青い音が降った日に、僕らは星になった

 四月の陽気に溶け込んで眠る男には、純白の羽が生えていた。家の縁側で丸くなり、自分を守るように羽で身を包んでいる。上下している羽に、一つの人影が黒く落ちた。
 僕は近付く足を止めて、棒立ちのまま彼を見下ろす。前髪の垂れた間から覗くその顔は、まさしくあの人だ。
 油瀬単(ゆせひとえ)
 どうやら彼は、僕の兄であるらしい。天使の仮装で弟を迎えようとしたところ、春眠とて眠ってしまった? そんな冗談みたいな人間なのだろうか。如何せん僕にだけ、この男の記憶がすべて無い。
 不意に単が小さく寝返りを打ち、思わず一歩後ずさる。やっぱりそうだ、信じられない。じろじろと見るのも憚れるが、羽が服を突き破って生えている。記憶障害の次は幻覚だろうか。親からもらったこの体も、とうとう満身創痍らしい。
 一週間前、藤ヶ浜(ふじがはま)の家――僕が生まれ、本当の両親と過ごした場所――で一人暮らしをしたいと家族に伝えると、既に住む男がいると言う。適当に話を合わせてうかがってみると、どうやら僕の兄だそうだ。
 彼を覚えていないと白状すれば、大騒ぎになりかねない。僕は藤ヶ浜の家に帰りたかった。家族が彼に掛け合い、その三日後には会う機会を得たのだが、見知らぬ男が待ち合わせの喫茶平子(きっさひらこ)に現れたとき、衝撃と共に軽く絶望した。
 両親が亡くなってから保護者となった叔母の知世(ともよ)も、従妹の奈々(なな)も、昔から彼を知っている様子で談笑は続き、単もまた同様だった。僕だけが、この男を覚えていない。
 脳まで不調をきたしたと、その日から薄く失意の漂う日々を過ごしていた。それでも、今日から僕はこの男のおかげで、この家に住める。
 かくんと突然、眠りの淵を叩くように視界が揺れ、体が疲れ切っているのに気が付く。東京から数時間、電車に揺られていた疲れがどっと押し寄せた。眠りこける単の隣に腰を下ろし、同じように小さくなって寝転んでみる。
 視界に入るのは、白くて大きな塊だけ。単を包む羽は立派で、天まであっという間に飛んで行けそうだ。天使が神の創造物なのも納得できる。
 単の体の傍で、抜け落ちた一枚の羽が春風に揺れていた。指先でそっと摘まむと簡単に弾け、星屑となって空に消える。
 目を丸くし、その微かな光を追っていると、唐突に春風が吹き抜けた。現実と幻が交差するかのように、庭の桜が花弁を散らし、空へと舞い上がる。
 悪い夢、だろうか。
 この一年半は特に、現実が一瞬で変わればいいと、何度も願っていた。生まれ変われたら、魔法が使えたら、きっとなんだってできるのに。
 空想に逃げ込みながら、変わらない日常のなかで、なにもせずやり過ごす日々――この男が、現れるまではそうだった。
 この男は、どのようにして過保護な知世を説得したのか。藤ヶ浜で暮らすという話は、僕が言い出したとはいえ、もとより半ば諦めていたものだった。自分の現状に対する、少しの抵抗にも似たものだった。
 僕の過去に割り込んできた男。目の前の不思議な羽。意図せずして、なにかが動き出している。夢か、幻か、現実か――昔からこの庭は、僕にとって曖昧な場所だ。生前、両親と住んでいた頃から、ここが好きだった。
 季節を順に彩る草木の向こうには、広く藤戸湾(ふじとわん)の海が見える。風の匂い、重なり合う生命の音。この世と隔絶されているような、ゆったりとした時間が流れた。
 十五年ぶりに、藤ヶ浜での暮らしが始まろうとしている。
 これから上手くやっていけるだろうか。重たくなっていく瞼をゆっくり瞬きながら、眠り続ける隣の怪異をぼんやり眺めた。麗らかな日差しを受けて、睫毛が目元に影を落としている。光に透ける髪は、流れる水のようだ――胸の奥に沈んでいた、一抹の恐怖の正体をようやく悟る。
 そういえば、この男はひどく美しかった。

 人の叫び声と同時に、自分の腕が払われて、ゴトンと縁側に鈍い音を立てる。腕の中にあった温もりが抜けだすように無くなり、ゆっくりと目を開けた。
