「あ」
突然、何かに気がついたような顔つきで、彼氏の椎名くんが呟いた。
「やったな、藤川」
「ん? 何のこと?」
「お前……盛ったな?」
人聞きの悪いことを言って、ゾンビみたいな顔色をした椎名くんが私をギロリと睨んだ。
椎名くんが風邪を引いたと聞いて家まで駆けつけてあげた優しい彼女への態度とはとても思えない。
「風邪ひいたら風邪薬飲むのは当たり前でしょ」
「嫌だ! 薬なんか死んでも飲むか! 俺は物心ついた頃から一度も自分で薬を飲んだことがないんだ!」
椎名くんは私が用意した卵スープのお椀を突き返した。こっそり顆粒の風邪薬を混ぜて入れたのだが、一口も飲まずに匂いだけでその存在に気づくとは、椎名くんの嗅覚は大したものだ。
「何で飲まないの? 39度あるんでしょ? 飲まなきゃ死ぬよ?」
「嫌だ! 薬だけは、絶対に飲まない……!」
「何で? 薬を飲んじゃいけないような宗教にでも入ってるの?」
椎名くんは熱で潤んだ目をそっと閉じて首を振った。
「いや……苦いから……」
「飲めよ」
高校三年にもなって、何を甘えてるんだか。
◇
風邪ひいたから助けてくれ……。
と地獄の底から電話しているような声に絆され、薬局でレトルトのスープやスポーツドリンクや風邪薬を買ってきた、夏の終わり。
本当は明後日花火大会があるから椎名くんを誘おうと思っていたんだけど、まさか本人がこんな状態だとは。
「ご両親やご兄弟はどこへ行ったの?」
「菌が移るって……じいちゃん家に避難した」
「ひどいな」
「しょうがない……母ちゃん今、臨月だし……力士の兄貴はちゃんこ鍋しか作れないし……親父はうるせーボイパで応援してくるし」
「それはウザいかもしれないな」
椎名くんのお父さんはボイパを始めてからそろそろ5ヶ月になるそうだ。継続は力なり。嫌な方向に力になってるけど。
「あっ、お姉さんは⁉︎ お姉さんは看護師の卵になったんじゃなかった?」
春頃、椎名くんのお姉さんが看護学校に入学したと聞いていたのを思い出して聞いてみると。
「今、夏休みで……友達とハワイ旅行に……」
「ああ、運悪いね」
それで近所に住んでいる彼女の出番となったわけだ。理解した。
しかし、薬を飲まない椎名くんをどう説得したらいいものか。
「確かに薬って慣れないと嫌だよね。顆粒は味がするし。ザラッとした感触が残ったら最悪だし」
「やめろ! 想像するだけで苦味に襲われる……!」
椎名くんはベッドの上でのたうち回った。
「じゃあカプセルか錠剤にすればいいじゃない」
「カプセルはのどちんこに張り付くから嫌だ……。錠剤も飲み込めなかったら口の中で溶けて苦味が広がるし……って、思い出させるな!」
「じゃあ、ひとくちゼリーに穴を開けてその中に錠剤を落としておにぎりの具みたいにして、ゼリーごと飲み込んじゃうのはどう?」
「俺はゼリーを噛んだ時の食感を愛してるんだ」
この野郎。
なんだか無理やり飲ませたくなってきた。
「じゃあさ、わさびを大量に舐めたら? そのあと絶対水を大量に飲むじゃん。その水と一緒に勢いよく薬飲んだら? わさびの辛味の方が絶対勝つよ」
「藤川。お前は俺を殺す気か」
「じゃあめちゃくちゃ辛いチゲ鍋スープに混ぜて飲んだら?」
「だから、お前は俺を殺す気か⁉︎」
椎名くんは涙目で私を睨んだ。
「どうしてお前は俺を殺すことしか考えられないんだよ。お前の前世は暗殺者か! 前世でターゲットの俺を仕留められなかった無念でもあるのかよ」
