そのキス、イエローカードです!


 平日五日間の秋休みの間、勉強会は水曜と木曜の二日間開かれた。木曜日は熊さんは部活で、文学女子の久世さんも小説を書きたいからと不参加。咲月と桐生君と夏目さんだけが参加し、前日同様、三人ともそれなりに真面目に勉強していた。
 金曜日は咲月と夏目さんが横浜に遊びに行くということで勉強会は開かれず、ようやく自分の勉強をできると思っていたら、桐生君からメールが来た。

 桐生君の家では犬を飼っているらしい。休憩時間にその話を聞いて僕が興味を示していたからか、「見に来いよ」と誘われたのだ。
 入院していた頃、病院にも定期的にセラピー犬が来ていたからか、動物を飼ったことはないが、犬は見るのも触るのも好きだ。
 「参考書を持ってきて、うちで勉強すればいい」とまで言われたら、断る理由はなかった。
 桐生君の家に行ったことを知ったら、咲月には「おにぃだけずるい!」と非難されそうだが、あいつはいなかったのだから仕方ない。

 桐生君の両親も共働きのため、家には彼ひとりだった。桐生君は一人っ子らしい。
 犬は黒いラブラドールで、名前はロナウド。
 僕の家の倍近い広さの庭には、人工芝が敷かれていた。お邪魔してすぐに「ちょっとだけつきあって」と言われて、庭でボールを使ってロナウドと遊んだ。
 犬が咥えられるくらいの一回り小さなサッカーボールで、彼はまとわりついてくるロナウドを軽やかにかわしながら、ボールを巧みにキープしていた。ときに僕にもパスをくれたが、僕がトラップするより早く、ロナウドの黒い体が飛び込んできて、ボールをかっさらっていく。そのつど、桐生君は「ナイスインターセプト!」と言って、屈託なく笑っていた。

 庭でひとしきり遊んだあとは、僕はリビングを借りて参考書を広げ、勉強していた。その間、桐生君は音を消して、テレビで録画らしい海外のサッカーの試合を見ていた。
 やはり今も、サッカーは好きなのだろう。本当は、またサッカーをしたいんじゃないだろうか……。
 ソファに足を伸ばし、だらけた姿勢でぼんやりと画面を見つめる彼の顔を盗み見、そんなことを思ったが、それを口に出すことはできなかった。

 お昼は宅配のピザを注文した。友達の家に一日中いたのも、一緒にピザを選んで食べたのも初めてで、僕は少し緊張しながらも楽しい時間を過ごした。
 学校で取り巻きの男女に囲まれて笑っているときの桐生君には、どこか近寄りがたいものを感じる。単に僕が陽キャが苦手だからかもしれないが。

 二人きりのときは、彼はわりと無口で笑顔を消していることも多いが、穏やかで優しい空気をまとっている。中学の体育の時間に声をかけてくれたように、その優しさは彼が自然と身につけている素質のように思える。たまにからかわれても、「この無自覚タラシめ」と理不尽に腹を立てることもあっても、苦手に思ったことはない。
 夕方になり帰るときも、まだ明るいから一人で大丈夫と言ったのに、「ロナウドの散歩のついでだから」と言って、家まで送ってくれた。 


 そして土日を挟んだ週明けの月曜日。桐生君は何故か、朝からうちに来た。
 一緒に学校に行くために、わざわざうちまで寄り道したのだそうだ。
 これには、いつもは僕より遅れて、時間ぎりぎりに家を出る咲月が、朝食抜きで慌ててメイクを整えていた。

 うちは桐生君の家から駅までの通り道ではあるけど、大通りからは少し離れている。「寄り道」と言うには遠回りすぎるし、なにより僕たちと一緒だと、桐生君は自転車を押して歩かなければいけなくなる。
 一緒に登校するにしても、時間を決めて駅で待ち合わせしたらよかったのではないかと思う。それを伝えると、「じゃあ、明日からはそうしよう」と言われた。
 明日も、僕たちと一緒に登校するつもりらしい。

