アオハル、貸出中

大輝(だいき)! ゲーセン行かね?」
 放課後、帰りの支度をしていると真中翔太(まなかしょうた)が声を掛けてくる。
 「今日はパス」と返したら、翔太は伸ばした襟足に手で触れながら、「何で?」と尋ねてきたけれど、すぐに思い当たったらしい。
秋野(あきの)食堂の手伝いか。よ、跡取り息子!」
 茶化す翔太の脇腹を拳でぐりぐりしてやった。秋野食堂というのは、俺の親がやっている食堂だ。商店街の真ん中にあって、下が店舗、二階が住居になっている。
「継ぐわけねーだろ、あんなダセェ店」
「今日せっかく新しいゲーム入んのになぁ」
「また今度な」
 教室の時計を見た。十五時半を少し過ぎている。ひらひら手を振りながら廊下に出た。
(……まだ早ェよな)
 せめて四時になるまでは待つか。
 下校する生徒たちとは逆走する形で屋上への階段を登った。踊り場の隅っこに腰を下ろし、時間が過ぎるのを待つ。
 少しずつ、廊下の喧騒が落ち着いていくのがわかった。みんな口々に、腹減った、だの、塾ダリィ、だの言いながら下校していく。
 しばらくしてからもう一度、スマホで時間を確認した。
(……もういけんだろ)
 腰を上げ、階段を降りた。念のため、角から廊下を見渡す。
 目当ての部屋は渡り廊下の先にある。人がいないことを確かめてから、早足で歩いた。こんなところを誰かに見られるわけにはいかない。
 もし見られたら中学の時みたいに、「根暗」「ダサい」と揶揄われるのがオチだ。
(……高二にもなって、さすがにそんなこと言うヤツいねーかな)
 何とか誰ともすれ違うことなく渡り廊下を通り抜け、その先にある奥まった部屋の前に辿り着く。
 古めかしい木の扉はやけに重そうで、開けたら軋んだ音が響くんじゃないか、と思ってしまった。その思いが取っ手に手をかけることを躊躇させる。
 ふーっと深呼吸をした。キョロキョロと辺りを見回してから、意を決して扉を開けた。
 軋みそうな見た目のくせに、扉は思っていたよりもずっと大人しく、呆気なく開いた。
 鼻先を擽ったのは古い紙とインクの匂いだ。
(……初めて入ったな)
 図書室に一歩、足を踏み入れてから部屋の中に視線を巡らせる。右手に貸出カウンター、部屋の中央には大きめの机が並んでいた。
 本棚は壁に沿う形で設置されている。窓がないからかそびえ立つように並んでいて、迫力があった。
(誰もいない……)
 ホッと胸を撫で下ろした時、カウンターの奥からひとりの生徒が出てきた。
 積み上げた本を両腕で抱えていて、前が見えていないようだ。
 カウンターの上に大量の本をどさりと置いたあと、その生徒は眼鏡の奥からじろりと俺を見上げた。
(うわ、最悪)
 全然知らない生徒だったらよかったのに、残念なことに知った顔だ。もっとも、知っているのは顔と名前だけで、クラスメイトなのに口を聞いたこともない。
 ──茨木律(いばらぎりつ)は俺を一瞥すると、まるで俺なんか見えていないみたいにふいっと顔を背け、カウンター内の椅子に座った。
 カウンターには『図書委員 茨木律』と書かれた札が置いてある。
(感じ悪すぎるだろ)
 確かに別に仲のいいクラスメイトではないけれど、ここまで露骨に顔を背けられるとは。
(……俺、割と誰とでも仲良くなれるタイプだと思うけど、コイツとは無理かも)
 そんなことを考えていた時だ。
「図書室には漫画はないけど?」
 無愛想な一言が耳に届いた。
 は? まさか俺に言ってる?
 つか見た目で判断しただろ。髪染めてピアス開けてるようなヤツの目当てなんて、どうせ漫画だろうって?