「因果な縁だね」
私が伊賀忍者で、椎名くんが甲賀忍者かな。
お互い覆面で暗躍する姿を想像してしまった。
私がそんな妄想を口にすると、椎名くんはため息をつきながら首を振った。
「忍者だなんて色気もクソもあったもんじゃない……。どうせ命を狙われるなら、セクシーな女スパイ……フジミネコみたいなやつがいい」
「フジミネコかあ。私に務まるかな?」
「身の程を知れ……! フジミネコのスリーサイズは奇跡のゾロ目で上から99.9、55.5、88.8なんだぞ……! 藤川が今からいくら鍛えようとしてもあの奇跡の数字には絶対になれない……! それこそプロポーションを変える薬をお前自身が飲まなくてはいけないことになる……!」
「うっせえわ。余計なお世話だわ」
なんで椎名くんの風邪のお見舞いに来て私がセクシーな体になるための薬を飲まなきゃいけないんだ。
「椎名くん、案外元気だから薬なんか飲まなくても勝手に良くなるんじゃない?」
いじけ半分、からかい半分に私がそう言った時だ。
椎名くんの腕がベッドからはみ出て、ダランと揺れた。
骨がなくなったみたいな力の抜け方だったから、私はちょっとドキッとした。
「椎名くん……?」
椎名くんは真っ赤な顔に汗を浮かべて、苦しそうに目を閉じていた。
「大丈夫⁉︎ 椎名くん!」
私はベッドサイドに立ち膝で声をかけた。
元気そうに振る舞っていただけだったんだ。
私の前だからって、強がって。
本当はもう死にそうだったんじゃん。
「しっかりして、椎名くん!」
必死で声をかけると、椎名くんの目がうっすらと開いた。
「もうダメかも……」
「そんな……やだよ、椎名くん! あさって花火大会があるんだよ! 私、椎名くんと一緒に浴衣で見に行きたかったのに!」
「浴衣……?」
椎名くんの眉がピクッと反応する。彼は気力を振り絞って懸命に私の顔を見つめようとした。
椎名くんと付き合ってまだ二ヶ月しか経ってない。しかもまだ友達の延長みたいな感覚で、恋人らしいことは何ひとつしていない。
花火大会はそんな二人にとって大きな進展になるかもしれないイベントなのに。
「薬、飲んでよ……!」
「藤川……」
ちょっぴり涙目で訴えると、椎名くんはそれに応じるようにゆっくりと上半身だけ起こした。
「飲めば、治るかな……」
「うん!」
「そっか……じゃあ飲む……」
「本当⁉︎」
びっくりした私に、椎名くんはしんどそうにふにゃっと笑った。
「だって、藤川の浴衣……見たいじゃん」
私は胸が熱くなって、椎名くんの熱い手をギュッと握りしめた。
「うんっ」
この世にもしも愛の奇跡というものがあるなら、きっとこれがそう呼べるものだ。
椎名くんは人生で初めて自分から薬に挑もうとしている。
私が渡した解熱鎮痛剤二錠とペットボトルの水を睨みつけながら、震える手を口に運ぶタイミングを図っている。
「頑張って、椎名くん!」
「うん……」
こんな時、椎名くんのお父さんがいたらボイパで応援するんだろうけど、私にはそんな武器もないから声援を送るだけだ。
「余裕だよ、そんなの全然苦くないから! 子供の時のイメージが残っているだけ! 絶対にイケる!」
「藤川……」
「私、椎名くんのこと信じてるからね! 一緒に花火大会行こ!」
椎名くんは頷いた。
「そうだな……。こんなの、余裕……」
そう言って、椎名くんは私を一瞬見つめた。
愛の力を確かめるように。
「見てろ藤川……俺が男になる様を!」
椎名くんは、一気に薬を口に入れた!
