私たちは虚数解です

 放課後の図書館は人が全くいない。別館の三階という最上階に位置するこの場所にわざわざ来る物好きは滅多にいない。この場所はいつ来ても同じ匂いがする。紙と埃と乾いた空気が混ざった,時間の止まった場所の匂い。僕はこの匂いが嫌いじゃない。落ち着く匂い。だから僕は毎日にようにこの図書館に来ている。自分が何を探しているのかはわからない。それでも,僕は毎日窓際の席に座り,借りた本を開き続ける。気がつくと何時間もそこにいる。立ち上がった時に,体の一部が自分のものじゃなくなったみたいに重い。本を読みたいわけじゃない。集中しているわけでも,考え事をしているわけでもない。それでもここにいる。ページをめくる動作だけが惰性みたいに続いている。
「それ,難しい?」
ふと声がして顔を上げる。隣の席に女の子が座っていた。いつからいたのか分からない。
「……いや。」
反射的に答える。実際難しいわけではない。ただ,集中できないだけ。彼女は「そっか」と言って笑った。年齢は僕と同じくらいに見える。しばらく無言の時間が流れた。でも図書館ではそれが普通だ。会話が途切れても,変に気を遣わなくていいし,気まずくならない。僕は無言のまま本に視線を戻した。やはり集中できない。隣を見てみると,彼女は机の上に手を置いてぼんやりとどこかを見ていた。本を読みに来たわけではないのだろうか。
「……本,読まないの?」
思ったよりも自然に言葉が出た。
「うん,今日はいいかな。」
「今日は?」
「うん,今日は。」
理由を聞くべきだったのかも知れない。でも,聞けなかった。なぜか,その答えを知るのが少しだけ怖かったから。ページを一枚めくる。文字の列が相変わらず脳を素通りしていく。
「ねえ」
彼女が発した。
「何?」
「君,よくここ来るよね。」
断定だった。
「…そうかもしれない。」
「癖だと思うよ。考え事する時,君はここに来る。」
「まあ,そうかも…。」
彼女は当然だというかのように頷いた。僕は,その言い方がほんの少しだけ引っかかった。でも,問うほどの違和感ではない。人は初対面でも核心を突くことがある。たぶん,それ。
「…考え事でもしてた?」
「うん,してたと思う。」
「そっか」
それから,沈黙。彼女はそれについて言及しなかった。それが少しだけありがたいような気がした。少し流れた沈黙を彼女が破る。
「それ,面白い?」
彼女が僕の持っている本を指差す。これ内容は全く掴めない。文字を追う行為そのものが目的となっていたから。
「…分からない。」
「最後まで読むの?」
「…分からない。」
なぜか,彼女は満足そうに頷いた。
「それなら,無理しないほうがいい。」
その言い方に,胸が少しだけざわついた気がした。僕は本を閉じた。本の重みが手に残った。
「少し,棚見てくる。」
彼女は立ち上がり僕の後を追ってきた。棚の間を歩く。文学,歴史,哲学。背表紙を眺めていると,時間の感覚が曖昧になる。
「君は,何かを探しているの?」
彼女が僕に問いかける。
「……分からない。」
「分からないものを探してるって顔してる。」
そう言われると否定できなかった。数学の棚の前で僕は足を止めた。ただ無意識に。僕は一冊の本を手に取る。ぱらりと開くと,そこに書いてあったのは短い式一つだけだった。
『 e^(iπ)+1=0』
彼女が本を覗き込んで言う。
「綺麗な式だよね」
「そう?」
「うん、全部集まってる感じがするから。」
「全部って?」
彼女は何かを数えるみたいに指を折った。
「存在しているものも,必要だったものも,全部が入って,最後は0になるの。」
僕は本を閉じて棚に戻す。
「その式,嫌いだな。」
彼女がふと言葉を溢した。
「え、今綺麗って…」
「綺麗って思うのと,好きかどうかは別。」
彼女は少し困ったように笑った。そして続ける。
「全部集めたのに,結局は何も残らないから。」
意味はよく分からなかった。でも,その言葉は胸に引っかかり離れなかった。でも聞いてはいけない,そんな気がした。
 図書館を出る時には外は薄暗くなっていた。彼女は半歩遅れて僕に続く。その位置を選んでいるような気がした。気づいた時には彼女の姿は僕の斜め後ろから消えていた。代わりに,風がひゅっと吹き抜けた。
 その夜,僕は夢を見た。誰かが僕に問いかけている。
「それも,愛なんでしょ?」
その声が誰のものか,どうしても分からなかった。思い出せなかった。ただ,理由のわからない罪悪感だけが胸の奥にへばり付いて残っていた。