――死んでしまうときに備えて。
ハロー。ディア・マイ・ティーチャー。愛しの先生。
それはやめてくれって言うおつもりでしょう。でも、やめません。なぜって、だって、それ以外の呼びかたを、わたしはとっくに思い出せなくなってしまいました。
元気かと訊かれると、精神だけは正常そのもの、というふうに答えておきますね。身体のほうはいつもツギハギ。記憶にしたって同じことで、先生は小学生のころに家庭科の授業でパッチワークを教わった経験はありませんか。わたしはどうにもやった憶えがありません。……忘れてしまっているだけでしょうか。
最近、眼の調子がよくないのです。今もこうして目蓋の裏側に、いちめんの透明な墨色が広がっているよう。ずいぶん詩的なたとえを、とあなたは笑うでしょう。授業中、わたしもそうしてあなたのことを笑っていました。今ではもう笑えません。
眼ってとってもだいじですよ。わたしね、「きみの眼球はなんて美しい形をしてるんだ」って告白してくれる男性なら即オーケーしちゃうのに。先生はそんなこと絶対にできっこないでしょう。
話がそれてしまいました。その分野のヒトが言うことに、わたしの身体はもう半分以上がぼろぼろなんだそうです。それでも先生は、きっと、わたしを哀れみ、かわいそうだとは思わない。
わたしはいつでも籠の中で待っているのに。先生がわたしを探し出してくれるのを、ずっと待ち続けていますからね。でもね、勘違いしないでほしいのは、そこにいるのはきれいな歌をさえずる無垢な小鳥じゃないんです。二対の翅を閉じながら眠る、機械で創られた冷たい蝶です。先生。最後にもう一度訊くけど、あなたの眼はなにを見つめているの。わたしは闇を、あなたは光を。その逆は、不思議と想像できませんでした。
……最後に思いきり飛べたらな。飛ぶまえに死んでしまうぐらいなら、せめて、わたしを囚えにきてね。
テレビ画面の中央。二人の女の子が眠っている。
光のあふれるシーツの上。タマゴ色の柔らかそうな毛布にくるまれ、目を閉じている。絵本の挿絵に記憶する、死んだきれいなお姫さまみたいだ。それから、彼女たちの青白い肌に桜の花びらが散りかかる。何枚も何枚も。貝がらに似た花びらが、まったく同じ顔をした二人の女の子へ降りそそがれていく。
片割れの女の子が目を覚ます。起きたばかりの彼女は、横たわったままバラ色のくちびるをほのかに開きかける。
「――」
画面の向こうの彼女が、未だ目を覚まさないもう一人の彼女に向かって囁きかける。それが「起きなさい」という命令なのか、「死んでるの」という確認なのか。聞きとることは難しい。やがて声をかけられたほうの女の子の閉ざされた睫毛が小さく震える。よかった、生きていた、とは思わないけれど、僕はこのコマーシャルが、世界でいちばんくだらなく思えて、大嫌いだった。
眠り心地は、いつだって透明な闇の中にいるようだ。それは限りなく広がる墨色の深い海に似ていた。
起きてすぐに最悪な気分を迎えながら、僕はタオルケットで顔を覆った。息を吸うとひんやりした畳から立ちこめる青い香りが鼻先をくすぐってくる。
夏の空を塗りこめたような色の敷布団。タオルケットのごわごわとした手ざわり。僕はすき間から片目だけをのぞかせて、室内の様子をそっと確かめる。ありふれた六畳間。丸い机と小さなテレビの他にはなにもない。その時間、僕以外には誰もいない。……わかっていたことじゃないか。ならば、目を覚ませ。もう起きなければいけない。あと二十分もしないうちに家を出なければ、遅刻した罰を受けることになるのだから。
言い聞かせながら僕はもう一度だけ寝返りをうつ。枕に顔を埋めてしまいながら、あくびをして、ようやくすっきりとした朝の光をカーテン越しに受けとめる。
決して長くはない人生において、意外に思われるかもしれないが、僕は夢というものをただの一度も見たことがなかった。そう正直に告白すると、たいていのヒトは驚いてあきれるものだ。普通、そんなことはあり得ないと。本当のことなのに。これまでも、多分この先も。
試しに辞書を引いてみたことがある。「夢」とは、睡眠中に体験させられる感覚的な心象のことをいうそうだ。または将来的に実現させたいと願う事柄であったり目標であったり(こっちは特に関係ないが)一応、どういうものかは知っている。眠っている間に処理された個人の記憶だと聞いたこともある。
けれど僕にとってみれば、見ることができない夢の内容など、所詮は記録の断片でしかない。振り返るほどの過去を持ち合わせていない僕にとって、ともすると「夢」というものは透き通った欠片たちが組み合わさってできたもので、誰のものかによってさまざまな色を帯びていくのかもしれなかった。そんなことを考えることも、ある。つまるところ僕からすれば、眠るという行為は透明な闇の中をひたすら泳ぎ、ふわふわ漂っているような、途方もない時間をさまよっているのとなにも変わらないのだった。
けれど、どうしてだろうか。いざ目が覚めてみると、ようやく現実の世界に戻ってこられたのだという安心感が目蓋の裏に降りてくる。
眠っている間、僕は傍観者の一人だった。そこで目にした光景には、ちょうど嫌いなコマーシャルに出てくるような二人の女の子がそこにいて。そのうちの一人は僕の女友達。そしてもう一人は――この世に在って、ヒトではなかった。
マーガリンは猛毒なので食べたら死ぬらしい。それも絶対に。母さんが僕に教えてくれた。