 寒い。いつの間にか眠っていた。ぼんやりとする頭で、視界の隅をかすめた白い塊を見る。縁側の突き当りの壁にいるもの。天使――違う、単がひどく震えている。
 反射的に手をついて体を起こすと、抜けた羽が手のひらに付いた。摘まむとはやり星屑のように砕ける。ゆっくりと視線を移し、再び目前の怪異を見据える。
 怯えているのか? 縁側の隅で小さくなっている。彼の横に立て掛けられたイーゼルとほとんど同じ大きさだ。自分を守るかのように、羽で体を包んでいる。
 僕は口元を覆う手を下ろせないまま、縁側で単としばらく向き合った。視線がお互いに逸らせない。
 単のひどい狼狽ぶりに、年相応な振る舞いで「油瀬単」と名乗った男と同一人物なのかさえ疑わしく思えくるが、服装に見覚えがある。おそらく、一週間前と同じ服だ。だぼっとした白いシャツに、白い綿のようなカーゴパンツ。職業は画家のはずだが、絵の具で汚さないのかと不思議に思ったのだ。
「単さん、ですよね」
 喉の奥から声を絞り出す。乾燥で声が擦れ、無愛想だったのか、単は顔を深く埋めると泣きだしてしまった。大人の男性がすすり泣く姿を初めて見たかもしれない。奈々を慰めるように接したら良いのだろうか。そもそも、どうして泣いているのか見当もつかない。泣き様はだんだんとひどくなり、過呼吸気味になっていく。
「大丈夫ですか……」
 咄嗟に背中を擦ろうとしたが、そこには柔らかい羽が生えていて、触れるや否や手を引いた。砕け散った羽が脳裏を過る。
 自分の少ない情報の中でも、確かに単は生きていた――生きているはずで、今日から僕の同居人となる相手だ。だとすれば砕くなんて、まずいどころの話じゃない。
「え?」
 混乱した思考が衝撃で途切れる。柔らかい風と共に、胸に飛び込んでくるも――単が達磨のように、ころんと僕の方へ倒れ込んできた。力を込めて受け止めたが、予想した重みがそこにない。空振りしたように反動で前のめりになり、羽が僕の頬を撫でた。
 軽い。単があまりにも軽すぎるのだ。
 確かに彼は腕の中に収まり、僕の胸にもたれかかっている。砕けてはいない。やり場のない手を宙に泳がせるが、躊躇していられる状況ではなかった。
 単の体がひどく震え、冷え切っている。四月初めの黄昏時は十分に寒い。凍えた体を意識すると、思わず自分も体が震えた。身を寄せ合った今も、お互いに冷え切っているのを確認するばかりだ。
 砕けてくれるなと、意を決して抱きかかえる。大きくて、軽い――。
「子犬より軽い……」
 信じられない状況を現実として確かめるように、言葉がこぼれる。
 家の奥へ進もうとして、靴を履いたままだと気づいた。手を使わずもぞもぞと靴を脱ぐ間も、単はおとなしく抱えられている。酸欠でふらついただけのようで、呼吸は落ち着いていた。すすり泣く音だけが微かに続く。拒絶感もあるのだろう。大量の羽が抜け、縁側に降り積もってしまった。幸いにも、抜けていない羽は触っても砕けないらしい。
 部屋の方へ足を進める。縁側に面した一室は、雪見障子が開けられていて、新品に見える一組の布団が畳んであった。単が用意してくれたのだろうか。ちらりと視線を走らせ、続けて奥にある居間の雪見障子を足で開けた。
 居間を北に抜けて進めば風呂があるはず。突き当りが台所になっていて、台所の左隣が風呂だ。四歳までしか住んでいない家だが、それなりに記憶と重なった。
 歩くたびに単の羽が抜け、花びらが散るように床へ落ちていく。
 台所と脱衣所を仕切る扉を開けるため、慎重に片手で単を抱え直した。風呂場の扉を開けて、湯の蛇口をひねる。水と湯の加減を調整していると、たちまち湯気が立った。浴槽を洗うのを忘れてしまったが、ごみは浮いていないので良しとする。一秒でも早く温まるのが先だ。
「単さん、着替えはありますか?」
 腕の中から返事はない。自分は今、何を抱えているのだろうか――湯気で曇る視界のように、全てが曖昧を帯びる。
 単の羽越しに、溜まっていく湯船を黙って見つめた。
「着替え……ない」
