文化祭当日。
早朝からリンゴに飴をコーティングする作業がある為、七時に学校に集まって作業をする予定になっている。故に、俺もそれに間に合うよう六時半には準備万端で玄関を出た。
夜の帳が上がりきっていない紺色の空は、僅かに東の方からオレンジ色のグラデーションを描いている。澄んだ冷たい空気を肺に送り込み、吐いた息は白く染まる。
「響、まだ来てないのか」
いつもなら俺が玄関を出た瞬間に『金さん、おはよー!』と、響の明るい挨拶が聞こえるのだが、今日は声どころか姿も見えない。
学校に集まる時間帯が早過ぎて寝坊したのだろうか。そうであって欲しいと、門扉を出た俺は願望のように響の家に続く道に目をやる。
二ヵ月前の俺なら、一人で学校に行けてラッキーとばかりに心を躍らせて登校していただろう。しかし、今は違う。
その場で五分ほど待ってから、俺は爪先を学校とは反対側に向けた。刺すように冷たい風を遮るようにポケットに手を突っ込みつつ、大股で歩く。最近は響の歩幅に合わせてゆっくりペースだった俺だが、一人ということもあって動かす足は速い。否、理由はそれではない。漠然とした不安が胸にあるからだ。
――昨日はあの後、早川と宇野が髪の毛の引っ張り合いをするなどの喧嘩をしている横で、俺を含めた残りのメンバーでリンゴ飴の下準備をやり切った。しかし、張り付けた笑みを浮かべていた響は三つほど失敗していた。
高校生が作るリンゴ飴なので、多少失敗しても問題はない。時倉なんて、最初から失敗続きで成功したのは十個中二個だ。問題なのは、響が失敗をしたという点。初めから丁寧に作業をしていた響は一度も失敗していなかったのに、早川の一言から明らかに様子がおかしかった。
『清水。あんたのせいで計画全部台無しになっちゃったじゃない!』
あれは早川の八つ当たりだ。誰が見たってそう思う。それなのに、自分のせいだと言われた響は口数が極端に減った。話しかけられれば応えるので、俺以外は気付いていないようだった。けれど、この二か月ずっと一緒にいる俺なら、それが異常なことくらいすぐに分かる。
嫌な予感が的中しませんようにと『清水』と書かれた表札に目を向け、呼び鈴を鳴らす。ピンポーンと中から聞こえてくる音は、我が家の軽やかな音色とは違い、厳かに響く。
「はい」
そこから聞こえてきたのは、響のものと似ている高めの声。
「えっと、響君いますか? 高校の友達の金山です」
名乗れば、門が自動的に開いた。驚きながらも、少しばかりの好奇心から中を覗き込む。
門の向こうに見えるのは、純和風の平屋の建物。そこに辿り着くまでも距離がありそうで、松や紅葉などの木が植えられた立派な庭があった。
中から誰か出てくるのだろうかと思って待ってみるが、誰も出てくる様子はない。更には、インターホンのスピーカから繋がっていると分かるあの独特な音も聞こえない。
これは、入れということだろうか。暫し悩んだ末に、俺は恐る恐る門の中へと足を踏み入れた――。
ここに来る時とは違ってゆっくりと緊張した面持ちで歩けば、背後で門が閉まったのが分かった。感動する反面、静かすぎてホラーだ。
落ちた紅葉の葉を踏みつけながら玄関へと向かえば、引き戸がガラガラッと音を立てて開いた。
「ひび……」
そこに立っている人に、響と言いかけて口を閉じた。代わりに違う人の名を呼んだ。
「雅……さん?」
そこには、紺色の浴衣を着た響そっくりの雅の姿があった。優しく微笑んで頷く姿も瓜二つだ。双子と聞かされていなかったら、確実に見間違う程そっくりな容姿。それを俺が見抜けたのは、単なる勘。制服姿で出てこられたら、確実に響だと思って話しかけていたことだろう。
「あの、響君は……」
「まだ寝てると思います」
「どこか体調でも……?」
雅は首を横に振った。
「昨日何かあったのか、夜遅くまで電気がついてたので。後から行くと思いますよ」
「そうですか」
先に学校に行くと伝えてもらおうとしたが、俺の口からは別の言葉が発せられた。
「少し、お話ししても良いですか?」
「僕と……ですか?」
やや大きく見開かれた瞳は、すぐに細められた。
「もちろん。中へどうぞ」
「ありがとうございます」
雅に誘導され、玄関の中へと足を踏み入れた。
いつもなら雑に脱いで放ったらかしの靴も、丁寧に並べて端に寄せる。二十足以上は入りそうな横に長い靴箱に目をやり、ふと長谷川らに響の靴を隠された時のことを思い出す。
『僕、あの一足しか靴持ってないんだよね』
これだけ玄関も広く、見るからに金持ちの家で育って、靴を一足しか持っていない。そんなことがあり得るのだろうか。
――もしや、虐待……?