居間には誰もいない。母さんはすでにパートに出ていた。早朝のマーケットでもとりわけベーカリー部門は忙しいのよ、とよく口走っている。実際、僕が学校へ行くよりも早く、テーブルに朝食の乗った皿だけを残して出てしまうことが多いので、僕は起き抜けの母さんがどのような声色をしているのか、寝癖がどれぐらいひどいのか、記憶したことがほとんどなかった。
テーブルの上の皿には目玉焼きとロールパンがふたつ。そのわきには銀紙で包まれたマーガリンがひかえめな様子で添えられていた。家にはバターを買う余裕がない。だからいつでもマーガリンなのだ。食べたら死ぬ、猛毒なのに。
「行ってきます」
冷たい玄関に向かって言う。朝食には手をつけなかった。
湿った風が頬をなでつける。すれ違うスーツ姿の男が暑さのあまり舌打ちする。僕を追い越した女子高生は汗ばんだ前髪をしきりに指先でいじっていた。
僕の棲む街にも、いよいよ夏の香りが漂い始めているようだった。
白と灰みがかった水色で彩られた無機質な箱のような街。家のベランダから見える景色はいつでもほの暗い。空が晴れわたっているときでさえ街全体が雨雲に覆われたようにいっそう淀んで見えるほどだ。
引っ越してくる以前は「緑町」とも呼ばれていたらしいが、ここでは自然の植物はただの添えものに過ぎなかった。過去、存在していたという桜並木通りは、街を構想する段階ですでに地図から消えていた。否、消された、と表現するのが妥当なのか。今ではこの街にある唯一の地方創生団体である市役所の裏に、日陰を作るためだけに巨大な桜の木がいっぽん植えられているだけだった。
緑が、あふれる自然が、どんどん破壊された後、僕たちのような家族が棲むようになったことで、ようやく理想の形になったのがこの街だった。
「おはようございます。今日の天気は、晴れ。最高気温は××度。降水確率は××パーセント。素晴らしい快晴でございます。車に気をつけて行ってらっしゃいませ」
僕は声のしたほうへ笑顔を返す。毎日おつかれさまです、という気持ちをこめて。この街にあって他の地域には存在しないモノ。人間そっくりに創られた、言葉を操る「彼」に向けて。
「ありがとう、渋谷さん。行ってきます」
「はい。小沢ケイさんの一日が善きものとなりますように」
最後まで言いかけて渋谷さんは言葉を切った。ぶつん、とテレビが光源を落としたときのように、ためらうことなく唐突に。
見ると僕の隣、目の前で信号を待っていた少女が泣いていた。どうやら給食当番で身につけるエプロンを忘れてしまったことに気がついたらしい。ランドセルを探ってみてもないという。
渋谷さんが「これはこれは。まいったなあ」と頭をかいた。初老の男性が、幼気な孫をあやし損ねると、きっとこんな慌てかたをするのだろう。少なくとも僕にはそう感じる。
「きみは三号棟、二〇三号室のつぐみちゃんで間違いないね。大丈夫だよ。ほら、きみのお父さんに連絡してあげよう。いったん取りに帰るつもりなら小学校に連絡してもいい。だからもう泣かないでくれよ」
「でも、でも、おじいちゃん、家の番号なんて知らないでしょう」
つぐみちゃん、と呼ばれた少女が反論する。なめらかな口調で個人情報を暴かれていくことに、なんの驚きもなさそうだ。
「まさか。ここに記録してるんだよ、ほら」
こめかみの辺りを指でとんと弾きながら、渋谷さんが朗らかに片目をつむる。少女がその役割を理解するにはまだ少し先のことかもしれない。そのついで、散々使い古されてきた旧式の「渋谷さん」がもうすぐ処分されてしまうことも彼女はきっと知らないはずだ。
じきに変わり始める信号と少女へそれとなく交互に視線をやる。少女はハンカチで涙をぬぐうと、「……電話、井上先生にお願いします」恥ずかしそうに顔を伏せた。渋谷さんも「承知いたしました。お家までお気をつけて」頭を下げて、それから踵を返す少女の後姿を見送った。
信号が変わり、僕は歩き出す。肩越しに渋谷さんに手を振った。見た目の上では紛れもなく人間そのものに見えるのは、渋谷さんだけじゃない。この街の至るところに存在する、この街にだけ棲息する、人間と瓜二つに創られたロボット。彼らによって、この小さな箱庭のような世界は支えられている。
時計は歯車が正しく複雑に噛み合うことで正常に動くものだとしたら、人間とロボットが共存する理由もそれに近い説明ができるかもしれないのに、と僕は思う。そんなことはないという人がいるのも知っている。しかしそうであったとしても僕は母さんの「行ってらっしゃい」という言葉より、もっとずっと渋谷さんの「行ってらっしゃい」のほうに耳が慣れてしまっている。
来た道を振り返る。暑さのあまり揺らめき立つ道の先。漂白剤をいちめんに吹きかけたようなこの街並みは、何年も昔から僕の中で死んでいる。
まもなく学校に着く、というときだった。
ゆるやかな坂道を上っていると、背中にドンッと衝撃が走った。鈍い音とともに肩にかけていたスクールバッグが危うくずり落ちそうになる。
「とっとー、坂って駆け上がるとくらくらしちゃう。また転びそうになっちゃったよ。でもケイの歩きかたってわかりやすいからすぐ見つかるんだよね。ていうか、ほんっとに朝って人多すぎてだるー!」
謝罪もなしに矢継ぎ早に言葉をつむぐ彼女の横を、僕はすり抜けようとする。彼女にとってみれば不注意でぶつかったのではなく、思い切りよく寄りかかったつもりなのだろう。楢崎るり葉という女子生徒にはこういうところがある。
「おはよー」
「これ、昨日とまったく同じ。いい加減、僕を目がけて突進してくるのやめてくれない」
「うーんそれは無理。おはよ!」
「無理って」
ルリは無視して叫び続ける。朝から勘弁してほしい。
「おはよう! ……って言ってくれないの?」
「わかったよ。元気そうだね、おはよう」
