椎名くんは笑わない



「あ」

 突然、何かに気がついたような顔つきで、彼氏の椎名くんが呟いた。

「どうかした? 椎名くん」
「藤川。今、なんて言った?」
「え? 9月だねって言ったけど……?」

 そう。今日から9月。長いようで短かった夏休みが終わって、やっといつもの日常が戻ってきた。
 私たち三年生は大学受験で夏休みどころじゃなかったよっていう人もいたみたいだけど、私は背伸びしないで地元の受かりそうな大学にゆるっと行くつもりだし、椎名くんも同じ考えのよう。

 今の若者は夢がないなんて嘆く時代錯誤の考えを持った大人が周りにいないおかげで、私たちは何のプレッシャーもなくひと夏を越えてしまった。

「9月になってもまだ暑いねえ。やだやだ」

 気温はまだ南の方では三十度を越える地域もあるようだ。教室の窓は締め切りで、冷房が効いている。
 汗が垂れてきそうだから薄いノートで顔を仰いでいると、隣の席の椎名くんがこの世の終わりかというくらい低いテンションでぶつぶつ何かを言い始めた。

「もう9月だと……? いや、ありえない。そんなバカな。俺はまた騙されたというのか……⁉︎」
「どうしたの、椎名くん」

 椎名くんは泣きそうな顔でこっちを振り向いた。


「夏休みにハワイ旅行行くって親父が言ってたのに、行ってない気がする……!」


 行ってないな。ほぼ毎日会ってたもん。


「お父さんとそんな約束してたんだ?」
「去年、どこも行けなかったから来年こそはハワイにでも行こうなって。多分それ三年ぐらい続いてる」
「それは不憫だな」
「俺のこのワクワクしていた気持ちはどうしたらいいんだよ! 今頃はマカダミアナッツ入りのチョコを藤川と沢田と佐藤さんに配りながら『えっ、椎名くんハワイ行ったの? 羨ましい!』って言われていたはずなのに!」
「俺には?」

 近くで話を聞いていたのか、金髪ヤンキーの小野田くんが声をかけてきた。
 小野田くんも友達の沢田くんや佐藤さんといつも一緒にいるんだけど、椎名くんの中ではまだその輪に入っていないらしい。

「真っ黒に日焼けした肌の皮がちょっと剥け始めて、うまく剥がれそうで気になりすぎて授業どころじゃない、みたいな感じを味わっていたはずなのに!」
「なあ、チョコ。俺には?」

 小野田くんは不安顔だ。

「ハワイのカラッとした風と日本のジメッとした風の差を感じて『やっぱ日本って湿度高すぎじゃね?』って軽く日本をdisる発言してたはずなのに!」
「俺のチョコは?」
「うるせえなもう、土産物屋に行って自分で買えよ!」

 とうとう椎名くんはキレた。なぜお前がキレる。
 小野田くんは踏んだり蹴ったりでちょっと可哀想だな。

「何でだよ、俺にもチョコくれよ!」


 いや、やっぱウザイか。


「そうだ、ハワイに行こう」

 小野田くんを徹底的に無視した椎名くんは、突然そんなことを言い出した。
「えっ? 今から? 一時間目始まるよ?」
「慌てるな藤川。もちろん、妄想の中だ。それに、そんな金はない」

 だよね。びびった。
 椎名くんは突然当たり前のように異常なことを言うから油断できない。
 
「一人旅じゃつまらないから、特別に藤川も連れて行ってやるわ」
「なんか不安だわ。佐藤さんと沢田くんも連れて行かない?」
「俺は?」

 小野田くんがまた涙目になる。もうあきらめて。ごめん。

「あの二人はハワイって顔じゃない。せいぜいグアムだな」
「どう違うの……?」
「あいつらは派手な主役級のハワイよりちょっと外したポジションのグアムが似合うって感じ」
「あの二人にもグアムにも失礼な発言だな」
「とにかく俺たちだけで行くぞ。藤川は今からN空港までの電車の時間と飛行機の出発時間を調べて。何便に乗れるかチケット予約を取らないと」
「えっ、すごく本格的」

 私はスマホを取り出して、電車の乗換案内を表示させた。


「俺はN空港からハワイに着くまでの間に何のゲームで暇つぶしするか考える」


 椎名くんの役割、超要らねえ。
 

「今から行くと……この9時22分発の電車が良さそう。N空港に10時47分に着くよ。でも飛行機は夜の便しかなさそう。夜の21時半とかに出発して、明日の朝9時半から10時半に着くみたい」
「よし。機内で寝よう」

