Hop! Step! Jump!

「ケン兄! やり投げの本見せて!」
 自分の家に自転車を投げ捨てるように停めて、返す刀で向かいの家の玄関に飛び込む。自分の家より馴染んでいるかもしれない空気が、冷房の冷たい風に乗って鼻の奥を満たした。
「ちょっ、おまっ! 呼び鈴くらい押せって何度言ったらっ!」
「玄関の鍵かけてないってことは、来客歓迎ってことでしょ?」
「そうはならねえだろ!」
 靴を脱いでいるところに、一階のリビングにいるらしいケン兄──鈴旗絢士──の声が響いてきて、そんないつも通りのやりとりを交わしながら、二階にあるケン兄の部屋へと向かう。
 私より三つ上のケン兄の部屋は去年までは散らかり放題だったけど、大学二年生になった今年、ついに彼女ができると、私からすれば不自然なくらいに綺麗に整頓されるようになった。まあ、これまで読みかけの本がそのまま床においてあったりしたから、探し物がしやすくなったりで単純に歓迎なんだけど。
 部屋の一角を占める大きな本棚には、陸上競技の雑誌やトレーニング法などの書籍が、整理されてなおところ狭しと並んでいる。その中からお目当てのやり投げの指導書を取り出して、早速開いてみる。
「おい、明香。沙友里が来てたらどうすんだよ」
「沙友里先輩は、私なら別にいいって。わ、ありがと」
 ケン兄はブツブツと不平を零しながらも、グラスに入れた麦茶を持ってきてくれていた。陸上部の練習が終わった後、地獄のような夏空の下で自転車を漕いできたからとてもありがたい。
「あのな。沙友里が明香に文句言えるはずないだろ」
「そうなの?」
 氷の入った麦茶を半分くらい一気に流し込んでいると、ケン兄は半眼で呆れたように私を見ていた。
「沙友里に俺を紹介したの、明香だろ」
「別に私は気にしてないけどなー」
「お前が気にしなさすぎなんだって」
 沙友里先輩は、高校の陸上部で私が一年生だったときに三年生の先輩だった。沙友里先輩は大会などで時折見かけるケン兄に一目惚れしたとかで、それならばとケン兄の大学が市立競技場で練習するタイミングを沙友里先輩に伝えて少しだけ背中を押した。
 結果的にケン兄を大学まで追いかけていくような形になって、晴れて付き合い始めた。とはいえ、私がしたのは最初のきっかけくらいで、ほとんど沙友里先輩の頑張りだったと思う。 
「で、どうして急にやり投げ? 今はマネージャーだろ」
 ケン兄は私の手元の本を机越しに眺めながら、「投げ方は後半に載ってる」と補足してくれた。
「んー。なんか、陽汰が調子悪いみたいで」
「陽汰……ああ、八種競技の」
 ケン兄がポンと手を打つ。私と同じ二年生の陽汰は、陸上部のなかでもちょっと変わった「八種競技」という走、跳、投の計八種目をこなす種目を専門としている。
 ケン兄はその発展版みたいな十種競技というのを専門にしていて、各種目の本が揃ってるから、競技について勉強したい時はこうしてケン兄の部屋に来るようになった。本だけ読んでても跳躍以外は私にはよく分からないけど、ケン兄はどれでも実体験のコツを教えてくれる。
「今日の陽汰、マジでやばくて」
 いくつかある種目の中で、今日は投擲パートに混ざってやり投げの練習をしていた陽汰は絶不調で、投げたやりは前というよりは上に向かって飛んでしまい、顧問の上原先生から「今日はもう投げんな」とストップをかけられるくらいだった。
「というか、明香。三日前は高跳びの勉強してなかったか?」
 ケン兄の言う通り、三日前はこの部屋でケン兄から高跳びの踏み切りのコツを教わっていた。一週間前は短距離のスタートの姿勢。
「なんか、最近は全般的に調子悪いみたいで」
「俺も調子悪い時はあるけど、跳ぶのも投げるのも両方ってことはあんまりなかったけどなあ」
「そりゃあ、ケン兄の体は特別製だから」
 高校時代、八種競技で全国大会で活躍していたケン兄は、他の選手の悩みに共感することは難しいと思う。といっても、陽汰も今年のインターハイで全国まで進んだし、最後のチャンスとなる来年は優勝を狙えると思ってる。だから、この夏休みはできるだけ有意義に練習をさせてあげたい。