ルリは毎朝しつこく、僕が挨拶を返す気になるまでずっとこんな調子でいる。
「そっけないなあ」
ルリが笑うと、そこだけ光の粉をまき散らしたようにキラキラした空間が生まれる。並んで歩いているといっぺんに疲れてしまうため、僕は彼女の視線から逃れるように目をそらした。
「英語の宿題やった? 私はね、マイ・ホームワーク・イズ・ダン。なんてね。任務、もとい宿題が完了したのであります!」
「じゃあ、それ貸して。写させて」
「駄目。先にももちゃんに貸す約束してるんだもん。そのあとならいいけど」
それはお人好しで済む問題ではないのではないか、と思うが、あえてはっきりとは言わない。
「あのさ、お前ってクラスの中ではいろんなやつに当てにされてるかもしれないけどね。宿題っていうのは本来なら自力で」
言いかけようとして、けれど、「あー、それね」ルリによって遮られた。都合が悪くなると力なく笑ってみせるところも彼女の癖のひとつだ。
「ちゃんと自分の力でやったよ? どうせケイのことだから、『ロボットに任せる人もいる』って言いたかったんじゃないの?」
ロボット、という単語に思いがけず反応が鈍くなる。
「私ったらそんなに信用ないのかなー。見せたげようか、私の字。ケイは見慣れてるもんね、交換日記とかでね」
「いい、いい。日記がどうとか。それに違う。僕が言いたいのはそうじゃなくて、ルリを頼りすぎるクラスのやつらがって……ああ、もう。見たくもないし、わかってる」
ぐいぐいとノートの表紙を押しつけられる。歩きながらこれはよほどうっとうしい。
「さすが。私のことならなんでもわかってくれるんだよね、ケイって。……あっ、ちなみにウチんところの〈蝶〉は元気だからね。なんとかして家にいさせてるし」
「なんとか、って」
「枷で繋ぎとめてあるから、大丈夫」
なんでもないことのようにルリが言う。今日、朝食抜いてきちゃったんだよね。そんな軽さで、僕のほうを見て笑った。
「出ていけないように鍵もかけてる」
猫のチャームと赤い鈴のついた鍵を指先でくるくると回してみせる。やがて鍵はルリの制服のポケットへと大切そうにしまわれた。
「以上。近況報告でしたー」
僕はどきりとする。この街ではロボットを平然と〈蝶〉と呼ぶから、そんな理由ではない。今のはいったい。彼女なりの冗談のつもりなのだろうが、僕は自分でもわかるほど声がすぼまっていくことに、どうやら彼女は気づいていないようだった。
「ケイんちはどう?」
「……相変わらずだね。日中なにしてるんだか」
「ならお土産に給食のパンでも持って帰ってあげたらどう。お砂糖がまぶしてあるやつじゃ難しいかな」
「そもそも今日はパンじゃなかったはず」
なんでもないルリとの会話。これから始まる今日という日。そんな事実に僕は安堵し、今日を乗り切ることをのぞいてなにも考えないよう気を引きしめる。
もうすぐ僕たちが収容される建物が、坂の上に現れる頃だ。人工的に手が加えられ、歩きやすくなった灰色の通学路が途切れて、正門を抜けたあたりでいよいよグラウンドの土と一体を成す。
降りつもった翌日のうす暗い雪を連想させる、白く古風な造りの中学校。昔の名残で「緑中」とも呼ばれているが、真新しさと清潔さを売りにしている街が、広報紙にすら載せたがらないようなそんな場所で、僕もルリも息をする。
家と学校ぐらいしか居場所がない僕にとって、ルリとの登校は、自分の気持ちを素直に確認することのできる数少ない時間だった。けれどどういうわけか。僕はふいに例のコマーシャルを思い出す。隣を歩く彼女の横顔が、映像に出てくる女の子の一人と重なった。現実は、あの映像のようにきれいでも甘やかでもないことは、ルリの瞳にまとわりついたほのかな闇がとっくに証明していた。
僕たちは音楽室に集められていた。そのわりには結構な自由がある。もともと授業があるところを、担当の高嶋先生が気を利かせた結果、合唱祭の練習にあてることとなった。
午後の授業ともなると、誰もが眠そうでいて集中力も欠けてくる。僕はピアノから離れた場所に立って、楽譜に目を通すふりをしながら、たまに顔を上げて教室内をぼんやり観察していた。
「自由曲は今から弾いてみるから、なんとなく曲調とか把握してね」
椅子に腰かけたルリが、鍵盤に指をすべらせる。軽やかに、けれど爪先で硝子の階段を駆け上がるほど繊細に。その時間、清涼な景色を思わせる音色が音楽室に響きわたった。伸ばしているという彼女の髪が、カーテンのすき間からさす光に透けて、長い間、肩の上を跳ね続けていた。
伴奏が止む。奏で終わったルリに向かって、指揮者の女の子が言った。
「さすが! めちゃくちゃいいよ。天才じゃん」
「ありがと。でもね、家ですっごく練習したんだ」
ピアノを囲って立っていたクラスメイトからの鳴り止まない拍手に、ルリははにかみながら、「褒めすぎ」と笑っている。僕が同じように褒めたとしても、今日のルリならきっと素直に笑って受け流すのだろう。そんな気がした。
「何歳から習ってるんだっけ」
「えーとね……たしか四歳!」
「すごっ。もう十年近くやってることになるじゃん。プロだよプロ。ね、先生もなんか言ってあげな」
ルリのすぐ近くに立っていた高嶋が、名前を呼ばれて我に返ったように生徒たちの顔を見回した。
高嶋はスーツの下に濃い色のベストを着た、いかにもそれらしい格好をした音楽の先生だ。神経質そうな見た目に反して、生徒を見守る目つきはいつも涼しげな、そんなやつ。僕はこの顔の人間が感情を乱しながらピアノを弾いたり、バイオリンを奏でたりする場面をうまく想像できない。それぐらい僕から見ても高嶋はつかみどころがなさそうな男だった。
