「あ」
突然、何かに気がついたような顔つきで、彼氏の椎名くんが呟いた。
「どうしたの、椎名くん」
「桜咲いてる」
三月のひかる空に顔をあげる椎名くん。
開花予想はまだ先だと報道されていたけど、今年は思ったよりも暖かい日々が続いたせいか、早咲きの種類の桜はもうそこかしこで花を開かせていた。
グラウンドの並木にもうっすらとした桃色が息づいている。
最後の教室からそれを見守る。
私たちの卒業式、直前の朝だ。
「春だねえ」
「縁側で緑茶すすってるババアみたいなこと言うなあ、藤川は」
椎名くんがこの日最後の制服姿で笑う。
しんみりしたくなかったからわざと普遍的なことを言ってみただけなのに。
とはいえ、私と椎名くんは春からも同じ大学に通うことが決まっているので離れ離れになったりはしないけど。
椎名くんの家で一緒に合格発表を見て、それぞれの名前を見つけた時は歓喜して思わず抱き合ってしまったなあ。
もし椎名くんが一人暮らしをしていたら、あのまま大人の階段を昇っていたかもしれない。
でも椎名くんの家にはボイパが得意なお父さんと四人目の子供を産んだお母さんと相撲部屋の修行が辛くて戻ってきちゃった元力士のお兄さんと看護学校に通っているお姉さんもいたからそれ以上イチャイチャすることはできなかったんだけどね。
「あのさ、藤川」
ふと改まった口調で椎名くんが言った。
「せっかくだから、この春にいろいろなことを卒業しようと思うんだよね、俺」
「いろいろなこと? 例えば何?」
「そうだな……例えば、公園の砂場で泥だんごを作るのはもう今年で終わりにしようと思ってる」
いまだに泥だんご作ってたのか、椎名くん。
それはもっと早く卒業していてほしかったわ。
「お前もか、椎名」
その時、呼ばれていないのに私たちの話に割り込んできた人物がいた。
目つきの悪い黒髪の男子高校生だった。
「俺もこの春で卒業したいと思っていたことがいろいろあってな」
「うん。ってゆーかお前誰?」
卒業式の日に同じクラスにいる人間に向かって言う言葉じゃないけど、私もそれに同意。こんな人、うちのクラスにいたっけ?
「何言ってんだよ、椎名! 俺だよ、小野田だよ!」
小野田と名乗った男子高校生は自分の眉間を指さした。
待って。小野田くんといえば、金髪のヤンキーだったはずだ。
「俺も金髪を卒業してやったぜ!」
「え、なんかダサ。卒業式には人一倍派手に暴れて親に迷惑かけてこそヤンキーじゃねえの?」
「ふざけんな! 俺は金髪で目立つことによって沢田に覚えられたい一心だっただけで、ヤンキーなんてもともと大嫌いなんだよ!」
そうだったのか。
理由が切なくていいな、小野田くん。
沢田くんは私たちの友達で、小野田くんとは小学生の頃からの幼なじみだという話だ。だけど小野田くんの見た目が怖かったので、臆病な沢田くんはずっと彼を無視し続けていたらしい。
小野田くん、沢田くんとずっと友達になりたくてストーカーまでしていたそうだけどね。まさか、金髪でいたのも沢田くんの目を引くためだったとは。
「それじゃ、もう沢田くんには友達認定してもらえたの?」
「ああ。もう顔を見ただけで俺だと分かってもらえるくらいにはしっかりと友情を築いてきたはず! 今日はその友情を試す絶好の機会だ!」
小野田くんは自信満々に胸を張ったけど、大丈夫かな?
私も椎名くんもすぐには小野田くんだと気づかなかったよ?
とか思っているうちに沢田くんとその彼女の佐藤さんが来た。
「おーい沢田!」
小野田くんが満面の笑みで手を振る。すると沢田くんは真っ白い顔をして固まった。
「え……誰ですか」
やっぱりか。
小学校から数えて築き上げてきた12年間の親密度がその瞬間に砕け散ったみたいだけど、ドンマイ、小野田くん。ナイスファイト。
「沢田くんはこの春に卒業したいことって何かあるの?」
せっかくだから沢田くんにも質問してみる。
沢田くんはモデルみたいに綺麗で整った顔をした男の子だ。女の子にはモテモテだけど、本人は佐藤さん以外の女の子から話しかけられるとガン無視してしまうくらいのガチなコミュ障なので、ちょっと将来が心配だ。
「俺は……シャワーに切り替わっていたことに気づかずに下の蛇口からお湯を出そうとしてびしょ濡れになる……そんな自分から卒業したい」
沢田くんは恥ずかしそうに俯いた。
さては昨日、やったな。
「あーそれ俺も時々やるよ」
「えっ……椎名くんも?」
沢田くんは驚いたふうな顔を上げた。
「ああ、やるやる。週に一回はやるかな」
「それはちょっと多すぎ。注意力なさすぎだよ、椎名くん」
こいつ、よく大学に受かったな。
「いざ下の蛇口から出そうとすると、あれ? どっちだっけ? って分かんなくなって結局間違えて濡れるね。俺なんかむしろそんな自分が可愛いと思うけど」
「自分に甘いよ、椎名くん」
自分の子だとしても可愛いって言ってられるのは五歳くらいまでじゃない?
