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――1月6日、都内某所。
俺は奇対室のふたりと共に、時雨君がいるという分室の扉の前に立っていた。
公安部はそれぞれ、一見そうとは分からないところに分室を構えていることが多いといわれている。柊にもまた、複数の拠点があるそうだ。
某マンションの一室であるこの分室はほぼ時雨君専用らしく、ほとんどの時間をここで過ごしているらしかった。
「よっ」
「こんにちは~」
「失礼します」
三者三様の挨拶をしながらメインルームへと入室する。こちらへ背を向ける形でゲーミングチェアに座っていた時雨君が、くるりとこちらを向いた。
メインルームは白を基調とした広いワンフロアで、大きな書類棚や観葉植物がある他は余分な私物などが一切ない。時雨君のいる最奥のデスクには、2台の大きなデュアルモニターが設置されていた。
「どうも。それは一旦そこに置いてもらえれば」
言われるままに、資料が入った箱を部屋の中央にある4人掛けテーブルの上へ置いた。
「ちょっと視させもらいます。飲み物はいつものセルフ式でどうぞ」
「はーい。みんなコーヒーでいいかな?」
「はい。俺も手伝います」
それはいいからふたりのやりとりでも聞いていなよと言い残し、清水君は迷いなくキッチンの方へと向かっていった。勝手知ったるなんとやらである。
時雨君は黒い手袋をはめて、紙の書類を取り出した。束を雑にめくった後すぐに戻し、今度はふたつのUSBメモリーとスマートフォン入りの密閉袋を持って、デスクへと向かう。
花守室長が目配せしてきたので頷くと、座った時雨君の両後ろ脇についた。
ふと何かが視界の端で光った気がしてそちらを見やると、昨日話していた家紋入りの金バッジが机の上に転がっていた。

「行ってきたんですよね。状態は?」
「予断を許さない状態だ。集中治療室にいる関係で、移送の手続きを済ませるのにも苦労したよ」
「あー、ですよね。もうひと月も経ってるし」
分室に来る前、俺たちは荻原美香が入院する総合病院へと足を運んでいた。彼女は、絶対安静の状態で集中治療室に入っていた。
泡を吹いて救急搬送されたのが12月3日。しばらく意識不明の重体だったそうだ。
しかし数日が経った頃に突如として目を覚まし、喉を搔きむしりながら激しく痙攣しだした。不可解なことに、意識不明の間には絶対に生じていなかった謎の炎症が口腔内に拡がっていたのだという。
喉を掻きむしっていたのは、食道にも同様の炎症が拡がっていたためだと思われる。
医師は炎症が消化管全体に及んでいるのではと考えたが、内視鏡検査をするにはあまりにも本人の負担が大きいと判断し、実施されていない。
加えて、発現した症状はそれだけではなかった。全身の皮膚に、赤いただれのような点状の傷が現れたのだ。
病理に出しても、原因となるような菌等は見当たらない。細菌感染により生じたものというよりも、まるで何かに触れて火傷したかのような、熱傷に近いものなのだという。
しかし、キッチンで火傷したのならまだしも、救急隊員が荻原美香を救助した場所は寝室のベッドの上だ。周囲に火傷の原因となるものは見られなかった。
複数の科をまたぐような原因不明の症状に、目の当たりにした医師もこのようなケースは見たことがないと頭を抱えていた。
現在は鎮静剤を投与しほぼ眠った状態でいるが、薬効の切れ目に意識が浮上してしまうと、どうしても錯乱状態に陥ってしまうらしい。
このような状態で許可できるはずがないだろうと、移送することに猛反対された。人命を預かる医療従事者の反応として至極真っ当なものである。
最終的に院長が出張ってくる事態にまで発展し、俺は内心かなりはらはらしていた。しかし、ふたりだけで話をしてくると言って院長室へ入っていった花守室長は、最終的にきっちりと許可証を携えて出てきたのだ。
どうやって説得したのかと聞けば、「本当は使いたくないんだがな、どうしたって最終手段として紋所を見せることもあるのさ」と浮かない顔で言っていた。
「ひと月という期間は、やはり大きいんですか」
「うん。ものすごく」
