そのキス、イエローカードです!


 湊君の家に行った翌朝、いつものように地元の駅で待ち合わせしていた桐生君は、髪を切り、スポーツ刈りに近い、さっぱりとした髪型にしていた。
 それまでの少し長めの髪型も、大人びていてすごく似合っていたけど、短髪だと凛々しさが際立ち、爽やかさが増す。
 中学の頃の彼に戻ったようで、懐かしくもあり、直視できないほどに新鮮でもあった。

 E組の桐生嘉晴が髪を切った――たったそれだけのニュースが昼休みには特進クラスにまで伝わってきたのだから、やはり中学の頃同様、桐生君の人気は相当のものらしい。
 その日の昼休み、僕は彼から、『入部届出してきた』というメッセージをもらい、翌日には『桐生嘉晴がサッカー部に入った』というニュースが学年を騒がせることになった。
 
 登校中に桐生君から聞いた話によると、現在、サッカー部は、高校選手権という最も大きな大会の県予選を戦っている最中らしい。強豪校のうちの学校には5軍まであり、練習相手にもなれない4軍、5軍は、この時期はほとんどボール拾いなのだそうだ。いくら中学の頃は活躍していたとは言え、やめて二年以上が経っているため、彼も当然、5軍からのスタートとなる。
 「だったら、3年生が引退した後で入部したほうがいいんじゃないか?」と言ったところ、桐生君は「見るだけでも勉強になるから」と笑っていた。

 彼が練習に参加し始めたため一緒に帰れなくなったが、今は文化祭前で放課後はそれに向けた準備もある。1時間ほど居残りした後、帰りにサッカー部のグラウンドまで少し遠回りし、桐生君はあの中で頑張っているんだなと遠目に眺めるのが楽しみの一つになった。

 湊君の家に行った日、桐生君から告白のようなものをされたが、今のところ、登校時以外は二人きりで会う機会もないため、普通の健全な友人関係が続いている。
 ただ、満員電車で僕が押し潰されないよう、さりげなくガードしてくれるときなんかは、『お試し』という言葉を思い出し、毎回心臓が落ち着かなくなる。
 そんな、地に足のつかないようなふわふわした日々がしばらく続き、気づけば文化祭が週末に迫っていた。

 うちのクラスは理系らしく、体験型のサイエンスショーをする予定だ。
 僕のグループは参加者に段ボール製の空気砲を作ってもらう実験を担当している。
 段ボールの中に線香の煙を溜めて空気砲を打つことで、空気の流れを可視化させる。更に百均で買ったLEDのスポットライトにカラーセロファンを貼り光を当てれば、煙をカラーに演出できる。参加者が二人以上なら、空気砲を打つ人とそれを受ける人で写真撮影もできるし、空気砲を射的にして紙人形を倒せたら景品のお菓子をもらえるという、子供向けの遊びも用意している。
 そのシミュレーションをしていると、近くで赤キャベツを使った実験をしているグループの女子たちの声が聞こえてきた。

「ねぇねぇ。後夜祭で花火が上がるって本当?」

 「花火」という言葉に無意識に反応し、つい耳を傾けてしまう。
 山の上にあるうちの学校は周りに民家がほとんどない。私立高校で文化祭のための寄付もそれなりに集まるため、同窓会が主体となって、毎年、グラウンドで打ち上げ花火を上げているらしい。というのは、咲月から聞いた情報だ。

「そうらしいよ。うち、お姉ちゃんがここの3年にいるから、今年こそは絶対、文化祭までに彼氏作るって言ってた」
「彼氏? 何で? 3年って自主参加じゃないの?」
「毎年、花火の最中に一発だけ、ハート型の花火が上がるんだって。それが消えるまでにキスしたカップルは、永遠にラブラブってジンクスがあるらしいよ」

 いかにも女子が好きそうな話だなと思っていたら、隣からぼそっとした声がした。

「そんなの信じられるのも、今だけだな」
 
 黒縁眼鏡の下でチラリとこちらを一瞥したのは、僕と同じく、LEDライトの位置を調整していた真田君だ。僕より少し背が高く、ぽっちゃりしていて、直毛のきっちりとしたセンター分けの髪型が、どこか育ちの良さを感じさせる。
 特に仲がいいわけではないが、彼が時折り独り言のように喋る話をいちいち僕が拾うせいか、クラスの中では話をする機会が多い。