 ゲーム何しようか問題は即解決したらしい。

「ねえ、こういうのって普通、現地に到着してからのことを考えるものじゃない? 何でリアルに旅行計画立ててるの?」
「バカだな、藤川。旅行っていうのは行く前が一番楽しいんだよ」

 そういうものなのか。私はまだその旅行の楽しさが理解できないな。
 
「とりあえず、時間を夜に飛ばして、電車に乗ろう。忘れ物はないか?」
「多分、大丈夫」
「本当に大丈夫か? 藤川は意外と詰めが甘いところがあるからな」
「正直、何を持っていったらいいか分かんないし」
「俺は日本の味が恋しくなると思うから、カップラーメン持ってきたよ。しょうゆとシーフード」
「いいね。向こうでも売ってそうだけど」
 
 詰めが甘いのはどっちだ。
 って、こういうくだらない話を電車の中でするっていうのはあるあるで楽しいかもしれない。

「藤川は何持ってきた?」
「えーと……何だろう? ポテチかな」
「やっちまったな、藤川。ポテチは飛行機に乗せると気圧で信じられないくらい袋が膨らむんだぞ」
「えっ、そうなんだ。飛行機乗ったことないから分かんない」
「マジか。ファーストクラスは靴を脱ぐんだぞ」
「そうなの?」
「あと、離陸する時は足を浮かせるんだ。そうすると機体がちょっと軽くなって飛んでいきやすい」


 椎名くん、さてはお前も飛行機乗ったことないだろ。


 でもなんか楽しいなあと思いながら、とうとう妄想列車は妄想空港に着いた。

「走れ藤川! 空港側のミスで俺たちのチケットが搭乗ギリギリまで発行されなかったらしい!」
「えっ、いきなりそんなピンチなことに?」
 
 ハワイに行くまでの間にどんだけ事件起こすんだよ。

「金属探知機のゲートを潜るぞ。息を止めろ……!」
「意味ある?」

 バリウム飲んで胃の検査じゃないんだから。

「怪しい態度を取るなよ。税関の麻薬Gメンに手荷物検査を求められてしまうからな」
「だとしたらもう手遅れだよ。椎名くん怪しすぎるもん」

 早くすんなりと飛行機に乗りたい。
 でも空港でも椎名くん劇場は終わらない。

「待て、藤川。あそこを見てみろ。迷子だ」

 教室の隅を指差し、椎名くんは葛藤する。

「時間がギリギリだけど、どうする? 声をかけるか」
「本物の迷子だったらちょっと悩むね」
「不安そうな顔でこっち見てるぞ。やっぱりちょっと声をかけてやるか」
「えー。飛行機乗れなかったらどうするの?」
「確かに、乗れなかったら辛い。資金的にも、今年はもうあらゆる旅行を諦めるしかないな……」

 椎名くんは本気で腕組みをした。

「でも、迷子は放って置けない。お父さんとお母さんを見つけてやろう」

 優しいな、椎名くん。ちょっと見直したよ。
 妄想だけど。
 
「藤川、声をかけて」
「あ、それ私がやるんだ。どうしたの? お父さんとお母さんは?」

 ちょっと恥ずかしいけど迷子が目の前にいると想像して話しかける。
 すると椎名くんが鼻をつまんで子供の高い声を装い、答えた。

「お父さんは機長で、お母さんはCAです」
「誰よりも空港に詳しそうじゃん」


 心配して損した。


「何で泣いてたの?」
「お母さんが副機長と不倫してるってみんなが言うの」
「楽しい旅行前に家庭のドロドロ話するのやめて?」

 こんな調子でハワイに行けるのかな。

 心配したけど、私たちは何とか迷子問題も機長に預けることで解決し、飛行機に乗ることができた。
 すると今度は椎名くんが別の人物で機内アナウンスを始めた。

「『ご搭乗の皆様、本日は○○エアラインへようこそ。副機長のフリンです』」
「名前だったんだね」

 意外な伏線回収きた。

「『機長は本日諸事情により当機を降りましたので、代わりに私が機長を務めさせていただきます。初めての機長で若干緊張しています。それでは景気づけに一曲歌わせてください。マカダミアナッツ音頭』」
「誰の歌⁉︎」