 カチンときた。茨木を見下ろす。椅子に座ったまま眉根を寄せて、パソコンの画面と先ほど自分が運んできた本を照らし合わせている。「カタブツ」という言葉が頭に浮かんだ。
(……いや、俺も見た目で判断してるな)
 息を吐いて気持ちを落ち着かせる。
「漫画目当てじゃねーよ」
 すると茨木は漸く俺に視線を寄越した。
「じゃあ何しに?」
「何しにって、……なぁ、あのさ、図書室って本読む以外にきちゃダメなとこか?」
 茨木はちょっとだけ目を丸くしてから、小さく咳払いをした。
 それから備え付けの引き出しを開け、一枚の紙を取り出してカウンターの上に置いた。
「図書室の決まりごと。全部書いてあるから、読んでから利用して」
 そう言うとまた椅子に座り、作業を再開させた。俺は紙を手に取り、上から順に目を通す。
「えー、第一項、図書室では静かにする。第二項、飲食禁止。第三項、貸出の手続きをしてから本を持ち帰る。第……」
「ねぇ」
 そこまで読み上げた時、茨木が割って入った。
「黙読して。すでに第一項を破ってる」
 慌てて口を噤む。残りを目で追ってから、「質問」と挙手した。
「……なに?」
「本を読む以外に使ってはいけない、とは書かれてねーんだけど、いいのかよ?」
 すると茨木は少し目線を宙に投げた後、真っ直ぐ俺を見据え、深呼吸をひとつしてから言った。
「……図書室は、みんなの居場所だから。決まりごとを守って利用する分には、本を読んでも読まなくても自由だよ」
「……ふぅん。そっか」
 決まりごとが書かれた紙を手に、カウンターを離れる。
 近くの机に移動し、椅子に座って本棚を眺めた。
 しばらくすると、茨木が本を捲ったり、パソコンのキーを叩いたりする音だけが図書室内に広がる。
(……静かだ)
 窓がないからか、それとも図書室が校舎の外れにあるからなのか、グラウンドの声も聞こえなかった。
(しばらく行く場所ねーなって軽く絶望してたけど……)
 ここなら、希望通りに静かに過ごすことができそうだ。
 ちらりとカウンターに目をやる。茨木は作業に一生懸命で、目は合わなかった。


 結局、あの後も下校時間になるまで図書室には誰も来なかったし、茨木と会話することもなかった。
 図書室を出る時に「じゃあな」と一応声をかけたけれど、茨木は俺を少し見ただけだ。
(図書委員の愛想がないことを除けば、いい場所だったな)
 そう思い返しながら帰路につく。
「ただいま」
 ガラガラとうるさい音を立てるガラス戸を開けると、その音に負けないデカさで客が笑い合っていた。
 慌ただしく調理する音も、奥の厨房から押し寄せてくる。常連客のひとりが「(だい)ちゃんおかえり!」と言った。会釈しながら厨房横の階段を登る。
 自分の部屋に入ってベッドにダイブした。
(あー……うるせぇ……)
 昔からこうだ。大衆食堂を営む両親の元に生まれたせいで、俺の日常は常にやかましい。
 酒が入ったオッサンたちのデカい笑い声と、調理器具のガチャガチャしたハーモニー。賑やかなのは嫌いじゃないけれど、毎日コレだとさすがにしんどい。
 そんな俺が小学生の頃に、癒しの場所として通っていたのが図書室だった。
 放課後に立ち寄り、宿題をしたりたまに本を読んだりして、自分なりの「静かな時間」を楽しんでいた。
 中学に上がってからも図書室に通った。ところがある日、クラスのヤツらに言われてしまった。
「秋野って真面目くんだよな」
「図書室通うとか何アピール?」
「根暗かよ、ダセェ」
 ありがちな揶揄いをモロに受けた。
 それ以来、図書室には行かなくなった。馬鹿にされるのは嫌だったし、ダサいと思われるのも嫌だった。だけど家が騒がしいことに変わりはない。考えた末、放課後の居場所は市の図書館になった。
 その図書館がリニューアルされることを知ったのは少し前だ。再開は一年後らしい。
 行き場を探して、思い出したのが図書室だった。昔のことがあって抵抗はあったけれど、背に腹はかえられない。
 腹を括って出向いた先で出会ったのが、茨木だ。
(アイツ、下校までひとりだったけど、図書委員って他にいねーのかな)
