「そのままの恰好のほうがいい」と言われて、僕は女子の制服にウィッグをかぶり化粧もしたまま、桐生君と一緒に学校を出た。
僕たちが住んでいる地域は学校まで電車とバスを乗り継いで1時間ほどの場所にあり、僕も桐生君も地元の駅から電車で通学している。
中心市街地から離れた小高い山の上にあるこの学校は、運動部の活動がさかんで、練習のための施設が充実しており、敷地も驚くほど広い。昇降口を出てグラウンドやテニスコート、運動部の寮などを横目に見ながら5分ほど歩き、正門前のバス停に辿り着いた。ほどなくして最寄り駅に向かうバスが来て、桐生君と連れ立って乗り込む。
帰宅ラッシュにはまだ早く、車内は席に余裕があった。駅までは20分ほどで立っていてもよかったのだが、一人分空いていた席の前に連れて行かれ、「座って」と顎で示される。おそらく、胸の前にバッグを抱えた僕がバスの揺れでバランスを崩さないか、心配してくれたのだろう。「ありがとう」と彼にだけ聞こえる小声で言い、素直に腰を下ろした。
「優しくてイケメンの彼氏、羨ましすぎる~」
後ろの席にいた女子たちがこちらを見て、コソコソと話す声が聞こえてくる。内容から察するに、僕たちのことをカップルと勘違いしているようだ。
女装しているから仕方ないとは言え、悪い気はしなかった。桐生君の彼女に間違われたのなら、男であってもむしろ光栄なことに思える。
僕は背も低く、黒縁眼鏡をかけた地味な陰キャで、桐生君のようなスクールカーストのトップにいる人とは真逆のところに生息している。高校に入ってからの彼は更に雲の上の人になり、電車や校舎内でたまに見かけても、目を合わせる勇気すらなかった。トイレでのハプニングがなければ、おそらく卒業まで話をすることもなかっただろう。
つり革に掴まって前に立つ男の顔を、上目遣いでこっそり盗み見る。ぼんやりとしたその視線は、流れていく車窓の景色に向けられている。
目にかかる長めの前髪にシャツの襟を隠す後ろ髪。たまたま伸びているのではなく、サッカーをやめてからの彼の髪は、ずっとこの長さだ。その、運動部ではあまり見かけない長めの髪型が、サッカーをしないアピールのように思えて、見かけるたびに少しだけ残念に思っていた。
僕と桐生君は同じ中学出身だが、クラスは一緒になったことがない。でも、背が高く運動神経抜群で、一年生のときからサッカー部のレギュラーだった彼は、中学の頃から学校の有名人だった。
僕は生まれつき心臓に重い病気があり、赤ん坊の頃に大きな手術を受けている。手術後しばらくは問題なかったそうだが、物心ついた頃には激しく泣いたり風邪を引いたりすると息苦しくなり、時には意識を失うこともあった。検査で肺にいく動脈が狭くなっていることがわかり、これまで三度、カテーテル治療で血管を広げたが、完全に治癒したわけではない。運動や呼吸器感染など酸素が必要な状況になると酸素不足に陥るため、歩行よりハードな運動は制限されていた。医者からは、狭くなった肺動脈を広げる手術を勧められているが、怖くて踏み切れないでいる。
小学校の高学年になる頃には入院が必要なほどの風邪を引くことはなくなったため、「手術を受けるくらいなら運動を諦めて生きるほうがマシだ」と自分に言い訳し、結論を先延ばししていた。
もちろん、体育はほとんど見学。最初の準備体操のみ参加し、球技は立ったままのパス練習くらいならできる。しかし、野球はボールを取れずに顔面に当たり、バレーやバスケットは突き指をしたので、それすらも許可してもらえなくなった。そんな中でサッカーだけは唯一、怪我することなくパス練習に参加できていた。
中学生の頃、体育の授業は男女別に2クラス合同で行われていた。授業でサッカーが始まり、パスとトラップだけなら空振りせずにできるようになった頃、隣のクラスだった桐生君が急に話しかけてきた。
「ゲームに加わりたいか?」と訊かれて、僕は「走れないから無理だよ」と即答した。
『ボールを蹴ってトラップできるのなら、ゲームにも参加できるぞ。一度だけやってみたらどうだ?』
人気者の彼にそこまで言われたら、陰キャの僕に断る勇気はない。