 やだなあ、ハワイ行く前に聴きたくない歌ナンバーワンかもしれない。
 副機長の上手いのか下手なのか一生分からない歌を聴いている時だった。

「もう我慢できねえ!」

 謎の人物が私たちの妄想飛行機に乱入してきた。

「この飛行機を今すぐ着陸させろ! さもないと操縦士を撃つぞ!」


 ハイジャック犯、小野田くん現る。
 すっかり存在を忘れていたけど、そういえば最初からいたんだよね、この人。


「何だお前は。何が目的だ? 要求を言ってみろ」
 椎名くんは冷静に小野田くんを見る。


「マカデミアナッツチョコだ! お土産のマカデミアナッツチョコを俺にもくれ!」


 そんなに欲しいか、マカデミアナッツ。

「どうする、椎名くん」
「あんなアホは放っておきたいが……このままでは操縦士がやられる」
「あっ。ノってあげるんだね」

 私も緊迫感を出したほうがいいのかな。緊迫感ってどうしたら出るんだろう。

「落ち着け、小野田。ここで操縦士を撃ったら永遠にハワイに着けない。つまりお前に買ってくるマカダミアナッツも買えないんだぞ。それは困るだろ?」

 説得しながら、席を立ち、銃を構える仕草の小野田くんに対峙する椎名くん。

「うるせえ! お前ら二人で楽しそうに旅行の話なんかしやがって! お前らの乗る飛行機なんて俺が墜落させてやるよ!」
「分かった。分かったから。お前の分も買ってくるよ。それでいいだろ?」
「……本当か? うおっと!」
 
 小野田くんの体がフラついた。どうやらエアポケットに落ちたらしい。って、無駄に芸が細かいよ。

「隙あり!」

 その隙を見逃さず、椎名くんが突進する。二人で銃の取り合いになる。

「ちょっと、危ないって! いろんな意味で!」
「こっちに来るな藤川! あぶな──」

『バキュン!』と小野田くんが私の方に銃口を向けて撃った。
 えっ。私撃たれた?

「い、いったーい」
「大丈夫か、藤川!」

 お前らが大丈夫か。
 とりあえずお腹を押さえてみたけど、クラスメイトの目がかなり恥ずかしい。

「この中に、お医者様はいらっしゃいませんかーっ!」

 人目を憚らず叫ぶ椎名くん。


 もうやめて。恥ずかしくて死ぬよ。
 こんなハワイ旅行、行くんじゃなかった。
 私は周囲から顔面を隠したくて、机に突っ伏した。

 結局、ハワイに着く前に授業開始のチャイムが鳴ったから、私たちは旅行を中断した。

 小野田くんはハイジャック未遂と私への殺人未遂で日本へ強制送還されて、空港の免税店で無事マカダミアナッツ入りのチョコを買えたというストーリーで納得してもらった。
 本当に面倒くさい人だ。


 そんな、その日の昼休み。
 お昼ご飯を食べながら、私と椎名くんは旅行の反省会を開いた。

「旅行、楽しかったな」
「うん、そうだね。最後撃たれちゃったけどね」
「あれは避けなかった藤川が悪いな」
「避けるっていう選択肢あったんだ?」

 妄想旅行も難しいな。
 私のツッコミに、椎名くんはふにゃっと笑う。

「まあ、今回は邪魔が入ったけど、今度こそ本当にハワイに行こう。シミュレーションはバッチリできたから、あとは実際に行くだけだ」
「あのシミュレーションで? 迷子とかハイジャックとか、要らないくだりいっぱいあったよ?」

 私は乾いた半笑いを浮かべた。

「悪いけど、もう椎名くんと旅行に行くのはこりごりだよ。行くなら一人で行ってよね」
 すると椎名くんは目を丸くして言った。


「新婚旅行の時でも?」
「……ん?」


 騒がしい教室の音が一瞬ちょっと遠く聞こえた。
 なんだ、今のは。

「安心しろって。もしハイジャック犯が現れて藤川が撃たれそうになったら、今度はちゃんと俺が弾除けになるから」
「そ、そう……? それならいいか……」

 えっ、待って何の話?
 妄想旅行の話?
 私たちの、未来の──話?

 私は真剣に悩んで、頬張った厚焼きたまごサンドに喉の水分を全部取られてちょっぴり咽せた。
 胸をトントン叩く。

「大丈夫か、藤川! 誰か、この中にお医者様は──」
「もうやめい」

 まったく、椎名くんはいつも突拍子もないことを言う。
 私は火照った顔を冷ますようにぺットボトルの水をごくごく飲んだ。


 残暑はまだ、相当に厳しい。