 それだけでなく。咲月を待っている間、「放課後、何も予定がないなら、帰りも一緒に帰ろう」と耳元で囁かれた。僕はぞくぞくするような感覚に身を竦め、気づけば、「いいよ」と口走っていた。
 特に断る理由はないが、なぜ急に一緒に登下校することにしたのかはわからない。これも、「友達として最初からやり直している」ところなのかと思い、理由は訊ねなかった。

 自分のクラスに全く友達がいないわけではない。ただ、進学コースのせいか、なんとなくお互いをライバル視している感じで、特に試験前となるとクラス全体がピリピリしている。その点、桐生君や咲月の友達といるときのほうが気楽だった。
 
 中学の頃も含めて、誰かに誘われて一緒に帰ることなんて初めてで、耳介を擽る低い声を思い出しては一日中そわそわした気分で過ごした。
 だからだろう。帰る間際になって、「やっぱり一緒に帰れなくなったから先に帰って」とメールが来たとき、裏切られたような気分になってしまった。


 他に誰か一緒に帰る相手ができたのだろう。
 もしかしたら、好みのタイプの女子に告白されて、つき合うことにしたのかもしれない。「そういうのはしばらくいい」と言っていたのに、舌の根も乾かぬうちに。
 理由もなくドタキャンされたことで、僕の頭の中では憶測だけが膨らんでいく。

 以前なら、彼の言葉を信じた僕が馬鹿だったと、諦めて帰っていただろう。
 でも、少しだけ彼のことを知った今では、全てが気まぐれだったと割り切ることもできなかった。

 もしかしたら、告白してきた女子に泣かれたのかもしれない。
 元カノにはあんな手酷いフリ方をしていたけど、根は優しい人だ。女子に泣かれてつきあうことにしたのなら、納得はできた。胸のあたりに、モヤモヤというかズキズキというか、何か重たいものは残るけれども。

 ただ、そうだとしても、相手が誰かは知りたい。もしかしたら、咲月が、桐生君が彼女と別れたことを知り、告白した可能性もある。その場合、二人から報告されるよりも事前に知っておいたほうが、うまく表情を取り繕える気がした。
 咲月ではなく別の相手なら、今度こそ熊さんを全力で応援する。

 最後の授業が終わった直後に彼からメールが届き、ホームルームの間に悶々と思考を巡らせ、そんな結論に至った。
 うちのクラスには先生の話を聞かずに雑談するような生徒もおらず、ホームルームは連絡事項だけ伝えてすぐに終わる。
 僕は教室を出て靴に履き替え、桐生君のクラスの昇降口が見える、校舎の陰に身を隠した。

 ほどなくして、昇降口からわらわらと生徒たちが出てくる。桐生君は一人だった。
 人目を避けて外で待ち合わせしている可能性もある。
 僕は正門に向かって歩く彼の後を、こっそりつけることにした。
 
 広大な運動部のグラウンドやら体育館、寮やらを横目に、桐生君は他の生徒を追い越す速さで進んでいく。足の長い彼にとってはそれが普通なのだろう。僕にとっては小走りに近い速さで、追いかけるだけで息が上がる。
 桐生君は正門前のバス停で足を止めることなく、公道へと出て行った。

 小高い山の上に建てられたこの学校は、周りを畑や林に囲まれている。民家は点在するものの、麓に降りるまではコンビニや飲食店もない。最寄りの駅までは、歩けば1時間くらいかかる。
 バスがようやくすれ違えるくらいの狭い二車線道路を通るのは学園に用のある車くらいで、麓に降りるまでは滅多に人も車も見かけない。そんな長閑な田舎道を、やわらかな秋の西日を背中に受け、桐生君は止まることなく進んでいく。

 もしかして、誰かが車で迎えに来るのだろうか……。新しい彼女が大学生や社会人なら、それもありうる。

 そんなことを考え、どこまでついていくべきか迷いはじめたとき。少し先のT字路に、他校の制服を着た女子が立っているのが見えた。
 ストレートの黒髪とその制服には、見覚えがある。

 あれは……、桐生君の元カノ!?

