そのキス、イエローカードです!


 僕の家は地元の駅から歩いて15分程のところにある。彼の家は少し離れていて、駅まで自転車を使っているらしい。
 暗くなっていたせいか家まで送ると言い張られて、家までの道のりを自転車を押した彼と一緒に歩くことになった。

 裾に仄かな赤みを残した群青色の空には、満月には少しだけ足りない十六夜の月が輝いている。
 駅前の飲食店やホテルが立ち並ぶ賑やかな通りを過ぎ、片側一車線のさほど広くない道路に沿った歩道を、いつものペースで歩く。車道に並ぶ車が帰宅ラッシュでほとんど動けない中、せわしなく歩道を歩く会社員や学生が、何度か僕たちを追い抜いて行った。

 駅から自宅までの帰り道には、僕たちが通っていた母校の中学校がある。
 夜の帳の下りた学校は、職員室の辺りにだけ明かりがぽつんと灯っていた。

 学校の塀に沿って続くゆるやかなカーブを曲がりながら、桐生君がためらいがちに言葉を切り出した。

「今日は付き合ってくれてありがとう。あと……、悪かったな」

 ファミレスで言われたときと違って、その声からは本気の謝罪の気持ちが感じ取れた。

「合コンでノリが合ったからちょっと付き合ってみたら、思った以上に執着が強くて……。ああでもしないとしつこく付きまとわれそうだったんだ。……でも、だからって、お前を傷つけていい理由にはならないよな」

「もういいよ……。君が言うように、ただの接触だし。腹が立っただけで傷ついてはいない。初めてだったのも、君のせいじゃないし。でも、次に誰かに同じことを頼むときは、ちゃんと事前に許可をもらったほうがいいと思う」

「たぶん……、ああいうことは、もうしない」

 それは予想外の言葉だった。

「また水かけられるのは勘弁だからな」

 茶化すように付け加えられたが、それだけが理由ではないように思える。
 彼なりに反省したのだと、いいように解釈することにした。


 中学校の敷地を回り込む形で歩道がカーブし、やがて校舎が後ろに遠ざかっていく。側道に入ると車はほとんどいなくなった。周りはアパートや戸建てが立ち並ぶ住宅街になる。

「……どうして、一生、キスすることがないかもしれないと思っていたんだ? 病気が原因なのか?」

 人通りもなくなり、しばらくしたところで、思い切ったように桐生君が訊ねてきた。

 正直、蒸し返してほしくない話題だったけど。病気のことを心配してくれていることはわかったから、ちゃんと答えようと思った。

「普通にモテないからだよ。僕みたいなチビで病弱な人間に、彼女なんてできると思うか?」

 本当は、女子にモテない以外にも、もう一つ理由がある。

「できないことはないだろ? 特進クラスで将来有望だし。顔も、か……整っている」

 桐生君は何かを言いかけ、言葉を選び直したようだった。

「男は勉強だけできても駄目なんだよ」

「駄目ってことはないだろう? 俺みたいにできない奴からしたら、すげーなって思うよ」

 僕にとって勉強は、コンプレックスを打ち消すための手段だった。運動はできないし遊ぶ相手もいないから、他にすることがなかったとも言える。
 でも、テストでいい成績を残したところで、一時的には達成感を得られるけど、時間が経つと勉強(それ)しかない自分に落胆する。

 自分では、努力をしてもそれがすごいことだとは思えなかったのが、桐生君の言葉だと素直に嬉しいと思えた。

 「……それに」と彼が真摯な声で話を続ける。

「勉強だけってこともないだろ? 中学の体育のとき、いつも一生懸命でいいなと思ってた。ゲームに入れねーのにパスだけ練習する意味あんのかって、最初は思ってたんだ。……でも、お前はいつも一生懸命で……。サッカーでトラップができるようになったとき、すげー喜んでて、俺まで嬉しくなった。そういうところ、見てる人はいると思う」

 これには、すぐには言葉が出てこなかった。
 まさか、彼が中学時代の僕のことを覚えてくれているとは、思ってもいなかったから。
 しばし彼の言葉を頭の中で噛みしめ、「ありがとう」と、嬉しかった気持ちを素直に言葉にした。

 やはり桐生君は、人の気持ちを気遣える人間なのだろう。ファミレスを出たあと反省しているように見えたのも、『ふり』ではなく、「その『ただの接触』すら、一生ないかもしれないと思っていた人間の気持ちなんて、わからないだろ」と言った僕の言葉を気にしてのことに思えた。

 そんな彼だから。今まで誰にも打ち明けるつもりのなかった話を、聞いてほしくなったのかもしれない。

「……理由はそれだけじゃない……。僕は誰かとつきあったところで、キスまでしかできない。『キスまでしかできません』と言う男とつきあいたい人間はいないだろうから……」

