僕たちの通う高校は普通科・進学コースともに、1年を前期、後期の二期に分けたカリキュラムで授業が行われる。前期と後期の間には秋休みというものがあり、9月の連休と合わせて、今年は9連休の予定になっていた。
その秋休み中の平日二日目に、双子の妹の咲月は、クラスの仲良しグループで千葉にある大型テーマパークに行くらしい。仮病を使って僕に追試を受けさせたのもそのためだろう。
それを聞いたのは、その日の朝、顔を洗いに洗面所に降りたときだった。
休みの日、何も予定がなければ昼近くまで寝ている咲月が、僕より先に起きて洗面所を占領していた時点で、出かける予定があるのだと察しがついた。メイク中の彼女に横にずれてもらい顔を洗う間、訊ねてもいないのにテーマパークへ行く話を一方的に聞かされたのだ。
タオル掛けからタオルを取り、濡れた顔を拭きながら、鏡の端に映る妹の様子を覗う。
道具を使って睫毛を上げている顔は、丸く大きな目が愛らしく、小鼻もすっきりしている。少し尖ったアヒルっぽい口が、本人曰くチャームポイントらしい。
先日会った桐生君の彼女ほどではないが、我が妹ながら咲月も十分に可愛い部類に入ると思う。しかし、それを認めるのは自分の顔も「可愛い」と言っているようなものなので、面と向かって褒めたことはない。
栗色に染めた髪はゆるく編み込んだ三つ編みにまとめられ、服装はショートパンツにノースリーブのトップス。家の中ならそれでもいいが、さすがに9月下旬という季節には露出が高すぎるのではなかろうか。
「お前、一昨日まで風邪引いてたくせに、そんな薄着で行くのか」
タオルを戻しながら鏡越しに口にした苦言は、半分以上は仮病を使っていたことへの皮肉だった。
「おにぃと違って、昔から私の風邪はすぐ治るでしょ。この上にシャツも1枚着るから大丈夫よ」
鼻歌でも歌いそうなほどにご機嫌な彼女に、皮肉は通じていない。あるいは、皮肉とわかっていてとぼけたか。――おそらく後者だろう。
「知能以外は、私のほうがいいとこ取りなんだから」
自慢とも蔑みとも取れる発言に腹が立たないのは、そんなふうに思わざるをえなかったことを知っているからだ。
子供の頃、僕と咲月の立場は真逆だった。
物心ついた頃から咲月は我儘を言わないいい子で、逆に僕は、しょっちゅう体調を崩しては入院や自宅での療養を強いられる、手のかかる子供だった。両親の心配はいつも僕に向けられていて、咲月は、「咲月は体が丈夫で助かるわ」「お兄ちゃんが大変だから今は我慢してね」と言われるのが常だった。
双子の妹なのに、我慢強く、面倒見の良い姉のようにふるまっていた。不調があってもそれを言わずに学校に行き、教室で吐いたこともあったそうだ。
彼女の「知能以外は私のほうがいいとこ取り」という言葉には、双子なのに僕だけに重い病気を背負わせてしまったことへの罪悪感と、自身に我慢を強いるための枷のようなニュアンスを感じる。
中学に上がり、僕は風邪をこじらせにくくなり、定期受診以外には病院のお世話になることもほとんどなくなった。その頃から、咲月は友達と遊び歩いて帰りが遅くなったり、成績が下がって親に怒られたりするようになったが、ようやく我儘を言えるようになったのだろうということで、今のところは両親も大目に見ている節がある。
「別にお前は知能が低いわけじゃなく、勉強しないから成績が悪いだけだろ」
甘やかしてばかりもよくないので、一応は心底馬鹿にした口調で返したが、ご機嫌顔が変わることはなかった。今は何を言っても暖簾に腕押しだ。
「せっかくの休みなんだから、おにぃも一日中勉強してないで、たまには出かけたら? 来たかったら一緒に来てもいいのよ」
「わざわざ金と時間をかけて人と鼠の人形を見に行く奴らの気が知れない」
それだけ言ってトイレに向かう。トイレを済ませて手を洗い、リビングに向かおうとしたところ、玄関でチャイムの音がした。
「ヤバッ。桐生君だ! え、ちょっと早くない!? すぐ仕上げるから、おにぃ、相手してて!」
僕は慌てて廊下を引き返し、ふたたび洗面所を覗いた。
「桐生君も一緒なのか!?」
桐生君と咲月は同じクラスなので可能性はあるけれど、なんとなく彼は、そういうグループ交際をするタイプではないと思っていた。
「最初は断られたけど、昨日急に、やっぱり行くことにしたって連絡がきたの。それだけじゃなくて、家まで迎えに行くって言ってくれたのよー」
入念なメイクの一番の理由は、もしかしたらそれか。
「お前、桐生君のこと好きなのか?」
「桐生君のこと嫌いな女子なんていないでしょ」
さも当然のことのように言われる。
「でも、今は他校に彼女がいるらしいから、無理っぽい」
彼女とは、あのファミレスでの修羅場の相手だろう。
一応はあれで別れたことになったようだが、勝手に暴露するのはよくないので、伝えるのはやめておいた。
しかし、彼女と別れて早々、断っていた遊園地に行くことにし、女子の家まで迎えに来ているというのは、どうにも嫌な予感がする。
「ちょっと、おにぃ。桐生君を待たせないでよ!」
――待たせてるのはお前だろ!
