど口をきかなかったけど、その沈黙も苦痛ではなかった。
桐生君がサッカーを始めたら、こんなふうに並んで道を歩くこともなくなるんだなと思い、『人生には、いつでもあるものなんて何にもない』という言葉を噛みしめていた。


