暗闇の中、遠くでざわざわとした喧噪が聞こえる。
それは少しずつ大きくなっていき、やがて意味を持つ言葉として聞き取れるようになった。
「橘平! 俺の声聞こえるか? 聞こえてるなら目を開けてくれ」
誰かが僕の名前を呼んでいる。
随分と切羽詰まった声に聞こえた。
朝が来たのだろうか。でも、僕は毎朝アラームで目を覚ます。なぜ、人に起こされているのだろう。
それに、世界がぐるぐると回っているようで、全身が鉛のように重い。
夢と現の狭間の曖昧な意識で、僕は重い瞼を持ちあげた。
暗闇に、少しずつ光が差し込んでくる。
橙色のそれは朝ではなく、夕方を思わせるやわらかな陽射しだった。
その橙色に染まった空を遮り、ふいに横から影が差す。
焦点の定まらないぼんやりとした視界が、徐々に像を結んでいく。
よく見知った顔だった。でも、こんなに必死な、泣きそうな顔は初めて見た。
それに顔が泥だらけで、頬には擦り傷があり血が滲んでいる。
そうだ……。桐生君だ…………。
視界とともに徐々にクリアになっていく意識で、彼のことを思い出した。
「あ、ちょうど今、意識が戻りました」
桐生君を押しのけ、年配の女性が反対側から顔を覗きこんでくる。養護教諭の佐伯先生で、耳にスマホを当てていた。
「はい。酸素投与して、サチュレーションは100%、血圧105の62、脈拍90……。はい。ではまた、そのときはご連絡します」
サチュレーションとは血液中の酸素飽和度のことだ。話の内容からして、医療関係者と喋っていたのだろうとぼんやりと理解した。
「神楽君。喋らなくていいから、瞬きで返事をして。今、呼吸は苦しくない?」
僕はゆっくりと瞬きをした。
「胸とか、どこか痛いところもない?」
僕は再び瞬きをする。
「そう。なら、一旦、酸素を外すわね」
口元に触れていたものが離れていく。酸素を投与するためのマスクが当てられていたらしい。小型の酸素ボンベは学校の保健室にも常備されている。
「ゆっくり息を吸ったり吐いたりして」
先生の指示に従い、ゆっくり、深く、息をするよう努める。
息苦しさはなかった。
体は重怠いが、頭のほうは、徐々に鮮明になっていき、記憶が戻ってくる。
怪しい男たちが車から降りてくるのを見て、助けを呼びに走ったことも思い出した。顔に擦り傷はあっても、桐生君がこうしてここにいるということは、誰かが助けに行ってくれたということか……。
養護教諭は酸素の数値を確認し、目の下を引っ張って結膜の色を見たり、シャツの上から聴診器で胸の音を聞いたり、手足の動きを見たりして、ひとしきり僕の体を診察した。
その頃には僕も、桐生君が無事でいることに安堵し、周囲を見渡す余裕が出ていた。
足元には熊さんや、熊さんよりシュッと引き締まったラグビー部のコーチもいて、心配そうに様子をうかがっている。
そう言えば、意識を失くす寸前、「橘平君!」と誰かに名前を呼ばれたことも、薄っすらと思い出した。おそらく、あれは熊さんだったのだろう。
「脈も落ち着いてきたみたいね。主治医の先生から、酸素を外してもバイタルが安定しているようなら、救急車を呼ばずに親御さんに病院に連れてきてもらったらいいと言われたけど、自分ではどうかな? 救急車、呼んだほうがいい?」
「だいじょうぶ……です……」
僕は初めて声を発した。養護教諭の眼鏡の奥の優しげな目が、ホッとしたように細まる。
「じゃあ、とりあえず保健室でしばらく様子を見るから、担架で運ぶわね。担架は駒田君とコーチの先生にお願いしてもいいかしら?」
「俺がおぶっていきます」
すかさず桐生君が申し出たが、佐伯先生は、「あら、駄目よ」と即答した。
「あなたも怪我人なんだから。それにこういうときは、すぐに頭を上げないほうがいいのよ」
「歩いて行けます」と言いたいところだが、生まれて初めて全力疾走した体はまるで自分のものではないようで、すぐには動かせそうになかった。
そんなわけで、僕は恥を忍んで、担架で保健室に運ばれることになった。
母にはすぐに連絡がつき、仕事を抜けて迎えに来てくれることになった。
保健室に行くと、僕は酸素を測るための機器を指につけられたままベッドに寝かせられた。桐生君は椅子に座り怪我の処置を受けている。
「頭やお腹は打ってないのね? 知らないうちにぶつけている可能性もあるから、痛みがあるならすぐに病院に行くのよ。できれば今日は一人にならないほうがいいけど……」
処置をしている物音の合間から、そんな声が聞こえてくる。
桐生君の両親は、平日はどちらも帰宅するのが8時過ぎになるらしい。以前、家に遊びにいったときにそんな話を聞いた。
「親が帰ってくるまで、うちにいたらいいよ」
僕はベッドに横になったまま顔だけそちらに向けて、口を挟んだ。
「家に誰もいないなら、そのほうが安心よねぇ。神楽君のお母さんと相談してみるわ」
「先生。母には、僕が走ったのは、バスを逃しそうだったから、ってことにしてもらってもいいですか?」
先生は処置の手を止め、こちらに顔を向けた。
「嘘をつくわけにはいかないから、それなら『理由は本人が自分で説明したいそうです』って言うしかないけど……、桐生君が喧嘩をしたことを隠すのは難しいと思うわよ」
確かに、保健室に入る前に土埃は払っていたようだが、桐生君のシャツやスラックスは泥や血で汚れていて、右手には包帯が巻かれ、顔や腕にも絆創膏が貼られている。「僕が意識を失った際に助けようとして転んだ」では、言い訳として苦しい。