桐生君は体育教師に直談判し、走らないことを条件に僕のゲームへの参加を認めさせてくれた。
キックオフと同時に敵のゴール前に行くように言われて、ただそこに立っていた。敵のゴールキーパーがサッカー部で、ボールが来ない間、「このへんを狙ったらいい」とアドバイスをくれたけど、そのアドバイスが役に立つことはないだろうと思っていた。
桐生君にボールが渡ると、彼の独断場だった。誰にもボールを触らせず、まるでボールが足にくっついているかのようなボールさばきで次々に敵を抜き去る。それまでの授業のサッカーでは明らかに手加減していて、なるべくパスを回したり、わざと抜かれたりしていたから意外だった。最後の一人をパスでかわし、そしてそのパスは、狙ったように僕の足元に来た。
本当は前に敵のいない状態で味方からパスを受けると「オフサイド」という反則になる。体育の授業なんだから、なるべくみんながシュートを打てるよう、オフサイドが適用されないように桐生君が先生に交渉してくれていた。
僕は人生で初めて、サッカーの試合の中でパスを受け、そしてキーパーの彼が「このへんを狙え」と言っていたゴールの隅に向かって蹴り込んだ。
パス練習ではインサイドキックという足の内側で蹴る蹴り方しか練習していなかったから、ボールの勢いは弱い。サッカー部の彼なら二、三歩足を動かすだけでボールを取れていたはずだ。けれど、キーパーはボールを取るふりをしてボールに手が届かないところで倒れ込み、コロコロコロとボールはゴールの中へと転がっていった。
桐生君のパスも、キーパーがボールを取れなかったことも、僕にゴールさせようという意図がありありだった。でも、茶番の中でしかスポーツをできない悔しさよりも、生まれて初めてサッカーの試合に参加し、ゴールできた喜びのほうが、ずっとずっと大きかった。まるで本物のサッカーの試合のように、桐生君に祝福のハグをされて、一生大切にしたい思い出ができた。
けれど、そんな将来有望なサッカー部員だった桐生君は、中2のときにサッカー部をやめた。部内のいじめが原因だという噂を耳にした。それと関係しているのかはわからないが、その頃、サッカー部はしばらく活動を禁止されていて、その年の中体連にも出られなかった。
うちの高校は文武両道をうたっていて、サッカーも全国大会に出場するくらいに強い。桐生君が同じ高校に入学したと知り、僕は、サッカーに復帰するために彼はこの高校を選んだんじゃないかと秘かに喜んでいた。でも、それは僕の勝手な思い込みだったようだ。高校生になってからも彼は帰宅部で、女の子と遊んでいる噂ばかりが耳に入ってくる。
最寄りの駅でバスを降りる。
普段ならここから八王子方面行の電車に乗るのだが、改札を通った桐生君が向かったのは、それとは逆の東京方面のホームだった。
神奈川県民にとって東京はさほど遠い場所ではないが、あまり帰りが遅くなるのは母親が心配するので困る。
そんな不安を込めた眼差しで見上げていたら、三つ先の駅まで行くことと、用事はすぐに済むことを説明してくれた。その後は誰かと連絡を取っているのか、電車が来るまで、桐生君はずっとスマホを操作していた。
目的の駅で降り、改札を出て向かったのは、歩いて3分ほどの場所にあるチェーンのファミレスだった。
桐生君はレジにいた店員に「待ち合わせです」と告げて店内を見渡すと、すぐにまた歩き出す。女子高生がひとりで座っている四人掛けテーブルの前で、彼は足を止めた。
目を引くほどの美人でもあるが、あからさまにこちらを睨みつけていたため、向かう前から彼女が待ち合わせの相手だと予感していた。恋愛に疎い僕でも、その眼差しに込められたものが敵意であることは、すぐにわかった。
驚く様子がないところを見るに、桐生君が女連れ――正確には女装した男子だが――で来ることは事前に知らされていたのだろう。出会ったそばから漂う緊迫した空気に、早くも逃げ出したい気分になる。
桐生君は彼女の向かいのソファに腰を下ろした。ポンポンと座面を叩かれ、僕もバッグを胸の前に抱えたまま、恐る恐る彼の隣に座る。