 随分と長い間、返事がなかった。
 コンプレックスを露呈し、同情を強要しているように思われたのかもしれない。やはり話すべきではなかったと後悔しかけたとき。

「……それ……、『どういうこと?』って聞いてもいい話? 話したくなかったら無理しなくていいけど……」

 一語一句言葉を選ぶように、慎重に質問が返って来る。
 その声から感じ取れるものが同情ではなく『気遣い』であることに安堵し、僕は一度深く息を吐いた。

「僕……、生まれつき心臓に異常があって、赤ん坊のときに手術を受けたんだ。手術は成功したけど、成長に伴って血管を繋いだところが狭くなっているらしい。そのせいで、運動や風邪を引いたりすると酸素が足りなくなるんだ。医者からは、早歩き以上の運動は止められている。……キスの運動強度ってどのくらいか知ってるか?」

 僕の唐突な質問に、桐生君は歩きながら顔をこちらに向けた。

「ただの接触なんだから、運動じゃねーだろ」

 答える声は、少し自信なさげだ。

「安静に座っている状態の酸素消費量を1METs(メッツ)とすると、触れるだけの軽いキスなら約1.5~2METs、それ以上の情熱的なやつだと2~3METs。ちなみに性行為だと一般的なもので3~5METsらしい。僕に許されているのは3METsまでの運動だから、『キスまでしかできない』というのは、そういうこと」

 なるべく重くならないよう、軽い口調で答えた。

「……それは……一生治らないのか?」

「手術をしてうまくいけば、軽い運動はできるようになるみたい。でも、手術をするには心臓にメスを入れる必要があるんだ。手術の間は心臓が止まって、人工心肺で血液を回す。手術で死ぬ可能性もゼロではないし、手術をしても、また狭くなることもあるらしい。……運動のために命懸けで手術を受けるなんて、馬鹿げてるだろ。運動さえしなければ人並に日常生活を送れるんだから、僕は今のままで構わない」

 桐生君の目を見られなかったのは、自分の中に迷いがあるからだ。
 僕にとって運動とは、友達付き合いや恋愛とイコールだった。歩行以上の運動を諦めることは、友達と外で遊んだり、恋愛を諦めることと同義だった。本音を言えば、子供の頃から、それらをずっと羨ましがってきた自分がいる。ただ、その羨望も、手術に対する恐怖には一度も勝てなかった。だからずっと、心の片隅に押しのけ、気づかないふりをしてきた。

「……それは確かに…………『ただの接触』じゃねーな…………」

 桐生君はぼそりと呟き、それ以上、口を噤んだ。
 答えを欲しかったわけじゃない。恋愛が命懸けになる人間もいることを知ってもらえただけで、少しだけ救われた気分になった。


 人より遅い僕の歩調に合わせてくれていたのが、病気のことを話してからは、さらにゆっくりになった気がする。
 住宅街の中の道を折れ、歩道に沿って点在する外灯の先に我が家が見えてくる。
 「うち、そこだから、ここでいいよ」と言うタイミングを計りながらも、僕は別のことを口にした。

「言いたくなかったら言わなくてもいいけど……、桐生君は、どうしてサッカーをやめたの?」

 体育の授業以外で話したのは今日が初めてのような間柄で、踏み込んでいい話題ではない。
 でも、先に踏み込んできたのは桐生君だから。今なら、訊いても許される気がした。

 桐生君のハンドルを握る手が、わずかに強ばった気がした。 
 少しの間を置いて、どこかなげやりな声で、ぼそりと呟かれる。

「人間関係が面倒くさくなったから」

 桐生君は続けて詳しい事情を話してくれた。
 昼間の残暑の残る住宅街の小道で、低く沈んだ声だけが、ぽつりぽつりと静けさを満たす。
 僕は相槌も打たず、彼の話にただ耳を傾けていた。

 サッカー部でいじめがあったことは、噂通りだった。
 僕達と同じ学年で、明るくてお調子者のキャラで、一年生の頃、二年生に目をかけられていた部員がいたらしい。でも、三年生が引退して学年が上がると、「可愛がり」が別の方向へとシフトしていった。パシリから始まり、買い物代を踏み倒されるようになり、それを指摘すると暴力を受けたり、金を取られるようになったという。
 
 そのことを知った桐生君は、顧問の教師に報告し、先輩にもやめるように訴えたそうだ。しかし、先生は「本人に確認したが、いじめられているという事実はなかった」とうやむやにし、先輩たちは桐生君にまで、試合でパスを回さないなどの嫌がらせをするようになった。
 そして、標的の子へのいじめもエスカレートし、全裸で土下座している動画を撮られ、それを仲間内のコミュニケーションツールで拡散されたのだそうだ。

 憤った桐生君は先輩たちと殴り合いの喧嘩をし、打ち所が悪く一人が入院が必要になり、警察まで介入したことで、サッカー部はしばらく活動禁止となり、その年の中体連にも出られなかった。
 いじめられていた生徒は別の中学校へ転校したそうだ。