言ってやりたかったが、彼に対しても一言物申したいことができたので、ひとまず玄関に向かった。
三和土にあったサンダルに足を通し、ドアを開ける。
「お待たせしました」
玄関先にいた男は僕を視界に入れると、切れ長の眼を少しだけ丸くし、あからさまにパッと顔を輝かせた。
咲月と間違っているのか? ――そんな考えが一瞬脳裏をよぎったが、今日はウィッグをつけていないし、メイクもしていなかったことを思い出す。
初めて見る桐生君の私服は、ジーンズにVネックの白シャツに、紺色のスポーティーな七分丈パーカー。少し長めの黒髪は、ふわりと毛束が揺れるように無造作にセットされていた。髪型と長身のせいか、どこにでもいそうな服装なのに、高校生とは思えないほど大人びて見える。
キラキラと光を散らしていそうな爽やかイケメンが眩しすぎて、僕はそっと視線を逸らした。
「ごめん。咲月は今メイクしてて、もう少しかかりそうだから、上がって待っていてもらってもいいかな?」
「俺が約束よりも早く来すぎたんだ。待つのはここでいい」
そう言われても、客人を玄関で待たせるわけにもいかない。
とりあえず家に上がってもらい、リビングへと通した。両親は既に仕事に出かけている。
ソファを勧め、桐生君が腰を下ろす。……なんというか。桐生君がうちのリビングにいるという状況は、芸能人が突撃お宅訪問してきたくらいの場違い感がある。
「何か飲む? お茶と麦茶とコーヒーくらいしかないけど」
「いや、いい。それより、橘平は今日は一緒に行かないのか?」
その瞬間、僕の心臓がドクンと大きく跳ねた。
まさか桐生君から下の名前を呼ばれるとは思ってもいなかったから。
咲月も僕も同じ苗字だから、そう呼ぶしかないのだと、遅れて理解する。
「行くわけないだろう?」
動揺を悟られぬよう、平静を装って呆れた口調で返す。
「咲月のクラスの人なんて全員知らない人だし。それにそもそも、人の多いところは苦手だ」
「でも、おにぃ、毎年、花火は行くじゃん!」
ドアを開けっぱなしにしていたせいで話し声が聞こえていたらしく、洗面所のほうから咲月が口を挟んで来る。
「花火、好きなのか?」
……あいつ、余計なことを……。
洗面所の方を軽く睨み、L字型のソファの隅のほうに腰を下ろした。
どう答えようと暫し頭を悩ませる。
「好きだよ」のひとことで終わらせることもできた。
ただ、僕はどうにも、桐生君のこの、どこまで踏み込んでいいか距離を測りながら、遠慮がちに訊ねてくる感じに弱いらしい。普段は人に見せまいと頑なに覆っている殻をはがし、心のやわらかな部分を、垣間見せてしまいたくなる。
もう一度、ドアのほうを一瞥し、咲月に聞こえないよう声のトーンを落とす。
「綺麗だと思う気持ちは平等だから。平等だし……、誰かと分かち合えるものだから……」
花火の思い出で一番記憶に残っているのは、子供のころ入院中に見た花火だ。
小学3年生の夏休みだった。狭くなっている肺動脈を膨らませるためのカテーテル治療のための入院で、初めての治療を翌日に控え、僕は夕食が喉を通らないほどに緊張していた。
僕が小さい頃からお世話になっている病院のこども病棟には、プレイルームといって、患児たちが積み木で遊んだり絵本を読んだりできるようなスペースがあった。
普段は、夕食後は必要以上に部屋の外を出歩かない決まりだが、近くで花火大会があるということで、その日だけは師長さんが許可してくれて、病室から出られる子たちはみんな、花火を見るために椅子を持ってプレイルームに集まっていた。
白血病で無菌室病室に入っているような子は、病室からは出られない。病室から出られるくらいだからそれほど重症じゃない子が多かったけど、骨折の手術後で松葉杖をついている子や、車椅子の子もいた。
