憑いて憑かれておつきあい

 夕陽の赤と影の黒に彩られた、放課後の旧校舎。その廊下を、見えてはいけないものたちが蠢いている。
 もやもやとした黒っぽい物体に、動き回る生物標本のようなナニカ。目と腕がいくつもあって大きな口のある、なんと表現すればいいのかもわからない存在。そしてソレらが発する、囁き声のような、呼び声のような音の羅列。
 どれも見えていない、聞こえないフリをしながら、颯真(そうま)は旧校舎の古い木造の廊下を歩く。『ねえねえねえねえ』と耳元にまとわりついてくる喋るタマゴみたいな何かからそれとなく顔を背けて、彼は小さなため息をついた。
「ここ、旧校舎なんだよな?」
 ただの古びた木造校舎のはずなのに、『奴ら』が多すぎる。
 颯真は『見える』人だった。見えてはいけないもの――颯真は『奴ら』と呼んでいる――が見えてしまう体質、要するに一種の霊感体質だ。幼い頃から、ずっとそうだった。
 『奴ら』はこっちがその存在に気づくと、その縁を伝って襲いかかってくるらしい。
 だから颯真は、小さな頃からずっと連中の存在を無視するようにしてきた。この15年間、いかにも『奴ら』が出そうな場所には、そもそも近づかないようにして生きてきた。
 だというのに、なんだこの旧校舎は。教師にちょっとした雑用を押し付けられて足を踏み入れてみたら、とんだ魔窟ではないか。 『奴ら』を引き寄せてしまうような何かが、この旧校舎にはあるのだろうか。
 足元に落っこちたタマゴっぽい何かを無造作に蹴っ飛ばしながら、颯真は少し歩調を速めた。
 廊下の真ん中、封鎖された正面玄関の向かいにあるオンボロ階段を上って、二階へ。すると二階の廊下の奥、窓からの夕焼けが絶妙に届かない闇の中に、ぽつんと浮かぶように存在する引き戸があった。
 横からガン見してくる『奴ら』とその声を無視しながら、闇の一歩手前まで近づく。
 スマホのライトを向けてみると、「物置」とかすれた印字の施されたプレートが、取り付けられているのが見える。引き戸を這い上がっていたイモリだかヤモリだかみたいな『奴ら』が、突然弾かれたようにどこかに飛んでいった。
 引き戸を開くと、暗闇の中に埃っぽい空気が舞い上がる。窓がないのか、カーテンが閉め切られているのか、中も真っ暗だ。
 入口の脇にあったスイッチをオンにしてみると、不安になるような間があってからようやく電気がついた。
 オレンジ色の頼りない明かりの下、段ボールや折り畳みコンテナ、木製のキャビネットなどが大小問わずに詰め込まれているのがあらわになる。
 ここから目的の物を探すのかとげんなりしたが、よく見ると奥の段ボールからソレが見えていた。教師用の大きな三角定規の予備だ。こんなの職員室に置いとけよと思ったが、まあ言っても仕方ない。
 スマホをしまって一歩足を踏み入れた途端、なんだか物凄く嫌な感じがした。ぞくっとするほど空気が冷たいせいだろうか。
 急いで奥まで行って三角定規を手に取った時、不意にブレザーを引っ張られる感覚がした。
 『奴ら』を警戒しながらそれとなく視線を落とすと、積み上がった段ボールから突き出た指示棒か何かが、ブレザーのボタンに引っかかっている。
 次の瞬間、ブチッという音がしてボタンが飛んでいった。今は諸般の事情で、自分で留め直すために新しいボタンを買うお金すら惜しい。やむなく這いつくばって探していると、キャビネットの下の隙間に入り込んでいるのがわかった。
 スマホのライトで照らしながら、棚の下へと手を差し入れる。
 ひどく生ぬるい何かが、指先に触れた気がした。ぬるくなった生肉に素手で触ったような不愉快な感触に、鳥肌が立つ。
 ずるり、と。
 スマホの投げかける光の輪の中に、這い出てくる。目と、鼻と、口。それらがあるべき場所に、代わりにぽっかりと穴が空いたような何かが。
 途端、ぱたりと止んだ。開け放したままだった扉から聞こえてきていた、『奴ら』の声が。
 ヤバい、と思った。思ってしまった。反応してしまった、目の前の存在に。
 何かの四つの穴が、ぐにゃりと歪む。にぃっと、異様に大きな笑みを浮かべるように。
 気づいた時には、颯真は物置を飛び出して走っていた。
 ヤバい。ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい、絶対にヤバい!