「橘平のお母さんには、喧嘩のことも、橘平が助けを呼ぶために走ってこうなったことも、ちゃんと説明して謝罪します」
「私もそのほうがいいと思うわ」
桐生君と先生との間で会話が終了し、僕はそれ以上、何も言えなくなった。
「教頭先生のところに報告に行くから、その間、神楽君のことを見ていてもらってもいいかしら? 急用があったらそこの電話で職員室に連絡して」
処置を終えた養護教諭は桐生君にそう伝えると、保健室からいなくなった。
「ここにいてもいいか?」
桐生君がパイプ椅子片手にベッドサイドに寄ってくる。
「なんか逆に迷惑をかけちゃって、ごめん」
「迷惑かけたのは、こっちだから」
彼は憔悴しきった顔で、力なく口の端を上げた。
「桐生君は大丈夫なの? 骨とか折れたりしてない?」
「お前が助けを呼びに行ってくれたから、大した怪我はない。一人で大丈夫だろうと思っていたんだが、向こうは鉄パイプも持ってたし、助けが来なかったらヤバかったと思う。……助かった。ありがとう」
深々と頭を下げられ、僕は焦った。
「い、いやっ……。僕は人を呼びに行っただけで、実際に助けたのは僕じゃないから」
むしろ助けを呼びに行ったのが僕だったせいで、こんな大ごとになってしまった。
「ラグビー部の人たちが助けに行ってくれたの?」
「あぁ。コーチも含めて10人ばかり来てくれて、警察を呼ぶと言われて、あいつらはすぐにいなくなった」
「あの人たちは、あの子の……、桐生君の元カノの知り合いなの? あの人たちに襲われたんだよね? どうしてそんなこと……」
「親から月10万小遣いもらってるお嬢様だから、知り合いに声かけて金で雇ったんだろうな」
高校生で月10万の小遣いはすごい、と驚いていると、苦虫を嚙み潰したように、桐生君が顔を顰めた。
「これで最後にするから、もう一度だけ会いたいと言われたんだ。プライドの高い女だから、格下だと思っている相手に他に目移りされてフラれたことが、よっぽど許せなかったんだろう。会わないと今の彼女に何するかわからないと言われて……。もしかしたらああいうことになるかもしれないと予想はしていたが、一度ボコられて諦めてくれるんなら、そっちのほうがいいと思ったんだ……」
「な……、なにを考えているんだ?」
思わず声を荒げてしまい、反動で咳き込む。
「おい、大丈夫か?」
咄嗟に差し出された手を、パシッと音が立つ勢いで払いのけた。
「君は馬鹿か? ああなるかもしれないと予想していたのに、何で一人で行ったりするんだ? 打ち所が悪かったら、一生目が見えなくなったり、走れなくなっていたかもしれないんだぞ!」
彼の言っていることが理解不能だし、腹が立つし、悔しかった。
最悪の事態を想像し、今更ながらに怖ろしくもなった。
いくら『今の彼女』を盾に脅されたにしても、それは架空の人間のことだ。先生や警察に相談するなりして、何かしら対処法はあっただろうと思う。
腹が立ったのと、今更ながら大きな怪我がなくてよかったという安堵が込み上げてきて、目に涙が滲んだ。
「サッカーできなくなるぞ、とは言わないんだな」
自嘲の滲む口調で、桐生君がぼそりと呟く。
桐生君は彼女の呼び出しに応じたら、ああいうことになるかもしれないと予想していた。それでも応じたということは、怪我をして、サッカーをできなくなってもいいと思っていたということだろうか……。
彼がサッカーをしない理由を無意識に求めている気がして、今度は悲しい気分になった。
「サッカーができなくなっても楽しみが減るだけで困ることはないだろうけど……。走れなくなったら……、友達のピンチに、助けを呼びに行くこともできなくなるんだぞ……」
――僕みたいに。
最後のひとことは、唇を嚙みしめ、飲み込んだ。
今度は別の種類の涙が溢れそうになり、ぷいと顔を背ける。
布団から出ていた手をあたたかな掌に包まれ、持ち上げられた。
「悪かった。もう二度と、あんなふうに自分から危険な目に遭うようなことはしない。だから……、お前も、もう二度と、あんな無茶はしないと約束してくれ」
「無茶?」
視線を戻すと、顔を俯かせた桐生君が、両手で包み込んだ僕の手を、押しいただくように額に当てていた。
「熊が神社に来て……、お前のほうがヤバいって……。橘平がグラウンドに走って来たと思ったら急に倒れて、顔色が真っ青ですげー苦しそうにしてるって聞かされたとき……。心臓が止まるかと思った」
悲痛な響きの声は微かに震えていて、グラウンドで目を開けた瞬間の、僕を呼ぶ桐生君の今にも泣きそうに歪められた顔を思い出した。
「目が覚めるまで、すげー怖かった。……本当に、走るだけであんなんなるんだな」
「……ごめん」
僕の謝罪の言葉に、桐生君が顔を上げる。
「助けに行ったのが僕じゃなかったら、君がこんなに気に病むことはなかったのに」
長い睫毛が瞬き、普段はきりりと上がっている眉尻が下がる。
「確かに、お前じゃないほうがよかったかもな……。でも、橘平じゃなければ、これほど、自分のしたことを後悔することもなかったと思う。……いつも気づくのが遅くて……ごめん」
くしゃりと歪められた顔は、泣き笑いみたいに見えた。
母が迎えに来るまで、桐生君は僕の手を握ったまま離さなかった。
そわそわして落ち着かなかったけれど、僕はそれが嫌ではなかった。