「でも、実際に結婚した先輩たちもいたらしいよ」

 それも咲月情報だ。女子特有なのか、あいつは部活にも入っていないわりに、なぜか学内の噂にやたらと詳しい。

「結婚したからって永遠にラブラブなわけないだろう? 金の切れ目が縁の切れ目だ。逆に金があれば、見た目がパッとしなくても人は寄ってくる」

 高校生らしからぬ即物的な話だが、女子の夢見心地な話よりは現実的だ。

「君も焦る必要はないよ。最後に笑うのは金を稼げる人間だから。蟻とキリギリスの蟻みたいに、今は努力して、後で何でも欲しい物を手に入れたらいい」

 最後はちょっと励まされた感じになってしまった。
 悪い人ではないのだが、ちょっと自分の価値観を押し付けがちで、陰で女子に敬遠されている理由もそこだと思う。

「そ、そうだね。僕も大成できるように頑張るよ」

 作り笑いで当たり障りのない返事をしたところで、急に女子の雑談が止み、教室内がしんと静まり返った。何事かと思って顔を上げると同時に、離れたところから声が聞こえてくる。

「橘平」

 入り口に立ち僕を呼んだのは、桐生君だった。


 悲鳴にも近い声が教室のあちこちで上がり、にわかに騒がしくなる。

「え? 何で? 何で桐生君がうちのクラスに来てんの?」
「『きっぺい』って神楽君のことだよね? 神楽君、桐生君と友達だったの?」

 背後で雑談していた女子たちは次々と質問を口にし、今まで冷めた恋愛観を語っていた真田君は、急にジロジロと値踏みするような視線を向けてきた。

「桐生君とは中学の同級生で、それで……。僕、ちょっと離れるね」

 誰にともなく言い訳をし、僕は腰を上げた。

「どうしたの?」

 再び教室がしんと静まり返り、やけに僕の声だけが浮いて聞こえる。
 背中にクラス中が聞き耳を立てているような気配を感じるのは、考えすぎだろうか。
 居たたまれなさがハンパないが、桐生君は周囲の目を気にすることもなく、日に焼け精悍さの増した顔に皮肉めいた微笑を浮かべ、僕だけに視線を注いでいる。
 
「昼休みにメールしたけど、見てないだろ? 今日から文化祭まで部活休みになったから、一緒に帰ろうと思って。もうすぐ終わりそう?」
「あ、ごめん。昼休みは購買部に買い出しに行っててスマホを見る時間がなかった。5時までだから、もうすぐ終わる」

 文化祭の準備にかける時間は遅くて17時まで。グループによって準備にかかる時間に差があるため、早く終わったところは終わっていないところを手伝うこと、と最初の話し合いで取り決めしている。教室の時計はもうあと1、2分で5時だった。

「じゃ、下駄箱で待ってる。ゆっくりでいいから」

 手を上げ去っていく桐生君に僕は慌てて声をかける。

「あ、桐生君。やっぱりラウンジで待ってて」

 終わってすぐに帰ったのでは、またクラスメイトたちの好奇の目に晒されてしまう。
 学年ごとの休憩スペースであるラウンジで少し時間稼ぎをして、みんなが帰った頃に下駄箱に行こうと思った。
 桐生君はOKという意思表示で背を向けたまま右手を上げ、親指と人差し指で輪っかを作ってみせた。

 室内に戻った途端、僕はグループの内外問わず、女子たちの質問攻めに遭い、結局は教室を出たのは5時を10分ほど過ぎた頃になってしまった。


「遅くなってごめん」

 ラウンジに行き、スマホを見ていた桐生君に声をかけ、揃って下駄箱へと向かう。

「部活が休みってことは、桐生君も今まで文化祭の準備をしてたの?」

「俺は地味に輪飾りとか作ってただけ。衣装も、男子は親父のベストとネクタイ借りる感じでいいって言われたし」

 今朝、桐生君は部のミーティングがあったため、僕を待たずに登校した。
 彼が今日から文化祭の準備に参加し、こうして僕と帰っているのは、昨日、サッカー部が試合に負けたからだ。