 ドドドとお湯が溜まる音の中に、単の声が混じった。不意打ちで発せられた声にはっとして、努めて普通に答えようと意識する。
「じゃあ、僕の貸しますね」
「……風呂に入ったことがない」
 反射だった。湯船にぽちゃんと軽い音が鳴る。潔癖からではなく、風呂を拒む小動物をたしなめるのに近い衝動。単を風呂に入れていた。お湯もそこそこに溜まって良い具合だ。
 単は体を小さくして硬直したが、顔に気色が戻ってきている。服のまま浸けてしまったが、今更、脱がすわけにもいかないだろう。
「自分の良いところで、お湯は止めてください」
 一言残し、身を翻してその場を去る。
 足早に居間を横切り、縁側に置いたままのバッグを開けた。しわにならないよう一番上には、新品の制服が入っている。今朝、家を出る世間際に、知世から渡されたのだ。ハンガーは制服に通されていて、そのまま襖の長押に吊るす。続けてタオルや着替えを取り出し、立ち上がろうとしたとき、ふと体を止めた。一つ忘れていないか。
「パンツもだわ……」
 思わず呆れたような声が出る。着替えを置く際に、脱衣所で一言声をかけたが、洟をすする音が返ってくるだけだった。いつまで泣いているのか。なにが悲しいのか。なに一つ理解できないまま、そっと扉を閉めた。

 台所で一人、立ち尽くす。家は静まり返ったように音を無くしていた。耳を澄ませると、遠くで風が木々を揺らす音と、鳥の鳴き声だけが聞こえる。
 足から力が抜けるように、その場にしゃがみ込んだ。傍の壁にもたれると、冷や汗で服が背に張り付いて、底冷えするように寒い。冷からか、大きすぎた衝撃からか、小刻みに奥歯が音を立てる。動揺をぐっと押し込めるように歯を食いしばり、腕で体を抱え込んだ。
――君は変じゃない。変なのは俺だから。
 不意に脳裏に響く。今日まで忘れられず、そして自分を救いもしなかった単の一言。一週間前のあの日、単は僕だけを連れだして、この言葉を残した。
 藤ヶ浜の実家に越したいと家族に話したのは三月の終わり。約一週間前に遡る。
 二年前から現在まで、この家に住んでいるのは単のため、同居を打診する名目で藤ヶ浜の喫茶平子に集まったのだが、知世と単が裏で謀っているのは容易に想像がついていた。
 転校するにも四月は目前で、生活の手続きにしろ、スケジュールに無理がある。この家は単のアトリエで、彼自身の生活もあった。むしろ、自分の望みを蔑ろにせず、仕事の合間を縫ってこの場を設けてくれた大人たちに感謝すべきなのだ。
 分かり切った出来レースでも、感謝と少しの愛嬌は浮かべるつもりでいた。だが、僕だけに記憶のない男が現れたときの衝撃と絶望は予想以上だった。おかしいのは自分なのだと突き付けられ、交わされる会話をよそに、しばらくぼんやりと椅子に沈む。
 喫茶平子は画廊も兼ねており、偶然にも単の個展中だ。壁一面に単の絵が飾られている。気まぐれに視線を走らせると、塞いだ気持ちがぷかりと上がった。
 ひどく繊細なタッチでありながらも、配色、光の掴み方、筆の流れなどの全てから、描くのが楽しいと伝わってくる。
 芸術の畑は違えど、僕も曲を作っていた。こんな風に心を溶かした作品を、僕も作ってみたかったかもしれない。でも、なんとなく、目の前にいる単と画風が重ならない。どうして? もっとこの人を知りたいかもしれない。
「あなたは、誰だっけ」
 会話を遮るようにこぼれた。歯止めの効かない好奇心から出た言葉は、しばらく抱えていた純粋な疑問だった。喋るとぼろが出るからと押し黙っていたが、ふつふつと湧き上がる懐かしい感情――歌いたい。曲を作りたい。僕はこれからどうすればいい。全ての気持ちが転じるように、とうとう僕は白旗を振り、彼と同じ土俵に立った。
「僕に兄はいない」
 沈黙が流れ、知世と奈々は血相を変える。堰を切ったように奈々が、お兄ちゃんがおかしくなったと泣き始めた。僕を心配して、藤ヶ浜まで付いて来ていたのも、今まで感情を飲み込んでいたのも分かっているつもりだ。
「なんで突然、家を出たいだなんて言うの?」