「……転校していったそいつに言われたんだ。お前が騒ぎたてなければ、そこそこ上手くやれていたのにって。先輩たちだって、同じような扱いを受けてきている。みんな適当にやり過ごしていたことなのに、お前の偽善が部をめちゃくちゃにしたんだって……」

 桐生君が、ふっと自嘲の滲む吐息を洩らした。

「確かにそいつが言うように、俺がしたことは単なる自己満足で、偽善だった。そう思ったら、チームメイトにもコーチにも、思っていることを何も言えなくなってしまってな。中体連に出られなかった申し訳なさもあって、サッカーを楽しめなくなったんだ……」

 当時の、桐生君のことを訊いたときのサッカー部の子たちの反応を思い出した。
 「色々あったんだよ」と、詳しいことは話したがらない彼らの表情には、後ろめたさがあったように思う。
 きっと彼らも、先輩たちのいじめを知っていて、気づかないふりをしていたのだろう。

 先輩たちは卒業したんだから。今の学校のサッカー部にはいじめはないだろうから。
 またサッカーやればいいだろ。

 そう言うだけなら簡単だ。
 桐生君自身も、何度もそう思おうとしたのかもしれない。
 けれど、辛い経験とサッカーを切り離せないから、今も復帰できないでいる。

「……誰かのために何かをすることに、自己満足を伴わないことなんてあるのかな」

 頭をフル回転させて絞り出したのは、そんな言葉だった。
 桐生君が足を止め、自転車のハンドルを片手で握り、体ごとこちらを向いた。つられて僕も立ち止まり、彼と向かい合う。
 外灯のほの白い明かりが、彼の目元に長い前髪の影を落としていた。

「以前読んだとある思想家の著書にね、『道徳的行いの目的は、自らの幸福のためにある』みたいなことが書かれていたんだ。これはつまるところ、『善意には自己満足を伴う』ってことだと思う」

 うんちくを垂れている気恥ずかしさから、まっすぐに彼の目を見られず、徐々に視線が下がっていく。

「桐生君は、自分がそうありたいと思う自分でいるために、自分が正しいと思うことをした。彼のために何かをしたいと思った気持ちは、絶対に偽物なんかじゃないと思う。見て見ぬふりをしなかった自分に、満足していいと思う」

 早口で一気にまくし立てた。
 息を継ぎ、少し落ち着きを取り戻して、静かに言葉を続ける。

「中学のとき、体育のサッカーで君にゲームに誘ってもらえたこと……、僕は本当に嬉しかったんだ。気づいてもらえて、気にかけてくれる人がいたこと、僕は一生忘れない。転校していった彼も……、そのときは素直に受け取れなかったとしても、桐生君のせいだなんて、本気で思ってはいなかったと思う」

 喋り終えても、すぐには顔を上げられなかった。
 その俯かせた頭に、ぽんぽんと何かが優しく触れる。

 そろそろと顔を上げると、桐生君が自転車越しに僕の頭に手を伸ばしていた。眉尻を下げた微笑は、今にも泣き出しそうにも見える。
 「ありがとう」と言われているのだと思った。

「うち、そこの角の家だから。ここで大丈夫」

 気恥ずかしさからそう言ったけど、結局、桐生君は門の前まで送ってくれた。

「送ってくれてありがとう」

 自転車をUターンさせている彼に声をかける。
 桐生君は自転車のスタンドを立て、僕に向き合うと、急に畏まって深々と頭を下げた。

「今日のことは、本当に悪かった。許さなくていいから、もう一度だけ、友達として最初からやり直すチャンスをほしい」

「あ、え……? い、いや……なんで?」

 予想外の行動に、僕はうろたえるしかない。

「なんで?」

 顔を上げた彼は、片眉を上げ、不可解そうに問い返した。

「ファミレスでのことは、もう何とも思ってないよ。それに、友達としてやり直す必要なんてないだろう? 今までもほとんど喋ったことなかったし、君には他にたくさん友達がいるんだから」

「お前に言われたことが……、嬉しかったから」

 外灯の光を帯びた切れ長の目が、はにかむように視線を揺らす。

「今まで「お前のせいじゃない」と誰に言われても、全然刺さらなかったんだ……。でも、お前の、『見て見ぬふりをしなかった自分に、満足していい』って言葉は、なんか嬉しかった。もっと他にうまいやり方はあったかもしれないけど……。見て見ぬふりをしても後悔していただろうから、だったら、今の後悔のほうがマシだと思えた」

 かすかな不安を滲ませた目が、真っすぐに僕へと向けられる。

「俺はこれから、もっとお前と話をしたい。俺みたいな馬鹿な人間は、友達にはしてもらえないか?」

「い、いや……、もちろん、そんなことないよ! その、僕なんかでよければ……よろしくお願いします」

 さっきの桐生君みたいに、今度は僕が深々と頭を下げる。
 頭を上げ、互いに困ったように、照れたように、笑いあった。
 その後、自転車に乗った彼が暗闇に消えるまで、僕はずっとふわふわした気分でその後ろ姿を見送っていた。