「あ」
突然、何かに気がついたような顔つきで、彼氏の椎名くんが呟いた。
「どうしたの?」
「こんなところに、神社あったっけ?」
椎名くんが指差した先にあったのは、建立から千年以上経っているかのような色褪せた鳥居と、その先に見える苔むした階段だった。おそらくそこを登っていけばやっぱり古びたお社があるんだろう。
「あったような、ないような……」
学校からの帰り道だ。いつもの通り道なのに、何故かこの社の記憶は曖昧だった。
鳥居を見上げると、夕陽に照らされた姿が神々しく煌めいているように見えた。
「せっかくだからお参りしてこうか。俺たち、受験生だし」
「うん。そうだね」
椎名くんの言う通り、私たちは高校三年の受験生だ。一応、二人とも同じ大学を志望している。
特に宗教に熱心なわけではないけれど、神社を見ると合格祈願したくなるセンシティブなお年頃。軽い気持ちで鳥居をくぐって、石段の左右に置かれたキツネの石像の前を通り過ぎた。
その時だった。
コーンとキツネの鳴き声が聞こえたような気がして、私の体が金縛りにあった。
なにこれ。動けない。
何かが私を四方から圧迫しているみたい。
「どうした、藤川」
椎名くんが振り返るけど、声が出ない。
なんなの本当に。
目に見えないものに抗っていると、突然目の前が真っ白になった。眩しすぎる光を浴びて目が見えなくなったみたい。目の前にいたはずの椎名くんも、古臭い神社の景色も何もかもが光にかき消されて見えなくなる。
もしかして、超常現象?
変な鳥居をくぐったせい?
どうしよう、誰か助けてっ!
と、その時。
「コーン」
またキツネの鳴き声が聞こえた。目を凝らすと、正面に本物のキツネがいる。
『突然で申し訳ないコン。お腹が空いて死にそうなのコン。油揚を買ってきてほしいのコン。そうしたら元に戻すコン』
目の前のキツネは変な語尾で喋りながらペコペコと頭を下げた。
元に戻すってどういうこと?
そう尋ねようとした途端、再び強烈な光に襲われて、私は目を瞑った。
「おい、藤川! 大丈夫か、藤川!」
気がつくと、神社の境内へと向かう短い石段の上で、椎名くんが私を抱き抱えていた。
「うう……今のは……?」
「た、大変だ……! お前、大変なことになってるぞ!」
椎名くんはやたらとテンションを上げている。
「大変なことって?」
「見てみろ、これ!」
「えっ?」
椎名くんが私のお尻を触った。ゾワっと鳥肌が立つ。
「えっち!」
思わず体を捻ると、フサフサした尻尾が椎名くんのほっぺをビンタした。
「いってー! いや、痛くないけど」
「どっちだコン」
コン?
自分のツッコミに違和感を覚える。いや、その前に私、椎名くんをどうやってビンタした?
おそるおそる自分のお尻を見てみる。
するとそこには……キツネのようなフワモコの尻尾がパタパタと揺れていた。
「コーン!!(驚)」
どういう仕組みなのかは知らないけど、尻尾は私のスカートを突き抜けて外に出ているっぽかった。まるでスカートから生えているみたいに。
「キモ! 取って!」
「待て。それだけじゃないぞ藤川。頭の上にも、ほら!」
椎名くんがスマホを起動して、カメラのレンズを私の頭上に向けた。パシャリと撮られた画像には、ピンと立った茶色のケモミミが生えているのが写っていた。これは多分、キツネの耳だ。
「うぎゃー何これ!」
「リアルど○ぎつねさんだ!」
私は吉岡○帆か。
ハロウィンも終わったのにコスプレみたいで恥ずかしい。
「取って、取って!」
私自身も耳をつまんで取ろうとしたけど、幻のように上手く掴めなかった。尻尾も同様で、自分では触ることができない。
「助けてよ、椎名くん!」
「まあまあ、落ち着けよ藤川」
そう言う椎名くんは真顔でじっくりと私を見つめていた。
「なんでそんなに落ち着いていられるのっ⁉︎ カノジョが獣人化しちゃったんだよ⁉︎ もっと慌てるべきじゃない⁉︎」
「うん。まあそうなんだけどさ。なんとなく、これはこれで可愛いからいいんじゃね? って思っちゃう自分がいる」
「何それ! え、いま可愛いって言った⁉︎」
椎名くんが滅多に言わない褒め言葉を口にしたから、私はびっくりして尻尾をパタパタ振ってしまった。
「ヤバい。どうしよう。藤川がめちゃくちゃ可愛く見える。俺の目はどうかしてしまったのか⁉︎」
「どうかしてるのはお前の頭だコン」
私が可愛いのはいつものことだろ。
って、ツッコミもキツネ化してるよ、マジでヤバい!