 奈々の切実な感情が、胸を押し潰す。息が細くなるのを悟られまいと、小さく息を吐いた。僕はちゃんと、この子の傷を受け止める義務がある。
明佳(あきよし)くんとのバンドだって、あの日から行ってないよね。なんで話してくれないの? 全部変だよ! お母さんもお兄ちゃんが変なの分かってるでしょ? なのにどうして、なにも言わないの!」
「立って」
 突然、天から降る声――か細いながらも芯があった。テーブルを挟んで向かい側に座っていた単が、立ち上がって僕の腕を掴む。呆気に取られて連れられるまま、僕は単と走って喫茶平子を出ていた。
 商店街を横切り道に逸れて、丘を登るように連なった階段を上る。遠い記憶のなかで朧気になっていた風景が、鮮明に横目を流れていく。いつぶりだろうか、こんなに走ったのは。風を切るように、二人で走り続けた。
 辿り着いた先は、藤ヶ浜の家だった。本来は君の家だから、と単は息切らしながら言って、縁側に倒れ込む。続けて、申し訳なさそうにあの一言を残した。変なのは僕ではなく自分なのだ、と。会話を交わしたのはその二言だけ。
 その日は、すぐに車で追いかけてきた知世たちと合流し、僕も東京に戻った。翌日、単がどのようにして知世を説得したのかは分からないが、藤ヶ浜の家に越せることになっていた。 
 ゴトンと突然、なにかが後ろで落ちた音がして、我に返ったように目を見開く。台所の床をそっと撫で、ふらりと立ち上がった。僕は今、藤ヶ浜の家に居るんだった。
 窓の外は、既にうす暗い。蛍光灯の紐を引くと、電気がぱっとついて台所を照らした。眩しさに少し目を細める。
 風呂の方から溺れたような音は聞こえない。単が砕けなくてよかった。思い出すと微かに鼓動が速くなる。服のまま風呂に浸けたのは後で謝ろう。
 息を深く吸い、ゆっくりと吐き出すと、腹が鳴った。そういえば、朝からなにも食べてない。どんな状況でも、生きていれば腹は減るのだ。
 どうにも整理がつかないことの方が多いのは、別に今更でもない。全てが僕の幻覚だろうと、本当に単が天使だろうと、日は沈むし、また明日も昇る。世界はそのように出来ている。
 思考を振り払うように台所を見渡すと、シンクの中に玉ねぎが一つ落ちていた。先ほどの物音はこれか。
 ふと横に視線を移すと、シンク横の作業台には、人参や未開封のケチャップ、ベーコン、米、卵など、明らかに一人分ではない量の食材が用意されていた。流れるような文字でメモ書きされたレシピも添えられている。オムライス二人分の作り方だ。
 入浴中の単に声をかけようとして、扉の方へ振り向いたが、少し考えて止めた。また泣かせてしまうかもしれないし、なにかお詫びがしたかった。勝手に台所に立って食材を使うのも、なにもせずに待っておくのも、あれだけ泣かれてしまえば、同じような気さえしてくる。
 よし、と声に出して、料理を始めようと、まな板と包丁を探す。台所の戸棚や引き出しにも見当たらない。二組の食器以外になにも無かった。あ、と思い出し真後ろを振り返った。
 台所と居間を仕切るように四人掛けのテーブルがある。その上に、大きく膨らんだ買い物袋が置いてあった。中には予想通り、新品の調理道具が入っている。
 新品なのは、包丁やまな板だけではないようだ。台所に置かれた家電製品――冷蔵庫、炊飯器、ガスコンロまでが、全て傷一つない。僕のために買い揃えてくれたのだろうか。
 ずっと感じていた違和感が腑に落ちて、確かめるように見渡す。この家が十五年前とあまりにも変わっていないのだ。四人掛けのテーブル、居間の座卓やソファーの位置も同じだ。使って朽ちた様子も無い。
 単が住む前は、定期的に知世が掃除をしに帰っていたようだったが、それにしても、この家に人が二年も住んでいたとは思えなかった。空き家と表現する方がしっくりくる。
 縁側でただの布団に目が引かれたのも、あの部屋で唯一の異物だったから――。
「狐につままれている……。いや、天使につままれているのか」
