隻眼の鬼は封魔の虐げられ少女を溺愛する

 総ヒノキ造りの祈祷殿(きとうでん)には厳かな空気が満ちていた。
 畳が敷かれた部屋に三人が座っている。

 一段上がった場所、締め縄が張られた内側には巫女服をまとった矢車春乃(やぐるま はるの)。うつむき加減で目を瞑って手を合わせ、精神を集中している。
 正面に座る年配の男性は固唾をのんで春乃を見ているが、少し離れて座る若い男、矢車勝之介(しょうのすけ)。は涼しい顔をしてそれを眺めている。

 やがて、春乃が顔を上げて正面の男を見た。
「御懸念の人物が、関口(せきぐち)家に出入りしている様子が見えました。なんども行き来があるようで、主人の男性と親し気に話しておられます」

 男は上質な着物が乱れるのもかまわず体を前に乗り出す。
「やはりあいつは関口と縁を結んで勢力を強めるつもりか……そうなのだな?」

「我らは見えたものをお教えするのみでございます。解釈はいかなりともなりますゆえ」
 勝之介が静かな声で答える。

「最初にもそう言っておったな」
 うーむ、とうなった男性は、やがてすくっと立ち上がる。
「こうしてはおられん、対策を練らねば。失礼する」

 勝之介が手を二度叩くと、すっと障子が開いた。そこには女中が正座で控えている。
「お送りしろ」
「かしこまりまして」
 立ち上がった彼女は男性を先導し、立ち去る。

 直後、春乃はげほげほと咳込んだ。両手で口を抑えると指の隙間から鮮血がこぼれて衣装にしたたる。
「なにをしている!」
 腹に衝撃を受け、春乃は床に倒れ込んだ。蹴られたのだ、と気付いたのは両手をついた畳が血で汚れたあとだった。

「客に見られたらどうするんだ。評判にかかわるだろうが!」
「申し訳ございません」
 姿勢を直す余裕もなく、春乃は謝った。けほ、と咳をした拍子に口に残っていた血がしぶき、また畳を汚す。

 舌打ちした勝之介は春乃の背を踏みにじる。春乃は抵抗もできず、のしかかる苦痛にうめいた。
 彼女を睥睨(へいげい)し、勝之介は言う。

「畳は掃除をしておけよ」
「……かしこまりまして」
 背から足がどけられると、すぐに平伏した。恭順を示さないと暴力が降って来る。痛いのは嫌だ。屈辱に慣れた今は心が麻痺して、多少の侮辱ならやりすごせる。が、体の痛みはやりすごすことができない。

 勝之介は春乃の襟をぐいっと掴んで起こさせた。
「俺が当主になるまではもってくれよ。まだ死なれちゃ困る。まだ十七歳、お前とて死にたくはないだろう?」
 春乃は返事をせず目をそらした。自分の寿命のことなど、制御できるはずもない。

「勝之介様、お食事の用意が整ってございます」
 涼やかな声に、勝之介は春乃を投げ捨てるようにつきとばした。春乃は床に倒れ込む。

「そうか、ありがとう」
 勝之介の返事に、からり、と乾いた音がして障子が開いた。
 顔を覗かせたのは艶やかな黒髪のツリ目の美女、矢車唄子(うたこ)

 春乃は慌てて乱れた襟を直す。が、すでに唄子に見られたあとで、その目に暗い炎が灯ったことに気付いた。
 きっと誤解された。が、それを解くすべを春乃は持たない。

「春乃がまた血を吐いたよ。医者の手配をしておいてくれ」
「勝之介様は本当にお優しくていらっしゃいます」
 笑顔を返す唄子は、だが、彼の背に隠れてぎろりと春乃をにらみつける。

 彼女は以前から春乃に嫉妬しているが、まったくの見当違いだ。勝之介は自分を手駒にしか思っておらず、優しいのは人前だけ。
 勝之介は唄子の嫉妬を面白がっており、彼女の前ではことさらに春乃に優しい。唄子の憎悪に春乃が身を縮めるのもまた、彼には(きょう)のひとつのようだ。