あちらでは時の流れなどあってないようなもので、現世の時間軸で考えても無意味だと時雨君は言った。
こちらで1日が経過する間に向こうでそれよりも遥かに長い時が経過していたとしても何ら不思議ではない、ということだ。
「それじゃ、常田實の日記に未来の日付で書かれていたのは……」
「本当にそれだけの時を向こうで過ごしていたってことです。こっちではものの数日しか経過していなかったとしても、ね。なんなら過去の記憶も改変されてる。なんか2年も付き合ってることになってたでしょ」
時雨君が、パソコンを操作する手を止めてくるりとこちらを向いた。
「それで、どうして向こうの日記やアカウントがこちらのスマホにも同期されてるのかってとこですけど。大分初めの段階から過干渉してきてる感じがすごいんですよね」
「初めの段階?」
そこまで聞いたところで、ちょうど清水君がキッチンから戻って来た。
「コーヒー淹れてきましたよ~。話はどんな感じですか?」
「おう、さんきゅ」
盆に乗せられたカップを受け取り、花守室長が今話していた内容を伝えた。
「――なるほど。あ、どうぞ続けてください」
「で、初めからっつーのはどういうことだ?」
「向こうがガチガチに囲いに来ているっていうか、常田實は相当気に入られていたと思うんですよ。恐らく荻原美香と破局するもっと前から目を付けられていて、入り込む隙ができるまで今か今かと待っていたんじゃないかと」
心にぽっかりと穴があくという表現があるが、荻原美香の浮気を知って以降の常田實は、まさにその状態だったのだと時雨君は言った。
そして、その穴からするりと中へ入り込まれてしまった。
「もっと言えば、穴があくよう巧妙に事を運んでいる」
時雨君は、心に入られるということはどういうことなのかを、部屋に例えて説明してくれた。
ひとり暮らしの部屋を想像すると分かりやすいが、誰しもセキュリティの要である家の玄関を開けっ放しにしておくことの危険性は理解できるだろう。もし鍵が掛けられていなければ、誰彼構わず入りたい放題になってしまう。
「それじゃ、浮気されたショックで心の部屋の鍵が壊れてしまったと?」
「まぁ、ものすごく簡単に言えばそんな感じです。常田實の場合は元々自我が薄い質であることや、他の要因が絡み合っての結果ではあるけど」
実際に暮らしている部屋も、心と連動しているのだそうだ。疲れたり余裕がなくなったりすると部屋が荒れるのは、心の状態が反映されているからだと教えてくれる。
特に自室――最もプライベートな空間に置かれている物はその者の人と成りを如実に表していて、それでいうと常田實の部屋には、恐らく恋人だった荻原美香に関する物がたくさん置かれていただろうと時雨君は言った。
たしか日記にそのような記述があったと記憶している。よくも悪くも他者の影響を受けやすく、相手に同調できるので協調性は高いが、自分というものがあまりない性質だと言えた。そして、少なからず本人にもその自覚はあったようだ。
「これらの日記は一見、夢の中に作り上げた理想の彼女、理想の生活に浸って現実逃避をしているだけに見えますよね。でも、この逃避先はただの夢なんかじゃない。この日記を書き始めた時点ではもう、彼は常世に片足を突っ込んでいる状態だったんです」
荻原美香の色に染まった物たちが撤去された後、彼の心の部屋はまさに出入り自由のがらんどうになった。内装も何もかも好きにしてくれといっているも同然の、危険な状態だったということだ。
時雨君が、モニターに映し出された荻原美香のインステグラムのスクリーンショット画像を指さして言った。
「荻原美香も同時期に夢を見ているでしょ。未来日記に登場していた“美香”は夢経由であちらに呼ばれていた本人です。常田實への執着心を捨てきれない彼女に仲睦まじいところを見せつけたり、邪淫に対する刑罰を与えたりすることでかなり強めの警告を発しています。手放したお前が悪い、もう彼はこちらのものなんだ、と」
それを聞いて肌が粟立つ。
「夢というのは、まさに間のなかに存在しています。現世と常世の中間に位置し、肉体を有する生きた人間ですらも簡単に常世へとアクセスできてしまう。厄介な領域ですよ、ほんと」