「どうしよう、こんな格好じゃ家に帰れないよ〜! お母さんに『あんた、いつの間に日ハムファンになったの?』とか言われたらどうしよう。うちは代々ドラゴンズファンなのに……」
「それは肩身が狭いな。俺んちは親父が日ハムファンで母ちゃんが阪神ファンで兄貴がヤクルトファンで姉貴がメジャーリーグのエンゼルスファンだぞ」
「そんな家庭でよく戦争が起きないね」
「みんなアンチ巨人なんだ。しかし俺が隠れ巨人ファンだということは家族には秘密だぞ」
「どうでもいいコン」
こんな話をしている場合じゃないのに、椎名くんといるとついどうでもいい話ばかりしちゃう。こんな状況なのに、いつもながら空気がゆるい。
「そんなことより、どうしたら元に戻るか考えないと……」
元に戻ると口に出した時、私はふと思い出した。
「そういえば……何か買ってこいって言われた気がするコン」
「何それ? 誰に?」
「分かんないけど、多分ここのお社のキツネ神かなあ。お腹が空いてるから何か買ってこい、買ってきたら元に戻してやる的なことを言われたような気が……」
「なんだよ、もう答えもらってんじゃん」
椎名くんはガッカリしたような顔をした。
「で、何買ってくればいいの」
「それが……肝心なところが思い出せなくて。多分、キツネが好きな食べ物だと思うんだけど」
「分かった! キツネといえば、あれだ!」
椎名くんは何か思いついたらしい。
「お願い、買ってきて! こんな格好じゃどこにも行けないコン」
私は両手を合わせ、しっぽをパタパタさせてお願いした。
すると、椎名くんがなんだかキュるんとした瞳になった。
「いや、マジでこのままでもよくね?」
「よくないコン!」
私は再びしっぽで椎名くんの横面をビンタした。
それから約15分後。
「買ってきたぞー!」
椎名くんはコンビニの袋を下げて、両手に何かあったかそうな汁物を持って現れた。近づくとコーンのいい匂いがする。
「キツネといえばコーンだから、コーンスープ。粒たっぷりだぞ」
「これだったかなあ?」
なんか違う気がする。
「いいから飲んでみろって」
「うん。いただきまーす」
椎名くんと一緒に石段に座って、あったかいスープを飲む。ホクホクした湯気が風に運ばれ、境内の枯れ葉を揺らす。濃厚なコーンととろみのある舌触りが甘くて美味しい。外で飲むコーンスープって最高だよね。
「んまーい!」
「戻らないな。良かった」
椎名くんはほっとしたように笑った。
良かったじゃないのよ。戻って欲しいのよこっちは。
だけど、いつもより優しい椎名くんの態度が嬉しい。
「ごちそうさま」
結局、完食しちゃった。私の耳としっぽは最後まで消えていなかった。
「コンビーフも買ってみたけど、食べる?」
「食べるー」
これじゃない感はもちろんあったけど、一応試食。椎名くんはこのほかにうまい棒のコーンポタージュ味とわさビーフのポテチを買ってきていた。
「うまい棒は分かるけど、わさビーフは完全にコンビーフにつられてるよね。ビーフに寄せてどうするって話だよね」
「あーそっか。次は完全にビーフシチューだと思ってた」
「違うから。コーンだから」
「コーンって難しいよな。他に思いつかないもん」
椎名くんが見上げた空には秋の雲がゆっくりと流れていた。
今の季節、太陽は逃げるように沈んでしまう。
風はいつの間にか冷たくなるし、暗い影が増えてくると心細さがにじり寄る。
「こうしているうちにどんどんキツネ化が進んで、最終的にキツネになっちゃったらどうしよう……。あたしんちペット禁止だから、家を追い出されるかもしれないコン……」
野ギツネになったら受験もクソもない。将来お先真っ暗だ。
すると、椎名くんがぽん、と私の頭を撫でた。
「心配すんな。もしも藤川がキツネになったら俺が責任持って飼ってやるから」
隣を見ると、優しい笑顔の椎名くんがいた。
私が獣人化したのに、全然驚かずにこんなかっこいいことを言ってくれるなんて……。思わずキュンとなる。
「椎名くん……」
「その代わり、キツネになったら毎晩しっぽをモフらせてくれ」
「嫌だコン!」
私はしっぽで椎名くんの背中をモフッと叩いた。
「もう、冗談言ってる場合じゃ──」
呆れて文句を言おうとした時、椎名くんが私の肩をギュッと抱き寄せた。
「本当だよ。藤川がどんな姿になったとしても、俺はずっとそばにいるから」
えっ。
うわ。
どうしよう。泣く。
いい男じゃないか、椎名くん。
「ありがとう……」
ホロリと来てしまいそうになり、私は目を瞑った。
その唇に椎名くんの唇が優しく触れる。
体が内側から熱くなって、私のそばから秋が一瞬いなくなった。
私、椎名くんのカノジョで良かったな。
心からそう思った時だった。
フワッとほのかに、椎名くんの唇から甘いお出汁の匂いがした。
この匂いはもしかして、きつねうどん?
