そのキス、イエローカードです!


 判決を待つ囚人のような気分の僕とは裏腹に、文化祭当日は二日間とも雲一つない秋晴れだった。
 前日までなんやかんや準備に追われていて、進学コースだからか授業も普段通りのペースで進む。僕にとっては、忙しくて余計なことを考える暇がないことは、ありがたいことでもあった。

 マズい場面を咲月に見られ、「文化祭までの間、私を彼女見習いにしてって桐生君に頼んでみる」と宣言されたのが月曜日。翌日からは桐生君と待ち合わせして一緒に登校することもなくなり、当然、下校も別々。メッセージアプリでのやりとりも、あの日の、「わかった」という桐生君からの返事で途切れていた。

 咲月と桐生君は一緒に登下校しているようだし、噂まで流れていることからすると、咲月の願いは聞き届けられたのだろう。ただ、それが本当に「見習い」で、文化祭までの「期間限定」なのかはわからない。
 桐生君にも、咲月にも、訊く勇気はなかった。

 咲月との関係は、最初こそ腫れ物に触るような緊張を感じていたが、三日、四日と経つうちに、まるであの日の出来事がなかったかのように、普段通り会話も交わすようになった。ただ、彼女が嬉しそうにスマホを見ていたりするのを見かけると、情緒をひどく搔き乱され、目を背けたくなる。
 そんなとき、僕はあの言葉をおまじないのように心の中で呟くようになった。
 
 ――人生には、いつでもあるものなんて何にもない。

 それは、人の気持ちだって一緒だ。
 桐生君と正式につきあったとして、遅かれ早かれこんな未来が来ていただろうから。手を伸ばす前に諦められて、逆によかったのだと。


「橘平君」

 中等部のカップルに空気砲の作り方を教えていた僕は、女子に名前を呼ばれて顔を上げた。
 立っていたのは、顔見知りの女子二人。咲月の友達の、夏目さんと久世さんだった。以前、勉強会と称してうちに来たこともある。

「あ、来てくれたんだ。ありがとう」

 うちのクラスの出し物である体験型のサイエンスショーは、他のクラスの飲食を提供するものやお化け屋敷などに比べると人気がない。クラスの人の知り合いが来ることがほとんどだった。

「今日は昨日の反省を生かして流れがスムーズになったから、交代で長めに休憩取って、校内を回れるようになったの」

 久世さんの説明に、またツキンと胸が痛む。
 昨日、咲月が帰って来たのは9時過ぎだった。玄関先で「送ってくれてありがとう」と誰かに挨拶している声が聞こえてきたから、桐生君も一緒だったのだろう。その後、親には「文化祭の反省会してたから」と帰りが遅くなった言い訳をしていた。

「何これ、面白い。段ボール叩いたら煙の輪が出るってこと? だったら、出口をハート型にくり抜いたら、ハートの空気砲ができるじゃん!」

 久世さんの隣で空気砲の説明用のパネルを見ていた夏目さんが、はしゃいだ声を上げた。

「いや~残念ながら、それは無理な相談ですね」

 「チッチッチッ」とでも言いそうに人差し指を立て口を挟んできたのは、同じように参加者相手に作り方を指導していた真田君だ。
 まるで推理を披露する名探偵のように、指を立てたほうの肘をもう片方の手で支え、眼鏡をクイッと持ち上げる。

「空気砲って、煙を飛ばしてるわけじゃなくて、正確には“空気の輪”――ボルテックスリングって構造を作ってるんだ。ヘリコプターの墜落の原因になる“ボルテックス・リング・ステート”という現象の縮小版と思ってもらったらいいかな。輪っかになるのは、出口から押し出された空気が、外側と内側で速度差を生んで自然に渦を巻くからなんだ」

 「ボルテックス・リング・ステート」とさらりと言われたところで、普通の高校生には馴染みがない。
 話についていけず、ぽかんとする夏目さんたちに構うことなく、彼はさらに早口でまくし立てる。