彼女はストレートの黒髪を胸のあたりまで伸ばした、大人びた雰囲気の美人だった。睨まれているせいか、アーモンド形の目元が少しキツく感じられる。
制服を着ていなければ大学生にも見えそうなので、学年は上かもしれない。見慣れないデザインで、ファッションに無頓着な僕にはどこの高校のものかはわからなかった。
桐生君からメニューを渡される。
何も喉を通りそうにないが、飲み物でも頼まなければ場がもたない。メニューを開いて一番安いものを探す。
彼女の前には水のグラスと紅茶のセットが置かれていた。
「決まった?」
頬が触れそうなほどの距離で桐生君が覗き込んでくる。声も、さっきまでとは打って変わって甘く、優しい。「ふえっ⁉」と変な声が出そうになり、慌てて口を引き結ぶ。
僕はおずおずとオレンジジュースを指差し、水を運んできた店員に、桐生君が「コーヒーとオレンジジュース」と僕の分まで注文を伝えた。
「私、納得できないんだけど」
店員が去ったのを見計らい、清楚系美人が苛立ちをあらわにした。
眼差しと同じく、背筋が寒くなるような冷ややかな声だ。
「私がその女より劣っているとは思えない。頭も悪そうだし、顔もどうせメイクで盛ってるだけでしょ」
いきなり浴びせられた悪口に、僕は唖然として彼女を見た。マスクで隠れているが、口はぽかんと開いている。
咲月やその友達に対して、常日頃、僕も似たようなことを思ってはいるけれども。本人たちにそれを言いたいと思ったことは一度もない。……というか、咲月は頭は悪いが、すっぴんでも顔はそれほど悪くないぞ。
「『どうしても納得できないからそいつに会わせろ』つったのはそっちじゃん。会っても納得できないんだったら意味なくね?」
桐生君のほうは、温度を感じない、淡々とした返しだった。
でも、逆に彼女を鼻にもかけてないことが伝わってきて、二人の不穏な雰囲気に胃の辺りがキリキリと痛み始める。
会話の流れでなんとなく察した。
僕が女装のままここに連れて来られたのは、彼女との別れ話のためだろう。テストの替え玉の次は、桐生君の彼女の替え玉をさせられているわけだ。
気が強そうだけど、美人で頭も良さそうな人なのに、いったい彼女の何が不満で別れようとしているのだろう。
そのタイミングでコーヒーとオレンジジュースが運ばれてきた。
僕は完全に巻き込まれ事故で、あとは二人で話し合ってくれ、という気分だった。
我関せずを決め込み、ジュースを飲むためにマスクを取る。
「あんただって、どうせ顔で選んだんでしょ」
値踏みするような視線で僕の顔を眺めていた彼女が、ふいに僕に水を向けてきた。
まさか自分に質問が飛んでくるとは思ってもおらず、ジュースに手を伸ばしかけていた僕は一瞬動きを止める。
「この人、それ以外は最悪だから。期待したところで、私みたいに痛い目見るだけよ」
「……そんなこと、ないですよ」
気づけば、口にしていた。
彼女の顔が強張り、もしかしたら火に油を注いでしまったかもしれないことに気づく。
恐る恐る桐生君の顔を見上げると、彼もまた、驚いた顔をしていた。
あーーー、もうっ。なるようになれ!
どうなっても、僕を巻き込んだ桐生君が悪い。自業自得だ。
そんな投げやりな気持ちで言葉を続ける。
「桐生君とあなたの間に何があったかはわかりませんが……。少なくとも、ぼ……私の知ってる桐生君は、顔がいいだけの人ではないです。周りをよく見ていて、人を気遣うことができて、好きなことに一生懸命な人です。人としても尊敬してます」
「あんた……もしかして、男?」
彼女が強張っていた顔を引き攣らせる。直後、またキッとその眦を吊り上げた。
桐生君が顔以外最悪という話に納得できず、つい地声で力説していたことに気がついた。
「最っ低! 彼女できたって話、嘘だったのね。私を騙すために友達に女装してもらったってこと? 私だって、あんたに本気で好きな人ができたんなら、本気で諦めようと思ってたのに!」
会っていきなりディスられたときはムッとしたが、彼女の激昂ぶりを見ると、たしかにこんなやり方は間違っていたと思えてくる。
「あ、あの……、もう一度、二人で……」
――よく話し合ってみたらどうですか?