 冷や汗が止まらない、体が震えて止まらない、自分の歯がガチガチと震える音がひどくうるさい。
 今のは、明らかに別格だった。だってその証拠に、廊下にあんなにいた『奴ら』が、一匹残らず居なくなっている!
 『奴ら』の囁きが消えて静かになった廊下を、ぺたぺたという足音が一定のペースを保ったまま追いかけてくる。近づいてくるわけではなく、かといって遠ざかることもないままで。
 ともすれば、やみくもに旧校舎内を走り回りそうになるほどの恐怖。しかしこれまでずっと『奴ら』をやり過ごしてきたおかげで、颯真はひとかけらの冷静さだけは失わずに居た。その冷静さが叫ぶ。
 旧校舎を出ろ、そうすればアイツは追ってこられない!
 入学してからの一カ月弱、旧校舎の外でアイツらしき『奴ら』を見かけたことは一度もなかった。ということは恐らく、アレはなんらかの形で旧校舎と結びついている。
 だから、旧校舎から出てしまえば――
 そこまで考えた時にはもう、颯真は階段を駆け下りていた。踊り場で転びそうになるのをこらえて、駆け下りる。駆け降りる。駆け降りる。駆け降り――あれ?
 物置があったのは、二階だったはずだ。今、階段を何回駆け下りた? どうしていつまでたっても、一階の目印である正面玄関が見えてこない?
 ――まさか。
 パニックを起こしかけた、その時だった。颯真は無人の――『奴ら』も含めて誰もいないはずの廊下、その階段を下りてすぐのところに、誰かが立っていることに気付く。
 制服姿の女子生徒が、きょろきょろと辺りを見回していた。窓からの夕焼けにきらめく長い黒髪と、それとは対照的な真っ白な肌をした、ひとりの女子生徒が。
「んなっ……!?」
 まさか自分以外に生徒が居たとは思わず、颯真は階段を降りる寸前のところで、慌てて立ち止まった。
 それに気付いて、女子生徒が颯真の方へ振り返る。彼女の目に映る颯真はよっぽどひどい様子なのか、恐る恐るといった風に声をかけてきた。
「どうしたの? 顔色悪いし、汗だくだけど――」
「早く出てって、危ないから!」
 女子生徒の言葉を遮って、颯真は叫んでいた。
 『奴ら』は、自分たちに気付いたものを狙う。だがそれは、気付いていない人を巻き込まないことを意味しない。
 今のこの状況なら、彼女は十中八九巻き込まれるだろう。いや、既に巻き込まれているのかもしれない。もう旧校舎から、出られなくなっているのかもしれない。それでも、そう言わずにはいられなかった。
「えっ?」
 きょとんとした顔で颯真を見上げた女子が、ぱちぱちと目を瞬かせる。黒目がちの大きな瞳が、こんな状況だと言うのにひどく愛らしく見えた。
「危ないって、どういうこと? そりゃあ旧校舎だし、あちこち古くなってるけど……」
「いいから! とにかく、その……危ないったら危ないんだよ!」
 詳しい事情を説明している時間はないし、うまく説明できるとも思えなかった。
 だが「危ない」と連呼するだけのふわっとした訴えは、いたずらに彼女を戸惑わせるだけだったらしい。女子生徒は、困惑した様子で颯真を見つめるだけだ。
「くそっ……!」
 これ以上は無駄だ、とにかくせめて彼女から遠ざかるべきだ。そう思った颯真は、危険を承知で階段を上がろうとする。そうして女子生徒に背を向けた、その時だった。
 不意に、手首をつかむ柔らかい感触。かと思うと、颯真は女子生徒に手を引かれていた。
「なっ、ちょ!?」
 バランスを崩しかけたのを持ち直しつつ正面へ向き直った彼に、女子生徒が笑いかける。
「よく知らないけど、危ないんでしょ? だったら君も一緒に、ね?」
 夕暮れを浴びながら微笑む彼女は、こんな状況だと言うのに見惚れてしまうくらいにキレイだった。それに、このまま一緒に居れば彼女も危ないというのに、その笑みには有無を言わせない何かがあった。
 そのまま、彼女に手を引かれて走り出す。だけどやっぱり、既に彼女も巻き込まれていた。あるいは手首を掴まれた時に、巻き込んでしまったのか。
 階段を何度も駆け降りて、それでも一階には降りられなくて。やがてワラにもすがる思いで廊下に出て、それも何十周もしたような気がして。
 気が付くと颯真は、彼女と一緒に見覚えのある部屋に居た。
 オレンジ色の頼りない明かりと、ぞくっとするくらいに冷たい空気。キャビネットの下に置きっぱなしになった、ライトがつけっぱなしのスマホ。