 高校選手権の県予選決勝は文化祭の二日目である11月の第二日曜日に予定されている。
 決勝まで残れば、サッカー部はベンチ入りメンバー以外の部員も、応援のため文化祭には参加できない。桐生君のクラスは文化祭でコンセプトカフェというものをするらしく、咲月は「桐生君の執事が見れないのは人類の損失だから、サッカー部、負けてくれないかな」などと、部員たちに聞かれたら袋叩きに遭いそうなことを言っていた。
 そんな呪い(?)をかけた人間が一人や二人じゃなかったのか、今年のサッカー部は文化祭一週間前の昨日、準決勝でまさかの敗北を喫してしまった。最後の大会のため、3年生はここで引退することになる。代替わりのタイミングで文化祭前ということもあり、滅多にない休息期間として一週間の休みが与えられたらしい。

 三年間、部活を頑張ってきた三年生たちには申し訳ないが、桐生君と久々に一緒に帰れることは、正直言うとちょっと嬉しい。
 5時を過ぎていたため帰りの電車は帰宅ラッシュに巻き込まれてしまったが、例の如く桐生君にさりげなく壁際へと誘導され、ガードしてもらったおかげでもみくちゃにされずにすんだ。

 桐生君とくっつくと変な気分になるし、身を挺して守ってもらうのは、桐生君に胸キュンする女子の気持ちもわかりすぎるほどにわかる。でも、同時に、男として圧倒的な敗北感も味わうことになる。そんなプライド、とっくの昔に放棄したと思っていたのに。

 桐生君といる以上、僕はこれからもずっと、憧れの人が一番近くにいる喜びや優越感と、手の届かないものを永遠に追いかけ続けているような渇望と、同時につきあっていくことになるのだろう。いつかはそれらが融合し、引け目や劣等感を感じなくなる日も来るのだろうか……。

 ……恋って難しい。

 改札を出て歩いているうちにそんな考えが浮かんできて、「いやいや」と考えを打ち消した。
 恋をする前に、考えなければいけないことがある。

 たとえお試しであっても、男女交際みたいなおつきあいを最終目標にするのなら、そのことを咲月に隠したまま付き合いを続けることは彼女への裏切りになる。かと言って、本当のことを言えば、咲月を傷つける。

 僕は桐生君のことが好きだ。離れていれば顔が見たくなるし一緒にいれば心が浮き立つ。
 桐生君が女子といるところを見るとギュッと胸が締め付けられる感覚は、友情では説明できないこともわかっている。
 でもそれは、咲月を傷つけてまで優先したい気持ちだろうか……。

 桐生君に告白されてからの三週間の間、ずっとそんなことを考え続けていた。
 もし、お試し期間を続けた最後に、「やっぱりそういうのじゃなかった」という結末が待っているのなら、お試しを続けるだけ時間の無駄な気がする。早く結果がわかるほうが僕の傷も浅くて済むし、今なら咲月を傷つけずに済む。

 駅を出て並んで歩く道すがら、「練習はどう?」とか「昨日の試合、残念だったね」と当たり障りのない会話を続けながら、気持ちは別のことに囚われていた。
 やがて、僕の家へと向かう分かれ道に差し掛かったとき――。