 なんだか怖くなってくる。怪異も受け入れてしまえばただの日常になるだろうか。仮装の天使にしろ、本物の天使にしろ、単からなにかしら弁明はあるはずだ。見事な取り乱しようだったし。思い出すと、あんなに泣かなくたっていいのに、と少し肩が落ちる。

 後ろで扉が開いたのは、二つ目のオムライスを卵で包んでいるときだった。ゆっくりと振り返って、単の様子をうかがう。先ほどまでの羽はない。錯乱状態ではなさそうで、やや体の力が抜けた。
「あの……。申し訳ない。動揺してしまって……」
 以外にも先に口を開いたのは単の方だった。目を泳がせながらとつとつと喋るので、なんだか僕も緊張してくる。
「落ち着いたならよかったです。あと、食材とか勝手にごめんなさい。オムライスを作ってます」
「ありがとう……」
 単は戸棚から二組のグラスとスプーンを取り出し、水道水を注いだ。居間の電気をつけて、それらを座卓へ並べる。
 貸したスエットに着替えているものの、単の口元まで伸ばされた前髪から雫が滴り落ちている。タオルを肩に掛けておらず、後ろ髪が肩を濡らし、スエットの色が変わっていた。なんとなく似合わないなと思ったが、少し丈が足りてないのだ。
 僕も出来上がったオムライスを二皿持って、同じように座卓へ運ぶ。単の背にあったはずの羽と同じように、居間に散らばった羽も、いつの間にか消えていた。
 会話もないまま、いただきます、とお互いに手を合わせる。カツカツと皿とスプーンの音だけが響いた。雪見障子は開けられたままで、縁側のガラス戸には夜が広がっている。ガラスに反射して、僕と単が映っていた。
「絵の納品が今週末で終わるから、その後、家を出るよ。僕が軽率だった。君に謝りきれない」
「ごめんなさい」
「どうして?」
 遮るように謝った僕に、単は眉をひそめてこちらを見る。初めてしっかりと目が合った。唐突に話し出した単だったが、手が震えている。今でこそ落ち着いて話しているが、朦朧とするまでひどく泣いていたのだ。
 隠したかったのだろう。きっと他人に知れてはならないことだった。何故なら、こんなにも美しい人間がこの世にいるはずがない。その一点において、自分がこの怪異を真に受け入れているのを思い知る。
「君に、過去の改ざんが効かなかった理由はなんだろうね」
 単の声が震えていた。彼は食べのかけのオムライスに視線を落とす。
「だから僕にだけ、あなたの記憶がないんですか?」
「そうだと思う。ごめんね」
 瞳はたちまち陰り、それ以上の説明はない。単がオムライスを黙って食べ続けるのを、僕はただぼんやりと眺めた。
 なにから話し合えばいいのだろう。僕には圧倒的に情報が足りていない。出て行く。謝る――どうして、謝る必要があるのか。過去の改ざんってなんだ。本当にこの男は、天使なんだよな?
「もしかして、あなたはご飯を食べない?」
 言った自分もはっとする。口をついて出る言葉はいつも、相手への配慮に欠けてしまう。
 決して、記憶障害を杞憂したこの一週間の嫌味ではないし、僕が食べ終えてもなお、半分にも満たない量しか食べていない単を、責めた訳でもない。食事する単の姿があまりにも興味深く、目が離せなかったのだ。
 単はぴたりと食事を止めた。陰りのある表情をより一層暗くして僕を見据える。
「なにか、おかしかったかな」
 瞬時に喉の奥が細くなる。そんな顔をさせるつもりはなかった。後悔の中で言葉を探すが、上手く言い訳がまとまらない。
 単は返事を待たずに、食器を持って座卓を離れた。遠ざかる背中を目で追うことも憚れて、僕は情けなく座卓を見下ろす。
 食器を洗う音が聞こえ、やがて止まった。再び単の足音が近付いて来ると、僕は後ろめたさを隠すようにグラスへ手を伸ばした。
「部屋は隣に用意してる」
「ありがとうございます」
 座ったまま単を見上げる。表情から一切の感情もうかがえない。目を合わせないまま僕に背を向け、玄関側の廊下へ消えていった。この家にはもう一室あって、客間が確かあったはずだ。そこが単の自室なのだろう。
 居間はしんと静まり返る。このまま座っていても仕方ないが、自分が傷ついたように動く気力がない。情けなさを振り払うように、頭をゴンっと座卓にぶつけた。