「で、その渦が安定して空中を飛ぶには、出口の形が超重要。丸い穴は空気の流れが均一だから、綺麗な輪になる。でもハート型にすると、空気の流れが乱れて、内側のくぼみのところで渦が壊れちゃう。だから、煙もハートにはならずに、ただのモヤッとしたかたまりになるだけなんだよ」

 「へえ」と久世さんが素直に感心する一方で、夏目さんは一気に興味を失くしたようだった。

「なーんだ。ハート型になるなら、あとでカレピと一緒に写真撮りに来ようと思ったのに」
 
 まだ何か話を続けそうな真田君をかわすように、「ねぇねぇ」と僕の袖を引く。
 真田君は一瞬だけ名残惜しそうな顔をしたが、すぐに作業をしている人たちのほうへ戻って行った。

「橘平君は休憩はしないの? 他のクラスはもう回った?」

「うちはほとんど生徒の知り合いしか来ないし、知り合い来ない人はみんな適当に抜けてる感じ」

「じゃあさ、時間あるなら、このあと伊緒莉(いおり)と一緒に回らない?」

「ちょ、ちょっと、美羽(みう)!」

 久世さんが慌てて口を挟んできたから、僕を誘うことは想定外だったようだ。

「私、このあと、カレピと合流する予定で、咲月も桐生君と回ってるでしょ。伊緒莉が一人になるから、橘平君もこれから回るところなら、一緒にどうかなと思って……」

「神楽君の迷惑になるでしょ!」

 かすかに頬を赤らめた久世さんは、嫌がっているというより困っているように見える。

「迷惑とかじゃないけど……、僕がいるより、一人のほうが久世さんも気楽だろうし……」

 咲月は桐生君と回っている――その言葉が頭にこびりついていて、あまりよく考えずに返事をした。

「そんなことないっ……です」

 きっぱりと言い切った久世さんが、何故か最後に敬語を付けたし、顔を俯かせる。

「じゃあ、決まりね」

 夏目さんの鶴の一声で決まった感じになってしまった。
 いいんだろうかという目で真田君を見やると、煙たそうに手で「シッシッ」と追い払う仕草をされる。
 真田君は既にお昼休憩を済ませていて、僕もそろそろと思っていた。二日目の午後となり見学の人もまばらになってきていたため、久世さんにうちのクラスの展示を一通り紹介したあと、真田君に「1時間くらい離れるね」と断って教室を出た。
 



 自分の教室にいると忘れそうになるが、うちの文化祭は外部の人たちも自由に来場可能なため、毎年かなりの賑わいを見せるという。
 廊下も教室も人で溢れ返っていて、普段の光景と違い過ぎて圧倒される。
 そこかしこに漂う甘く香ばしい香り。廊下には手作りのポスターや立て看板が並び、開け放たれた窓から、体育館で行われているステージイベントの音楽が涼風に乗って流れてくる。

「久世さんはお昼食べた?」
「私もまだ」
「何か食べたいものとかある? どこも混んでるから並ばないといけなさそうだけど」

 昨日は一人だったから並ぶ気にはなれなくて、食欲もなかったので自動販売機で野菜ジュースを買ってきてそれで済ませた。今日もそうしようと思っていたけど、久世さんも食べていないのなら、そういうわけにもいかない。
 プログラムに載っているフロアガイドと睨めっこしていたら、久世さんが「それなら……」と遠慮がちに切り出した。

「テイクアウトならそんなに待ち時間かからないから、神楽君がよければ、何か買ってきて別の場所で食べるのはどう?」


 ホットドッグを購入し、久世さんに連れて行かれたのは、二年生のラウンジだった。そこでは文芸部がブックカフェをやっていて、飲み物を注文すれば食べ物の持ち込みは自由らしい。久世さんが文芸部というのは、勉強会のときに聞いた記憶がある。

「ブックカフェといっても、置いてある本は部員の作品ばかりだから、つまんないかもしれないけど……」

「そんなことないよ。同じ高校生が書いた話って興味ある。でも、よかったの? 久世さんはここにある本、全部読んでるでしょ? 他に回りたいとこあったんじゃない?」

「私も人混みが苦手だから、昨日もここで休憩したの。でも、神楽君のクラスの出し物には興味があって、行ってみたいって言ったら、美羽が余計な気を回しちゃって、ごめんね」