「桐生君」
「橘平」

 二人同時に呼びかけていた。

 「なに?」と訊ねる声も、再び重なる。
 今度は間髪入れずに「どうぞ」と言われて、気まずさを抱えながら先に口を開く。

「前に……湊君ちに行った帰り道で言ってたこと、今も変わってない?」

 桐生君はわずかにムッとした顔する。

「そんなに簡単に変えられるんなら、最初から言ってない」

「そうだよね。ごめん」

「あ、いや……。別に謝らせたかったわけでは……」

 神妙に謝ると、桐生君は困ったように言い淀んだ。

「もし今日、このあと時間があるなら、うちに寄らない?」

 気を取り直し、努めて軽い調子で言う。それでも、内心では緊張で声が震えそうだった。

「見てほしいものがあるんだ」

 すぐには返事はなく、僕は言葉を畳みかけた。
 やがてたっぷりと間をおき、答えが返ってくる。

「さっき言いかけたの、俺も同じこと聞こうとしていた。家に寄っていいかって。でも……、寄ったら、話をするだけじゃすまなくなりそうだけど、本当にいいんだな?」

 一瞬絡んだ視線は、探るような目をしている。

「……いいよ」

 視線は逸らしたけど、きっぱりと返事をできたのは、照れくささ以上に別の思いがあったからだ。
 どうせアレを見たら、桐生君はそんな気が起こらない。

 自分から言い出したことなのに、それでも、家へと帰る足取りは急に重くなった。


 時刻は6時前で、この時間、両親はまだ帰宅していないし、高校に入ってからというもの、咲月が学校のある日に7時前に帰って来たことはない。

「お邪魔します」

 桐生君が礼儀正しく挨拶し、靴を揃えて廊下に上がる。

「家の人はまだ帰ってないみたいだな?」

「うん。咲月も、7時すぎないと帰ってこない」

 これからしようとしていることへの後ろめたさから、無意識にしばらく二人きりであることを匂わせてしまった。

「何それ。誘ってるってこと?」

「ちっ、ちがっ! そんなんじゃない!」

 自分でも、内心では同じことを感じていたから、思わず大きな声が出てしまう。

「ただ、確かめたいことがあって……。お茶煎れてくるから先に部屋に行ってて」

 睨みつけると、桐生君は愉快そうに僕の髪をくしゃりとひと撫でし、階段へと向かった。

 キッチンで一人になり、ふぅ、と大きく溜め息をつく。
 追試の日、桐生君と初めてまともに話をしたときくらいに緊張している。
 胸に手を当てると、いつもより早い心臓の拍動が掌に伝わってくる。
 湊君の家からの帰りに、バス停で抱きしめられたときのことを思い出した。あのときと違って、今は締め付けられるような重苦しさも感じる。

 経験則で言えば、今で、きっと3METs(メッツ)くらい。情熱的なキスと同じくらいの運動強度。
 これが僕に許されている限界で、これ以上心臓を酷使すれば、酸素がうまく回らなくなって息苦しくなる。

『初めてなんだ……。自分から好きになって、付き合いたいと思った人間は。だから時間がかかってもいいから、真剣に考えてほしい』

 あのときの桐生君の言葉と、抱きしめる腕のあたたかさや力強さを思い出すと、ぽっと熱が灯ったみたいに、胸の重苦しさが楽になる。
 桐生君と一緒に帰らなくなったこの三週間、何度も、あのぬくもりを思い出した。夢にさえ見たことがある。そのくらい、あの場所が恋しかった。
 
 咲月を傷つけてまで、前に進むかどうか。
 先に告白させた上に、その決断まで、彼に委ねようとしている。
 こんな卑怯で情けない僕を、どうして桐生君は好きだと言ってくれるのだろう。
 
 そんなことを鬱々と考えながら二人分の紅茶を煎れ、再び大きく深呼吸して、お盆を手に二階へと向かった。


 ドアが開け放たれたままの部屋に入ると、デスクの椅子に腰かけていた桐生君が腰を浮かせ、お盆を受け取って机に置いてくれた。
 ベッドとデスク、それ以外は本棚が壁のほとんどを占めている狭い部屋では、床の上かベッドしか座る場所がない。
 桐生君が僕を送って来てくれて家に寄ったときに部屋が見たいと言われて、通したことはある。でも、狭い部屋で二人きりという状況が落ち着かず、いつもすぐにリビングに降りていた。
 思えば部屋で話をするのは初めてで、ドアを閉めたときの閉塞感を思い出し、ドアは開けたままにしておいた。どうせあと1時間は誰も帰ってこない。