「椎名くん、もしかしてコンビニできつねうどん食べてきた?」
私が尋ねると、椎名くんは少し照れた顔をした。
「バレたか。いろいろ買ってるうちに俺も腹減っちゃってさ。でもコーンスープはあったかいまま持ってきたかったから、うどんはイートインですぐ食べてきたんだー。熱々の油揚で舌やけどしちゃったよ。ホラ」
ペロッと舌を出す椎名くん。やけどしているかどうかなんて分からないけど──今、この人、重要なことを言ったよね?
「油揚……それだーっ!!」
◇
「それだーっ! って言ったところで、目が覚めたのよ」
「へえ〜」
私が今朝見た夢の話をニコニコしながら聞いてくれているのは、友達の佐藤さん。
頭とお尻にキツネのケモミミとしっぽが生えたなんていう荒唐無稽な話なのに、ちゃんと聞いてくれる優しい子だ。
「本当に変な夢だったー。朝、学校に行く途中で見に行ったらその場所空き地になってたし。ちょっと怖かったなあ」
「もしかしてそれ、うちの高校の七不思議のひとつ『縁結びの稲荷神社』かも」
「縁結び?」
佐藤さんは不思議なことをいろいろ知っている。
「うん。志望校が同じ受験生がカップルでお参りして油揚をお供えすると、必ず二人とも合格させてくれるっていう超縁起がいい神社らしいんだけど、どこに現れるか全然分からないの。私もお参りしたいんだけどなあ」
「へえ〜。初めて聞いた」
「椎名くんと一緒に放課後行ってみたら? カップルで行かないと入り口が見つからないのかもしれないよ」
佐藤さんはニコニコしているけど、なんだか怖い。
「何の話?」
するとそこへ椎名くん本人が現れた。
夢の中で私のことを甘やかしてくれたことを思い出してちょっと照れる。
夢って願望の表れだとかいうけど、つまりそういうことなのかな?
受験のストレス? 欲求不満? いや、まさかね。
あんなのただの夢だと思い込もうとした時だった。
佐藤さんから私の夢の話を聞いていた椎名くんの目が丸くなった。
「俺もその夢見た! 今朝!」
「え、マジ?」
「マジ! 朝起きたらきつねうどん食べたくなってた」
私と椎名くんは顔を見合わせた。
……これはいったい、どういうこと?
放課後。
私は一応油揚を用意して、椎名くんと一緒にあの道を帰ってみた。
あの夢は神様からのお告げかもしれない。
もしもうまくお供えできれば大学合格も夢じゃない。
……と思ったけど、結局神社は見つからなかった。
そこには朝見かけた通りの空き地が広がっていた。
「受験は自分たちの力でやれってことかなあ」
「まあ、そう簡単に志望校に合格できるわけないよな」
私は半分がっかりして、半分ホッとした。
やっぱりあれはただの夢だったんだよね。
「残念。ここに来たらまた藤川がキツネに変身すると思ったんだけどなー」
「冗談じゃないよもう」
あんなファンタジー体験はこりごりだ。
私は油揚の入った紙袋をお社があった空間にそっと置いて、手を合わせた。
春には二人とも合格して、同じ大学に行けますようにと祈る。
気がつくと、椎名くんも隣に立っていて私と同じようにお祈りしていた。
椎名くんのカノジョで良かった。
夢の中でそう思ったことを思い出す。
……まあ、少しはいい体験だったかも。
暮れかけた空を見上げると、赤く色づいた雲がキツネの形に変化して、嬉しそうに飛び跳ねているように見えた。
なんだかちょっといいことが起こりそうな、そんな秋の匂いがした。