その二文字が脳裏をよぎった。
よくよく思い返すと、食事に関してもそうだ。昼はしっかりと食べていると言った響だが、朝と夕食に関しては誤魔化していた。朝は抜く人もいるが、夜も抜く人はあまりいない。更には、俺の家に泊まりに来た時の発言。
『どうせ僕なんて、いてもいなくても誰も気付かないから』
これは、黒よりのグレーだ。
それを悟られまいと、響は必死で元気に振る舞っていたのだろうか。
しゃがんだまま考え事をしていたら、雅が怪訝な顔を向けてきた。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ、こんな立派な家に入れて、感動してて……」
ひとまず誤魔化したが、ここにいる雅は大丈夫なのだろうか。病弱で学校にも行けていないと聞いたが、そのまま自宅で放置されているのでは?
静かな廊下を歩き、奥へ進む途中に台所が見えた。物音がしないので、誰もいないのだろう。
「あの、失礼ですが御両親は?」
まだ朝の七時前なので、寝ている可能性も十分にある。若しくは、仕事か。
雅は、一番奥の部屋の襖を開けながら応える。
「父は出張で、母も朝早くから仕事へ」
「そうですか」
長方形の大きな漆の机の前に座布団を敷かれ、そこに座る。
「お茶を淹れて来ますね」
「あ、大丈夫です。水筒持って来てるんで」
大きな一.五リットルサイズの水筒を見せれば、雅が呆気に取られたように固まった。
「…………」
「…………」
目をパチクリと見合わせて、やらかしてしまったことに気付く。
雅は礼儀として茶を振る舞おうとしただけ。ここは『お構いなく』で良かったのだ。その後の行動は向こうに任せるのが常識。しかも、一.五リットルの水筒なんて『湯呑みなんかじゃ足りねー』と、遠回しに言っているようにも聞こえる。更には、雅が飲みたくても飲めない状況を作り上げている。
「えっと、すみません……お構いなく」
時は既に遅いかもしれないが、改めてクッション言葉を口にすると雅はフッと笑った。
「では、このままで失礼します」
雅も机の向こう側に座布団を敷いて、その上に正座した。
「えっと、なんかマジですみません」
「大丈夫です。それより、その話し方やめません? 同い年ですよね?」
「そ、そうですね」
敬語からタメ口に直して話す瞬間というのは、どうも苦手だ。これをすんなりと熟す人は、俺の中で尊敬に値する。
「で? 僕に話って何?」
すんなりと熟す人が目の前にいたので、思わず小さく音の出ない拍手をしてしまった。雅が、きょとんとしている。
「何してるの?」
「あ、いや、すごいなと思って……」
拍手してしまったことに照れながら、静かに両手を膝の上に乗せる。
「えっと、話という話はないんだけど……響って、いつもああなの?」
「『ああ』……とは?」
「ずっと笑って、止めどなく話して、無駄に周りに気を配って、計算高くて、可愛い顔して……」
「腹黒いよね」
「いや……」
俺はそこまで言ってない。そこまで言ってないからな。
どこかで響に聞かれているのではないかと思い、心の中で言い訳する。
「あれは、僕のせいなんだよね」
「雅……君の?」
「雅で良いよ。なんか、金さんに君付けされると変な感じ」
「響、家で俺のこと話してんの?」