「ごめん。クッション用意してなかったから、ベッドに座ってもらってもいい?」

 クッションのない床の上に桐生君を座らせるわけにいかず、とりあえずそう声をかける。
 桐生君は何故か、僕の前に立ったまま動こうとしなかった。

 桐生君の腕が上がり、僕のほうへと伸びてくる。ハグをされる気配を察し、僕は自身の体に触れる前にその手を取り、そっと押し戻した。

「先に桐生君に見てほしいものがある……。僕の……胸の傷痕…………。気持ち悪いと思うようなものだから、嫌ならやめておく」

 桐生君が息を呑んだのがわかった。
 軽く眉を上げ、目を細めるようにして静かに僕を見つめる顔には、葛藤が見て取れる。すぐに返事がないということは、見たくない気持ちもあるということだろう。でもそのためらいは、子供の頃、クラスメイトたちから向けられていた、異質なものへの拒絶とは異なる気がする。

 ふいにその表情が険しくなり、眉間に縦皺を寄せた桐生君が、不貞腐れたようにベッドに腰を下ろした。

「見るのはいいけど、そのあとのことは俺は保証しないからな」

 態度と同じように、桐生君の声にはどこか突き放すようなニュアンスがある。
 手放しで受け入れられたわけではないことに不安を覚えつつも、僕は制服のシャツをスラックスから引っ張り出し、ボタンに指をかけた。

 ――大丈夫。桐生君は途中で見たくないと言うことはあっても、小学生のようにあからさまに気持ち悪がることはないはずだ。

 頭ではそう思っていても、緊張で、かじかんだように指はうまく動かせなかった。

 小学校の頃、うっかり下着を着るのを忘れて行って、体育の着替えのときに胸の傷を見られたことがある。その場にいた男子全員から露骨に気持ち悪がられて、不覚にも僕は泣いてしまった。
 そのことを知った咲月が、他の女子たちも巻き込んで、僕に「改造人間」というあだ名をつけた男子を完膚なきまでに言い負かし、逆に泣かせた。その一件でしばらくの間、男子対女子でクラスが分断されていた。

 ボタンを一番上まで外すと、シャツの前がはだける。
 ベッドに座っている桐生君からは、目線とほとんど同じ高さに僕の胸元がある。
 僕は覚悟を決め、そろそろとアンダーシャツを上げていった。

 浮き出た肋骨の上、筋肉の薄い平らな胸に、うっすらとピンクに染まった皮膚の盛り上がりが見える。それは胸の真ん中の骨に沿って縦に走り、左右には点々と太めの針の痕が等間隔に並んでいる。

 もう二度と、医療者以外の誰にも見られたくなかった。ましてや好きな人には。
 でも、今よりもっともっと好きになって、これを見せてがっかりされるくらいなら、今のほうが傷は浅い。桐生君の時間も無駄にしなくてすむ。

 桐生君の長い睫毛がかすかに揺れる。
 まっすぐに注がれる眼差しに、嫌悪の色はない。ただ、傷痕を通して何か別のものを見ているようにも、あるいは慰めの言葉を探しているようにも見える。
 何も言わないことが彼の返事だと思った。

 服を着ていれば、ハグやキスはできるのかもしれない。
 でも、女性のような胸の膨らみもなく、男らしさもない、ただ醜い傷があるだけの体に、それ以上のことをしたいとは思わないだろう。

 ――これでわかっただろ? 僕とは、女の子とするようなことはできない。

 そう言おうと思うのに。何か重い物が喉に詰まったみたいに、言葉が出てこない。
 「どうせ駄目なら、今のほうが傷が浅い」「桐生君の時間も無駄にしなくてすむ」と自分に言い訳しながら、心の片隅では自分が期待していたことを知った。
 相手も同じ気持ちだったら、二人で一緒に考えながら進んでいく――桐生君となら、それが叶うような気がしていた。

 口を開けば洩らしてはいけないものが込み上げてきそうで、キュッと唇を引き結ぶ。捲り上げていたアンダーシャツをそっと下ろそうとして……。桐生君の片手が、僕の両手をまとめて掴んだ。