 その時、スマホが着信を知らせた。どうせ翔太だろう。
「もしもし、大輝?」
 案の定だ。ベッドにうつ伏せていた身体をごろりと反転させる。
「何か用か?」
「面白い噂聞いたからさ、大輝にも教えてやろうと思って」
「噂?」
「実はウチの高校の図書室にさぁ」
 ピンポイントで言われて内心ギクリとした。じっくり溜めを作ってから翔太が言う。
「未亡人がいるんだってよ」
「……は?」
「未亡人だよ。図書室の未亡人」
 未亡人、未亡人と連呼されなくたって聞こえている。高校の図書室にそんな噂、どうやったらできるんだよ。
「未亡人〜?」
 半笑いで反芻した。翔太もげらげら笑いながら続けた。
「そういう幸薄そうな図書委員がいるんだとよ、儚げで繊細な感じの」
 絶対美少女に決まってるよな、と翔太は言うけれど、俺の頭の中はハテナだらけだ。
 俺が目撃した図書委員と同一人物とは思えない。
(茨木本人は知ってんのかな)
 知っていても知らなくても、どっちにしても笑えるな、と思った。


 初めて図書室に入ったあの日から、週に二回のペースで通うようになった。
 茨木は相変わらず無愛想で素っ気ないけれど、俺としては「秘密の居場所」を発見した気持ちだった。
 茨木には何度か話しかけてみた。
「図書委員って茨木だけ?」とか、「忙しいのか?」とか、他愛のないことだ。そのどれもにツンと顔を背けて、「委員は他にもいるけど、全員サボり」「暇そうに見える?」と応えた。
 意外と返事はしてくれる。自分からは話しかけてこないけれど。
 俺はというと、本当に特にすることもなく、ぼんやり図書室の空気を味わっているだけだ。
 たまに気が向いて本棚を物色したりする。雑誌や料理の本もあって、捲るだけでも案外楽しい。
 その本は、そんなふうに本棚に並ぶ背表紙を眺めていた時、ふと目に止まった。
 見つけた文庫本二冊を持って、カウンターの茨木の元へ駆け寄る。
「なぁ、これ、真ん中抜けてんだけど」
 俺が見つけたのは、上中下巻三冊セットの文庫本だった。
 どうしてセットだと気がついたのかというと、背表紙のデザインが途中で途切れていたからだ。
「え? ……ほんとだ。この本の周りになかった?」
「なかったと思う。ちゃんと見てねーけど」
 俺の言葉を聞き終える前に、茨木はカウンターから出てきて、文庫本が並んでいた本棚に直行した。
 本を見ただけで、どの棚に分類されているのかわかるらしい。俺も後ろからついて行くことにした。
 棚の前に辿り着いた茨木は、上下の棚を指で追ってから溜息を吐いた。
「ない……」
 独り言みたいに呟いたかと思えば、またカウンターへと戻る。パソコンを操作した後、肩を大きく落とした。
「え、何だよ、なんか問題?」
「……君は図書委員じゃないでしょ。君には関係ないことだよ」
「見つけてやったの、俺なのに?」
 茨木が口をぎゅっと閉じる。言葉に詰まったらしい。
 カウンターに身を乗り出し、茨木を見下ろした。好奇心からつい口元がニヤける。
「で? なに?」
「……何でそんな嬉しそうなわけ? ……返却登録はされてる。つまり、あるはずの本がないってこと」
「誰か勝手に持って帰ったとか?」
「そんなヤツがいたとしたら、出禁の上に市中引き回しだよ」
「キレすぎだろ」
 大人しそうな見た目からは考えられない言葉が飛び出して、反射で突っ込んでしまった。
 そんな俺の声は耳に入っていないのか、茨木は悔しそうに唇を噛んで、「どこにいったんだろう」と呟いている。
「返却済みってことは、どっかにあるんじゃねーの? 別の棚とか」
「返却された本を所定の位置に戻してるのは僕だ。絶対に違う棚になんか戻さない」
 茨木はそう言ってから、背表紙を俺の目の前に突き出した。著者名の下に番号が書かれたシールが貼ってある。
「この分類番号と書架の番号は連携してる。間違うなんてあり得ない」
「お前が間違えたんじゃなくてさ、こう……立ち読みしながら他の本棚に移動して、移動先の棚にひょい、みたいな」
 嫌そうに眉を顰めた茨木が俺を見上げる。
「君、そんなことしてるの?」
「してねーし。例えだ、例え」