親子間は分からないが、兄弟仲は悪くないと言っていたので学校から帰ったら逐一話したりしているのかもしれない。そう思ったのも束の間、雅は平然と言った。
「全く。お兄ちゃんは、学校のことは気を遣って話してこないから」
「じゃあ、なんで『金さん』って? あれは、響しか呼ばないんだけど」
「そうなの? 金山君だから、通称金さんじゃ」
「じゃねぇよ! 普通に金山って呼べよ」
既視感も既視感だ。響と出会った当初と全く同じ現象が起こった。しかも、同じ顔が言うものだから、同じツッコミを入れてしまったではないか。これがいわゆる双子マジック。
朝からテンションが上がりそうになるのを押さえ、咳払いして話を戻す。
「オホンッ。で、響の腹黒いのが雅のせいっていうのは?」
「僕が病弱っていうのは……?」
「聞いてる。詳しいことは知らないけど」
改めて見ると、雅は響そっくりであるものの、その顔は血色が薄いように見える。部屋の光が柔らかいので気のせいの可能性も十二分にあるが、病弱という情報があるため、それは目の錯覚などではないのだろう。
「両親が僕にばっかり構って、僕優先になったんだ」
「それでネグレクト的な?」
「ネグレクト? それはないよ。僕優先ではあるけど、母も父も、ちゃんとお兄ちゃんのことも気にしてるから」
それを聞いてホッと胸を撫で下ろす。
響の両親に言われたら嘘ではないかと疑っていたかもしれないが、双子の弟が嘘を吐くとも思えない。
「でも、響が靴を一足しか持ってないとか、昼ごはんしかちゃんと食べてないとか……」
「それは、僕らも苦慮しているところだよ」
「その言い方だと、響が自らそれを望んでやってるようだけど」
「金山君の言う通りだよ」
「あー……」
心底どうでも良いのだが、この流れで『金山君』と呼ばれることに違和感しかない。先程のくだりがあったのだから、響のように『金さん』を貫き通して欲しかった。誠に遺憾ではあるが、俺は視線を雅から外して言った。
「金さんで、頼む」
「なにが?」
「呼び方。自分で金山って呼ぶように言ったけど、その……なんだ。響に言われてるようで、むず痒い」
顔を赤くさせながらチラリと雅を見れば、クスッと笑われた。
「良いよ。金さん、面白いね。お兄ちゃんが友達に選ぶのも分かるよ」
「そ、そうか?」
――ヴー……ヴー……。
鞄の横のポケットに入れていたスマホのバイブ音が鳴った。
「悪い」
「うん、どうぞ」
軽く頭を下げてからスマホを取り出すと、加藤からの着信だった。
「もしもし」
『もしもし、金山君? 集合時間過ぎてるよ』
壁にかかっているアンティークな時計を見れば、既に七時十分を指していた。
「あー、悪い。寝坊した」
『清水君も来てないんだけど、誰も連絡先知らなくて。金山君、知ってる?』
「誰も? あれだけみんなと仲良くやってて誰も知らねぇの?」
俺は初日に半強制的に連絡先を交換されたので、てっきり他の連中とも連絡先を交換しているものだとばかり思っていた。とはいえ、連絡先云々は今は関係ない。俺は響の家にいるのだから。
「俺が出る時、迎えに行ってから行くわ。悪いけど、先にやってて」
『分かった。早く来てね。僕だけじゃ対処困難だよ……』
対処困難とは……?