 叔父である彼の父もまた、春乃を容赦なく殴る。心へのいたぶりより暴力が多いぶん、叔父のほうが小物のような印象があった。
 勝之介と唄子の足音が遠ざかると、床に座った春乃は、ぐいと口を拭った。

「早く……尽きればいい」
 この命が。そうすれば勝之介への復讐になるだろうか。
 自ら命を断つことだけはしない。それは自分を守った両親の願いに反するだろうから。

 だけど、願わずにはいられない。
「早く迎えに来て。お父様、お母様」
 畳の目に、じわりと血がしみこんでいく。そこに、春乃の瞳からこぼれた雫がぽたりと混じった。



 掃除をして、血のついた巫女服を水につけた春乃が部屋に戻ると、膳が置かれていた。
 食事だけはきちんといただけるのがありがたい。
 膳の前に座り、いただきます、と両手を合わせてから箸を取る。

 冷たい白米を噛んでいると、かつて両親が生きていた頃が思い出され、胸が痛む。
 普段はいかめしい父も、母と自分と一緒にいるときだけは笑顔を見せた。
 父が仕事に出かけるときは、母と一緒に玄関で見送った。

 ある日、小さい春乃は母に聞いた。
「お父様は封魔師なのよね。封魔ってなに?」
「春乃はこの大耶眞(おおやま)帝国にあやかしがいるのは知っているわね?」

「うん。こわいの」
「本当は人間と同じように悪いあやかしと良いあやかしがいるの。でもね、人には区別がつかないから近寄らないのが一番いいの。中でも怖いのが鬼よ」

 春乃は前に見せてもらった鬼の絵を思い出して震えた。額から角が生えていて、目つきは鋭く、超常の力で人を殺して食らうと言われている。

「そういう怖いあやかしを封印して、悪いことができないようにするのがお父様の仕事なの。ほかに退魔の一族、破魔の一族がいるのよ」
「たいま? はま?」
 聞きなれない言葉に、春乃は首をかしげる。

「退魔は結界を張ったりなどして悪いあやかしを近付けない、いわば守りの仕事ね。破魔の一族はあやかしを退治するの。あやかしに攻撃できるのは基本的には破魔の一族だけね」
「お父様は退治はできないの?」

「基本的には退治もできない強力なあやかしを封印するのよ」
「じゃあ、一番強いのがお父様なのね!」
 子どもらしい飛躍した結論に、母は苦笑した。

「そうではないのよ。退魔、破魔、封魔。互いに支え合っているのだから」
 春乃はつまらなさそうに口を尖らせた。父が一番だったらいいのに。

「そういう顔をしないの。前から言っているけれど、蔵の中には、あやかしを封じた危険なものがたくさんあるあから、近寄ってはダメよ」
「はい!」
 春乃は元気よく答えた。

 その晩、春乃は一緒に食事をしている父に聞いた。
「私もお父様みたいな封魔師になれるかな」
「女は霊力がどれだけ強くても封魔の仕事はできないんだ」

「できるよ。この前、私も守りの呪法を教えてもらったもん」
 胸を張る春乃に、母は苦笑した。

「女性は戦わないものなの」
「どうして?」

「女にはね、子どもを産んで育てるという大きな仕事があるからよ。私は春乃を産めてすごく幸せよ」
「でも、そうしたらお父様の仕事の跡継ぎは?」

「一族の中からふさわしい者を会議で選ぶ。だから問題ない」
 勝之介は通いだが、住み込みで修行をしている弟子が何人もいる。独立している封魔師もいるし、そういう中から選ぶのだろうと思った。跡継ぎを決める会議なんて難しそうだ。

「封魔は危険な仕事だ。時として、人間の体に封じることもある。女にそんな負担はかけたくない」
「そんなことがあるの?」
 春乃はきょとんとした。そんな封印は想像できない。

「春乃は母に似て器量よしな上に霊力が強いから、嫁に欲しいと言う男が多いだろうなあ」
「今からそんな心配を」
 ころころと笑う母を見て、春乃も笑った。
 まさかその夜に惨劇があるとも思わずに。