 矛先が俺に向きそうな気配を察知して、誤魔化すために上巻を捲った。真ん中辺りに栞が一枚挟まれている。
「栞みっけ」
「私物の栞は挟まないでって決まりごとに書いてるのに……」
 げんなりしている茨木を横目に、下巻も捲った。こっちにも栞が挟まれていた。
「下巻にも挟まれてんな、……あれ?」
 二枚の栞を見比べる。上巻と下巻に挟まれていたのは、同じ風景写真から切り取られた栞だ、……と思ったけれど、よく見ると少し違う。二枚をカウンターの上に並べた。
「……真ん中がない」
 上巻に挟まれていた栞が写真の左側、下巻に挟まれていた栞が写真の右側に当たる。
 茨木も立ち上がって栞を見つめた。
「三連栞だね」
「さんれんしおり」
「三枚繋げると一枚になる栞。僕も三連作を読む時なんかに使うんだけど……」
 そこまで言ってからまたパソコンの画面を睨む。
「……でも、借りたのは別の人だ」
「え?」
「上下巻は、記録上は同じ人が借りてた。でも中巻は別の人が借りて、返却してる。時期も全然違うんだ」
「貸し出し記録って誰が借りたか、名前わかんの?」
「ううん。このパソコンでは利用者番号がわかるだけ。どんな本を借りたかは個人情報だから。……勿論、利用者番号がわかれば利用者の氏名はわかるけど、利用者名簿は先生が別で保管してるから、図書委員でもわからない」
 茨木は不安そうな顔でそう呟いた。
「三連の栞のうち、二枚が上下巻から見つかったんだから、真ん中の栞は中巻に挟まってるだろ、普通」
「……僕もそう思うよ」
「なら同じ人間が借りたってことだろ」
「そう思うけど、記録上はそうじゃない」
 困惑している茨木とは裏腹に、何だかワクワクしてきたのを自覚した。
「こういうの、前にもあったのか?」
「……ないわけではないけど」
 そこで目が合った。次の言葉はふたり同時に口にしていた。
「楽しいよな」
「面倒くさいよね」
 視線を合わせる。茨木は遠慮なく俺をじろじろ見て、「楽しいわけないでしょ」と零す。その態度に噴き出しそうになった。
「お前、意外と失礼だよな、自覚なさそうだけど」
「君も大概だと思う」
 真顔で返してくるからやっぱり笑いそうになる。とっつきにくそうなヤツ、と最初は思ったけれど、案外そうでもないのかもしれない。
「……探すよ」
 茨木がぽつりと落としてカウンターから出てきた。「探そうよ」でも「探すの手伝って」でもなく、「探すよ」が何となく茨木の性格を物語っている気がした。
「俺も探す」
「え?」
「ひとりよりふたりで探した方が見つかる率、高いだろ」
「……図書委員でもないのに?」
 ちらりと窺うような視線を投げてくる。
「決まりごとには、図書室で探し物をしてはならない、って書いてなかったと思うけど」
 ニヤリと口角を上げると、茨木は「いい性格してるよね」と言った。
「この部屋のどこかにはあるはずなんだ」
「オッケー。んじゃ、俺、あっちから探す」
 そう言って入り口のドアとは反対を指差した。茨木はこくりと頷き、俺と正反対の方……カウンター周りから探し始める。
(っつってもなぁ……、俺は勝手に持って帰った説が一番あり得ると思うんだよな)
 だけどそんなことをもう一度言おうもんなら、茨木に市中引き回されるのは俺かもしれない、……それは冗談だとしても、出禁くらいは本気でやりそうだ。
 本棚の隙間や、検索用のパソコンが置いてある机を探した。
 一方の茨木は棚の分類番号を指で辿りながら、一冊一冊を隈なく見ている。
 俺が隅っこのゴミ箱の中をチェックしている時、背後から声をかけられた。
「さすがにそこにはないでしょ……」
「お前こそ何で全部の本引き抜いて探してんだよ」
「全部じゃない。大きめの本だけだよ。なくなったのは文庫本だから、大きめの本に挟まってしまってる可能性だってある」
 なるほど、と思った。俺にはない発想だ。
 その後もふたりで探したけれど全然見つからなくて、茨木が俯き、小さな声で「……君の言う通り、持って帰られたのかな」と零した時、下校のチャイムが鳴った。
「遅くまでありがとう。明日また探すよ」
 茨木は上巻と下巻をカウンターの上にそっと置く。