疑問に思いながらも電話を切ろうとしたその時、奥から早川の声が聞こえてきた。
『ほら、加藤。ボサッとしてたら飴が固まるでしょ!』
加藤も耳から受話器を少し離していたよう。声が遠くに聞こえる。
『ご、ごめん。僕、長谷川君達と一緒にしようって……』
『長谷川と私、どっちが大事なの!?』
『長谷川君……い、いえ。早川さんです』
今は加藤と二人きりではないだろうに早川が素で喋っているということは、陰キャ女子を演じるのをやめたのだろう。もしかしたら、髪型も変わっているかもしれない。
早川の復讐劇は終わっていないかもしれないが、宇野も時倉も悪気があって猫の心を死に追いやった訳ではないことは事実。悪気がなかったら何をしても良いのかと早川に言われそうだが、今回ばかりは良いことにしてあげたい。むしろ、それで人生を狂わされそうになった宇野らが不憫にさえ思えるくらいだ。
俺は静かに電話を切って、畳の上にポンと置いた。
「ごめん。で、何の話だっけ」
雅に向き直れば、切なげな表情を浮かべていた。
「雅……?」
もう一度声をかけると、雅はハッと我に返ってからニパッと笑顔を浮かべた。
「あ、ごめん。なんだっけ」
その顔は、響そっくりだった。双子だからではなく、その感情の出し方が響とまるで同じ。何かを我慢している時の顔。
雅と自身のスマホを交互に見てから、憶測を口にする。
「もしかして、雅。学校……行きたい?」
「そんな、僕は……禁止されてるから」
「何も知らない俺が言ったら怒らすかもだけど……それは、少しも外に出られない病気なのか?」
暫しの沈黙の後、雅は悔しそうな、それでいて諦めたような表情で首を横に振る。
「食べ物の制限は多少あるけど、基本的には他の人と変わらない。お兄ちゃんとも変わらない。僕と同じ病気でも、社会に出て働いてる人もいる。けど……」
虎の絵が描かれた高級そうな掛け軸を見て、雅は肩をすくめた。
「うちってこんなでしょ? 家から出る必要はないんだって。高校に行って、大学に行って、就職する必要もない……」
「それは……」
人権を奪うことになるが、可愛い息子のことを考えたら当たり前のことなのかもしれない。
漫画やドラマでは、こういう場面に遭遇してしまったら、友人の親に一言物申すシーンが良く描かれている。しかし、実際にはそんなこと出来るはずもない。度胸の問題も勿論あるが、それは大切に思うからこその選択だから……だから、部外者がずけずけと入って良いわけがない。
「この病気が治ることは?」
「今の医学ではないかな。有名な先生のいる病院を転々としてるんだけど、どこも同じ。難病指定されてるから無理なのは分かり切ってるんだけど、それでも諦めたくないんだって。結局この間も入院になっちゃってさ」
「入院……」
それを聞いて、先日の体育祭の後の響の異常なまでのハイテンションを思い出す。
「もしかしてだけど、俺たちが体育祭の日?」
「あー、多分そうかな。どうして?」
「響が変だったから……家に帰りたくなさそうな感じだった」
雅は、俯き加減に息を一つ吐いた。
「多分それも僕のせい。お母さんもお父さんも別にお兄ちゃんを責めてるわけじゃないのに、責められてる気分になるんだと思う」
俺が暗い表情をしていたからか、雅はヘラリと笑った。
「でも、金さんのおかげで、お兄ちゃん前より元気そうだよ」
「それなら良いけど……」
「それに、僕だって中学までは通ったんだよ。義務教育だからって」
「そう……なんだ」
どう返すのが最善なのか分からない。俺には相槌を打つことしかできない。
ただ、色々と分かったことがある。響が食事をしようとしない理由。贅沢をしない理由。そして、一人で勝手に自責の念に駆られている理由も――。
「響って、どこの部屋?」
腰を上げて聞けば、雅は俺の方の壁を指差した。
「この二つ隣だけど?」
「サンキュ。ちなみに、雅。今の体調は? 外に出ても問題ない感じ?」
「うん。平気だけど」
「んじゃ、一つだけお節介させて」
鞄を肩に提げた俺は、襖を開けて廊下に出た。雅も怪訝な顔で付いてくる。
「もしかして、お兄ちゃんの部屋行く気?」
「そろそろ行かねぇと面倒な仕事任されそうだしな」
「けど、自分から出てくるのを……」
雅の忠告も聞かず、俺はノックの代わりに「コンコンコン」と言ってから、響の部屋の襖を開けた。
響は眠っていたようで、十畳はある広い和室の部屋の真ん中に敷かれた布団が、もぞもぞと動いた。
「響、学校行くぞ」
「ん……」
井草の香りを嗅ぐ間もなく、俺は響の頭元まで近寄ってしゃがんだ。
「響、起きろ。ちょっと提案があるんだけど」
「金さん、しっかり起きてからじゃないと……」
雅が言ったと同時に、虚ろな瞳をした響に睨まれた。
「俺に指図すんな」
「あ……そうだった」
響は無理矢理起こすと、超が付くほど面倒臭い男だったのを忘れていた。