続けようとした言葉は、急に顎を掴まれ、無理やり顔を桐生君の方へと向けさせられて、唇に触れた柔らかいものに塞がれていた。
――――っ――――⁉
鼻先が触れ合うほど近くに桐生君の顔がある。
というか、鼻先だけでなく、唇と唇がくっついている。これって――――⁉
軽く押し付けられただけで、桐生君の唇はすぐに離れていく。
離れてからも、何が起こったのか理解が追い付かず、僕は横を向いたまま完全に固まっていた。
「今日はたまたまこいつがこの格好だっただけ。騙すために女装してもらったわけじゃない。ただ、女はしばらくいいかなと思っただけ」
さっきと同じように、彼女へと視線を戻したその横顔も声色も、淡々としていた。
その瞬間――、ビシャッと音がして、彼の顔に水がかかった。
コーヒーではなく水にしてくれたことに感謝すべきだと思った。
僕の顔が赤くなり、唇がわなわなと震えはじめたときには、既に彼女はいなくなっていた。
取り残された男二人。片や女装で片やびしょ濡れ。
これを悪夢と言わずして、何と言えばいいのだろう。
「悪かったな」
おしぼりで顔とシャツを拭きながら、桐生君が形ばかりの謝罪の言葉を口にする。
多少は反省しているのかと思えば。
「こんなところまで付き合わせて」
続いて出てきた言葉に、今度は僕の堪忍袋の緒がぶち切れた。
テーブルにあったおしぼりを彼の顔に向けて投げつける。
運動神経のいい彼だから、顔の前でキャッチされた。――くそっ。僕も水にすればよかった。
「謝るべきはそこじゃないだろ!」
反撃は予想していなかったようで、切れ長の眼が軽く見開かれる。
彼は何かを考えるように、視線を彷徨わせて。
「もしかして、キスのことで怒ってんのか?」
さも、いま気づいたかのように口にした。
むしろ、何で怒ってないと思うんだよ!
「あんなんただの接触だぞ」
――普段はもっと激しいのをしてますっていう自慢かよ!
「壁にぶつかったとでも思えばいいだろ」
――君は壁じゃないだろ!
桐生君の言い訳に、心の中でツッコミを入れる。言いたいことは山のようにあるけれども。
「そ、それでも、僕は初めてだったんだぞ!」
一番ぶつけたい文句はそれだった。
「悪……かったな……」
桐生君が一瞬、言葉に詰まった。
言わされただけの謝罪に、余計にはらわたが煮えくり返る。
「その『ただの接触』すら、一生ないかもしれないと思っていた人間の気持ちなんて、どうせ君みたいな人間にはわからないだろうな!」
こちらに視線を戻した桐生君は、どう言葉をかけてよいかわからない、といった感じの戸惑った表情をしていた。
文句が筋違いだったことに気づき、さらに苦々しい気分になる。
子供の頃から、他人の似たような表情を何度も見てきた。もっとも、大人たちが向けてくるそれは、もっと憐みに満ちていたけれども。
僕にキスする相手が一生できないかもしれないことに、桐生君は関係ない。劣等感をさらけ出したところで、自分が惨めになるだけなのに。
怒っているのは、本当はその「接触」が不快だったからでも、初めてを奪われたからでもない。
ただ、悔しかったのだ。桐生嘉晴がそんな人間だったことが。
彼女との間に何があったのかは知らないけど、別れるにしても、彼女のことを傷つけない、もっと別のやり方があったんじゃないかと思う。事前の承諾もなしに僕にキスしたことも、僕という人間を軽んじているとしか思えなかった。
かつての彼は、そんな人じゃなかった。
そんな身勝手な偶像崇拝が、行き場のない怒りに変わっただけの話。
ここまで連れて来られて、ただ嫌な思いをしただけで帰るのも癪だったので、口をつけていなかったオレンジジュースを一気に飲み干す。自分の分の代金だけ置いて帰ろうと財布を取り出したが、「俺が連れて来たんだから」と桐生君に押し返された。
多少は反省したのか、その後の彼は、僕に対して終始神妙な態度だった。
駅の多目的トイレで男子の制服に着替え、化粧を落とす間も、「待たなくていい」と言ったのに、ドアの外で待ってくれていた。その頃には僕の怒りもかなり収まっていた。
そもそも僕も妹の代わりに追試を受けているのだから、人を騙している最低の人間に違いない。桐生君にどうこう言える資格はなかった。