 隠れる場所がないから、景色を見ているふりでそれとなく顔を逸らす。しかし、よく考えたら、ファミレスで彼女と会ったとき、僕は女装していた。顔を見られたとして、あのときの女子だと気づかれるはずがなかった。

 彼女とヨリを戻したということだろうか……。

 だとしたら、別れ話のために唇まで奪われた身としては複雑な気分ではある。そうだとしても僕に口を挟む資格はないが、あの修羅場を見ているから、これほど短期間で二人がすんなり元サヤに戻るとも思えない。あのときは駅近のファミレスで待っていた彼女がこんな辺鄙な場所まで出向いてきたことも、不可解に思った。

 納得のできない僕は、脇道に入っていく二人の後をついて行くことにした。
 二軒並んだ民家を抜けると、その先は左右に畑が広がっている。身を隠す場所がなくなるため、僕は一旦足を止めた。
 畑の先には木々に囲まれた小さな丘があり、その麓に石造りの鳥居のようなものが見える。
 学校の近くに無人の神社があり、ちょっとした放課後のデートスポットになっているらしい。そんな話を以前、咲月がしていたことを思い出した。

 きっとヨリを戻した二人が、神社でデートするだけの話だ。彼女がわざわざこんなところまで出向いて来たのは、一刻も早く桐生君に会いたかったから。これ以上尾行するのは野暮天というものだ。
 
 そう考えながらも、二人が消えた参道の入り口から視線を逸らせず、一歩もその場から動けなかった。
 思考とは別の感覚的なところで、あの潔癖で気の強そうな彼女と山の上の神社という組み合わせに、違和感が拭えない。

 困惑が嫌な予感へと変わったのは、背後からエンジン音が迫り、一台の車が僕を追い越して行ったときだった。
 車高の低いワンボックスカーは鳥居の前で止まり、茶髪に柄シャツといった遠目に見てもガラが悪いとわかる男たちが四人、降りてきた。バットか何か、長い棒を持っている者もいる。
 
 鼓動が早鐘を打ち始める。

 マズい……。これ、絶対マズいよな――?

 直感的に悟ったときには、勝手に体が動いていた。
 僕は踵を返し、正門めがけて走り出した。


 市街地から離れているため、110番通報してもすぐに警察が来てくれるとは思えない。だとしたら、頼りにできるのは学校の先生しかいない。
 けれど、人生でまともに走ったことなんて数える程しかなく、懸命に足を動かすけど、重石を引き摺っているみたいに思うように動いてくれない。他の人が見たら、まるでスローモーションの映像のようだろう。それでも、僕にとってはそれが全力疾走で、すぐに息が苦しくなり、酸欠で頭がぼんやりしてきた。

 バスが出た後で、バス停に人はいなかった。足を止めることなく、校内へ向かう。
 何人か下校中の生徒とすれ違い、奇異な目で見られたが、闇雲に声をかけても助けてもらえるとは思えない。
 
 グラウンドが見えてきたときには、ゼーゼーと激しく胸を喘がせ、気管支炎を起こしたときのような呼吸になっていた。
 必死に空気を吸おうとするのに、喉をぎゅっと締め付けられたように空気が全然入ってこない。視界が霞み、口の中には血の味が広がる。

 苦しい……。気持ち悪い……。苦しい……。

 既に走っている感覚はない。
 足をもつれさせないように前に進むだけで精一杯だった。
 職員室まで階段を上がるのは無理だと朦朧とした頭で判断し、ふらふらの足取りで、運動部が練習しているグラウンドへと向かう。

「橘平君!」

 聞き覚えのある声がし、誰かがこちらに向かってくるのが見える。誰かは思い出せなかった。
 ぐるぐると視界が回り始めていて、もうこれ以上は立っているのも難しかった。
 何度か似たような経験をしているから、自分の限界はわかる。

 倒れこむように膝をつき、体を地面に横たえる。
 視界が暗くなったのは、目を瞑ったからか、ブラックアウトか――。

 肺の中の空気を絞り出し、どうにか声を発した。

「じんじゃで……。きりゅ…………。けんか…………。よ、にん……」

 神社で桐生君が喧嘩してるかも。相手は4人もいるから早く行ってあげて。
 そう言ったつもりだった。
 
 言えたかどうかを理解することもできず、僕の意識は暗闇の中へと沈んで行った。