「ここまでされたら、誘われてるってことでいいんだよな?」

「へ……? い、いや、なに言って……」

 先ほどまでの、何かを推し量るようだった双眸が、今はどこか余裕がなさそうに見える。
 「誘われてる」という言葉の意味を理解し、自分の大胆さが急に恥ずかしくなった。

「ち、ちがっ……。傷を見せたのは、こんな気持ち悪いものを見たら、桐生君もさすがに目が覚めると思って……」

 両手を掴んでいない空いているほうの手が伸びてきて、今度は口を塞がれた。

「橘平が赤ん坊の頃から頑張ってきた証だろ? それをそんなふうに言うのは、本人でも許さない」

 力強い眼差しに、不安や劣等感が押し流されていくのがわかる。
 胸がじんとあたたかくなるのは、「改造人間」と言われて泣いてしまった子供の頃の自分まで、ぎゅっと抱きしめられたような感覚だった。
 口を塞いでいた桐生君の手が、離れていく。

「傷、触ってもいい?」

 嫌ではないけど。そんなとこ、医療者以外に触られたことはないから、恥ずかしい。
 「いい」とも「いや」とも言えない困り顔で見つめ返していたら。

「拒絶しないなら、『OK』だと都合よく判断するけど、いいか?」

 伝家の宝刀であるその言葉を持ち出し、桐生君が手を伸ばしてきた。
 僕の体温より少し冷たい指先が、薄く盛り上がった傷痕の縁にそっと触れる。くすぐったくて、ピクっと体が震えた。
 指先が、下から上へと傷の表面をなぞる。

 嫌ではなかった。
 たまらなく恥ずかしいけど、自分の体が、彼に触れられることを喜んでいるのがわかる。心臓はトクトクと高鳴るように打ち続け、彼の指先を追うように、肌の奥が甘く疼く。

 傷のてっぺんにたどり着いた指は、そっと横へと滑り、体を固定するように、脇の下へ手を差し入れてきた。

 「――なに?」と思ったときには彼の体が前屈みになり、僕の胸へと顔を伏せられていた。傷のある真ん中に、指とは異なるあたたかいものが触れる。

 傷痕に、キスをされている――そう思ったときだ。

「何やってんの?」

 入り口のほうから声がした。


 弾かれるように後ろに下がり、桐生君との距離を取った。捲れていたアンダーシャツを慌てて下ろし顔を向けると、開けっ放しの入り口に立っていたのは咲月だった。
 あからさまな侮蔑と嫌悪の込められた眼差しに、一気に血の気が引いていく感覚がする。

 どうして、こんな時間に咲月が帰って来るんだ?
 どこまで見られた?
 何て言い訳すればいい?

 愕然と目を見開いたまま、頭の中でぐるぐると考えを巡らせる。

「まさか、そういうんじゃないよね?」

 薄笑いを浮かべた顔は、頬が引き攣っていて、目は笑っていない。
 一触即発。一言でも言葉を間違えたら、何かがパンと破裂してしまいそうな。そんな危うい緊迫感が漂う。
 どうしようという気持ちだけが空回りし、この状況を説明する言葉が何も思いつかない。説明してよいのかもわからない。

「な……、なんで今日はこんなに早いんだ?」

 上擦った声で、ようやく、当たり障りのない質問を絞り出した。

「熊さんにしつこく聞いたら、桐生君がとっくの昔に彼女と別れていたことを教えてくれて、それで……。後夜祭の花火、一緒に見ようって誘おうと思ったのに……。桐生君、文化祭の準備終わったら、即行でおにぃの教室に行っちゃっうから……」

 咲月が瞳を揺らしながら、順を追って説明する。たどたどしい言葉は、どうにか自分の中の混乱を整理しようとしているように見えた。
 僕と桐生君が一緒に下校しているところをみかけて、家まであとをつけて来たということだろうか……。

「桐生君、久々に部活休みだからってクラスの人たちにカラオケ誘われたの、断ってたのに……。何でおにぃと一緒にいるの?」

 不安定に揺れていた視線が、再び僕たちへと定められる。

「違うよね? そんな関係なわけないよね? 桐生君がおにぃをからかってただけなんでしょ?」

「そ……」

 反射的に「そうだよ」と答えようとして、低く静かな声に打ち消される。

「少なくとも俺は、そういう意味で、橘平のことが好きだ」

 縋るようだった咲月の顔が、何かを堪えるように歪んで。
 その大きな瞳から透明の雫がぽろぽろと溢れだした。
 止めどなく溢れる涙を拭うこともせず、咲月が声を震わせる。