「お兄ちゃん、中学の時グレちゃって。無理に起こすと、その時の人格になるみたい。それから僕ら別で寝てるんだ」
「それを先に……」
「何度も忠告したじゃん」
「そうでした」
この後、響がしっかり覚醒するまで、俺が仔犬のように体を縮こまらせてやり過ごしたのは言うまでもない。
早朝からリンゴに飴をコーティングする作業がある為、七時に学校に集まって作業をする予定になっている。故に、俺もそれに間に合うよう六時半には準備万端で玄関を出た。
夜の帳が上がりきっていない紺色の空は、僅かに東の方からオレンジ色のグラデーションを描いている。澄んだ冷たい空気を肺に送り込み、吐いた息は白く染まる。
「響、まだ来てないのか」
いつもなら俺が玄関を出た瞬間に『金さん、おはよー!』と、響の明るい挨拶が聞こえるのだが、今日は声どころか姿も見えない。
学校に集まる時間帯が早過ぎて寝坊したのだろうか。そうであって欲しいと、門扉を出た俺は願望のように響の家に続く道に目をやる。
二ヵ月前の俺なら、一人で学校に行けてラッキーとばかりに心を躍らせて登校していただろう。しかし、今は違う。
その場で五分ほど待ってから、俺は爪先を学校とは反対側に向けた。刺すように冷たい風を遮るようにポケットに手を突っ込みつつ、大股で歩く。最近は響の歩幅に合わせてゆっくりペースだった俺だが、一人ということもあって動かす足は速い。否、理由はそれではない。漠然とした不安が胸にあるからだ。
――昨日はあの後、早川と宇野が髪の毛の引っ張り合いをするなどの喧嘩をしている横で、俺を含めた残りのメンバーでリンゴ飴の下準備をやり切った。しかし、張り付けた笑みを浮かべていた響は三つほど失敗していた。
高校生が作るリンゴ飴なので、多少失敗しても問題はない。時倉なんて、最初から失敗続きで成功したのは十個中二個だ。問題なのは、響が失敗をしたという点。初めから丁寧に作業をしていた響は一度も失敗していなかったのに、早川の一言から明らかに様子がおかしかった。
『清水。あんたのせいで計画全部台無しになっちゃったじゃない!』
あれは早川の八つ当たりだ。誰が見たってそう思う。それなのに、自分のせいだと言われた響は口数が極端に減った。話しかけられれば応えるので、俺以外は気付いていないようだった。けれど、この二か月ずっと一緒にいる俺なら、それが異常なことくらいすぐに分かる。
嫌な予感が的中しませんようにと『清水』と書かれた表札に目を向け、呼び鈴を鳴らす。ピンポーンと中から聞こえてくる音は、我が家の軽やかな音色とは違い、厳かに響く。
「はい」
そこから聞こえてきたのは、響のものと似ている高めの声。
「えっと、響君いますか? 高校の友達の金山です」
名乗れば、門が自動的に開いた。驚きながらも、少しばかりの好奇心から中を覗き込む。
門の向こうに見えるのは、純和風の平屋の建物。そこに辿り着くまでも距離がありそうで、松や紅葉などの木が植えられた立派な庭があった。
中から誰か出てくるのだろうかと思って待ってみるが、誰も出てくる様子はない。更には、インターホンのスピーカから繋がっていると分かるあの独特な音も聞こえない。
これは、入れということだろうか。暫し悩んだ末に、俺は恐る恐る門の中へと足を踏み入れた――。
ここに来る時とは違ってゆっくりと緊張した面持ちで歩けば、背後で門が閉まったのが分かった。感動する反面、静かすぎてホラーだ。
落ちた紅葉の葉を踏みつけながら玄関へと向かえば、引き戸がガラガラッと音を立てて開いた。
「ひび……」
そこに立っている人に、響と言いかけて口を閉じた。代わりに違う人の名を呼んだ。
「雅……さん?」
そこには、紺色の浴衣を着た響そっくりの雅の姿があった。優しく微笑んで頷く姿も瓜二つだ。双子と聞かされていなかったら、確実に見間違う程そっくりな容姿。それを俺が見抜けたのは、単なる勘。制服姿で出てこられたら、確実に響だと思って話しかけていたことだろう。
「あの、響君は……」
「まだ寝てると思います」
「どこか体調でも……?」
雅は首を横に振った。
「昨日何かあったのか、夜遅くまで電気がついてたので。後から行くと思いますよ」
「そうですか」
先に学校に行くと伝えてもらおうとしたが、俺の口からは別の言葉が発せられた。
「少し、お話ししても良いですか?」
「僕と……ですか?」
やや大きく見開かれた瞳は、すぐに細められた。
「もちろん。中へどうぞ」
「ありがとうございます」
雅に誘導され、玄関の中へと足を踏み入れた。
いつもなら雑に脱いで放ったらかしの靴も、丁寧に並べて端に寄せる。二十足以上は入りそうな横に長い靴箱に目をやり、ふと長谷川らに響の靴を隠された時のことを思い出す。
『僕、あの一足しか靴持ってないんだよね』
これだけ玄関も広く、見るからに金持ちの家で育って、靴を一足しか持っていない。そんなことがあり得るのだろうか。
――もしや、虐待……?