 血を吐いた翌朝、春乃はいつものように井戸端で禊をしていた。
 井戸の水は冷たくて、浴びるたびにぶるっと震える。
 霊力を研ぎ澄ますための禊だが、どれだけの効果があるのか疑問に思っている。

 白い着物は水を吸って重く、肌が透けている。禊の間は誰も近付かないように命じられているからいいが、こんな姿を見られたくない。
 裾をぎゅっと絞って水を切っていると、人の気配に気が付いた。
 そこには勝之介がいて、思わず体を隠す。

「巫女として千里眼をふるうのでなければ抱いてやったものを」
 まとわりつく視線に、ぞっとして自分を抱きしめた。
 唄子の嫉妬は、間違いではなかったのだ。
 逃げるように駆け出す春子の耳に、勝之介の嗤笑(ししょう)が届く。

「逃げられはしないぞ。お前が生きるも死ぬも、俺次第だからな」
 春乃はただ必死に逃げる。
 だから気が付かなかった。
 その姿を、唄子が見ていることに。



 千里眼の仕事がないときは、部屋でじっとしているしかない。
 昨夜の血塗れの衣装を洗って干したあと、清次郎や勝之介が読み終えたお古の新聞が届いたから、それを読んで暇をつぶしていた。

 新聞は千里眼を使うときにも役に立つので、特別に許されていた。
 最近は千里眼の後に春乃が血を吐くようになったので、仕事は少なくなった。が、返って希少価値が高まって報酬が増えた、と清次郎は喜んでいた。もちろん春乃にその恩恵はない。

 清次郎は金銭目的で、勝之介は政治的に利用しようとしているようだ。次期統領になるため、さらには政界とのつながりを作って爵位を得たいらしい。

 そのためにも華族の娘である唄子を嫁にしたという。唄子のほうでは不本意だったようだ。勝之介は名門の封魔の一族であろうとも庶民の出であり、最近になって華族となった格下だ。
 さらに、政略結婚であれ夫がほかの女に懸想(けそう)するなど、自尊心が傷付くだろう。

 同情はする。が、嫉妬を向けられていい気持ちはしない。
 新聞を読み終えた春乃は、西にあるという極楽浄土に向かって手を合わせる。

 どうか早く鬼が来ますように。
 そんな祈りをする者など、自分だけだろう。普通は鬼が来ないようにと祈るものだ。

 できることなら外に出られますように、と春乃はさらに祈る。
 今は春。もうすぐ桜が咲く。
 母がつけてくれた名の季節。爛漫の桜の下で死ねたなら、そんな嬉しいことはない。



 夕方、清次郎と勝之介が会合に出かけたあと。
 春乃の元をひそやかに訪れた人物がいた。
 声をかけられてふすまをあけた春乃は驚いた。そこにいたのが唄子だったからだ。

「どうしてこちらに」
「逃げたいのではないかと思いまして」
 唄子の言葉に、春乃は息を飲んだ。

「お苦しいのでしょう? 逃げるなら今です。あのふたりは会合でいませんから。資金は私がお渡しします」
「でも……」

「機会は今しかありません。でも私が疑われないように、書置きをお願いしたいのです」
 いらいらと告げる声は焦りを含んでいる。
 唄子からしたら、春乃を逃がすのは邪魔な女を追い出せて好都合なのだろう。

 春乃は頷き、文机に向かって引き出しから出した紙と万年筆で書く。
『私はもう先が長くないでしょう。せめて最期は外で迎えたいと思います』
 正直な気持ちを書き、最後には署名する。

 それを見た唄子は満足そうに頷き、春乃を先導する。
 人払いをしていたのか、あっさりと玄関までたどり着いた。
 春乃の履物はなかったから、唄子の草履を借りた。

 地理が明るくない春乃のために、唄子は駅まで連れて行ってくれると言った。
 だが、彼女について歩くうち、不審に思った。
 どんどんさびれてひと気のない方へ進んでいく。本当に駅に向かっているのだろうか。