「冗談……だよね? ……だって、おにぃだよ? 男だし……、昔から女子に守られるくらい弱くて、鈍くさくて、胸もないし……、そんな……気持ち悪い傷まであるのに……」

「おいっ!」

 桐生君の怒気の混じる声に、咲月がビクッと肩を震わせる。
 僕は桐生君に向かって、力なく首を横に振った。
 
 辛辣な言葉に、傷ついてなどいない。そんなこと、本気で思ってないことくらいわかる。――でも、思ってもいない暴言をぶつけてしまうくらい咲月が桐生君のことを好きだったことに、僕は気づいていなかった。

 双子だからと誰よりも咲月のことをわかっているような気になって。どうせアイドルへの憧れのようなもので、桐生君にフラれたとしてもまたすぐに次の推しを見つけるに違いないと、心のどこかで彼女の気持ちを軽んじていた。
 その事実に、冷たい水を頭から浴びせられたような気分だった。

 咲月は涙を溜めた目で僕たちをキッと睨みつけると、踵を返し部屋を出ていく。直後、階段を慌ただしく駆け降りる音がし、勢いよく玄関のドアが閉まる音が階下に響いた。

 ふらつきそうになった体を、咄嗟にベッドから腰を上げた桐生君に支えられる。
 机にもたれかかり、桐生君の手をそっと押し戻した。

「桐生君、ごめん。今日はもう帰ってくれないか?」

「妹を探しに行くんなら、俺も行く」

「咲月がどこに行ったかはわかってるから、大丈夫」

 桐生君はしばらくの間、心配そうに僕を見下ろしていたが、「これは僕たち兄妹の問題だから」とわざと突き放した言い方をすると、不承不承といった様子で短く嘆息した。

「落ち着いたら連絡くれ」

 最後はそう言って僕の頭をぽんぽんと撫で、部屋を出て行った。



 服を整え外に出ると、あたりはすっかり夜の気配に包まれていた。
 歩道に並ぶ外灯の向こうに、細く削がれた月が、雲間から顔をのぞかせている。
 11月に入ったばかりの今は、寒いと思うほどではないが、夜は少し冷え込む。

 住宅街の中の公園。月並みだが、僕たちが家で兄妹喧嘩をしたり親に叱られたりして、避難する場所と言えばいつもそこだった。
 きっとここだとわかっていても、金木犀の黒いシルエットの向こうに、外灯に照らされ、ブランコに座った咲月の姿が見えたときは、ホッと胸をなでおろした。
 
 ザッ、ザッ、とわざと白砂を踏む足音を響かせ近づいていく。僕だとわかっているのか、咲月は俯かせた顔を上げようとはしなかった。明るく染めた髪に、光の輪ができている。
 彼女の隣のブランコに腰を下ろすと、ギギ……と金属が軋む音が、夜の静けさの中にひっそりと響いた。

 何をどう話せばいいのか……。
 ここに来るまでの間、頭を悩ませたけど、正解はわからなかった。
 ただ、ああなった理由については、誤解があるといけないから正しく伝える必要がある。

 しばらくゆらゆらと膝の力だけでブランコを揺らし、僕は意を決して口を開いた。

「さっきのは……、桐生君に、傷痕を見てほしいって僕から言ったんだ……。『やっぱ無理』と思われるのなら、早いほうがいいと思って……」

 「はっ」と鼻で嗤う声がする。

「なに本気にしてんの? 普通わかるでしょ。冗談だって。相手は桐生君なのよ? 女子に飽きたから、恋愛経験ゼロのおにぃをからかって遊んでるだけに決まってるじゃない」

 鋭利な刃物のような言葉とは裏腹に、彼女の抑揚のない声は、上滑りして僕の耳に届く。
 彼のことを知る前なら、そんな悔し紛れの嫌味を、言葉通りに受け取ったかもしれない。

