どういうことだ、と花守室長と俺が同時にモニターへ詰め寄った。
「その契約書。それに本人がサインしてしまった時点でほぼ介入の余地なしです」
「そんな……!」
「待って。ほぼってことは、まだ手があるってことだよね?」
一縷の望みを期待して聞いた清水君だったが、時雨君は残念ながらと首を横に振った。
「ほぼと付けたのは、契約書にサインした直後であればの話なので。日記では、もう式まで挙げちゃってるんですよね? そしたらアウトもアウト。もう完全にこっちの領域を離れてます」
奇対室が沈黙に包まれる。
「これはすぐに柊が引き継ぎます」
「――今回は俺たちが奔走するまでもない、か」
花守室長は沈痛な面持ちで椅子に深く腰掛けた。
「何言ってんですか、もちろん今回も動いてもらいますよ」
「え、だって今――」
「その契約書の人は、ね。魂が半分持っていかれてる元恋人がいるでしょう。状態を見てみないことにはなんともですけど、うちで預かるんで移送の手続きを頼みます。そっちはまだ交渉の余地があると思うから」
そう言うと、時雨君はフードを深く被ってしまった。
「それじゃ、あとは会ったときに」
「わ、分かった!」
「あの、すみません。ひとついいですか」
通話が終了してしまう前にと、俺は小さく挙手をした。時雨君が視線で先を促す。
「この、ゆ――常田實に明晰夢の話をしたという男の存在が気になったのですが」
「そうそう! その人、ぼくも気になりました。口ぶりを見るに現世の人っぽいですよね。でも記憶違いでなければ、うちにこの人物らしき名前が出てくるような事件は来ていないはず」
「そもそも事件として扱われていなければ回って来ることもないしなぁ。行方不明者届が出されていないとか、都内在住ではないという可能性だって大いにある」
苗字と名前が本名であるという確証すらないので、特定するのはかなり厳しそうだ。
時雨君は少し思案すると、もうひとつあるらしいモニターを見ながらキーボードを打ち込んでいる。
「ちょっと柊のデータベースにないか調べておきます。彼も正直望み薄なとこありますけど……」
「そうか……」
「じゃ、とりあえずはそんな感じでよろしくです。そろそろ通話も切ったほうがよさげなんで」
「おう」
お礼を言う間もなくブチッと通信が切られた。そろそろ切ったほうがいい、とはどういう意味だったのだろうか。
「土井さん、初日からいきなり残業になっちゃいましたね。お疲れさまでした」
「お、お疲れ様です……」
ひとまず明日は、荻原美香の状態のチェックと移送手続きをして、時雨君のいる分室まで資料を持って行くということで話はまとまった。
「うちは突飛な事件ばかり扱っているが、念のために言っておくと今回のようなケースはかなり稀だぞ」
「あれこれ駆けずり回ることのほうが圧倒的に多いですよね。こんな即刻アウトみたいな事態、なかなか……」
「そうなんですか……」
再び重い空気が漂いかけたところに、「あ、そうだ」と花守室長が執務机の引き出しから何かを取り出した。
「土井くん、これを君に。時雨手製の御守りだ」
「ありがとうございます」
受け取ったものを持ち上げてみてみると、キーホルダー型のチャームだった。一般的な御守りと聞いて思い浮かべるものとは随分と異なる。
「重要なのは本体だから、ストラップやチェーンに付け替えたり、ポケットに入れておいたりするだけでも構わない。ただ、これからは肌身離さず持っておくように」
「はい!」
これが、この先も一生忘れることのないであろう、捜1奇対室初出勤日に起きた出来事だった。