ふと高嶋の固く閉ざされた口もとがゆるんだかと思いきや、めずらしく笑っていた。
「実を言うとね、おれがピアノを始めたのって中学生になってからなのよ」
「え、それって遅くない? ていうか、なにげに新情報ですよルリさん」
指揮者の子がからかいながらルリの肩をぽんと叩いた。ルリは僕の立つ位置からも表情が見えないぐらい、俯いていた。
「少年のおれが楢崎さんと出会っていたら、嫉妬とか羨望とか憧憬とか、きっといろいろな感情でぶっ壊れていたかもしれないよね」
「そんな大げさだし。センセーってば」
「音にぶつけられるのが今でよかったよ。間違っても、他の誰か、でなく。……大切な人、傷つけちゃったら悲しいもんね、おれが」
静まり返った音楽室に、高嶋のくすみの失せた声だけが反響した。椅子の上で船をこぎかけていた生徒が、静けさのあまり目をこすりながら周囲の様子をうかがっている。
高嶋の露わになった感情に、僕は正直に言うと少しだけびっくりしていた。そして思う。だから僕は、こういう人間が苦手なんだ、と。
人間は、人間らしく、自分らしく在ろうとするために、過去を肯定して、今を生きることを貪っていかなければならない欲深い存在であるべきだ。教科書でも読んだことがあるし、僕もその考えに同意する。あのときの自分はこうだった、けれどどうにかこうにか生き延びて、今は……。そんな具合に。記憶のどこかで間違えた選択や、取り返しのつかない後悔を、常に洗いざらい吐き出したいと思っている僕からすれば、高嶋は、すごく生々しいことを口にしていたわりに、生きているという実体が限りなく薄い、気味の悪い人間に思えた。そういう境地に辿りつくまで、あといくつ年数を重ねればいいのか、それが本当の大人なのか。わからないのもいっそう不気味なんだった。
「ねえったら、小沢」
とん、と肘をつつかれて横を向く。
合唱祭実行委員の倉森さんだった。僕と同じで、クラスの輪から外れた彼女もまたピアノの位置からはやや遠い。気だるそうに楽譜をうちわのように扇いでいる。実行委員がそんな有りさまでいいのだろうか。
倉森さんはルリのほうを目で追いながら、どこかもの問いたげな顔をしていた。
「ピアノ上手いよねー。あたしも小三までやってたんだけどレッスンがきつくなってやめちゃった」
「へえ。倉森さん、ピアノやってたんだ。イメージに合わないな」
「さらっと失礼じゃん。ていうかさあ、小沢、見すぎなんだよ」
「なにが?」
「前から思ってたけど、ルリのこと絶対好きでしょ」
「はあっ?」
ほら、言ってみなさいよ。丸めた楽譜の先端が、顔の前に突きつけられる。僕よりわずかに背の高い倉森さんが、意味ありげな笑みを浮かべていた。
「二人よく一緒に帰ってるじゃん」
「家、近いし」
「今年の納涼祭のご予定は?」
「行っても一人だ、僕はね」
「じゃあなにしに行くってのよ」
倉森さんは、ふは、と声を出してようやく楽譜を目の前から退けた。クラスの中でも恋愛と音楽の話題が好きらしい彼女と僕は普段ならあまり話すこともない。ルリとは仲がよく、だからだろう。倉森さんはどうやら僕がルリに「そういう」気を持っていると勘違いしているようだった。
違う。そういうんじゃないんだ。けれど否定すればするほど、倉森さんのようなタイプはますます話をこじらせるに決まっている。僕の、そんなのあるわけない、という感情が、彼女の持つ恋愛観に上書きされてしまうのは、なんていうか、いろいろな意味で困ることになる。
話題から逃れることができないと悟った僕は、ルリのほうを見ずに答えた。
「どうせ、ろくなことにならないと思うよ」
「わかる。クラスの男子なんか眼中にないって感じだよね。相手が相手だし」
「知ってたの?」
「当たり前じゃん。友達だもん。こういう勘は利くんだよね」
意外な反応に、僕は少し安堵した。倉森さんが続ける。
「まあ、そういう子もいるよねーって。あっ、これ悪口じゃないからね。ルリみたいな子ってちょっと夢見がちっていうかね」
「ああ、わかる」
「気になる人のちょっと真剣でダークな一面を知った気になって、それが全部甘い記憶に変換されちゃうの」
「それは、わからないけど」
「相手、歳上よ? しかも先生よ? 越えるべき壁が多すぎるのよ。相手はロボットじゃないんだからさあ。人の感情なんて完全に理解しようと思ってできるものじゃなくない?」
今朝のルリと同じ。倉森さんも「ロボット」という単語をいとも簡単に口にする。……しかし、今は無問題だ。
「小沢もさ、うかうかしてるとルリのこと本当に奪われちゃうよ?」
「だから、どうして関係のない僕が」
「いっそ奪ってあげたいからだよ。あたしが小沢だったらね。いっそあの子でもいい。だってあたしがあの子だったら、きっと病んじゃうと思うな」
そう言って倉森さんがあごで示した先には、変わらずピアノの椅子に座って、クラスメイトと談笑するルリの姿があった。その目は周囲に集まる生徒を映すにはややぼんやりしていて、なにか違うことに気を取られているようにあちこちを泳いでいた。
「……なるなよ」
倉森さんが「え?」と訊き返す。首を振ってなんでもないことを伝えると、「あっそう」興味をなくしてしまったのか。それからなにも訊いてこなかった。
心の内側で、僕は呟く。
――あんなやつ、好きになんてなるなよ。
先の言葉を空気とともに飲みこんだ。ルリが高嶋と笑っている。なにかに追い縋るような、堪えたような顔つきで。楽譜の端に偶然重なった高嶋の手。記憶に刻みつけようと指先をかばうみたいにさする彼女に、僕は思わず床を向いて、しばらくの間、顔を上げることができなかった。
