そのキス、イエローカードです!


 それから30分ほどして母が迎えに来て、僕はそのまま病院を受診することになった。桐生君も、「診察結果がわかるまで病院で待ちたい」と母に頼み、佐伯先生からも、彼を一人にしないよう相談があったため、ひとまず一緒に病院へと向かった。
 帰りの車の中で、桐生君は僕が全力疾走することになった原因について、元カノの件は伏せて自分の喧嘩が原因だと説明し、僕を巻き込んだことを母に詫びた。
 思うところはあったかもしれないが、母は喧嘩の理由を訊かなかった。

「橘平が自分の判断で走ったんだから、桐生君が責任を感じる必要はないわ。でも、橘平は、これからもそうやって無茶をするつもりなら、手術のことを前向きに考えなさいね」

 桐生君がいたからか、小言はそれだけで終わってホッとした。

 通常の診療時間は過ぎていたが、かかりつけの総合病院は、24時間、救急外来を受診することができる。
 診察や心電図などの初期検査の結果、緊急性はないと判断された。しかし、低酸素による影響が時間をおいて現れる可能性があることと、心エコーなどの専門的な検査を翌日行う予定で、入院することになった。
 自分の体のことだから、なんとなく嫌な予感はしていた。
 予感が的中し、翌日の心エコー検査で狭窄が悪化している可能性を疑われ、入院を延長し大嫌いな心臓カテーテル検査まで受ける羽目になった。

 カテーテル検査は小学校の高学年頃から局所麻酔で受けている。
 鎮静剤は使われるが、その前に陰部だけをガーゼで覆った裸同然で処置台の上に横にならなければいけないし、何人もスタッフがいる中、穿刺する鼠径部に消毒液を塗られるのは、筆舌に尽くしがたい恥ずかしさだ。
 鎮静剤も完全に意識を失くすほどではなく、血管の中をカテーテルが進む不快な異物感には、何度経験しても慣れることができない。検査中、ときに不整脈が起これば、このまま心臓が止まるんじゃないかと本気で怖くなる。

 それを受けたくないがために、中学生以降は感染予防を徹底していたし、極力、運動とは無縁の生活を送っていた。
 カテーテル検査と言われて全力で拒否したかったが、泣いて拒否したところで医者も親も聞く耳を持たないことは、物心ついた頃から心得ている。遅かれ早かれ受けなければいけなかったことと諦めるしかなかった。


 検査の結果、やはり肺動脈の狭窄は進行していた。
 主治医から、手術を受けるなら来年の夏休みがタイミング的によいのではと提案され、母もそれに同調した。確かに、再来年には受験を控えているし、寝不足になると立ち眩みを起こす状態では、手術を受けずに受験勉強を乗り切るのは難しそうに思える。

 身をもって経験した自分の限界を検査結果で裏打ちされ、頭では手術の必要性を理解していても、恐怖心がどうしても上回る。来年の夏休みまでまだ十分時間があるため、手術については追って外来で相談することになり、5日目に退院した。

 入院中、桐生君は毎日、朝はアプリで挨拶代わりのスタンプ、昼休みにはメッセージや電話をくれて、夕方は見舞いに来てくれた。
 ただの検査入院なのに毎日見舞いにまで来られるのは少し気恥ずかしかったが、僕の入院に責任を感じてのことだろうから、「来ないで」とも言えなかった。それに、正直に言えば、顔を見て話せるのは、アプリでのやりとり以上に嬉しい。


 暴行の件を、桐生君は警察沙汰にはしないことにしたらしい。
 ただ、神社での彼女や彼女が雇ったらしい男たちとの会話はこっそり録音してあって、怪我の写真も撮ってある。これ以上何かしてくるようなら、それを証拠に警察に被害届を出すと最後通告を突きつけたところ、その後は元カノからの連絡は途絶えたらしい。