「ふうん、ずいぶん入れ込んでるんだな。いや、まあ、明香がマネージャーに転向するって言いだしたときからわかってたけどさ」
 特別製と言われたからか、ケン兄は満更でもなさそうな顔でため息をつくという器用な表情をつくっていた。
 私は中学まで幅跳びが専門としていて、自分で言うのもなんだけど筋は悪くない方だったと思う。
 私がマネージャーに転向すると決めた時、ケン兄は静かに「そっか」と頷いただけだったけど、その裏側でちょっとがっかりしてるのは感じていた。
「だって、陽汰が走ったり投げたりするのを見て、ビビって来ちゃったんだもん。この人がどこまで行けるのか、傍で見てみたいって」
 中学時代の大会で、陽汰が走ったり投げたりするのを見て、この人は陸上競技の為に生まれてきたんだって衝撃を受けた。
 そして、同じ高校の陸上部という形で再会したとき、なんだか運命みたいだなんて柄にもなく感じてしまって。
 だから、私は陽汰がより高みまで登れるように、その傍で応援ができるように、マネージャーという道を選んだ。
「まあ、明香がいいならいいけどさ。でも、どの種目も調子悪いなら、テクニックよりも故障とかほかの原因を調べたほうがよくないか」
「他の原因って?」
「んー、例えばメンタルとか」
 ケン兄は腕を組むけど、特に迷ったりする感じもなく口を開いた。もしかしたらケン兄にも似たような経験があるのかもしれない。
「メンタル、かあ。近くにいてあんまりそんな感じもしないけど……あっ」
 一つだけ、思い当たる節がある。夏休みに入る前、陽汰は幼馴染の女の子と喧嘩したらしい。美術部で、確か(すず)っていう名前の子。
 キリッとして大人びた感じの綺麗な女の子で、美術部ってことも含めた陽汰とは合わなさそうな感じだけど、まさか──まさかね。
 とはいえ、ケン兄の言う通り、テクニックでどうにかなる話でもない感じがして、読んでいた本を棚に戻す。だとしたら、私が陽汰にしてあげられるのは気分転換とかかな。
 そういえば、花火大会が近かったっけ。陸上から離れて気分転換というのは悪くないかも。それに、花火大会に一緒に行けたら、もしかしたら──
「あれ、ケン兄。少女漫画とか読むんだ」
 ぼんやりと考え事をしながら本棚を眺めていると、陸上競技に関する本ばかりが収まる棚の中に可愛らしいポップな背表紙が浮いていた。取り出してみると、キラキラした男女が至近距離で向き合っている。
 別に人の趣味に口を出すつもりはないけど、「理想の筋肉!」みたいな本の隣にあるとギャップがすごい。
「あー、それ。沙友里が置いてったやつだと思う」
 特に動揺する感じもなくケン兄が答える。
「へえ、沙友里先輩。こういうの読むんだ」
 私から見た沙友里先輩はスッキリとした姉御肌な先輩で、ケン兄とはお似合いだと思うけど、だからこそこういう漫画とは縁遠いイメージだった。
「むしろ、明香は読まないの?」
「んー、昔は読んでたけど、ちょっと苦手なんだよね」
 中身は開かず、そっと漫画を棚に戻す。
「両片思いの幼馴染にさ、恋の障害として後から魅力的な異性とか出てくるじゃん。でも、後から出てきた方がどれだけ頑張ったって、余計なことしやがってって感じになるし」
 小学生の頃だったと思う。そんな感じの漫画を読んだとき、私は自然と後から出てきた女の子を応援していて、まわりの友だちから不思議がられていた。
「当て馬の障害を乗り越えて、ついに幼馴染の二人は結ばれる。ついでに、みんな仲良くハッピーエンドにしたいからか、幼馴染にアプローチしてた男女がなぜか結ばれたりしてる。お話の中でくらい、後から頑張って追いかけた人が報われたっていいのにね」
 ケン兄は何か言いかけたみたいに口を開くけど、結局何も言わずにお茶のおかわりを持ってくると言って一階に降りていった。
 一人取り残された部屋で、スマホで花火大会の情報を調べる。後から頑張って追いかけた人が報われてほしい──それはもしかして、物語の人物に私自身の事を重ねてるんじゃないかって気がした。