「なぁ、必死に探さなくても、新しく買えばいいんじゃねーの?」
 文庫本ならそんなに高いわけでもない。返却の記録が残っている以上、図書委員に責任はないし、買い直しを希望したところで問題はないはずだ。
 すると茨木は真っ直ぐに俺を見据えた。
「図書室の本、どうやって揃えるか知ってる?」
「いや、全然」
「市が割り振った予算の中から選書して購入するんだ。一校辺り、年に三十万円くらい」
「……少なくね?」
 素直に感じたまま言ってみる。茨木は眉尻を少し下げた。
「うん、少ないよ。だから当然、リクエストされた本を全部買うなんてできない。ここにはいろんな人が寄贈してくれた本もあるんだ」
 茨木の指が、下巻の背表紙を優しく撫でる。大切なものに、丁寧に触れている。そんな指先だった。
「……いろんな人って?」
「在校生、卒業生、それから先生も。だからちゃんと探したい。無駄にしていい本なんて、ここには一冊もないから」
 買い直せばいい、なんて、浅はかなことを言った自分が恥ずかしくなった。
 それを隠したくて、隅に積まれた本の山に手を伸ばし、探すのを再開する。
「もういいよ、下校の時間だし」
 茨木が少し焦ったみたいに言った。
「さっきのは下校の予鈴が鳴っただけだろ。本鈴が鳴るまでは探すぞ」
 俺の言葉に茨木がふっと息を吐く。少しの間の後、「うん」と小さな返事が返ってきた。
 カウンターの中に俺が入っても、茨木は何も言わなかった。
 貸し出しを管理するパソコンの右隣にはプリンターラックが置いてある。
「この下、見たか?」
「……見てないけど、でもそんなとこにあるわけないし……」
「わかんねーぜ? 返却された本を大量にカウンターに積んで、一冊ずつバーコード読み取ってる時に、うっかり落ちたとか」
 想像するより確認した方が早い。俺がラックをずらすと、立ち尽くしていた茨木も反対側を支えた。
「せーの、で動かすぞ」
 頷く茨木を確認してから、せーの、と声を出す。古いプリンターが乗っかっているせいでめちゃくちゃ重かった。
 何とか動かし、ふたりで下を覗き込む。
「──あ!」
 綺麗にハモった。視線の先には文庫本が一冊。手を伸ばした茨木が、慎重に本を引っ張り出す。
「……あった」
 安堵した声で呟いた。紛れもなく、探していた中巻だった。
「諦めなくてよかったな」
 笑顔を向けると、茨木は顎を引いてから「ありがとう」と言った。
「しっかし、疲れたなぁ……」
 どっと力が抜ける。隣で茨木もふーっと大きく息を吐き、「疲れたね」と零す。
「楽しかったな」
「大変だったよね」
 また同時に口にした。しかも全然違うことを、だ。笑うしかない。
 ふと見ると茨木は眼鏡をかけていなかった。
「あれ? お前、眼鏡は?」
「外した。探す時に邪魔になるから」
「は?」
 普通、探す時こそ眼鏡かけるだろ。
 眉根を寄せると、茨木は口を尖らせて「……伊達眼鏡なんだよ」と呟いた。
「伊達? なんで?」
「……図書委員といえば、眼鏡のイメージない?」
 もうダメだ。今度こそ、ぶはっと噴き出して笑った。
「お前、自分がどんな噂されてるか知ってんのか?」
「噂?」
「図書室の未亡人って呼ばれてんだぞ。儚げで繊細そうで幸薄そうだからって。どっこが未亡人だよ、笑かすな!」
「僕が望んだあだ名じゃないし。そもそも男子高校生に未亡人ってつけるセンスが最悪なだけでしょ」
 ド正論をしれっと言うから、ますます可笑しかった。一頻り笑った後、見つかった中巻をパラパラ捲る。中には三連栞の真ん中の部分が挟まっていた。
「なぁ、これ、中巻は別の人間が借りたんだろ? でも栞はやっぱりあの三連が挟まってる。普通は三冊セットなら一気に借りると思うんだよな。栞から考えても同じヤツが読んだのは間違いないのに、何で記録と合ってねーの?」
 素朴な疑問だった。三冊同時に借りれば、記録は同じ利用者番号が残るはずだ。だけど現実は中巻のみ、最後に借りた人間は別になっている。
 茨木は「ああ……」と零してから続けた。
「上下巻を借りた三連栞の持ち主は、……きっと中巻だけを図書室内で読んだんだね」