その二文字が脳裏をよぎった。
よくよく思い返すと、食事に関してもそうだ。昼はしっかりと食べていると言った響だが、朝と夕食に関しては誤魔化していた。朝は抜く人もいるが、夜も抜く人はあまりいない。更には、俺の家に泊まりに来た時の発言。
『どうせ僕なんて、いてもいなくても誰も気付かないから』
これは、黒よりのグレーだ。
それを悟られまいと、響は必死で元気に振る舞っていたのだろうか。
しゃがんだまま考え事をしていたら、雅が怪訝な顔を向けてきた。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ、こんな立派な家に入れて、感動してて……」
ひとまず誤魔化したが、ここにいる雅は大丈夫なのだろうか。病弱で学校にも行けていないと聞いたが、そのまま自宅で放置されているのでは?
静かな廊下を歩き、奥へ進む途中に台所が見えた。物音がしないので、誰もいないのだろう。
「あの、失礼ですが御両親は?」
まだ朝の七時前なので、寝ている可能性も十分にある。若しくは、仕事か。
雅は、一番奥の部屋の襖を開けながら応える。
「父は出張で、母も朝早くから仕事へ」
「そうですか」
長方形の大きな漆の机の前に座布団を敷かれ、そこに座る。
「お茶を淹れて来ますね」
「あ、大丈夫です。水筒持って来てるんで」
大きな一.五リットルサイズの水筒を見せれば、雅が呆気に取られたように固まった。
「…………」
「…………」
目をパチクリと見合わせて、やらかしてしまったことに気付く。
雅は礼儀として茶を振る舞おうとしただけ。ここは『お構いなく』で良かったのだ。その後の行動は向こうに任せるのが常識。しかも、一.五リットルの水筒なんて『湯呑みなんかじゃ足りねー』と、遠回しに言っているようにも聞こえる。更には、雅が飲みたくても飲めない状況を作り上げている。
「えっと、すみません……お構いなく」
時は既に遅いかもしれないが、改めてクッション言葉を口にすると雅はフッと笑った。
「では、このままで失礼します」
雅も机の向こう側に座布団を敷いて、その上に正座した。
「えっと、なんかマジですみません」
「大丈夫です。それより、その話し方やめません? 同い年ですよね?」
「そ、そうですね」
敬語からタメ口に直して話す瞬間というのは、どうも苦手だ。これをすんなりと熟す人は、俺の中で尊敬に値する。
「で? 僕に話って何?」
すんなりと熟す人が目の前にいたので、思わず小さく音の出ない拍手をしてしまった。雅が、きょとんとしている。
「何してるの?」
「あ、いや、すごいなと思って……」
拍手してしまったことに照れながら、静かに両手を膝の上に乗せる。
「えっと、話という話はないんだけど……響って、いつもああなの?」
「『ああ』……とは?」
「ずっと笑って、止めどなく話して、無駄に周りに気を配って、計算高くて、可愛い顔して……」
「腹黒いよね」
「いや……」
俺はそこまで言ってない。そこまで言ってないからな。
どこかで響に聞かれているのではないかと思い、心の中で言い訳する。
「あれは、僕のせいなんだよね」
「雅……君の?」
「雅で良いよ。なんか、金さんに君付けされると変な感じ」
「響、家で俺のこと話してんの?」