六歳からはもう小学生なんだからしっかりしな! って言いそう。
「どうせ社会に出たら自分しか自分を甘やかせてやれないんだから、遠慮なく濡れたり乾いたりすればいいんじゃね?」
「そっか……そうだよね。ありがとう、椎名くん」
沢田くんは悟りを開いたようだった。
その宗教、危険だよ。
改宗した方がいいと思うけどな。
「佐藤さんは何か卒業したいことある?」
今度は佐藤さんに聞いてみる。
「そうだなあ。できるかどうか分からないけど、そろそろモブキャラから卒業したいな」
「えっ⁉︎ 佐藤さん、そんなこと考えてるの⁉︎」
「うん。そろそろ沢田くんが主役の長編のヒロインになってみたいなあ、なんて」
「おいおい。物騒なことを言い出したな」
椎名くんも穏やかじゃない。
一方、沢田くんはすでに顔面蒼白で震え出している。
「お、俺が主役なんて……無理だよ……」
「そうだ。お前には荷が重いぞ、沢田。ここまで読んでもらえたのはすべて俺の功績なんだから、お前はおとなしく俺の引き立て役に徹してろよ」
椎名くん、本音がダダ漏れ。この人、社会に出たら全然出世できないか、おもしれー奴認定されて大出世するかの二択だな。博打がすぎる。
すると佐藤さんがにっこり笑った。
「なーんてね。嘘だよ、みんな。私は脇役が一番性に合っているから、このままでいいと思ってるよ。平穏で波風の立たない場所でみんながわちゃわちゃしているのを見るのが好きだから……本当は卒業なんてしたくないの」
佐藤さんの瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
しんみりとした雰囲気に、私もうっかりもらい泣きしそうになる。
本当にずっとこのままみんなと一緒にいられたらいいのにね。
春が来るとどうして別れが来てしまうんだろうね。
「俺も卒業したくないよ……」
「俺も!」
沢田くんと小野田くんも一緒にシクシク泣き始める。
三月の教室らしい光景になってきた。
「それじゃ、最後に藤川だな。お前は何から卒業したい?」
「話の流れをぶった斬るねー、椎名くん」
卒業したくないってみんなが涙している瞬間に聞く?
でもそれが椎名くんだ。
「そうだなあ……今までもやりたいことはやってきたし、特に卒業することないんだよね」
「いや、あるだろ」
「ないって」
「いや、ある」
椎名くんは子供のように言い張って、ポケットから何かを取り出した。拳に握りしめたそれを、私の前に差し出す。
「何これ」
そう思った瞬間、椎名くんがそっと手を開いた。
「これやるから──俺との中途半端な高校生カップルの関係から卒業しないか、藤川」
そこにあったのは、家の鍵のようだった。
「えっ? どういうこと?」
「俺、一人暮らし始めるんだ。家から大学に通うのは別に不便でもないけど、独り立ちしてみたくてさ。これはその一人暮らしするアパートの合鍵。これ使って、いつでも遊びに来いよ」
椎名くんは照れたようにふにゃっと笑った。
「これからはちゃんとした恋人同士の付き合いをしよう」
「椎名くん……」
私は驚きながら鍵を受け取った。
鍵の重さの分だけ大人になった気がして、じわじわと感動が押し寄せてくる。
「うわあ、すごい! 良かったね、藤川さん!」
「う、うん。ありがとう、椎名くん」
「なにしろ実家じゃお互いの家族が気になってイチャイチャできんからな。これでいつでもやりたい放題できるなー」
だから、本音ダダ漏れだってば椎名くん。
もしかして私が心の声を読む特殊能力発動してる?
恥ずかしくて死にそうなんだけど。
「椎名がDT卒業だと⁉︎ けしからん! 俺にも合鍵をくれ! 邪魔してやる!」
小野田くんが暴れ出す。そんなこと言われて渡すわけがないのに。
沢田くんは多分理解不能の領域なんだろう。無表情のまま固まっている。
佐藤さんはいつものようにニコニコしながら私たちを見守っている。
なんか、高校を卒業した後も結局こうやって椎名くんの家で五人で集まってわちゃわちゃしている気がする。そんな明るい未来が見えるよ。
卒業式を待つ私たちの笑い声は、のどかな春の空に吸い込まれる。
満開の桜が見られる日まであと少しだ。
その時も隣で一緒に笑い合おうね、椎名くん。
完