国に代わり柊が相対しているのは、常世の国である底根之國の者たちだった。
――1月6日、都内某所。
俺は奇対室のふたりと共に、時雨君がいるという分室の扉の前に立っていた。
公安部はそれぞれ、一見そうとは分からないところに分室を構えていることが多いといわれている。柊にもまた、複数の拠点があるそうだ。
某マンションの一室であるこの分室はほぼ時雨君専用らしく、ほとんどの時間をここで過ごしているらしかった。
「よっ」
「こんにちは~」
「失礼します」
三者三様の挨拶をしながらメインルームへと入室する。こちらへ背を向ける形でゲーミングチェアに座っていた時雨君が、くるりとこちらを向いた。
メインルームは白を基調とした広いワンフロアで、大きな書類棚や観葉植物がある他は余分な私物などが一切ない。時雨君のいる最奥のデスクには、2台の大きなデュアルモニターが設置されていた。
「どうも。それは一旦そこに置いてもらえれば」
言われるままに、資料が入った箱を部屋の中央にある4人掛けテーブルの上へ置いた。
「ちょっと視させもらいます。飲み物はいつものセルフ式でどうぞ」
「はーい。みんなコーヒーでいいかな?」
「はい。俺も手伝います」
それはいいからふたりのやりとりでも聞いていなよと言い残し、清水君は迷いなくキッチンの方へと向かっていった。勝手知ったるなんとやらである。
時雨君は黒い手袋をはめて、紙の書類を取り出した。束を雑にめくった後すぐに戻し、今度はふたつのUSBメモリーとスマートフォン入りの密閉袋を持って、デスクへと向かう。
花守室長が目配せしてきたので頷くと、座った時雨君の両後ろ脇についた。
ふと何かが視界の端で光った気がしてそちらを見やると、昨日話していた家紋入りの金バッジが机の上に転がっていた。

「行ってきたんですよね。状態は?」
「予断を許さない状態だ。集中治療室にいる関係で、移送の手続きを済ませるのにも苦労したよ」
「あー、ですよね。もうひと月も経ってるし」
分室に来る前、俺たちは荻原美香が入院する総合病院へと足を運んでいた。彼女は、絶対安静の状態で集中治療室に入っていた。
泡を吹いて救急搬送されたのが12月3日。しばらく意識不明の重体だったそうだ。
しかし数日が経った頃に突如として目を覚まし、喉を搔きむしりながら激しく痙攣しだした。不可解なことに、意識不明の間には絶対に生じていなかった謎の炎症が口腔内に拡がっていたのだという。
喉を掻きむしっていたのは、食道にも同様の炎症が拡がっていたためだと思われる。
医師は炎症が消化管全体に及んでいるのではと考えたが、内視鏡検査をするにはあまりにも本人の負担が大きいと判断し、実施されていない。
加えて、発現した症状はそれだけではなかった。全身の皮膚に、赤いただれのような点状の傷が現れたのだ。
病理に出しても、原因となるような菌等は見当たらない。細菌感染により生じたものというよりも、まるで何かに触れて火傷したかのような、熱傷に近いものなのだという。
しかし、キッチンで火傷したのならまだしも、救急隊員が荻原美香を救助した場所は寝室のベッドの上だ。周囲に火傷の原因となるものは見られなかった。
複数の科をまたぐような原因不明の症状に、目の当たりにした医師もこのようなケースは見たことがないと頭を抱えていた。
現在は鎮静剤を投与しほぼ眠った状態でいるが、薬効の切れ目に意識が浮上してしまうと、どうしても錯乱状態に陥ってしまうらしい。
このような状態で許可できるはずがないだろうと、移送することに猛反対された。人命を預かる医療従事者の反応として至極真っ当なものである。
最終的に院長が出張ってくる事態にまで発展し、俺は内心かなりはらはらしていた。しかし、ふたりだけで話をしてくると言って院長室へ入っていった花守室長は、最終的にきっちりと許可証を携えて出てきたのだ。
どうやって説得したのかと聞けば、「本当は使いたくないんだがな、どうしたって最終手段として紋所を見せることもあるのさ」と浮かない顔で言っていた。
「ひと月という期間は、やはり大きいんですか」
「うん。ものすごく」
あちらでは時の流れなどあってないようなもので、現世の時間軸で考えても無意味だと時雨君は言った。