「……違う。私はそうじゃない」
 頭の中に浮かんだ考えを追い出すように首を振ってみるけど、紗という女子の顔がいつまでも頭の中から消えなかった。
 私は違う。だから、そう、大丈夫。



「ごめん、明香。俺が陸上を始めたのは。ここまで陸上を続けてきたのは、きっと紗のおかげだから」
 夏祭りの夜。遠く聞こえる神楽の音色。ポンポンと打ちあがり始めた花火の光に照らされるようにして聞こえてきた陽汰の言葉を、すぐには理解できなかった。
 陸上の調子が良くない陽汰を「気分転換に」と花火に誘った。最初は少し渋っていた陽汰だったけど、浴衣まで着てくれて、花火の前に屋台を巡って。
 つい食べ物を一杯買ってきてしまったり、金魚すくいに夢中になる私に小言を言ったりしながら、陽汰は楽しんでくれているように見えた。それなのに。
 陽汰が"何か"を見つけた瞬間、その態度は一瞬で変わってしまった。陽汰の視線は目の前の私を見ているようで、その先のずっと遠くを見ている。
「それに俺、紗の描く絵が好きで。アイツが一番いい絵を描けるように手伝いたいんだ」 
 別に、今日この場で陽汰に告白とかをしようと思ってたわけじゃない。それは何だか弱みに付け込むような感じがしたし、今はただ、私が傍にいて陽汰を支えてあげるということを伝えたかった。
 ただ、それだけだったはずなのに。
「ごめん。だから俺、明香の気持ちには応えられない」
 やめてよ。私はまだ何も伝えてない。まだスタート地点にいるのに、勝手にゴールしないでよ。
「気持ちとか、そんなんじゃなくて。私はただ──」
「……ごめん」
 私に向かって深々と頭を下げた陽汰は、私に背を向けて花火大会の会場から少し離れた方向に向かって走っていく。
 その先に誰がいるかは、わかっていた。陽汰に気づいた弾みで転びそうになった紗を、間一髪のところで陽汰が支える。紗は浴衣姿なのにスケッチブックを小脇に抱えていた。そのスケッチブックの中に一番描かれているのが誰か、私は知っている。
 投げたり、跳んだり、走ったり。紗はきっとその一つ一つの意味は詳しくないだろうけど、競技場の傍にやってきては、陽汰の一瞬一瞬を切り抜いて、スケッチブックに刻んでいた。
「ああ、そっか」
 そんな陽汰と紗の距離が近づく。その手が小さく触れる。数日前まで喧嘩してたとは思えない空気が伝わってくる。
 隣に並んで競争しているつもりだったけど、全然違う。主人公とヒロインは、私みたいな障害(ハードル)なんてあっさりと飛び越えていってしまう。
 きっと、これで陽汰の調子は戻るだろう。悲しいけど、その確信がある。
 そのことが、今は辛い。陽汰がどこまで高いところまで昇れるか見たいとか思っておきながら、私は。
「だって、無理じゃん」
 独り、言ちる。
 仲のいい幼馴染がいるなんて、初めから知ってた。好きになっても報われないだろうなっていうのは、なんとなく気づいていた。
 だけど、すぐ傍で笑ったり悩んだり喜んだりする姿を見てきたら、ただ応援して支えているだけの立場で居るなんて、そんなの無理だった。
 いつからか私は、後ろから追いかける立場だとわかってて、それでも陽汰の隣にいたいと、願ってしまった。
「無理、だったのに」 
 これ以上、二人のことを見続けるなんて無理で。同じ空気のなかで、どんな気持ちで花火を見上げればいいかなんてわからなくて。
 これから盛り上がるだろう花火大会に背を向ける。
 ドン、ドンと打ちあがる花火の音が、今は痛い。一刻も早くこの場所から立ち去りたくて、慣れない下駄で屋台の間を人波に逆らって駆け抜ける。
 ようやく人が疎らになってきたところで、一冊のスケッチブックが目に入った。
 道から外れたところに生えた大きな楠の下で、誰かが花火の様子を絵に描いている。
「……柳川くん?」
 同じクラスで美術部の男子が、スケッチブックに向かって鉛筆を走らせていた。
 名前を呼ばれて顔を上げた柳川くんの目元は、心なし赤く腫れて見えて。何があったのか、薄っすらとだけどわかってしまった。