車椅子の子は僕と同じ病室だった。生まれつき肝臓の病気がある子で、年が近いからそれまでにも入院や外来で顔を合わせたことが何度かあった。
母親同士も仲がよく、退院後に母親から聞いた話によると、肝臓の機能が悪化し、肝臓の移植が必要になっていたそうだ。両親が離婚していてシングルマザーで、母親は仕事があることから自宅での療養が難しく、3か月ほどの長期間の入院になっていた。母親も肝臓に病気を抱えており、生体肝移植のドナーになれないため、脳死の肝移植を待っているということだった。
皮膚は土気色で、白眼は黄色く濁っていて、見るからに具合が悪そうだったけど、花火の鮮やかな光を映すその目は、皆と同じように輝いていた。
抱えている病気も怪我も社会的事情も人それぞれで、辛さも、痛みも、苦しみも、不安も、誰かに完全に理解してもらうことは難しい。でも、花火が綺麗だと思う気持ちは、誰でも同じ熱量で持つことができる。そして、感動を分かち合うことができる。
神様は不公平だと、物心ついた頃からずっと恨みがましく思って生きてきたから、美しいと思う心は平等なのだと、花火そのもの以上にその事実に感動した。子供ながらに、そういうものを生み出せる人たちは、すごい人たちだと思った。
救われた気持ちになって、僕もカテーテル治療を頑張ろうと思えたことを、今でも鮮明に覚えている。
その子が脳死肝移植を受けられずにその年に亡くなっていたことを母から知らされたのは、中学生になってからだ。僕の病状も不安定だったため、同じ難病の子供を持つ親として母のショックも大きく、すぐには伝えられなかったそうだ。
人混みが嫌いでも毎年花火だけは観に行くのは、あのとき一緒に花火を見た子たちも、天国に行ったあの子も、きっと今頃どこかであの花火を見て、綺麗だねと感動していると思いたいからだった。
僕が淡々と話す思い出話に、桐生君は相槌を打つでもなく、ただ真摯に耳を傾けていた。
「スポーツも……、僕にとっては、花火と同じようなものだ」
けれど、最後にそう付け加えると、視線がそっと逸らされる。
少し説教臭かっただろうか……。最後のひとことは言わなければよかったと、ちょっとだけ後悔した。
練習の苦しみも、スポーツの楽しさも、僕は自分自身では味わうことができない。でも、応援して、プレーに感動することは僕にもできる。感動を誰かと分かち合うこともできる。
その感動を生み出すことができる選手たちはすごい人たちなのだと、言いたかっただけなんだけど……。
桐生君は庭に視線を馳せ、黙り込んでいたが、ややあってこちらに顔を戻した。
「話、変わるけど……。この二日間、俺なりに考えたんだ」
リビングの入り口をチラリと一瞥し、声を潜める。
何を? と僕は視線で続きを促した。
「なんつーか、まぁ……、『おまいう』な話なのは重々承知してるんだが……」
そう前置きし、ばつが悪そうに目を泳がせた。
「俺は、『キスまでしかできない』という理由で恋愛を諦めるのは、もったいないと思う」
思わず、「え?」と声を上げそうになった。
人に話す気などなかった諦念的な恋愛観を吐露してしまったのは、二日前のことだ。その話を蒸し返されるとも、まさか二日もの間、桐生君がそのことで頭を悩ませるとも、思ってもいなかった。
「俺自身が、暇潰しとか、性欲発散とか、そんなつきあい方しかしてこなかったから……。逆にそういうのなしで、ただ一緒にいたいと思えるのは、すげーことだと思う」
桐生君がこちらに顔を向けた。どこか遠慮がちに、けれど真っすぐに、僕の目を見つめる。
「だからもし、そんな相手ができたら、最初から諦めるのはもったいないと思って。相手も同じ気持ちだったら、二人で一緒に考えながら進んでいくのもありじゃないかと思ったんだ……」
僕はぽかんと口を開け、真剣な眼差しをまじまじと見つめ返す。
「君……、いったいどうしたんだ? 頭でも打ったのか?」