ハロー。ディア・マイ・ティーチャー。愛しの先生。
それはやめてくれって言うおつもりでしょう。でも、やめません。なぜって、だって、それ以外の呼びかたを、わたしはとっくに思い出せなくなってしまいました。
元気かと訊かれると、精神だけは正常そのもの、というふうに答えておきますね。身体のほうはいつもツギハギ。記憶にしたって同じことで、先生は小学生のころに家庭科の授業でパッチワークを教わった経験はありませんか。わたしはどうにもやった憶えがありません。……忘れてしまっているだけでしょうか。
最近、眼の調子がよくないのです。今もこうして目蓋の裏側に、いちめんの透明な墨色が広がっているよう。ずいぶん詩的なたとえを、とあなたは笑うでしょう。授業中、わたしもそうしてあなたのことを笑っていました。今ではもう笑えません。
眼ってとってもだいじですよ。わたしね、「きみの眼球はなんて美しい形をしてるんだ」って告白してくれる男性なら即オーケーしちゃうのに。先生はそんなこと絶対にできっこないでしょう。
話がそれてしまいました。その分野のヒトが言うことに、わたしの身体はもう半分以上がぼろぼろなんだそうです。それでも先生は、きっと、わたしを哀れみ、かわいそうだとは思わない。
わたしはいつでも籠の中で待っているのに。先生がわたしを探し出してくれるのを、ずっと待ち続けていますからね。でもね、勘違いしないでほしいのは、そこにいるのはきれいな歌をさえずる無垢な小鳥じゃないんです。二対の翅を閉じながら眠る、機械で創られた冷たい蝶です。先生。最後にもう一度訊くけど、あなたの眼はなにを見つめているの。わたしは闇を、あなたは光を。その逆は、不思議と想像できませんでした。
……最後に思いきり飛べたらな。飛ぶまえに死んでしまうぐらいなら、せめて、わたしを囚えにきてね。
テレビ画面の中央。二人の女の子が眠っている。
光のあふれるシーツの上。タマゴ色の柔らかそうな毛布にくるまれ、目を閉じている。絵本の挿絵に記憶する、死んだきれいなお姫さまみたいだ。それから、彼女たちの青白い肌に桜の花びらが散りかかる。何枚も何枚も。貝がらに似た花びらが、まったく同じ顔をした二人の女の子へ降りそそがれていく。
片割れの女の子が目を覚ます。起きたばかりの彼女は、横たわったままバラ色のくちびるをほのかに開きかける。
「――」
画面の向こうの彼女が、未だ目を覚まさないもう一人の彼女に向かって囁きかける。それが「起きなさい」という命令なのか、「死んでるの」という確認なのか。聞きとることは難しい。やがて声をかけられたほうの女の子の閉ざされた睫毛が小さく震える。よかった、生きていた、とは思わないけれど、僕はこのコマーシャルが、世界でいちばんくだらなく思えて、大嫌いだった。
眠り心地は、いつだって透明な闇の中にいるようだ。それは限りなく広がる墨色の深い海に似ていた。
起きてすぐに最悪な気分を迎えながら、僕はタオルケットで顔を覆った。息を吸うとひんやりした畳から立ちこめる青い香りが鼻先をくすぐってくる。
夏の空を塗りこめたような色の敷布団。タオルケットのごわごわとした手ざわり。僕はすき間から片目だけをのぞかせて、室内の様子をそっと確かめる。ありふれた六畳間。丸い机と小さなテレビの他にはなにもない。その時間、僕以外には誰もいない。……わかっていたことじゃないか。ならば、目を覚ませ。もう起きなければいけない。あと二十分もしないうちに家を出なければ、遅刻した罰を受けることになるのだから。
言い聞かせながら僕はもう一度だけ寝返りをうつ。枕に顔を埋めてしまいながら、あくびをして、ようやくすっきりとした朝の光をカーテン越しに受けとめる。
決して長くはない人生において、意外に思われるかもしれないが、僕は夢というものをただの一度も見たことがなかった。そう正直に告白すると、たいていのヒトは驚いてあきれるものだ。普通、そんなことはあり得ないと。本当のことなのに。これまでも、多分この先も。
試しに辞書を引いてみたことがある。「夢」とは、睡眠中に体験させられる感覚的な心象のことをいうそうだ。または将来的に実現させたいと願う事柄であったり目標であったり(こっちは特に関係ないが)一応、どういうものかは知っている。眠っている間に処理された個人の記憶だと聞いたこともある。
けれど僕にとってみれば、見ることができない夢の内容など、所詮は記録の断片でしかない。振り返るほどの過去を持ち合わせていない僕にとって、ともすると「夢」というものは透き通った欠片たちが組み合わさってできたもので、誰のものかによってさまざまな色を帯びていくのかもしれなかった。そんなことを考えることも、ある。つまるところ僕からすれば、眠るという行為は透明な闇の中をひたすら泳ぎ、ふわふわ漂っているような、途方もない時間をさまよっているのとなにも変わらないのだった。
けれど、どうしてだろうか。いざ目が覚めてみると、ようやく現実の世界に戻ってこられたのだという安心感が目蓋の裏に降りてくる。
眠っている間、僕は傍観者の一人だった。そこで目にした光景には、ちょうど嫌いなコマーシャルに出てくるような二人の女の子がそこにいて。そのうちの一人は僕の女友達。そしてもう一人は――この世に在って、ヒトではなかった。
マーガリンは猛毒なので食べたら死ぬらしい。それも絶対に。母さんが僕に教えてくれた。
居間には誰もいない。母さんはすでにパートに出ていた。早朝のマーケットでもとりわけベーカリー部門は忙しいのよ、とよく口走っている。実際、僕が学校へ行くよりも早く、テーブルに朝食の乗った皿だけを残して出てしまうことが多いので、僕は起き抜けの母さんがどのような声色をしているのか、寝癖がどれぐらいひどいのか、記憶したことがほとんどなかった。