「皿を洗って、風呂に入って、寝る」
 言い聞かせるように声に出し、食器を持って台所へ向かう。
 単が残りを捨てた形跡はなかった。わざわざ確認したのではなく、否が応でもごみ袋が目に入ったのだ。台所にごみ箱が無かったため、買い物袋を代用してシンク横の作業台に置いていた。明日は商店街に下りて、さまざま買い足す必要がありそうだ。
 洗い物を終えて、風呂の用意をする。部屋着を二枚持ってきていてよかった。
 ぬるい湯船に浸かっているときに、シャンプーやボディソープさえないのに気がついた。信じられない! と叫びそうになった衝動を押さえる。ぶくぶくと息を吐きながら、頭まで湯に浸かった。
 一番風呂のように、お湯が汚れていない。埃の一つ、髪の毛一本さえ浮いていない。あれ程、羽は抜け落ちたのに。
 あの人は、はやり天使なのだろう。天使は確か、汚れないはずだから。

 部屋に置いてある布団は、買ったばかりの匂いがした。ゆっくりと体を沈めるように横たわる。ドライヤーなんてあるはずもなく、髪が湿ったままで少し寒い。
 何度も寝返りを打ち、眠ろうと努めたが、どんどん頭が冴えていく。諦めるように目を開け、額に手の甲を当てた。
 縁側と部屋を仕切る雪見障子から、春のおぼろげな満月が覗く。虫が鳴くにはまだ早く、見事に音のない夜だ。
 住み慣れた東京の暮らしは、夜でも人の営みで音が溢れていたし、隣の奈々の部屋では、遅くまで物音がしていた。彼女は夜な夜な、受験勉強に励んでいる。努力家で、優しい自慢の妹だと思う。
 本当に記憶にないの? と、昨晩、奈々に聞かれた。ない、と答えると、これから困るだろうからと、単のことを教えてくれたのだ。思えば、後付けのような話だった。
 生前、長らく両親は子宝に恵まれず、養護施設に通っていた。それは僕も知っている事実であったが、続く説明は記憶になかった。
 当時、両親が気にかけていた子どもが単で、二歳のときに養子に取ると、翌年に自分が生まれたらしい。その四年後に両親は事故で急逝し、僕と単は知世一家に引き取られる。
 単は中高一貫の全寮制に進学し、絵の才能が評価され、卒業後もそのまま渡欧し画家となった。二年前、藤ヶ浜の家をアトリエにしながら、今も海外を転々としている。
 家族仲は良いが、単の意思を尊重して知世も自由にさせている。深いようで上手く浅いような関係が、僕らと単の距離感だった。
 天使にとっては、正体を隠すのに都合が良かったのかもしれない。
「うわ!」
 突然、なにかが落ちてきて顔に覆い被さる。掴むと長押にかけていた制服だった。ポケットに入っていたのか、絆創膏の箱も枕元に転がっている。知世の文字で『気をつけてね』と油性ペンで書いてあった。
 体を起こして、絆創膏の箱を拾い上げる。初日に怪異に遭遇している自分はもはや、なにに気をつけたらいい。怪異を信じようとさえしている自分は、間違っているのだろうか。
 絆創膏の箱を隅に置き、制服を長押にかけ直す。
 知世から、行ってもいいし、行かなくてもいい、と渡された制服だ。まさか一週間で、高校の転入手続きがされているなんて思いもしなかった。
 学ランも中学生ぶりだ。僕は明日、学校に行く選択をするのだろうか。そういえば、風呂に服のまま浸けたのを単に謝り損ねた。無事に朝を迎えられるかどうかも怪しいな――。
 考えることがあまりにも多すぎて、少し泣きたくなってくる。本当に神様がいるのであれば、今までなにも考えず、ただやり過ごすように生きてきた報いとでも言うのか。
「天使がいるなら、神もいるか……」
 小さく独りごちて、布団に深く潜り込む。
 天使がいて、真新しい制服がある。事実はシンプルかもしれない。何事も受け入れると、あれこれ考えたところで無意味だと悟る。起きてしまった事実は、変えられないのだから。
 そうやって幾度と眠れない夜を渡って来たんだ。ゆっくりと目をつむり、体の力を抜く。空に浮かぶように、雲に流されるままに、しんと忍び寄る睡魔に身をゆだねた。