 退院後、学校に復帰してからも、桐生君はうちまで送り迎えしてくれた。咲月は、寝坊しなかったときは朝は一緒に行くが、基本的に帰りは友達との寄り道を優先する。
 桐生君は秋休み以降、合コンだけでなく、友達からの遊びの誘いも断るようになったらしい。僕は一人で帰れるから大丈夫と固辞しても、「嫌なら諦める」と叱られた犬みたいな顔で言われれば、それ以上拒否できなくなる。
 桐生君と仲のいい陽キャ軍団に白い目で見られる中、彼と並んで歩くのは、居たたまれなさしかなかった。

 退院して一週間が経ち、そんな日々にようやく慣れ始めた頃。

「今週の日曜日、行きたいところがあるんだが……。よければつきあってくれないか?」

 駅からの帰り道で、桐生君が遠慮がちに切り出した。

「予定は何もないから大丈夫だよ。どこに行くの?」

 桐生君が僕につき合ってほしいと言う場所に、皆目見当がつかなかった。
 遊びに行くのに僕を誘うはずはないし、万に一つ勉強に目覚めて、「参考書を選ぶのを手伝ってほしい」とかにしては、やけにもったいぶった言い方に思える。
 
(かつら)に、会いに行こうと思ってる」

 今度はきっぱりとした口調だった。

 桂って……、誰?

 首をひねり、記憶を辿る。

「もしかして、サッカー部で転校していった子?」

 はっきりとその名前を思い出したわけではない。桐生君がわざわざ「会いに行く」と宣言する人物として、転校していった彼以外に思い浮かばなかったのだ。

「そう。あの桂」

 桐生君が頷く。
 会いに行く理由は、なんとなくわかる気がする。――ただ、わからないのは。

「なんで、僕?」

 同行者がいたほうがいいなら、当時のチームメイトに頼むのが普通だろう。僕は桂君の顔すら覚えていない。
 しばらく言葉を探しているような間があった。

「この前、俺が喧嘩した日に、橘平、言ってくれただろ? 『サッカーができなくなっても楽しみが減るだけで困ることはない』って。何かあれで、すごい気持ちが楽になったんだ……」

 確かに、そんな言葉を咄嗟に口走った気がする。
 ただ、あのとき言いたかったのは、どちらかというとその後のほう――『走れなくなったら、友達のピンチに助けを呼びに行くこともできなくなるんだぞ』という自虐の混じる脅し文句だ。
 僕の困惑をよそに、桐生君は淡々と話を続ける。

「これまでずっと、『何でまたサッカーしないの?』と周りが思っていることもわかっていたし、俺自身も何度もそう思った。……でも、ブランク長いからレギュラー取れなくてガッカリさせるだろうとか、練習についていけるのかとか、またやめることになったら目も当てられないとか、やらない言い訳ばかり探して、サッカーをやらない今のほうが気楽だと思い込んでいた……」

 住宅街の中の道を折れ、歩道の先に我が家が見えてくる。
 この道を歩きながら、「人間関係が面倒くさくなったから」と桐生君がサッカーをやめた理由を語ったのは、ついひと月前のことだ。あのときの投げやりな口調に比べたら、カラカラと車輪の転がる音に混じる声は、何かを吹っ切れたような清々しさを感じる。

 秋の気配を纏う少し肌寒い風が吹き、桐生君の長めの前髪を揺らす。夕焼けを帯びる、迷いのない澄んだ横顔が眩しくて、僕はそっと視線を前方に戻した。

「……でも……、お前の言葉で思い出した。俺はレギュラーを取るためでも、長く続けるためでもなく、単にサッカーが楽しいからやってたんだって……。人間関係とか挫折とか怪我とか、色んな理由でまたやめることになっても、『楽しみが減るだけで困ることはない』って思ったら、やりたいことを我慢している今のほうが、全然気楽じゃないって気がついた」

 桐生君が、ふっと苦笑の滲む息を吐く。

「桂に会いに行くのは……。俺なりのけじめ……みたいなもん。サッカーと一緒で、ずっと気になっていたのに、向き合うのを避けてたから。橘平には、俺がひよって直前で逃げ出さないように、見張っていてほしいなと思って」