 久世さんが肩まで伸ばしたストレートの黒髪を揺らし、肩をすくめるように笑ってみせた。

「前に、神楽君も、子供の頃から本が好きだったって言ってたから……。ここのことも本当は紹介したかったの。だからつい、便乗して連れてきちゃった」

「一人では来る勇気がなかったから。誘ってもらえてよかった。ありがとう」


 テーブル席は全部埋まっていたので、カウンター席にホットドッグを置いて場所を確保し、飲み物を注文しに行った。烏龍茶を注文しお金を払おうとしたが、「私が誘ったんだから」と部員割で僕の分まで久世さんが払ってくれた。

 作品の展示コーナーには見本誌が置かれていて、自由に席まで借りて行って、飲食しながら読んでいいことになっている。書店に並んでいてもおかしくないようなプロ級の印刷物もあれば、いかにもお手製っぽい、家庭用コピー機で印刷しホチキスで綴じただけのものもある。
 僕はその中の一冊――繋がれた手のイラストが描かれたA5サイズの薄い冊子を手に取った。手の大きさには微妙に差があり、男女とも、同性同士とも取れる。
 そのまま席に持ち帰ろうとすると――。

「その本で本当にいいの?」

 久世さんが遮るように口を出してきた。

「あ、ごめん。やっぱり、自分で書いた話を目の前で読まれるのは嫌だったかな?」

「な、何で私が書いたものってわかったの!?」

 みるみるうちに久世さんの顔が赤くなっていく。

「ペンネームだよ。『生瀬(いくせ)りお』って『久世伊緒莉(くぜいおり)』のアナグラムでしょ」

 『ぜ』を『せ』に換えて『くぜいおり』の文字の順を並べ変えると『いくせりお』になる。
 心エコーのとき、ゼリー越しに胸を撫でる機器から意識を逸らすために、そんなことばかり考えていたから、すぐに気が付いた。

「文芸部以外、誰にも気づかれたことなかったのに……。さすが『おにぃ』だわ」

 展示ブースの前でいつまでも立ち話するのは悪目立ちしそうなので、久世さんを視線で促し、本を手に席へと戻る。

「さすが『おにぃ』?」

 窓側に設置されたカウンター席へと戻って来て、椅子に座りながら、僕はおうむ返しした。

「咲月がいつも神楽君のこと自慢してるから、つい」

 まさか、という顔をすると、久世さんがふふっと上品に笑う。

「たぶん本人は自覚してないけどね。何かにつけて『おにぃなら』って言うのが咲月の口癖なのよ。『門限を5分過ぎただけで電話かかってくる』って愚痴るのも、一人っ子の私には自慢してるようにしか聞こえないわ」

 話を聞きながら、僕は烏龍茶で喉を潤した。

「私ね、本当は桐生君のこと、ちょっと苦手だったの」

 「え?」と思わず声を漏らしてしまった。
 なぜ急に桐生君の話になるのだろう。
 動揺を気取られぬようさりげなく久世さんの本に視線を落とし、耳を傾ける。

「だから勉強会に誘われたとき、ちょっと迷ったんだけど、咲月の自慢のお兄さんに会ってみたいなと思って、それで。でも、神楽君といるときの桐生君、教室にいるときとは違ってて、びっくりした。あのあとの女子会で、咲月も、私が思ってたのと同じこと言ってて。『おにぃといるときの桐生君、昔の桐生君みたい』って言ったときの咲月、悔しそうだけど嬉しそうだった」

「そうなんだ……」

 呟いてまたお茶を啜る。
 久世さんはもしかして僕と桐生君の関係も、咲月から何か聞いているのだろうか……。
 横目でこっそり窺ったが、控えめにホットドッグを頬張る横顔からは何も読み取れなかった。