 物置だ。
 顔に四つの穴があいたアイツの、おそらくは巣とでも呼ぶべき場所。今この旧校舎で、おそらくもっとも危険な場所だ。
「だ……だめだ! ここだけはだめだ!」
 そう言って、颯真は女子生徒を連れ出そうとした。だが彼女の身体は、びくともしなかった。
 いや、違う。
 そもそも、颯真の身体が動いていないのだ。その場に縫い付けられてしまったかのように、一ミリも動かない。
 颯真の手首を握ったままの女子生徒が、セーラー服(・・・・・)のスカートをふわりと翻す。
「いいの、ここで」
 振り返って笑みを浮かべる彼女の姿に、颯真の背筋を電流のような寒気が走り抜けた。
 その笑顔が、ぞっとするほど美しかったからだけじゃない。思い出したからだ。この学校の制服は、男女共にブレザーだということを。
「こっちよ」
 女子生徒が、颯真の手を引いて歩き出す。さっきとは打って変わって、彼の身体は何の抵抗もなく引っ張られてしまう。
 その場に踏ん張ろうとしても、彼女の手を振り払おうとしても、何の意味もなかった。彼女についていく以外、身体が動かせないのだ。
 行く手には、ぽっかりと穴が空いていた。物置の壁を乱暴に掘り返したような穴が、大きな口を開けていた。さっき三角定規を取りに来た時には、こんな穴はなかったはずなのに。
 穴の手前まで来ると、女子生徒の肩越しに土の階段が見えた。しかし物置の明かりは奥まで届かず、階段は途中で闇の中に溶けてしまっている。その先に何があるのかは、目を凝らしてみてもわからなかった。
 この穴は、この階段は何なのか。彼女はいったい何者で、何をしようとしているのか。
 今にも爆発しそうな心臓の鼓動に揺れる脳みそに、そんな疑問が次々浮かんでは消えていく。何もかもがわからないように思えて、ひとつだけ答えがはっきりとしていた。
 彼女もまた、『見えてはいけないもの』だったのだ。
「やっと気が付いたの?」
 女子生徒の声が、後ろから聞こえた。ついさっきまで目の前に居たはずの彼女は、もうそこには居ない。
「どーん」
 振り返る間もなく、颯真は穴へ向かって突き飛ばされていた。
 ろくに踏ん張ることもできないまま、穴の中を転げ落ちていく。何度も何度も身体を階段にぶつけて、最後には壁か何かに頭をぶつけて、視界に火花が散ってようやく止まった。
 痛みに呻きながら周囲を見回すと、剥き出しの土の壁が目に入った。物置の明かりも届かない真っ暗闇のはずなのに、土の壁が見えている。
「……なんだよ、これ」
 呟く颯真の声は、震えていた。階段の下は、うすぼんやりとした不気味な光に包まれていたのだ。ワンルームの部屋くらいの空間が、うすぼんやりとした青白い光で照らされている。
 その光の中心に、鎮座しているものがあった。全体を覆い隠すように無数のお札が貼り付けられた、祠のような何かが。
「……っ!」
 目にした途端、息が詰まった。全身を締め付けられるような感覚に、うまく息ができなくなる。手足がかじかんだみたいになって、まともに動かせない。
 鳥肌とか、冷や汗とか、それどころではない。全身が悲鳴を上げている。ここに居たくない、ここに居てはいけないと。
 棚の下に居たアイツとは、比べ物にならないほどの何かがそこに在った。
 颯真は確信する。この旧校舎に『奴ら』が大勢いるのは、この祠のような何かのせいだ。引き寄せられてしまう、けれど決して傍には近寄ることのできない、絶対不可侵の重力のようなものを放っているのだ。
「開けて?」
 不意に聞えてきた声に、背筋が甘く痺れるように震えた。振り返ることはできなかったが、その声と気配だけでわかる。あの女子生徒が居るのだ、颯真のすぐ背後に。
 かと思うと、背中を温かく柔らかいものが包み込む。彼女が包み込むような格好で背中にもたれかかっているのが、その感触だけで理解できた。息遣いを感じるほどの距離で、女子生徒が囁きかけてくる。
 「ね、開けて? その紙切れ、ぜんぶはがして?」
 その声に応えるように、動かせないと思っていた手が勝手に持ち上がった。そして這うようにして祠へ近づいていく身体を、颯真は止めることができない。さっき穴の前まで連れていかれた時のように、颯真の身体は女子生徒の言う事だけを聞いていた。