こちらで1日が経過する間に向こうでそれよりも遥かに長い時が経過していたとしても何ら不思議ではない、ということだ。
「それじゃ、常田實の日記に未来の日付で書かれていたのは……」
「本当にそれだけの時を向こうで過ごしていたってことです。こっちではものの数日しか経過していなかったとしても、ね。なんなら過去の記憶も改変されてる。なんか2年も付き合ってることになってたでしょ」
時雨君が、パソコンを操作する手を止めてくるりとこちらを向いた。
「それで、どうして向こうの日記やアカウントがこちらのスマホにも同期されてるのかってとこですけど。大分初めの段階から過干渉してきてる感じがすごいんですよね」
「初めの段階?」
そこまで聞いたところで、ちょうど清水君がキッチンから戻って来た。
「コーヒー淹れてきましたよ~。話はどんな感じですか?」
「おう、さんきゅ」
盆に乗せられたカップを受け取り、花守室長が今話していた内容を伝えた。
「――なるほど。あ、どうぞ続けてください」
「で、初めからっつーのはどういうことだ?」
「向こうがガチガチに囲いに来ているっていうか、常田實は相当気に入られていたと思うんですよ。恐らく荻原美香と破局するもっと前から目を付けられていて、入り込む隙ができるまで今か今かと待っていたんじゃないかと」
心にぽっかりと穴があくという表現があるが、荻原美香の浮気を知って以降の常田實は、まさにその状態だったのだと時雨君は言った。
そして、その穴からするりと中へ入り込まれてしまった。
「もっと言えば、穴があくよう巧妙に事を運んでいる」
時雨君は、心に入られるということはどういうことなのかを、部屋に例えて説明してくれた。
ひとり暮らしの部屋を想像すると分かりやすいが、誰しもセキュリティの要である家の玄関を開けっ放しにしておくことの危険性は理解できるだろう。もし鍵が掛けられていなければ、誰彼構わず入りたい放題になってしまう。
「それじゃ、浮気されたショックで心の部屋の鍵が壊れてしまったと?」
「まぁ、ものすごく簡単に言えばそんな感じです。常田實の場合は元々自我が薄い質であることや、他の要因が絡み合っての結果ではあるけど」
実際に暮らしている部屋も、心と連動しているのだそうだ。疲れたり余裕がなくなったりすると部屋が荒れるのは、心の状態が反映されているからだと教えてくれる。
特に自室――最もプライベートな空間に置かれている物はその者の人と成りを如実に表していて、それでいうと常田實の部屋には、恐らく恋人だった荻原美香に関する物がたくさん置かれていただろうと時雨君は言った。
たしか日記にそのような記述があったと記憶している。よくも悪くも他者の影響を受けやすく、相手に同調できるので協調性は高いが、自分というものがあまりない性質だと言えた。そして、少なからず本人にもその自覚はあったようだ。
「これらの日記は一見、夢の中に作り上げた理想の彼女、理想の生活に浸って現実逃避をしているだけに見えますよね。でも、この逃避先はただの夢なんかじゃない。この日記を書き始めた時点ではもう、彼は常世に片足を突っ込んでいる状態だったんです」
荻原美香の色に染まった物たちが撤去された後、彼の心の部屋はまさに出入り自由のがらんどうになった。内装も何もかも好きにしてくれといっているも同然の、危険な状態だったということだ。
時雨君が、モニターに映し出された荻原美香のインステグラムのスクリーンショット画像を指さして言った。
「荻原美香も同時期に夢を見ているでしょ。未来日記に登場していた“美香”は夢経由であちらに呼ばれていた本人です。常田實への執着心を捨てきれない彼女に仲睦まじいところを見せつけたり、邪淫に対する刑罰を与えたりすることでかなり強めの警告を発しています。手放したお前が悪い、もう彼はこちらのものなんだ、と」
それを聞いて肌が粟立つ。
「夢というのは、まさに間のなかに存在しています。現世と常世の中間に位置し、肉体を有する生きた人間ですらも簡単に常世へとアクセスできてしまう。厄介な領域ですよ、ほんと」
国に代わり柊が相対しているのは、常世の国である底根之國の者たちだった。