 「なんで、僕?」という問いの答えは、結局わかったようなわからないような。
 見張るだけなら、僕じゃなくてもいいだろう。というか、僕が見張ったところで、逃げ出す桐生君を力づくで止めることはできない。
 だからきっと、本気で逃げ出すことを心配しているわけではない。ただ、見ていてほしいのだろうと思った。これまで気づかぬふりをしてきた、痛みと向き合うところを。

「僕で良かったら、つきあうよ」

 こちらに顔を向けた桐生君が、ホッとしたように双眸をたわめる。

 僕の言葉はただのきっかけに過ぎない。「やらない言い訳ばかり探して」と口では言いながらも、彼の本心は、ずっとサッカーに復帰する理由を探していたのだろう。

 おかげで、僕にも、ずっと考えないようにしていた心残りがあったことを、久々に思い出した。

 
 桐生君に誘われた日曜日。駅で待ち合わせたあと、連れて行かれたのは、三駅ほど先の駅だった。
 桐生君はいつになく緊張した面持ちをしていて、最初に挨拶を交わしたくらいで、その後は日曜日の空いた電車内でも沈黙が続いた。

 改札を出て5分ほど歩いていると、どこを目指しているのかなんとなくわかってきた。桐生君は予想通りの方向へ向かい、駅から見えていた緑色のフェンスが徐々に大きくなってくる。やがて賑やかな声が聞こえてきて、プレーする人たちの姿も見えるようになった。

 待ち合わせの場所は、フットサルコートだった。
 フェンスの前で足を止め、しばらくの間、試合をしている人たちを桐生君と並んで眺めていた。
 僕はフットサルとサッカーの違いは、コートやゴールの大きさが違うことくらいしかわからない。
 目の前のコートの中にいる人たちは年齢層も性別もばらばらで、白髪の目立つおじさんもいれば、引き締まった体型の男性や若い女性もいる。ときに激しくボールを奪い合いながらも、テレビで見るサッカーの試合と違って、皆、笑顔で和気藹々としていた。

 それから5分ほどして試合が終わり、プレーヤーはコートの端に散り、休憩し始める。そのうちの一人、ハーフパンツとカラフルなTシャツ姿の男が、フェンスにかけていたタオルだけ取って、汗を拭きながらこちらに近づいてきた。太めの眉に少しえらの張った輪郭、細い一重の目元。その素朴な顔立ちに、なんとなく見覚えがある。

(かつら)……」

 桐生君が呟く。
 その人が、桂柊斗(かつらしゅうと)。中学のとき、サッカー部内のいじめが原因で転校していった、元同級生だった。

「久しぶり」

 緊張した面持ちで近づいてきた彼は、立ち止まると、フェンスのネット越しにぎこちない笑みを浮かべてみせた。桐生君に向けられていた視線が、意外そうに隣の僕へと移される。

「確か双子の……」

 桂君も僕の顔はなんとなく記憶にあるようで、名前が出てこない彼に、「神楽橘平です」と自己紹介した。
 僕が一緒に来たことが不思議なのだろう。「何で?」という顔をしている彼に、桐生君が補足する。

「高校が一緒で、最近、仲良くなったんだ」
「学年で一番取ってた人だよね?」
「橘平は特進だけど妹が俺と同じクラスで、勉強教えてもらうようになって、それで」

 桐生君の説明を聞いても、学年一、人気者の彼とガリ勉の僕が休日に行動を共にしていることに、納得がいかなかったのだろう。
 桂君は訝しげな表情のまま、入り口まで案内してくれて、僕たちもフットサルコートの中へ足を踏み入れた。
 僕は離れて待っていようかと思ったけど、桐生君の目がいてほしいと訴えていたので、二人から少しだけ距離を置き、コートの隅の人工芝に腰を下ろした。

「フットサルやってたんだ。サッカーは? 今もやってるのか?」

 よそよそしさはあるものの、訊ねる桐生君の声は友人同士の気さくなもので、僕もそっと肩の力を抜いた。

「転校した後も、サッカー部には入らなかった。高校に入って、バイトの先輩に誘われてフットサルを始めたんだ。チームには入ってなくて、時間があるときに参加費払ってやってる感じ」