「咲月ってもしかして、中学の頃からずっと桐生君のこと好きだったのかな?」

「私は美羽ほど恋バナしないからはっきりと聞いたことはないけど……」

 久世さんは考え込むように少し間を置き、言葉を続ける。

「それまでは憧れっぽかったのが本気スイッチが入ったように見えたのは、あの勉強会からかなぁ……。あ、噂をすれば、あれ、咲月たちじゃない?」

 言われて、窓の下の中庭を見やる。2年生のラウンジは2階にあり、カウンター席からは中庭が見下ろせるようになっている。

 中庭ではダンス部がパフォーマンスしているところで、人だかりができていた。人混みに紛れないよう、咲月の背に手を当て歩く桐生君は、満員電車の中で僕をかばってくれるときと同じに見える。二人は久世さんたちと違って制服に着替えておらず、執事とメイドの衣装を着ていた。

 付き合いたての初々しいカップルにしか見えない。
 胸に渦巻く苦いものを紛らわせるために、僕もホットドックに齧りついた。

「咲月、ずっと『後夜祭の花火を桐生君と見たい』って言ってたから。願いが叶いそうでよかった」

 久世さんの話す声が、中庭から聞こえてくる軽快な音楽のように、遠くに感じられる。
 ホットドックの味はわからなかった。






 展示の撤収作業を終えて校舎の外に出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。
 昇降口を出た人の波は、後夜祭が行われる第一グラウンドへと向かっている。校舎の明かりに照らされた顔には、一様に、クラスメイトと団結して二日間を乗り切った充実感が滲んでいた。
 僕はその波からそっと離れ、帰路についた。

 この一週間、いつもより早く家を出て、帰りも遅くなる日が続いていた。さすがに疲れが溜まっている。今は一刻も早く家に帰り、夕食も食べずに爆睡したい。
 考えなければいけないことがあるような気がするが、疲れのせいか、脳がそれを放棄していた。
 僕が考えたところで何かが変わるわけでもない。
 答えを出すのは桐生君で、明日になれば結果がわかる。文化祭が終わったあとも咲月の機嫌がよかったら、そういうことだろう。

 胸の奥にもやもやと燻る、後ろ髪を引かれるような気分を追い払うために、僕はいつもの‟おまじない”を唱えた。

 ――いつでもあるものなんて、何にもない。

 どうせいつかは失くなるものなら、最初から望まなければいい。

 同じ言葉を繰り返し自分に言い聞かせながら、重い足を引きずりバス停へと向かった。


 後夜祭は自由参加で、参加できるのは学内の人間だけだ。バス停には、後夜祭に参加しない生徒や外部からの見学者が並んでいたが、それでも一台のバスに乗り切れる程度の列で、安堵する。
 文化祭中は臨時バスが出ているらしく、まもなくしてバスが見えてきた。
 臨時バスは学校と駅とを往復するだけなので、反対車線から来て、正門前のロータリーでUターンする。速度を緩めたバスが右折サインを出し、ロータリーに入るために一旦止まった、そのときだった。

 ドン――、と大きな音が背後で響いた。

 振り返ると、塀の向こうの夜空に、絵の具を散らしたような光の残像が広がっていた。一瞬で闇に溶けて消え、すぐにまた、紫色の光の花が咲く。遅れて、ドン、という重低音が届く。

「花火、ここからも見えるじゃん。ラッキー。どうする? バス来たけど、少し見ていく?」
「えー、いいよ。花火なんて、いつでも見られるじゃん。後のほうが混むし、これで帰ろう」

 前に並んでいた女子たちの会話が聞こえてくる。
 その声を掻き消すように、しゅるる――、と細い尾を引いた火の玉が空へと上がり、金、赤、緑、と色とりどりの花を咲かせては音を響かせる。

 いつか見た光景を思い出した。
 夜のプレイルーム。瞳をキラキラと輝かせながら、窓の外を眺める子供たち。
 「わぁ、綺麗」「今の大きかった」とはしゃぐ声までもが鼓膜によみがえる。

 あのとき一緒に花火を見た子たちも、天国に行ったあの子も、今頃どこかであの花火を見ているといい。
 花火を見るたびにそう願い続けてきたのは、誰かがこんなふうに、後悔や言い訳にまみれて、花火を見ている姿でだっただろうか。
 誰もが、痛いことも苦しいこともなく、大切な人と夜空を見上げて、「綺麗だね」と笑っていてほしい――そんな願いではなかったか。