テーブルの上の皿には目玉焼きとロールパンがふたつ。そのわきには銀紙で包まれたマーガリンがひかえめな様子で添えられていた。家にはバターを買う余裕がない。だからいつでもマーガリンなのだ。食べたら死ぬ、猛毒なのに。
「行ってきます」
冷たい玄関に向かって言う。朝食には手をつけなかった。
湿った風が頬をなでつける。すれ違うスーツ姿の男が暑さのあまり舌打ちする。僕を追い越した女子高生は汗ばんだ前髪をしきりに指先でいじっていた。
僕の棲む街にも、いよいよ夏の香りが漂い始めているようだった。
白と灰みがかった水色で彩られた無機質な箱のような街。家のベランダから見える景色はいつでもほの暗い。空が晴れわたっているときでさえ街全体が雨雲に覆われたようにいっそう淀んで見えるほどだ。
引っ越してくる以前は「緑町」とも呼ばれていたらしいが、ここでは自然の植物はただの添えものに過ぎなかった。過去、存在していたという桜並木通りは、街を構想する段階ですでに地図から消えていた。否、消された、と表現するのが妥当なのか。今ではこの街にある唯一の地方創生団体である市役所の裏に、日陰を作るためだけに巨大な桜の木がいっぽん植えられているだけだった。
緑が、あふれる自然が、どんどん破壊された後、僕たちのような家族が棲むようになったことで、ようやく理想の形になったのがこの街だった。
「おはようございます。今日の天気は、晴れ。最高気温は××度。降水確率は××パーセント。素晴らしい快晴でございます。車に気をつけて行ってらっしゃいませ」
僕は声のしたほうへ笑顔を返す。毎日おつかれさまです、という気持ちをこめて。この街にあって他の地域には存在しないモノ。人間そっくりに創られた、言葉を操る「彼」に向けて。
「ありがとう、渋谷さん。行ってきます」
「はい。小沢ケイさんの一日が善きものとなりますように」
最後まで言いかけて渋谷さんは言葉を切った。ぶつん、とテレビが光源を落としたときのように、ためらうことなく唐突に。
見ると僕の隣、目の前で信号を待っていた少女が泣いていた。どうやら給食当番で身につけるエプロンを忘れてしまったことに気がついたらしい。ランドセルを探ってみてもないという。
渋谷さんが「これはこれは。まいったなあ」と頭をかいた。初老の男性が、幼気な孫をあやし損ねると、きっとこんな慌てかたをするのだろう。少なくとも僕にはそう感じる。
「きみは三号棟、二〇三号室のつぐみちゃんで間違いないね。大丈夫だよ。ほら、きみのお父さんに連絡してあげよう。いったん取りに帰るつもりなら小学校に連絡してもいい。だからもう泣かないでくれよ」
「でも、でも、おじいちゃん、家の番号なんて知らないでしょう」
つぐみちゃん、と呼ばれた少女が反論する。なめらかな口調で個人情報を暴かれていくことに、なんの驚きもなさそうだ。
「まさか。ここに記録してるんだよ、ほら」
こめかみの辺りを指でとんと弾きながら、渋谷さんが朗らかに片目をつむる。少女がその役割を理解するにはまだ少し先のことかもしれない。そのついで、散々使い古されてきた旧式の「渋谷さん」がもうすぐ処分されてしまうことも彼女はきっと知らないはずだ。
じきに変わり始める信号と少女へそれとなく交互に視線をやる。少女はハンカチで涙をぬぐうと、「……電話、井上先生にお願いします」恥ずかしそうに顔を伏せた。渋谷さんも「承知いたしました。お家までお気をつけて」頭を下げて、それから踵を返す少女の後姿を見送った。
信号が変わり、僕は歩き出す。肩越しに渋谷さんに手を振った。見た目の上では紛れもなく人間そのものに見えるのは、渋谷さんだけじゃない。この街の至るところに存在する、この街にだけ棲息する、人間と瓜二つに創られたロボット。彼らによって、この小さな箱庭のような世界は支えられている。
時計は歯車が正しく複雑に噛み合うことで正常に動くものだとしたら、人間とロボットが共存する理由もそれに近い説明ができるかもしれないのに、と僕は思う。そんなことはないという人がいるのも知っている。しかしそうであったとしても僕は母さんの「行ってらっしゃい」という言葉より、もっとずっと渋谷さんの「行ってらっしゃい」のほうに耳が慣れてしまっている。
来た道を振り返る。暑さのあまり揺らめき立つ道の先。漂白剤をいちめんに吹きかけたようなこの街並みは、何年も昔から僕の中で死んでいる。
まもなく学校に着く、というときだった。
ゆるやかな坂道を上っていると、背中にドンッと衝撃が走った。鈍い音とともに肩にかけていたスクールバッグが危うくずり落ちそうになる。
「とっとー、坂って駆け上がるとくらくらしちゃう。また転びそうになっちゃったよ。でもケイの歩きかたってわかりやすいからすぐ見つかるんだよね。ていうか、ほんっとに朝って人多すぎてだるー!」
謝罪もなしに矢継ぎ早に言葉をつむぐ彼女の横を、僕はすり抜けようとする。彼女にとってみれば不注意でぶつかったのではなく、思い切りよく寄りかかったつもりなのだろう。楢崎るり葉という女子生徒にはこういうところがある。
「おはよー」
「これ、昨日とまったく同じ。いい加減、僕を目がけて突進してくるのやめてくれない」
「うーんそれは無理。おはよ!」
「無理って」
ルリは無視して叫び続ける。朝から勘弁してほしい。
「おはよう! ……って言ってくれないの?」
「わかったよ。元気そうだね、おはよう」