 ついには墓場に着いてしまい、さすがに春乃も異常に気が付いた。
 墓石や卒塔婆があちこちに立ち、すでに暮れた空には細い月が嘲笑うように浮かんでいる。

「唄子さん、駅は……」
 尋ねた春乃に、唄子の目がぎらりと光る。

「あんたはここで死ぬの」
「え!?」

「勝之介様を誘惑して! ふしだらな女はあやかしに食われてばいい!」
 般若のようなその顔に、ああ、と春乃は思う。
 鬼は近くにいた。人間だから気が付かなかったが、心は鬼よりも鬼なのだ。

 唄子に懐から出した短刀を向けられ、春乃は逃げ出した。が、慣れない草履がぬげて転ぶ。
 それでも這いずって逃げる春乃の裾を、唄子が踏みつける。

「なんて気持ちの悪いところ。本当にあやかしが出そう。早く帰りたいわ」
 唄子のつぶやきに振り返ると、目だけが異常にぎらついている。
「さっさと死んで!」
 唄子がその短刀を振り上げたとき。

『ニンゲンダ』
『ニンゲンダ』

 どこからともなく低い声が響く。と同時に、春乃の額に強い痛みが走り、うめいた。
 唄子はきょろきょろと声の主を探す。

『ニンゲン!』
「な、なに!?」
 動揺する唄子に、なにものかが襲いかかった。

「きゃあああ!」
 唄子はとっさに短刀を振り回す。
 なにものかはさっと避けて地に伏せた。その後、角をはやした猿のような生き物がぎろりと春乃をにらむ。

『コイツダ』
『チカラガアフレテイル』
『ホシイ』
 もはや唄子は眼中になく、春乃に狙いを定めたようだ。

 春乃はとっさに守りの呪文を唱えた。
 小さな結界が生まれ、唄子と春乃を囲う。

「なんなのよ!」
「邪鬼ですよ」
 春乃は言う。

 人に悪さをする鬼を特に邪鬼と呼ぶ。この猿の鬼はあやかしとしては小物だと思われるが、春乃は身を守るための最低限の術しか知らず、退治するすべを持たない。

「なんとかしなさいよ!」
「無理です」
 邪鬼たちは襲おうとしてとびかかっては結界に弾かれていた。

 春乃は精神を集中していたが、やがては疲れが出て結界が弱くなる。気が付いた邪鬼たちの攻勢が増し、春乃は脂汗をかいた。額の痛みはさらに強くなる。

「ちょっと、結界が弱くなってるんじゃないの!?」
 けなされて、春乃は歯をくいしばった。

 自分はなんのために結界を張っているのだろう。
 今、自分がかばっているのは自分を殺そうとした人物だ。そんな人を守るのはどうして?
 そもそも死を覚悟した家出だった。