 ……ぺり。
 気が付くと、颯真は御札を一枚握り締めていた。ぐしゃぐしゃになったソレを、そのまま無造作に投げ捨てる。
 そこから先は、あっという間だった。
 颯真が一枚また一枚とはがすたび、連動するように別の御札がひとりでにはがれ落ちていくのだ。やがて最後の一枚が剥がれ落ちた時、祠の扉が音もなく開いた。
 そこにあったのは、小さく真っ黒な箱だった。黒ずんだ箱が、カタカタと音を立てて小刻みに震えている。
 その箱から、どす黒い何かがにじみ出てきた。まるで、傷口から血がにじむみたいに。箱の震えがどんどん大きく、激しくなっていく。カタカタという音が、どんどん大きく、激しくなっていく。

 震えが止まって、音が途切れる。
 
 直後、箱は勢いよく開いていた。にじみ出ていたどす黒いものが、荒れ狂う濁流となって溢れ出す。
 颯真は見た。高笑いをあげて立ち上がった少女が、満面の笑みを浮かべながらそれを呑み込んでいくのを。
 ごくん、と。
 濁流を最後のひとかけらまで残さず飲み干した彼女は、まるで極上のスイーツでも食べたかのように表情をとろけさせていた。
「ありがとうね、お願い聞いてくれて」
 振り向いた彼女の笑みに、颯真の目は釘付けになっていた。女子生徒が、不思議そうな顔で小首を傾げる。
「……あら? 思ったより怖がらないのね?」
「怖いよ。……けど」
「けど?」
「キレイ、だったから」
 彼女の笑みはおぞましくて、それでいてとてもキレイだった。このまま死ぬとしても、最期に見るのがこの笑顔なら悪くないな、と。そんな風に思えてしまうほどに。
 女子生徒が、ぱちぱちと瞬きをする。それから彼女は、地面へ座り込んだままの颯真へ向かって、ぐっと身を乗り出してきた。
「もう一回、言ってみてくれる?」
「……怖いけど、キレイだったから」
 女子生徒が、ぎゅっと唇を引き結ぶ。妙な間があってから、彼女は「ふぅん」と何度も小さく頷くのを繰り返した。微かに口角が上がっているように見えるのは、颯真の気のせいだろうか。
 その時、穴の入口の方から物音がした。
 振り仰いだ颯真の目に、顔に四つの穴が空いたアイツ、キャビネットの下に居た『奴ら』の姿が映る。今初めて見えたその全身図は、頭だけが異様に大きくてアンバランスな姿をしていた。
 顔に四つの穴の『奴ら』が、階段を下りようと踏み出す。だが四つ穴は、そこでぴたりと動きを止めてしまった。
 安堵よりも困惑が勝った颯真の耳に、女子生徒の呆れたような声が響く。
「いやね、まったく。乙女の部屋を堂々と覗き込むなんて」
 他に何をするわけでもなく、彼女は四つ穴に視線を向ける。すると四つ穴の身体が、ぶるぶると震え出した。目にあたる穴の輪郭がガタガタに歪み、鼻と口の穴がねじ曲がっていく。
 四つ穴が、怯えている。
 颯真が直感した、その直後だった。まさしく恐怖のあまりおかしくなった犬か何かのように、四つ穴が颯真たちを目がけて襲いかかってきた! 目の穴を極端過ぎるツリ目のように歪めて、口の穴を牙をむくように横一文字に引き延ばして――
「邪魔」
 呟く一声と共に、女子生徒がさっと腕を振るう。
 次の瞬間、四つ穴は風に吹かれる花びらのように消え去っていた。断末魔の叫びもなく、跡形もなく、まるで初めからそんなものは存在していなかったかのように。
 女子生徒は、四つ穴が消えた空間を冷めた目で見つめていた。地下を照らす燐光を浴びながら悠然と佇むその姿に、颯真は無意識に呟いている。
「……やっぱり、キレイだ」
 女子生徒の肩が、ぴくりと揺れた。肩越しに颯真を振り返ったかと思うと目を逸らして、髪を指先でくるくるともてあそびはじめた。それから何度もチラチラと、振り返っては目を逸らすのを繰り返す。
 やがて彼女は、長い黒髪をかき上げながらセーラー服を翻して、颯真へ向き直った。ずっと地べたに座り込んだままだった彼に、視線を合わせるようにしゃがみこんで言う。
「気が変わったわ。君に憑いてあげる」
「……へっ?」
 思わず変な声をもらした颯真に、女子生徒は「だから」と笑う。たっぷり数秒ほど、視線を泳がせたり、颯真をチラ見したりする間があってから、ようやく続きを口にする。
「もう、君の全部は私のものよ?」
 どうしてか、少し恥じらうような風だった。