親子間は分からないが、兄弟仲は悪くないと言っていたので学校から帰ったら逐一話したりしているのかもしれない。そう思ったのも束の間、雅は平然と言った。
「全く。お兄ちゃんは、学校のことは気を遣って話してこないから」
「じゃあ、なんで『金さん』って? あれは、響しか呼ばないんだけど」
「そうなの? 金山君だから、通称金さんじゃ」
「じゃねぇよ! 普通に金山って呼べよ」
既視感も既視感だ。響と出会った当初と全く同じ現象が起こった。しかも、同じ顔が言うものだから、同じツッコミを入れてしまったではないか。これがいわゆる双子マジック。
朝からテンションが上がりそうになるのを押さえ、咳払いして話を戻す。
「オホンッ。で、響の腹黒いのが雅のせいっていうのは?」
「僕が病弱っていうのは……?」
「聞いてる。詳しいことは知らないけど」
改めて見ると、雅は響そっくりであるものの、その顔は血色が薄いように見える。部屋の光が柔らかいので気のせいの可能性も十二分にあるが、病弱という情報があるため、それは目の錯覚などではないのだろう。
「両親が僕にばっかり構って、僕優先になったんだ」
「それでネグレクト的な?」
「ネグレクト? それはないよ。僕優先ではあるけど、母も父も、ちゃんとお兄ちゃんのことも気にしてるから」
それを聞いてホッと胸を撫で下ろす。
響の両親に言われたら嘘ではないかと疑っていたかもしれないが、双子の弟が嘘を吐くとも思えない。
「でも、響が靴を一足しか持ってないとか、昼ごはんしかちゃんと食べてないとか……」
「それは、僕らも苦慮しているところだよ」
「その言い方だと、響が自らそれを望んでやってるようだけど」
「金山君の言う通りだよ」
「あー……」
心底どうでも良いのだが、この流れで『金山君』と呼ばれることに違和感しかない。先程のくだりがあったのだから、響のように『金さん』を貫き通して欲しかった。誠に遺憾ではあるが、俺は視線を雅から外して言った。
「金さんで、頼む」
「なにが?」
「呼び方。自分で金山って呼ぶように言ったけど、その……なんだ。響に言われてるようで、むず痒い」
顔を赤くさせながらチラリと雅を見れば、クスッと笑われた。
「良いよ。金さん、面白いね。お兄ちゃんが友達に選ぶのも分かるよ」
「そ、そうか?」
――ヴー……ヴー……。
鞄の横のポケットに入れていたスマホのバイブ音が鳴った。
「悪い」
「うん、どうぞ」
軽く頭を下げてからスマホを取り出すと、加藤からの着信だった。
「もしもし」
『もしもし、金山君? 集合時間過ぎてるよ』
壁にかかっているアンティークな時計を見れば、既に七時十分を指していた。
「あー、悪い。寝坊した」
『清水君も来てないんだけど、誰も連絡先知らなくて。金山君、知ってる?』
「誰も? あれだけみんなと仲良くやってて誰も知らねぇの?」
俺は初日に半強制的に連絡先を交換されたので、てっきり他の連中とも連絡先を交換しているものだとばかり思っていた。とはいえ、連絡先云々は今は関係ない。俺は響の家にいるのだから。
「俺が出る時、迎えに行ってから行くわ。悪いけど、先にやってて」
『分かった。早く来てね。僕だけじゃ対処困難だよ……』
対処困難とは……?