「桐生君がそんな人なら、お前もあんなに必死になるほど好きになってないだろ」

「私のこと、何でもわかってるみたいな言い方しないで!」

 声を荒げた後で、ぐずっと鼻を啜る音がする。

「何で……。女の私が駄目で、男の橘平のほうがいいの? 意味わかんない……」

 咲月の泣き言を聞くのは久々だった。子供の頃から、泣き虫だった僕と違って、咲月は滅多なことでは涙を見せなかったから。
 胸がじくじくと痛むのが、同情なのか同調なのかは自分でもわからなかった。

「駄目ってことはないと思う……。僕と桐生君が仲良くなったのは、色々偶然が重なったからで……。同じタイミングで桐生君の傍にいたのが咲月だったら、今ごろ桐生君と付き合ってたのは咲月だったんじゃないかな」

 桐生君と話すようになったのは、彼が元カノと別れたがっているときに女装した僕と遭遇して、勝手に偽装彼女にさせられたことがきっかけだった。もし、あの場に居合わせたのが咲月だったならと考えたら、そのまま新しい彼女になる流れしか想像できない。桐生君も、咲月の顔は好みと言ってたし。
 
 ずっとそんなふうに思っていたから、つい正直に口に出してしまった。
 けれど、それは逆効果だったようだ。

「何それ。じゃあ、おにぃは運がよかったから桐生君に好かれたってこと? そんなこと言われて私が喜ぶとでも思ってるの!?」

 咲月の口調は再び荒くなった。

「だって、本当にわからないんだよ……」

 力なく呟き、僕は顔を俯かせた。ブランコのチェーンをぎゅっと握りしめる。

「咲月はブランコも鉄棒もかけっこも、いつも僕より上手くできて、我慢強くて面倒見がよくて、クラスのみんなに好かれてて……。僕が咲月に勝てるとしたら勉強しかなかったから、それだけは頑張ってきたけど……。お前より成績がいいからって、全然勝てた気がしない……」

 そもそも咲月は勉強に興味がないから、同じ土俵にはおらず、僕が独り相撲を取っているようなものだ。授業の予習復習に追われることもなく、毎日楽しく過ごしているように見える咲月のことは、その自由さも含めて、自分とは正反対の、人に好かれるタイプの人間だと思ってきた。

 昔、動物番組でチョウチンアンコウの生態を知ったとき、雌に寄生して生きるという雄を僕みたいだと思ったことを思い出した。僕と咲月は二個の卵子から生まれたのではなく、僕は母のお腹の中で、咲月の一部が剥がれて僕になったのではないか――子供の頃は、双子の妹に比べてあまりにも人として不完全な自分自身のことを、本気でそんなふうに考えたこともあった。

 友達としても恋人としても、僕と咲月なら、誰もが咲月を選ぶだろうし、桐生君が僕といたいという理由は、どんなに考えたところでわからない。

「わかった」

 僕の情けない言い訳を一刀両断するように言い放ち、咲月はすくっと立ち上がった。僕はそろそろと顔を横向かせる。
 僕をまっすぐに見つめる咲月の目に、もう涙はなかった。

「橘平が本気で、私に何一つ勝てなくて、運だけで桐生君に好きになってもらったと思ってるんなら、私、もう遠慮はしないから。お試しでいいから、文化祭までの間、私を彼女見習いにしてって桐生君に頼んでみる」

 ――えっ……?

 と言ったつもりが、漏れたのは空気だけで声にはならなかった。

「桐生君が『少なくとも俺は』って言ってたってことは、あんたはまだ気持ちを伝えてないってことよね? だったら、私が頑張ってもいいでしょ? あとで後悔したって、遅いんだからね」

 険のある声で言い捨て、咲月は公園を出ていく。
 ほの白い外灯が作る影を残し、金木犀の影へと溶け込んでいく後ろ姿を、ぼくはただぼんやりと見送るしかなかった。


 その日の夜、僕は桐生君にメールし、咲月は近くの公園にいたことと、咲月のことも含めてちゃんと考えたいから、お試しの交際は一旦保留にしてもらいたいことを伝えた。桐生君からは「わかった」とだけ返って来た。
 そして、一夜明けた次の日の昼休み。「桐生嘉晴が同じクラスの神楽咲月とつきあい始めた」というニュースが僕のクラスにも届いたのだった。