 心が揺れる。
 もう結界を解いてしまおうか。鬼に食われて死ぬのは苦しいだろうか。だが、死んだ後のことなど、知ったことではない。
 そう思ったとき。

『気を強くもって生きるのだぞ』
 父の声が脳裏によみがえる。

 だけどお父様。
 春乃はその目に涙をにじませる。
 もう限界です。春乃はもう、充分に頑張りましたよね?
 問いかけに応えはない。

「しっかりしなさいよ!」
「あ!」
 唄子に蹴飛ばされて集中が解け、結界がほどけた。

「ケッカイ」
「ナクナッタ!」
 鬼たちが大喜びでとびかかって来る。

「ひいい!」
 唄子の叫びが響く。
 が、襲われたのは春乃のほう。がぶり、と噛みつかれ、春乃は声にならない悲鳴を上げる。

 もう終わりだ。
 そう思ったのだが。

「邪魔だ!」
 稲妻のような光が横に走り、邪鬼たちを薙ぎ払った。
 その姿は目を閉じている春乃にも見えた。千里眼のせいだ、と思いつつ瞼を開いた春乃は、驚いた。

「なんの騒ぎだ」
 言い放ったその男は、美しかった。
 黒い髪の間から覗くのは銀の角。着物姿。

 人とかわりない、と言いたいところだが、この美しさは人には存在しえない。
 きらめく瞳は片方しかなく、黒い眼帯には銀で文様が描かれている。

「お、鬼……!」
 唄子は逃げようとするが、腰が抜けたのか動けない様子だ。
 男は構う様子もなく、ひた、と春乃を見据える。

「お前、持っているな」
 それだけで春乃は理解した。
 額の痛みが一段と強くなり、思考がまとまらなくなる。

「俺が受け継ぐものだ。返せ」

 ああ、と春乃は息をついた。
 ようやく、来てくれた。
 ようやく、やっと……。
 それだけしか頭に浮かばなかった。

「待っていました……」
 答えると同時に、ふっと意識が遠のくのがわかった。
 それきり、真っ暗な世界に落ちて、なにもわからなくなった。

***

 就寝した小さな春乃は、ばたばたと響く足音で目が覚めた。
「お母様……?」
 隣で寝ていたはずの母は起き上がり、警戒するように障子のほうを見ている。

 夜なのに、なぜか明るかった。日差しとは違う赤い光に胸騒ぎがする。
 障子を開けて確かめたい。だけど、それが妙に怖い。

「早く火を消せ!」
「それより蔵から逃げたあやかしを!」
 声がとびかい、春乃はぎゅっと布団を握りしめる。

「……私も行かなくては」
 母が言い、春乃は母の着物をつかんで止めた。

「行かないで」
「大丈夫。火を消しに行くだけよ。春乃はここで待っていて」
 母が無理矢理に笑うから、春乃は頷くことしかできなかった。

 それからどれだけ時が過ぎただろう。
 障子に暗い影が揺れ、大きな音ともに障子が開いた。
 現れたのは、血にまみれた父。

「お父様!」
 駆け寄ろうとして、立ち止まった。
 父の顔は鬼に負けないほど険しく恐ろしい。

「春乃、頼みがある」
「私に?」
 戸惑う春乃に、父はずかずかと近寄った。

「これを飲み込んでくれ」
 差し出されたのは、水晶のような小さな石。外から差し込む赤い光に、ゆらりとたゆたうように暗くきらめきを返す。

「どうして……」
「早く」
 父に急かされ、その石を恐る恐る手に取り、口に含んだ。水もなく飲み込むのは大変だったが、なんとか、ごくん、と飲み下す。

「みなのためだ、許せ」
 父はそう言ってなにかの呪文を唱え始めた。
 直後、体の中が燃えるように暑くなった。
 先ほど飲み込んだ石のせいだ、とすぐに気が付いた。

「お父様……熱い……」
 父はひたすらに呪文を唱え、終えると同時にがくりと膝をついた。

「お父様!?」
「蔵にあった『鬼の目』をお前の中に封じた。これは悪用されてはならない。いつか正当な持ち主に返すために……」
 なにが起きたのか、春乃にはうまく理解できなかった。

「このことは誰にも言うな。気を強くもって生きるのだぞ。いつか、必ず来る。そのときには……」
 言い終えるより早く、父は前のめりに倒れた。とっさに手をだすが支えられず、一緒に倒れ込む。父の体からこぼれるそれが畳に広がるのを見ていることしかできなかった。

「お父様!」
「ここにいたのか」
 春乃の叫びに、まだ若い男の声が重なる。

 鬼の面をしている男の手には血にまみれた刀があった。
「鬼の目をどこへやった」

「し、知らない……」
 春乃は父をかばうようにして叫ぶ。

「鬼の持ち物を奪っておいて、しらを切るか」
 春乃はただ首を振った。
 目の前の男は鬼のふりをしているようだが、春乃には面をかぶった人間にしか見えない。

「死にたいらしいな」
 春乃の喉から、ひっ、と悲鳴が漏れ出た。
 男は刀を振り上げたものの、その手を止めた。

「……お前の中に封印されたのか。こしゃくな真似を」
 彼は春乃を蹴飛ばし、腹立たしさをぶつけるように父の死体に刀を突き立てる。

「やめて!」
「まあいい。殺してから封印を解く」
 男が再度、刀を振り上げたとき。

「まずい! 破魔のやつらが駆け付けたぞ! 警察もいる!」
「なんだと!?」
「ここまでだ、退こう!」
 現れた男を見て、春乃は声をのんだ。彼は父の弟子だ。どうして賊の味方をしているのだろう。