疑問に思いながらも電話を切ろうとしたその時、奥から早川の声が聞こえてきた。
『ほら、加藤。ボサッとしてたら飴が固まるでしょ!』
加藤も耳から受話器を少し離していたよう。声が遠くに聞こえる。
『ご、ごめん。僕、長谷川君達と一緒にしようって……』
『長谷川と私、どっちが大事なの!?』
『長谷川君……い、いえ。早川さんです』
今は加藤と二人きりではないだろうに早川が素で喋っているということは、陰キャ女子を演じるのをやめたのだろう。もしかしたら、髪型も変わっているかもしれない。
早川の復讐劇は終わっていないかもしれないが、宇野も時倉も悪気があって猫の心を死に追いやった訳ではないことは事実。悪気がなかったら何をしても良いのかと早川に言われそうだが、今回ばかりは良いことにしてあげたい。むしろ、それで人生を狂わされそうになった宇野らが不憫にさえ思えるくらいだ。
俺は静かに電話を切って、畳の上にポンと置いた。
「ごめん。で、何の話だっけ」
雅に向き直れば、切なげな表情を浮かべていた。
「雅……?」
もう一度声をかけると、雅はハッと我に返ってからニパッと笑顔を浮かべた。
「あ、ごめん。なんだっけ」
その顔は、響そっくりだった。双子だからではなく、その感情の出し方が響とまるで同じ。何かを我慢している時の顔。
雅と自身のスマホを交互に見てから、憶測を口にする。
「もしかして、雅。学校……行きたい?」
「そんな、僕は……禁止されてるから」
「何も知らない俺が言ったら怒らすかもだけど……それは、少しも外に出られない病気なのか?」
暫しの沈黙の後、雅は悔しそうな、それでいて諦めたような表情で首を横に振る。
「食べ物の制限は多少あるけど、基本的には他の人と変わらない。お兄ちゃんとも変わらない。僕と同じ病気でも、社会に出て働いてる人もいる。けど……」
虎の絵が描かれた高級そうな掛け軸を見て、雅は肩をすくめた。
「うちってこんなでしょ? 家から出る必要はないんだって。高校に行って、大学に行って、就職する必要もない……」
「それは……」
人権を奪うことになるが、可愛い息子のことを考えたら当たり前のことなのかもしれない。
漫画やドラマでは、こういう場面に遭遇してしまったら、友人の親に一言物申すシーンが良く描かれている。しかし、実際にはそんなこと出来るはずもない。度胸の問題も勿論あるが、それは大切に思うからこその選択だから……だから、部外者がずけずけと入って良いわけがない。
「この病気が治ることは?」
「今の医学ではないかな。有名な先生のいる病院を転々としてるんだけど、どこも同じ。難病指定されてるから無理なのは分かり切ってるんだけど、それでも諦めたくないんだって。結局この間も入院になっちゃってさ」
「入院……」
それを聞いて、先日の体育祭の後の響の異常なまでのハイテンションを思い出す。
「もしかしてだけど、俺たちが体育祭の日?」
「あー、多分そうかな。どうして?」
「響が変だったから……家に帰りたくなさそうな感じだった」
雅は、俯き加減に息を一つ吐いた。
「多分それも僕のせい。お母さんもお父さんも別にお兄ちゃんを責めてるわけじゃないのに、責められてる気分になるんだと思う」
俺が暗い表情をしていたからか、雅はヘラリと笑った。
「でも、金さんのおかげで、お兄ちゃん前より元気そうだよ」
「それなら良いけど……」
「それに、僕だって中学までは通ったんだよ。義務教育だからって」
「そう……なんだ」
どう返すのが最善なのか分からない。俺には相槌を打つことしかできない。
ただ、色々と分かったことがある。響が食事をしようとしない理由。贅沢をしない理由。そして、一人で勝手に自責の念に駆られている理由も――。
「響って、どこの部屋?」
腰を上げて聞けば、雅は俺の方の壁を指差した。
「この二つ隣だけど?」
「サンキュ。ちなみに、雅。今の体調は? 外に出ても問題ない感じ?」
「うん。平気だけど」
「んじゃ、一つだけお節介させて」
鞄を肩に提げた俺は、襖を開けて廊下に出た。雅も怪訝な顔で付いてくる。
「もしかして、お兄ちゃんの部屋行く気?」
「そろそろ行かねぇと面倒な仕事任されそうだしな」
「けど、自分から出てくるのを……」
雅の忠告も聞かず、俺はノックの代わりに「コンコンコン」と言ってから、響の部屋の襖を開けた。
響は眠っていたようで、十畳はある広い和室の部屋の真ん中に敷かれた布団が、もぞもぞと動いた。
「響、学校行くぞ」
「ん……」
井草の香りを嗅ぐ間もなく、俺は響の頭元まで近寄ってしゃがんだ。
「響、起きろ。ちょっと提案があるんだけど」
「金さん、しっかり起きてからじゃないと……」
雅が言ったと同時に、虚ろな瞳をした響に睨まれた。
「俺に指図すんな」
「あ……そうだった」
響は無理矢理起こすと、超が付くほど面倒臭い男だったのを忘れていた。
「お兄ちゃん、中学の時グレちゃって。無理に起こすと、その時の人格になるみたい。それから僕ら別で寝てるんだ」
「それを先に……」
「何度も忠告したじゃん」
「そうでした」
この後、響がしっかり覚醒するまで、俺が仔犬のように体を縮こまらせてやり過ごしたのは言うまでもない。