 愛する妻を亡くした灯台守や湊君があの言葉に託した思いは、希望も期待も持たないための予防線の張り方なんかじゃなく――……。


「あ、バスいる! ちょうどよかったー」

 正門から走って来た人たちが呆然と立ち尽くす僕を追い越していく。
 バスに乗らないと――そう思うのに、足に何か重い物が絡みついているかのように、身動きが取れなかった。
 やがて背後でドアが閉まる音がし、エンジン音が遠ざかっていく。
 その間も、僕の視線は夜空に釘付けになっていた。

 会いたかった。

 会いたい。
 顔を見たい。

 桐生君に会いたい。
 無性に、とめどなく、思いが込み上げてくる。

 僕のことを、『二人で一緒に考えながら進んでいく相手』に選んでくれた。
 手遅れでも、『ありがとう』と、『僕も同じ気持ちだった』と、伝えたかった。

 でも、「咲月、ずっと『後夜祭の花火を桐生君と見たい』って言ってたから」という久世さんの言葉が、僕をその場から動けなくさせる。

 せわしなく弾け続ける光と音の中で、僕一人が時間を止めて、世界から置き去りにされているようだった。

 

 花火が止んだタイミングで、背中で音がする。
 携帯の振動音だった。
 無視しようと思ったけど、しつこく震え続けるため、もしかして、母が心配してかけてきたのかもしれないと思い、リュックからスマホを取り出した。

 発信者を見て指の動きを止める。
 母ではなく、咲月からだった。

 このタイミングでかかってくる理由は一つしか考えられない。
 無視したかったけど、それを聞かないことには、ここから動けそうにない。

 一度大きく深呼吸し、通話をタップして耳に当てた。

『ちょっとおにぃ。後夜祭に出ずに帰る気?』

 僕が喋るより先に、そんな声が飛び込んでくる。
 もしかしてどこかから見られているのだろうか。そう思って辺りを見回したが、見える範囲に人の姿はなかった。

『何でわかったんだ?』

『何年一緒にいると思ってんの。おにぃの行動パターンくらいわかるよ』

『僕のこと、何でもわかってるみたいに言うな』

『お互い様なんだからいいじゃない』

 話している間にも、花火が一つ、また一つと上がっては、夜空を明るくする。

『おにぃに一応報告しておこうと思って』

 前置きされ、僕は身構えた。

『私、桐生君と正式につき合うことになったから』

 ヒュルヒュルヒュル――……パッと開いて、ドン。

 今の、すごい大きかった。

『ちょっと、おにぃ、ちゃんと聞いて……』

『よかったな。おめでとう』

 無理なく、言葉が舌から滑り落ちる。

 機嫌のよさから、そういうことだろうとは覚悟していた。
 実際に聞かされて、胸を搔きむしられるよりも、「よかった」と思えている自分に、ホッとした。

 色鮮やかな光の花がさっきより滲んで見える理由が、嬉し涙なのか悔し涙なのかはわからないけれども。
 でも、不思議と、さっきまでより綺麗だと思える。
 きっと、咲月に「フラれた」と言われるほうが、どうすればいいかわからなかった。