 表情は少し硬いが、桂君の口調も滑らかだ。
 なんとなく、彼は桐生君と違って、サッカーにはもう未練がなさそうに思えた。それよりも、こうして、気が向いたときにその場限りのメンバーでフットサルをすることを、心底楽しんでいるように見える。

「お前も、今はサッカーしてないんだってな」

 言葉を探すような間をおき、桐生君が答える。

「……楽しいことは他にたくさんあるからな」

 胸のあたりが少し苦しくなったのは、それが心からの言葉でないことを、今は知っているからだ。

 桐生君が桂君に会いにきたのは、またサッカーを始めようと思っているからじゃないかと思っていた。そのことを言わないのは、桐生君の中に、まだ迷いや不安があるからか……。

 無人のコートでは、人工芝が陽の光を反射し、艶やかに輝いている。
 眩しそうに目を細める桐生君の胸にあるものが、憧れなのか寂しさなのかは、僕にはわからなかった。

 ふいに桂君が人工芝の上に正座をし、身を正した。

「俺……、桐生にずっと謝りたかったけど、勇気を出せなかったんだ。あのときは……、お前のせいで部がめちゃくちゃになったとか、酷いことを言ってごめん」

 深々と頭を下げた彼を見て、桐生君が顔色を変える。

「いや。酷いこととかじゃなくて、事実だから。俺が余計なことしたせいで、先輩達のいじめが酷くなったし、お前が転校する羽目になった。もっと他にやりようがあったはずなんだ」

 頭を上げた桂君は、「違う。お前のせいじゃない」と、力強い眼差しで断言した。

「俺は……、認めたくなかったんだと思う。自分がいじめられていることを……。サッカーでは全然目立てないだろ? だから、先輩たちに可愛がられる愛されキャラってところで、自己顕示欲を満たしていたんだ。いじめがエスカレートしたときも、俺が嫌われたんじゃなくて、お前への腹いせが俺に来てるんだと思いこみたかった……。それで、全部お前のせいにした」

 正座をしたまま、桂君がコートのほうへ顔を向けた。遠くを見るようなその眼差しは、コートではなく、もっと別のものを見つめているようだった。

「たまたま……、バイト先が、あのときいじめていた先輩と一緒になったんだ。先輩……、あの頃は、父親が失業して、両親は喧嘩ばかりで、家の中がギスギスしていたらしい。部活は中学までで高校行ったらバイトして金入れろって言われて、むしゃくしゃして、いつもへらへら笑っている俺に、怒りをぶつけたくなったんだって……。俺にしたこと、ずっと後悔してるって、何度も謝ってくれた。今は、バイト代が入ったら、いつも飯を奢ってくれるんだ……」

 眼差しが、再び真剣さを増して桐生君へと向けられる。

「俺、先輩にされたことも、あの頃の先輩のことも、今も恨んでいるし一生許せないと思う。でも……、先輩があの頃のことをすごく後悔していて、心から悪いと思っていることが伝わったから……。今の先輩のことまで恨みたくはないと思ったんだ……」

 昔のことを理由に、サッカーを嫌いになってほしくない。
 そこまでは言わなかったけど。彼が桐生君に一番伝えたかったことはそれではないかと思った。

「先輩、桐生にも謝りたいって言ってたから、いつか先輩にも会ってやってほしい」

 桂君の言葉に、桐生君は曖昧な笑みを返すにとどめた。

 フットサル用のシューズやウェアはレンタルで借りることもできるらしい。
 ゲームに入って行かないかと誘われたけど、桐生君は「練習不足で怪我しそうだから」と苦笑いで断って、僕たちはフットサル場を後にした。

 怪我をするかもしれないとわかっていて、桐生君が元カノの呼び出しに応じていたことを思い出した。
 あのときはなかった慎重さが、前向きな理由からだと願わずにはいられなかった。