 そして、それは私の顔を見た柳川くんも同じだったのだと思う。
「ここ、座りますか?」
 ぎこちなく笑った柳川くんが、小さく首を傾げる。それが何だか、半分に欠けた月のように見えた。
「……じゃあ、ちょっと失礼します」
 陸上部と美術部で、男子と女子。陽汰と紗と違って、私たちにはこれまで接点はなくて、この四か月の間で何度か言葉を交わしたことがあるくらい。
 だけど、多分今の私たちには共通点が生まれてしまった。
 柳川くんの隣に腰を掛けると、スケッチブックには一輪の大きな花火が広がっていた。鉛筆だけで描かれたもののはずなのに、色とりどり鮮やかな光が見える気がした。
 そして、花火を見上げる浴衣の女性の後ろ姿がポツリと描かれている。
「未練がましいって、思います?」
 鉛筆を止めた柳川くんが自嘲気味に笑って息をつく。
 今年度になってから、柳川くんが紗と一緒にいるのをよく見かけた。柳川くんにとって、それが単なる同じ部活の部員だからってことではないのはすぐに分かった。
 だって、紗と一緒にいる時の柳川くんは、陽汰を描きに来た紗と同じ顔をしていたから。
「これで最後。この絵に全部閉じ込めて、終わりにするつもりで」
 答えに迷った私のことをどう思ったのか、柳川くんは言葉を続けて、絵を描き足す。
 顔は見えないけど、この後ろ姿はきっと紗なのだろう。浴衣に朝顔の柄が付け足されて、柳川くんはパタリとスケッチブックを閉じた。
 柳川くんはちらりと私の方を見てから、夜空で散っていく花火を眩しそうに見上げた。
「凄いね、柳川くんは。私はまだ、この気持ちをどうしていいかわからない」
「朝倉さんは、陸上部でしたっけ?」
「うん。でも、マネージャー」
「じゃあ、花火が光ってから、音が聞こえてくるまでの時間を計ってみるとか」
「なにそれ。めっちゃウケるかも」
 柳川くんの提案はよくわからなかったけど、とりあえず夜空を見上げる。
 ドンっ、と音が響くのとほぼ同時、夜空に閃光の華が舞う。陽汰のタイムを計る時の様に手元のスマートウォッチの画面に触れる。
 約三秒。光に遅れて音が届く。私たちがいる場所から花火の光が拡がる場所までの距離は約1キロ。
 遠いのか、近いのかもよくわからない。
 よくわかない。
 もう、なにも。
 鼻の奥がツンとする。わかんない。わかんないよ。
「わかってたんです」
 楠の根に寝転がるようにしながら、柳川くんがポツリと零す。
「僕が手を伸ばしたのは、絶対に手が届くことがないところにある高嶺の花だったってこと」
「そんなことないよ。柳川くん、絶対いい人じゃん」
「いい人はどこまでいってまいい人で終わるって聞いたことあるんですけど」
「あー、それはどうだろうねえ」
 少なくとも、今の私にとって柳川くんはいい人だけど、じゃあ恋愛対象になるかっていうと違う気がする。だから、無責任なことは言わないでおく。
「それに僕、いい人なんかじゃないですから」
 それまで夜空を見上げていた柳川くんの視線が私に向く。
「応援してました。朝倉さんのこと」
「え、私?」
「朝倉さんが藤平君と付き合えば、僕にもチャンスがあるんじゃないかって」
 柳川くんの言葉にドキリとした。その言葉は、私にも無縁じゃなかった。
 陽汰と紗の仲違いの原因が、私と柳川くんにあることは薄らと気づいていた。
 気づいたうえで、誤解を解こうとかそういうことは一切しなかった。
 だから、これは自業自得なのかもしれない。でも、私にとっては正々堂々とした勝負のつもりだし、幼馴染なんていうリードに対してはちょうどいいハンデだと思ってた。
「花火が終わったら混み合いますし、今のうちに帰りましょうか」
「うん。そうだね」
 柳川くんが体を起こして立ち上がる。だけど、歩き出すことはなくて私の方をじっと見ていた。
「……送ってくれるの?」
「駅までですけど。こんな僕でも蚊取り線香替わりにはなるはずだし」
 蚊取り線香?って思ったけど、虫よけってことだよね。