「え?」
「そして今度は別の誰かが、上下巻は図書室で読んで、中巻だけを借りたんだと思う。だから記録では別の人が真ん中だけを借りたみたいに見えたんだよ」
「なんでそんな面倒なことを……いっぺんに借りりゃいいのに」
 つい本音が口をつく。そんなの人の勝手でしょ、とか何とか言われるだろうな、と想像した時、茨木の穏やかな声が図書室内に響いた。
「図書室はそういうところだよ。借りて読んでも、その場で読んでもいい。飽きたら途中でやめてもいい。買って読む本だとそういうわけにはいかないけど、図書室の本はそれでいいんだ」
 茨木のその言葉は、静かに、だけど確実に、俺の胸を打った。


 三連栞の一件以来、図書室に通う頻度が上がった。
 市の図書館の代わりに、渋々図書室を放課後の居場所に選んだだけだったのに、これは俺にとっても予想外だ。
 茨木はこれまで通り、外側は無愛想のままだったけれど、内側をちょっと知った今は「伊達眼鏡をかけた、無自覚失礼なヤツ」という印象になった。
 この日も放課後、図書室に向かった。渡り廊下の先には掲示板がある。
 何気なく横目で見ながら通り過ぎようとした時、ピタリと足が止まった。
 掲示板に釘付けになる。貼られていた紙を引ったくるみたいにして剥がした。
(……なんだよ、これ)
 書いてある文章を何度も読み返したけれど、全然頭に入ってこない。
 自然と早足になって、気づけば走っていた。図書室のドアを乱暴に開ける。カウンターにはいつもと同じ、茨木がいて、眉を顰めて俺を見た。
「もっと静かに開けて」
 つかつかとカウンターに向かい、その上に掲示板から剥がした紙を叩きつけた。
「これ何だよ」
 茨木は紙に目を落とすと、瞳を伏せてから「なにって、この通りだよ」と零す。
「この通りってお前……なんでだよ、図書室、閉鎖すんのか? 本当に?」
 紙の一行目には『図書室閉鎖のお知らせ』とあった。その下には理由がつらつらと書かれていて、最後の行には『来春閉鎖予定』とある。
「……仕方ないんだよ。司書の資格を持ってる先生が、来年から産休に入るんだ」
「司書? それがないと図書室やれねーの?」
「……必須の資格ではないと思う。けど、あるに越したことはないよ」
 緩く首を左右に振る茨木を見て、妙な焦りが俺の中に芽生えた。
「でも、普段だって全然来てねーだろ。お前が管理してんじゃん。今更司書がどうのって……」
「それに、利用者が少ないからね。……どっちにしろ、学校側が決めたことなんだ。僕にはどうにもできない」
 茨木の声からは、抵抗しよう、という気持ちが微塵も感じられなかった。聞き分けのいい優等生のような顔で、俺を諭すみたいな口調で話している。
「お前それでいいのかよ。茨木、図書室好きだろ?」
「好きだよ」
「じゃあ何で」
「僕にできることがないんだから、受け入れるしかないでしょ」
 伏せていた顔を上げて茨木が言った。声はしっかりしていたのに、その瞳が揺れている。真一文字に結んだ唇に、悔しい気持ちを滲ませていた。
(……茨木が、一番悔しいに決まってる)
 どんなに納得がいかなくても、学校が決めたことを生徒の俺たちでどうにかできるわけがない。
(──本当にそうか?)
 がむしゃらに動けば、もしかしたら何かが変わるかもしれない。
「……茨木!」
 カウンター越しに茨木の両肩を掴む。茨木はビクッと肩を跳ね上げて、こわごわ俺を見上げた。
「諦めんのは足掻いてからでも遅くねーだろ」
 茨木がきゅっと唇を噛む。何かを我慢しようとしている顔に見えた。
「足掻く前に諦めんなよ、あの時諦めてたら中巻は永遠に見つからなかったんだぞ」
 ハッと息を呑む気配があった。茨木と視線を重ね合わせる。
「図書室の閉鎖、撤回させるぞ」
「……秋野」
「ここがないと、俺も困るんだよ」
 やっと手に入れた居場所を失いたくない。そのためなら全力で抵抗して、足掻けるだけ足掻いてやる。
 茨木が大きく深呼吸をした。
 何も言わずに、右手を差し出してくる。それで充分だった。
 その手をきつく握り返す。静かな図書室から、始まりの音が確かに聞こえた。