「仕方ない」
 鬼面の男は悔し気につぶやき、弟子とともに走り去った。

 助けられた春乃は、自分がただひとり生き残ったのだと知った。
 安置所で父と母が並べられているのを見て泣きもせず呆けている春乃に、立ち合いの警官が目を拭った。

 その後の取り調べで賊のひとりが父の弟子だと証言したら、翌日には彼の死体が遺書とともに発見された。
 遺書には父への嫉妬がつづられ、叱られた恨みから殺して蔵のあやかしの封印を解き、鬼の目を奪ったと書かれていた。

 違う、と春乃は反論したが、大人たちは認めなかった。
 犯人はふたりいた。なのに、ひとりだけになってしまった。
 そうして事件は解決の扱いとなっている。

 違う。そう主張する春乃の言葉は小さ過ぎて、どんな大人にも届かなかった。
「ショックすぎて、現実にはないことを言っているのだろう」
「かわいそうに」

 みんな同情してくれた。話をうんうんと聞いてくれた。
 だけど、誰も春乃を信じてはくれなかった。

 一時的に施設にいた春乃は、一週間後、叔父である矢車清次郎の家に引き取られた。
 家督を継いだのは彼で、新統領となっていた。

 そうして、すぐにばれた。鬼の目を飲み、体内に封印しているのだと。
 きっかけは、女中のなくしものだ。

「奥様のかんざしが見つからないの」
「困ったわ、もし盗んだと疑われたら……」

 聞こえた会話から女中に同情した。自分は叔父の家に居候している。穀潰しだとかなんとか罵られるのはつらいが、住む場所がないのはもっと苦しいだろう。盗人と思われたら住み込みで働く彼女は行き場所がないかもしれない。
 どうにかしてあげたい。そう思った春乃の頭に、かんざしが池のそばに落ちている様子が浮かんだ。

「池のそばにあるよ」
 女中は驚いたもののすぐに探しに行き、見つかった。
 その晩、叔父に呼び出された。隣には勝之介がいる。

「どうしてかんざしの場所がわかった?」
「なんとなく……」
 答える春乃に、清次郎は険しい目を向ける。

「お前の中に封印があるな。そこに鬼の目があるのか」
 春乃は驚いた。そうして思い出す。父は鬼の目を自分の中に封じたと言っていた、と。

「そうか……」
 にやり、と清次郎が笑う。

「お前は今後、外出を禁じる」
 春乃は結界の中に軟禁され、千里眼を利用されるようになった。

 守るためだと清次郎から説明されたが、虚偽であることはすぐに知れた。
 ときどき現れる客のため、春乃の——正確には鬼の——千里眼を使うよう強制された。

 子どもだった春乃は命令を聞くしかなかった。逆らえば暴力を振るわれ、恐怖におびえた。
 清次郎が利益を得るためのものだと気付いたころには反抗する気力はなかった。
 最近では千里眼を使ったあとに血を吐くようになった。おそらくは鬼の目の霊力に自分の体が耐えられないのだろう。

 いつか必ず来る。
 父はそう言った。きっと、鬼が奪い返しに来るのだろう。

 早く来たらいいのに。そうして、自分を解放してほしい。
 その結果、自分が命を落とすのはわかっている。だが、春乃はそれを待ち望むほどには未来に絶望していた。



 目が覚めた春乃は、周囲が明るいことに気が付いてハッと体を起こした。
 朝ならば禊をしなければならない。

「目覚めたか」
 かけられた声は、聞き覚えがない。

 そちらを見た春乃は、息を飲んだ。
 そこにいたのは、見まごう事なき鬼。眼帯をしているが、人にはありえない美しさを有している。

 今日、ようやく自分は解放されるのだ。
 春乃はそう思い、深く息をついてから畳の上で正座し、頭を下げる。

「待っておりました。どうぞご随意に」
 深々と頭を下げると、涙が一滴、ぽたりと落ちた。





第一話 終