 私が一人で歩いてても寄ってくる虫なんていないと思うけど、一人で歩くよりは気が楽になる感じがした。
「柳川くんって、絶対いい人だよね」
 私の言葉に柳川くんはふわりと笑う。
「そうですよ。悪だくみが終わっちゃったから、今の僕はきっといい人です」
「じゃあ、私もそうかも」
 陽汰と来るときに見上げた提灯は温かく光って見えたのに、帰りには赤い光はあっという間に滲んでしまった。



 陽汰の手から放たれた槍が勢いよく空を切り裂き、綺麗な楕円形の軌道を描いて芝生に突き刺さる。
 陽汰の周囲の選手たちから小さくどよめきが聞こえる。距離を測るまでもなく、陽汰の投げたやりは投擲を専門としている部員に負けず劣らずの距離まで飛んでいた。
「単純なヤツ……」
 無意識のうちにそんな言葉が口から飛び出してくる。
 花火大会が終わってから、陽汰の調子はスランプを抜けるどころか、どの種目でも自己ベストを更新するという登り調子だった。
 夏休みの前までは、陽汰が自己ベストを出すたびに自分のことみたいに嬉しかったのに、今は「紗と何かあったのかな」とか考えて、それでギザギザの刃に引っ掻かれたみたいに一人で傷ついて。
 いつになったら傷ついた心のカサブタは固く分厚くなるのだろう。これから陽汰が記録を伸ばすたびにこんな思いをするのなら、それはちょっと辛すぎる。
 夏休みが終わって学校生活が始まったら、ちょっとは気も紛れるのかな。
「明香! どしたの、元気ないじゃんー」
 後ろからパタパタと足音が近づいてきたかと思うと、そのままギュッと抱きしめられた。夏風に揺れる短い髪が頬をくすぐる。
「沙友里先輩……」
 名前を呼ぶと、今は大学一年生となった先輩は私の正面に回って私の顔をぐいっと覗き込んでくる。
 今日の練習場所はいつもの高校のグラウンドではなく市立競技場習だったから、他の高校や大学も同じ場所でそれぞれ練習をしている。その中には沙友里先輩が進んだ大学の陸上部の姿もあった。
「ほんと、どしたー? この前までなら陽汰君が記録伸ばしたら大はしゃぎでめちゃめちゃ喜んでたじゃん」
「今もフツーに喜んでますよ?」
「それ、鏡見て同じこと言ってね。うーん……」
 沙友里先輩は目の前の私と、競技場の真ん中でやりを投げている陽汰を何度か交互に見た後、ハッとした表情を浮かべた。
「もしかして陽汰君、例の美術部の子と付き合った!?」
「なっ。なんで沙友里先輩がそれを……!」
 さっきまでけだるげだった心臓が急にバクバクと早鐘を鳴らし始める。沙友里先輩には──というか、ケン兄以外には私が高校に入って走幅跳からマネージャーに転向した理由は伝えていない。それに、沙友里先輩がまだ高校の陸上部にいた頃は、私は陽汰に対する気持ちを自覚してなかったはずなのに。
「明香の様子見てたらわかるよー。でも、そかそか。やっぱり幼馴染は強敵だったかあ」
 沙友里先輩は今度は正面から私を抱きしめると、ポンポンと私の背を優しく叩いてくれる。
 それでまた、泣きそうになった。ずっと隠してたから当然なんだけど、花火大会の夜の柳川くんを除けば──夏休みだから柳川くんともあの日以来会ってない──誰にも言えずにいたことをそっと掬い上げて、包み込んでくれる優しさが温かい。
「そりゃあ、マネージャーしてるのも辛いよね」
 思わずコクリと頷いてしまう。私が望んで陽汰の練習をサポートするようになったのだけど、今はその距離の近さが切ない。
 でも、私が急に陽汰のサポートから外れて、私と陽汰の間に何かあったか勘ぐられるのは嫌だった。心はズタズタなのに、私のせいで陽汰の調子に影響がでるのは避けたいっていう、難儀な心。
「あ、そうだ。ちょっと待ってて!」
 何かを思いついたらしい沙友里先輩はパタパタとスタンド下の雨天競技場のスペースへと走って行く。目当ての人物はすぐに見つかったようで、ほどなくして沙友里先輩はケン兄の手を引いて私の方に戻ってきた。
 沙友里先輩がいるってことは、当然同じ大学の先輩であるケン兄がいるのだけど、なんか顔を合わせにくくて裂けてたから今日会うのは──というか、やり投げの本を見せに貰いにいってからこうやって向き合うのは初めてだった。