 しばらくの間、咲月から返事はなかった。

『なに……余裕ぶってるの……』

 やがて聞こえてきた声は、かすかに震えているようだった。

『余裕ぶってるわけじゃないけど……、でも、桐生君の傍に誰かがいるとしたら、咲月が一番いいから。その気持ちは、嘘でも強がりもない』

『おにぃのそういうとこ……きらい…………』

 鼻を啜る音に、嗚咽まで聞こえてくる。

『でも……そういうおにぃだから……大好き…………。おにぃのこと好きな桐生君が好きなんだから……やる前から結果はわかってたよね…………』

 明らかに泣いているようだった。言ってることは支離滅裂で、よくわからない。

『咲月、僕のことは気にしなくていいから。電話切るぞ。門限には遅れるなよ』

 そう言って電話を切ろうとしたのだが。

『私は1週間、全力出したし、フラれるってわかってて告白するの、すっごいすっごい勇気がいったんだからね!』

 急に咲月の声が大音量になり、慌ててスマホを耳から遠ざけた。

『いつまでも病気を理由に逃げてる兄貴なら、尊敬するの、今日でやめるから!』

『え? おい、咲月?』

 最後は泣き声混じりでキレられ、そのまま一方的に通話を切られた。

「な……なんなんだよ。いきなり……」

 わけがわからず、混乱しているところに、正門のほうから誰かが走る足音が近づいて来る。

「橘平!」

「……桐生……君?」

 息を切らし現れたのは、桐生君だった。


「な、んで……」

 訊ねる声は、かすかすに掠れていた。

「なんでって、妹と一緒にいるのは、後夜祭の花火見るまでって約束だったから」

「え?」

 呼吸を整える彼の顔を、まじまじと見つめる。

「でも、正式につきあうことになったんだよね? 普通は最後まで一緒にいるんじゃないの?」

 咲月が、ハート型の花火の話をしていたことを思い出した。ぼんやりしていたからもしかして見過ごしたかもしれないけど。それらしき形のものはまだ上がってないように思う。
 絶対に咲月は、キスのジンクスに期待しているだろう。 

「妹のことは、正式に断ってきたぞ。文化祭まで彼女として扱って、それで気持ちが動かなかったら諦める、つってたから。これで、お前も納得できるか?」

「え?」

「あの夜……、妹に見られた日の夜……、妹から連絡があったんだ。どうせ今のままじゃ、お前はいつまでもうじうじ悩んで答えを出せないだろうから。一週間、自分を彼女見習いにしろって。自分が全力で頑張って、それでも俺の気持ちが変わらなかったら、お前も納得するだろうからって」

 さっきの咲月の電話に始まり、今の桐生君の説明。
 どういうことかなんとなく頭では理解できる。
 さっき、「正式につきあうことになった」と言ったのは、咲月が嘘をついたのだろう。理由はわからないけど。ただ、現実感が追い付かない。

「僕……やっぱり咲月には敵わないな……」

 呟くと、桐生君が眉間に皺を寄せた。

「今の話聞いた感想がそれ? 俺の忍耐力に感動するところじゃねーの?」

 その言い方がおかしくて、プッと吹き出してしまった。
 気を取り直して、僕は桐生君と向き合う。

「桐生君……。僕、桐生君のことが好きです」

 自分でも驚くほどするりと、その言葉が口をついて出た。
 軽く見開かれた切れ長の目は、すぐに優しく細められる。

 言葉にして初めて、好きという思いの大きさに、胸がいっぱいになった。
 桐生君が好きだという気持ち、好きになってくれてありがとうという気持ちで胸がいっぱいで、続けて言おうとした言葉が喉につかえる。

 何で僕なんだろう。僕でいいんだろうか。
 そんなことばかり考えていた。
 でも、恋ってもっと単純でいいのかもしれない。

 大好きな花火を、一緒に見たいと思った。
 そんな時間が、少しでも長く続けばいいと願っている。

 人生にはいつでもあるものなんて、何にもない。
 だからこそ、この一瞬一瞬を大切にしたい。

「桐生君、僕を、『二人で一緒に考えながら進んでいく相手』にしてくれませんか?」

 一瞬、桐生君の顔が泣きそうに歪み、そのまま口角を上げて、泣き笑いみたいになった。
 両腕が伸びてきて、かき抱かれる。
 6日触れていないだけなのに、彼の匂いや温もりが、すごく懐かしかった。

 嬉しい気持ちが膨れ上がり、瞬間、ぶわりと視界が歪んでいく。
 大きな手が、感触を確かめるように、背中や後ろ髪をせわしなく撫でる。

 桐生君の肩越しに、また一つ、シュルシュルシュルと火玉が上がる。ピンク色の花火。

「あ……」

 ――ハート型の花火。

 そう思ったときには、視界に影が差し、唇にあたたかいものが触れていた。