でも、秒で吐き出した。
「苦っ。人間の飲むものじゃないな……おのれ藤川。苦くないなんて、俺を騙したな?」
泣きながら私を睨む椎名くん。
どうやら愛の力は秒で消滅したようだ。
「今、味わう前に吐き出したよね」
「ダメだ、体がどうしても薬というものを受け付けないんだ」
「このヘタレが!」
「あーあ。藤川がフジミネコばりのナイスバディだったら浴衣見たさにもう少し頑張れたのかもしれないのにな」
「私のせいにするな!」
もう怒った。こうなったら意地でも飲ませてやる。私は市販薬の箱から再び二錠の薬を取り出した。
「もういいって、無理……」
文句を言いかけた椎名くんの口に、私は無理やり薬を押し込んだ。
暴れる椎名くん。
その口から薬が吐き出される前に、私は彼の首を抱き寄せてキスをした。
熱。
椎名くんの首。
椎名くんの耳。
椎名くんの唇。
みんなみんな、熱っついな。
唇同士が熱でくっついちゃって、剥がれなくなりそうだ。
椎名くんの体がわずかに震えた。
その瞬間、ごくん、と彼の喉が上下する音が聞こえたような気がした。
「ぶはあっ!」
苦しそうに息を吐き出すと、椎名くんはベッドにぶっ倒れた。
薬は無事に飲み下したようだ。
「お薬飲めたね。良かったじゃん」
余裕ぶってそう言ったけど、ちょっぴり声が震えたのが自分でも分かった。
今のはちょっと大胆すぎたかな。自分でもびっくり。
私の心臓が暴れて、肋骨を叩く音がする。
「おのれ藤川──」
椎名くんは真っ赤になった顔面を右手の甲で隠して、悔しそうに呟いた。
「俺を殺す気かっ……」
絶対照れてるよね、これ。
私は思わずヘラッと笑った。
◇
それから二日後。
花火大会当日の夕方。
「おーい、生きてるか?」
熱を出して倒れた私のところに、椎名くんがお見舞いに来てくれた。
楽しみにしていたのに、ミイラ取りがミイラになっちゃったというわけだ。最悪。
「まさか俺の風邪がうつるとはな」
椎名くんが苦笑する。私に移したせいか、薬をちゃんと飲めたおかげか、彼はあの翌日に完全復活を遂げていた。
「椎名ウイルス、きっつ……」
「俺の名前をウイルス名にすな。薬はもう飲んだのか?」
「朝は飲んだけど、お昼のがまだ……。食後の薬なんだけど、食欲なくて寝てばかりだったから……」
「ダメじゃん。薬飲まなきゃ」
どの口が言ってんだ。誰のせいでこうなったと思っている。
でも、それが椎名くんだ。
いつも通りの空気感にホッとさせられる。
「薬の前に何か食べなきゃな。藤川の好きなプリン買ってきた。食べる?」
「ほんと? 嬉し……」
正直まだ食欲はないけど、椎名くんの気持ちが嬉しいから頑張って食べようかな。
私はゆっくりと上半身を起こした。
蓋の包装フィルムを剥がして、プルプルの表面をプラスチックのスプーンですくいあげる。
美味しそう。いけるかも。
「いただきまーす」
プリンを口に運ぼうとしたその時、椎名くんがニヤッとしながら言った。
「それ食べたら、今度は俺が薬を飲ませてやろっか」
「んっ?」
私はびっくりしてプリンを噛まずに飲み込んでしまった。
喉にちょっぴり詰まって咳が出る。
「……おのれ椎名くん、私を殺す気か……」
「やられたらやり返すまでだ」
椎名くんは暗殺者のようにダークな笑みを浮かべた。
やられたらやり返すって……キスのこと?
思い出して、顔から火が出そうになる。
「それじゃ椎名くんがまた風邪ひいちゃうじゃん」
「その時はその時だ。運命だと思って受け入れるしかないな」
薬の意義とは?
飲ませるために風邪を引いてたら本末転倒だろ。
とりあえず、椎名くんが嫌がらずに薬を飲めるようになったことだけは一歩前進と考えていいのかもしれない。
私はプリンをひとくちずつゆっくり味わいながら、緩んでしまう頬を隠しきれずにいた。