その瞬間、桐生君の眉間に深い縦皺が寄った。
「どこも打ってねーよ。同性に無理やりキスして、それが最初で最後かもしれないなんて言われて、俺なりに反省して色々考えたんだよ」
ファミレスからの帰り道、桐生君が「たぶん……、ああいうことは、もうしない」と言っていたことを思い出した。やはり彼なりに、悪いと思っていたようだ。
サッカーをやめてからの桐生君はいい噂を聞かなかったし、ファミレスの一件があったから、チャラい人だと思い込んでいたけど、本来の彼は、恋愛においても真面目な人間なのかもしれない。
「だったら、次は咲月のことを狙っているわけではないんだな?」
今度は桐生君が、「――へ?」と間の抜けた顔をする。
彼女と別れたばかりの桐生君が、断っていた遊園地に急に行くことにしたと聞き、次は咲月を狙っているのかと訝しんでいた。
「あいつは、軽そうに見えるけど、あれで結構純粋なやつなんだ」
咲月の恋愛経験は、実際のところ僕は知らないけど。
「元カノみたいに弄んで泣かせるようなことしたら、絶対に許さないからな!」
目に力を込め、努めて凄んで見せる。
呆気に取られていた桐生君が、ぷっ、と吹き出し、苦しそうに肩を震わせ始めた。
「俺、別に元カノも弄んでねーし。ってか、お前の中の俺って、どんだけクズ男なん? ……いや、まぁ、百パー俺が悪いんだけど」
桐生君が爆笑しながら尻を横にずらし、開いていた距離を詰める。短パンを履いているせいで露出した膝が、彼のジーンズに触れた。
「俺はしばらくそういうのはいいと思ってるから、お兄ちゃんが心配するようなことは何も起こらねーよ。それに……」
コソコソ話の体で彼が顔を近づけて来る。
「実は今日一緒に行くメンバーの中に妹のこと気に入ってる奴がいて、協力を頼まれてる」
でも、咲月の好きな人は桐生君だしなぁ。と思うと、喜んでいい話なのかよくわからない。
「その人はいい人なのか?」
僕もつられて小声になった。
「俺なんかと違って、すげーいい奴」
「君にいい人って言われても、いい人の基準が信用できないんだよな」
「お前、さっきから、俺への扱い酷すぎねーか」
首に腕を回され、軽く絞めるような仕草をされた。
誰かとこんな距離感でふざけたことなんてなかったから、僕は軽くパニックに陥った。
「ばか、こら。やめろ!」
「あれ? おにぃたち、いつからそんな仲良くなったの?」
声のしたほうに顔を向けると、準備ができたようで、咲月が立っていた。
「別に仲良くはない。この男の距離感がおかしいんだ」
頑丈な体を全力で押しのける。
「桐生君、お待たせしてごめんね。行こっか」
咲月が桐生君の腕を引いて、立ち上がらせた。並んだ二人は、どう見てもお似合いのカップルだった。
見送るために、玄関へと向かう二人の後をついていく。
「あ、そうだ。橘平。連休中に俺に勉強教えてよ」
桐生君が歩きながら、顔を振り向かせた。
「何で僕が君に勉強を教えないといけないんだ?」
「え? 桐生君、おにぃに勉強教わるの? だったら私も一緒に勉強する!」
咲月に言われると弱かった。これまで両親や僕がどれだけ勉強しろと言っても、妹がやる気を見せたことはない。
咲月がやる気になってくれること自体、奇跡に近い。
「本当に勉強するのか?」
「するする! 桐生君が一緒だったら、めっちゃ頑張る!」
桐生君がいなくても頑張れよ、というツッコミは、胸の内に留めた。
「真面目にやるんだったら、教えてやってもいいけど……」
「本当? ヤッター!」
渋々頷いてみせると、二人は廊下でハイタッチを交わした。
彼らを見送って玄関の鍵を閉め、ようやく僕の穏やかな日常が戻ってくる。
休日に遊びに行くような友達がいないことは、これまで僕の普通だった。
今は二人のことを、少しだけ羨ましいと思った。