「ちょ、ちょい。沙友里。明香がピンチってどういうことなんだよ」
「陽汰君に彼女ができたんだって」
 沙友里先輩は少しのためらいもなく、私が抱えていたものを引っ張り出した。ケン兄には、マネージャーを転向するときから含めて色んな姿を見せてしまったているから、なんたか気まずい。
「陽汰? あー、なるほど。それで」
 恐る恐るケン兄のほうを見ると、ケン兄は沙友里先輩の言葉と私の様子を見て、あっさりと一つ頷いた。まるでそうなることがわかっていたみたいな。
「ね、ケンさん。明香が元気になる方法、何かないかな?」
「元気になる方法、ねえ。陽汰をどうこうするのは無しなんだろ?」
 ケン兄の言葉に私は首を横に振る。
 陽汰の記録が伸びても傷つくけど、私のせいでまた陽汰の記録が伸び悩んだりしたら、それはそれで私は私を許せなくなると思う。
 つまり、どうあがいても私は平常心じゃいられない。悲しいくらい、人間の心って不器用だ。
「じゃあさ。今度はマネージャーから選手に転向したらどうだ?」
「え……?」
 マネージャーから、もう一度選手に。
 なんでもないことの様に放たれたケン兄の言葉は、いまいちピンと来なかった。
「無理だよ。私、一年以上跳んでないんだよ?」
 高校に入ってすぐマネージャーに転向したから、それまで専門にしてた走幅跳は体育のスポーツテストとか、部活の空き時間に半分遊びでやるくらいだった。
 中学時代は毎日のようにやっていたトレーニングも今は全くやっていない。そんな私が今更選手に戻れるとは思えなかった。
「大丈夫だって。明香は昔からセンスあったし、今だってマネージャーとして色々なやつのジャンプ見てるだろ? そりゃあ最初はリハビリからになるけど、オフシーズンまでには普通に跳べるようになってるって」
 それにさ、とケン兄はちらっと沙友里先輩の方を見てからニカッと笑みを浮かべた。
 多分、沙友里先輩はケン兄のこういう笑顔に惚れちゃったんだと思う。それくらい、見慣れてても眩しくなってしまうくらいの明るさだった。
「俺たち、来月まで夏休みだし。空いてるときは明香の練習に付き合うからさ。臨時コーチみたいなものだと思ってくれ」
「あ、いいね! それ、すっごい楽しそう」
 ケン兄の提案に、パチンと手を合わせた沙友里先輩も乗り気だった。
 私のいないところでドンドンと話が進んでいく中、不意に幅跳びの走路に立つ自分の姿が思い浮かんだ。
 助走路をグイッグイッと加速していって、思いっきり踏み切ると身体が打ち出されたように舞い上がる。
 ちょっとだけ、ゾワリとした。
 私の中に眠っていた選手としての血が湧き上がる感じ。
 そういえば、中学の時は1cmでも遠くへ飛ぶために、毎日走ったり跳んだりを繰り返してたっけ。
「どうだろ、明香。気分転換ってほど軽い話じゃないけど、記録と向き合ってたら陽汰のことを考える時間も減るんじゃないか?」
 ケン兄の言う通り、悔しいけど、今この一瞬は陽汰のことなんてこれっぽっちも考えていなかった。
 それに、やっぱりもう一度競技をしてみたくなったというのは、陽汰のサポートから離れるのに一番自然な理由な気もした。
 結局、私は恋破れてしまえば、ただ一人の陸上選手に過ぎないのかも。
 そう考えると、何だか気分が楽になってきた。
 恋なんて全部忘れて、陽汰のことなんて跳び越えていけばいい。
「できるかな?」
「明香ならできる。俺が保証する」
 一度足元を見つけてから顔を上げてみると、得意げに笑うケン兄がハイタッチを待つように手を構えている。
「……わかった。けど、提案したからには責任取ってよ!」
「おう、任せとけ」
 ケン兄の言葉に、ハイタッチというには乱暴なくらいの勢いで手を重ねる。
 ふっと視線を感じると、それは沙友里先輩だった。沙友里先輩も笑顔で私たちを見ている。
 けど、気のせいかな。ほんの一瞬だけ、不安げに揺れる沙友里先輩の瞳が見えた気がした。