ルリは毎朝しつこく、僕が挨拶を返す気になるまでずっとこんな調子でいる。
「そっけないなあ」
ルリが笑うと、そこだけ光の粉をまき散らしたようにキラキラした空間が生まれる。並んで歩いているといっぺんに疲れてしまうため、僕は彼女の視線から逃れるように目をそらした。
「英語の宿題やった? 私はね、マイ・ホームワーク・イズ・ダン。なんてね。任務、もとい宿題が完了したのであります!」
「じゃあ、それ貸して。写させて」
「駄目。先にももちゃんに貸す約束してるんだもん。そのあとならいいけど」
それはお人好しで済む問題ではないのではないか、と思うが、あえてはっきりとは言わない。
「あのさ、お前ってクラスの中ではいろんなやつに当てにされてるかもしれないけどね。宿題っていうのは本来なら自力で」
言いかけようとして、けれど、「あー、それね」ルリによって遮られた。都合が悪くなると力なく笑ってみせるところも彼女の癖のひとつだ。
「ちゃんと自分の力でやったよ? どうせケイのことだから、『ロボットに任せる人もいる』って言いたかったんじゃないの?」
ロボット、という単語に思いがけず反応が鈍くなる。
「私ったらそんなに信用ないのかなー。見せたげようか、私の字。ケイは見慣れてるもんね、交換日記とかでね」
「いい、いい。日記がどうとか。それに違う。僕が言いたいのはそうじゃなくて、ルリを頼りすぎるクラスのやつらがって……ああ、もう。見たくもないし、わかってる」
ぐいぐいとノートの表紙を押しつけられる。歩きながらこれはよほどうっとうしい。
「さすが。私のことならなんでもわかってくれるんだよね、ケイって。……あっ、ちなみにウチんところの〈蝶〉は元気だからね。なんとかして家にいさせてるし」
「なんとか、って」
「枷で繋ぎとめてあるから、大丈夫」
なんでもないことのようにルリが言う。今日、朝食抜いてきちゃったんだよね。そんな軽さで、僕のほうを見て笑った。
「出ていけないように鍵もかけてる」
猫のチャームと赤い鈴のついた鍵を指先でくるくると回してみせる。やがて鍵はルリの制服のポケットへと大切そうにしまわれた。
「以上。近況報告でしたー」
僕はどきりとする。この街ではロボットを平然と〈蝶〉と呼ぶから、そんな理由ではない。今のはいったい。彼女なりの冗談のつもりなのだろうが、僕は自分でもわかるほど声がすぼまっていくことに、どうやら彼女は気づいていないようだった。
「ケイんちはどう?」
「……相変わらずだね。日中なにしてるんだか」
「ならお土産に給食のパンでも持って帰ってあげたらどう。お砂糖がまぶしてあるやつじゃ難しいかな」
「そもそも今日はパンじゃなかったはず」
なんでもないルリとの会話。これから始まる今日という日。そんな事実に僕は安堵し、今日を乗り切ることをのぞいてなにも考えないよう気を引きしめる。
もうすぐ僕たちが収容される建物が、坂の上に現れる頃だ。人工的に手が加えられ、歩きやすくなった灰色の通学路が途切れて、正門を抜けたあたりでいよいよグラウンドの土と一体を成す。
降りつもった翌日のうす暗い雪を連想させる、白く古風な造りの中学校。昔の名残で「緑中」とも呼ばれているが、真新しさと清潔さを売りにしている街が、広報紙にすら載せたがらないようなそんな場所で、僕もルリも息をする。
家と学校ぐらいしか居場所がない僕にとって、ルリとの登校は、自分の気持ちを素直に確認することのできる数少ない時間だった。けれどどういうわけか。僕はふいに例のコマーシャルを思い出す。隣を歩く彼女の横顔が、映像に出てくる女の子の一人と重なった。現実は、あの映像のようにきれいでも甘やかでもないことは、ルリの瞳にまとわりついたほのかな闇がとっくに証明していた。
僕たちは音楽室に集められていた。そのわりには結構な自由がある。もともと授業があるところを、担当の高嶋先生が気を利かせた結果、合唱祭の練習にあてることとなった。
午後の授業ともなると、誰もが眠そうでいて集中力も欠けてくる。僕はピアノから離れた場所に立って、楽譜に目を通すふりをしながら、たまに顔を上げて教室内をぼんやり観察していた。
「自由曲は今から弾いてみるから、なんとなく曲調とか把握してね」
椅子に腰かけたルリが、鍵盤に指をすべらせる。軽やかに、けれど爪先で硝子の階段を駆け上がるほど繊細に。その時間、清涼な景色を思わせる音色が音楽室に響きわたった。伸ばしているという彼女の髪が、カーテンのすき間からさす光に透けて、長い間、肩の上を跳ね続けていた。
伴奏が止む。奏で終わったルリに向かって、指揮者の女の子が言った。
「さすが! めちゃくちゃいいよ。天才じゃん」
「ありがと。でもね、家ですっごく練習したんだ」
ピアノを囲って立っていたクラスメイトからの鳴り止まない拍手に、ルリははにかみながら、「褒めすぎ」と笑っている。僕が同じように褒めたとしても、今日のルリならきっと素直に笑って受け流すのだろう。そんな気がした。
「何歳から習ってるんだっけ」
「えーとね……たしか四歳!」
「すごっ。もう十年近くやってることになるじゃん。プロだよプロ。ね、先生もなんか言ってあげな」
ルリのすぐ近くに立っていた高嶋が、名前を呼ばれて我に返ったように生徒たちの顔を見回した。
高嶋はスーツの下に濃い色のベストを着た、いかにもそれらしい格好をした音楽の先生だ。神経質そうな見た目に反して、生徒を見守る目つきはいつも涼しげな、そんなやつ。僕はこの顔の人間が感情を乱しながらピアノを弾いたり、バイオリンを奏でたりする場面をうまく想像できない。それぐらい僕から見ても高嶋はつかみどころがなさそうな男だった。
ふと高嶋の固く閉ざされた口もとがゆるんだかと思いきや、めずらしく笑っていた。
「実を言うとね、おれがピアノを始めたのって中学生になってからなのよ」
「え、それって遅くない? ていうか、なにげに新情報ですよルリさん」
指揮者の子がからかいながらルリの肩をぽんと叩いた。ルリは僕の立つ位置からも表情が見えないぐらい、俯いていた。
「少年のおれが楢崎さんと出会っていたら、嫉妬とか羨望とか憧憬とか、きっといろいろな感情でぶっ壊れていたかもしれないよね」
「そんな大げさだし。センセーってば」
「音にぶつけられるのが今でよかったよ。間違っても、他の誰か、でなく。……大切な人、傷つけちゃったら悲しいもんね、おれが」
静まり返った音楽室に、高嶋のくすみの失せた声だけが反響した。椅子の上で船をこぎかけていた生徒が、静けさのあまり目をこすりながら周囲の様子をうかがっている。
高嶋の露わになった感情に、僕は正直に言うと少しだけびっくりしていた。そして思う。だから僕は、こういう人間が苦手なんだ、と。
人間は、人間らしく、自分らしく在ろうとするために、過去を肯定して、今を生きることを貪っていかなければならない欲深い存在であるべきだ。教科書でも読んだことがあるし、僕もその考えに同意する。あのときの自分はこうだった、けれどどうにかこうにか生き延びて、今は……。そんな具合に。記憶のどこかで間違えた選択や、取り返しのつかない後悔を、常に洗いざらい吐き出したいと思っている僕からすれば、高嶋は、すごく生々しいことを口にしていたわりに、生きているという実体が限りなく薄い、気味の悪い人間に思えた。そういう境地に辿りつくまで、あといくつ年数を重ねればいいのか、それが本当の大人なのか。わからないのもいっそう不気味なんだった。
「ねえったら、小沢」
とん、と肘をつつかれて横を向く。
合唱祭実行委員の倉森さんだった。僕と同じで、クラスの輪から外れた彼女もまたピアノの位置からはやや遠い。気だるそうに楽譜をうちわのように扇いでいる。実行委員がそんな有りさまでいいのだろうか。
倉森さんはルリのほうを目で追いながら、どこかもの問いたげな顔をしていた。
「ピアノ上手いよねー。あたしも小三までやってたんだけどレッスンがきつくなってやめちゃった」
「へえ。倉森さん、ピアノやってたんだ。イメージに合わないな」
「さらっと失礼じゃん。ていうかさあ、小沢、見すぎなんだよ」
「なにが?」
「前から思ってたけど、ルリのこと絶対好きでしょ」
「はあっ?」
ほら、言ってみなさいよ。丸めた楽譜の先端が、顔の前に突きつけられる。僕よりわずかに背の高い倉森さんが、意味ありげな笑みを浮かべていた。
「二人よく一緒に帰ってるじゃん」
「家、近いし」
「今年の納涼祭のご予定は?」
「行っても一人だ、僕はね」
「じゃあなにしに行くってのよ」
倉森さんは、ふは、と声を出してようやく楽譜を目の前から退けた。クラスの中でも恋愛と音楽の話題が好きらしい彼女と僕は普段ならあまり話すこともない。ルリとは仲がよく、だからだろう。倉森さんはどうやら僕がルリに「そういう」気を持っていると勘違いしているようだった。
違う。そういうんじゃないんだ。けれど否定すればするほど、倉森さんのようなタイプはますます話をこじらせるに決まっている。僕の、そんなのあるわけない、という感情が、彼女の持つ恋愛観に上書きされてしまうのは、なんていうか、いろいろな意味で困ることになる。
話題から逃れることができないと悟った僕は、ルリのほうを見ずに答えた。
「どうせ、ろくなことにならないと思うよ」
「わかる。クラスの男子なんか眼中にないって感じだよね。相手が相手だし」
「知ってたの?」
「当たり前じゃん。友達だもん。こういう勘は利くんだよね」
意外な反応に、僕は少し安堵した。倉森さんが続ける。
「まあ、そういう子もいるよねーって。あっ、これ悪口じゃないからね。ルリみたいな子ってちょっと夢見がちっていうかね」
「ああ、わかる」
「気になる人のちょっと真剣でダークな一面を知った気になって、それが全部甘い記憶に変換されちゃうの」
「それは、わからないけど」
「相手、歳上よ? しかも先生よ? 越えるべき壁が多すぎるのよ。相手はロボットじゃないんだからさあ。人の感情なんて完全に理解しようと思ってできるものじゃなくない?」
今朝のルリと同じ。倉森さんも「ロボット」という単語をいとも簡単に口にする。……しかし、今は無問題だ。
「小沢もさ、うかうかしてるとルリのこと本当に奪われちゃうよ?」
「だから、どうして関係のない僕が」
「いっそ奪ってあげたいからだよ。あたしが小沢だったらね。いっそあの子でもいい。だってあたしがあの子だったら、きっと病んじゃうと思うな」
そう言って倉森さんがあごで示した先には、変わらずピアノの椅子に座って、クラスメイトと談笑するルリの姿があった。その目は周囲に集まる生徒を映すにはややぼんやりしていて、なにか違うことに気を取られているようにあちこちを泳いでいた。
「……なるなよ」
倉森さんが「え?」と訊き返す。首を振ってなんでもないことを伝えると、「あっそう」興味をなくしてしまったのか。それからなにも訊いてこなかった。
心の内側で、僕は呟く。
――あんなやつ、好きになんてなるなよ。
先の言葉を空気とともに飲みこんだ。ルリが高嶋と笑っている。なにかに追い縋るような、堪えたような顔つきで。楽譜の端に偶然重なった高嶋の手。記憶に刻みつけようと指先をかばうみたいにさする彼女に、僕は思わず床を向いて、しばらくの間、顔を上げることができなかった。
