真っ白なガーベラのような君へ

「じゃあ、帰るね」
 荷物を持って、裏口で咲結さんに告げた。
「うん、気を付けてね」
 まだやることがあるのか、咲結さんはバインダーを置いて僕を見送った。
 もうすぐ冬休みに入るというだけあって、外は寒い。澄んだ空気が心地よくもあり、寒さを引き立てていて嫌でもあった。
 スクールバッグを背に預けるように脇で固定して、手をポケットに突っ込む。
 自然と早歩きになり、もう家はすぐそこに見えてきた。
 帰ったら、シチューを食べよう。きっとまだ、温かい……。
 そう思って、足を止めた。
 咲結さんからもらったノートは、確かにカバンに入れた。でも、保冷バッグに入れてもらったシチューのタッパーは、僕の手元には見当たらない。
 ……最悪だ。忘れてきてしまった。
 このまま放置は、明日はカフェが休みだから、いくら寒いとはいえ腐るよな……。
「戻るかぁ……」
 渋々、来た道を戻る。せっかくここまで来たのに。まるでさいころにある「ふりだしにもどる」という感覚だ。
 せかせかと歩いて、戻ってきた。まだ裏口、開いてるかな。
 恐る恐る、ドアノブに手をかける。
 カチャ、と小さな音を立てて、それは開いた。
「……え?」
 中は真っ暗。人の気配は、ない。
 戻って来てよかった。今日は咲結さん一人だから、何かあってからでは遅い。
 メールを送って、少しここで待っていよう。家から咲結さんが出てきて、僕を追い出して鍵を閉めるまでは、危ないもんな。
 電気をつけて、スマホを取り出す。
 メッセージアプリを開いて、咲結さんとのトーク画面を開いたとき。
「うおっ! ……え? な、なっ、なに、してるの……?」
 思わずスマホを落としてしまう。
 それを拾うことも忘れ、なんで戻ってきたのかも、僕は忘れていた。
「……なんで……いるの……?」
 その声は、今まで聞いてきた中で一番低くて。希望も何も感じられない声だった。
 何も言えない。動けない。
 まるで、楓を失ったあの日のように、足が前に出ることを拒否していた。
 下手に動いたら、ダメな気がしていた。
 だって今、咲結さんの手には、包丁が握られていて。それを自らの首に押し当てようとしていたのだから。
「今、今は、そんなこと、どうでもいいでしょ? とりあえず、それ、置いて。ね?」
 震える声で言って、震える手を伸ばす。
 どうしよう。どうしたらいいんだろう。
 僕には、全くわからない。
「嫌だ。私、もう死ぬの。ずっと、決めてたの。止めないでよ」
 そう、包丁は咲結さんの首に押し付けられていく。
 きっと、もうすぐ皮膚を破ってしまう。
 すべてがスローモーションに見えるって、こういうことなんだと、楓の事故以来の感覚は、僕の中にいとも簡単によみがえる。
「なんで、死ぬの。教えてよ。そうじゃないと、僕は、帰れない」
 包丁を持った手をぐっと引き寄せるように、咲結さんの腕を掴む。細くて、今にも折れてしまいそうな、腕。
 その力に、僕は勝てた。腕を引き寄せて、その手に握られている包丁を力ずくで奪い取る。
「やめてよ、止めないでよ。私、もう無理なの。楓くんのところに、行きたいの」
 今まで見たことのない、暗い瞳。
 ……いや、見たことは、ある。何度か見た、仮面の内側のような瞳。
 その目から、涙がこぼれている。
「そんなの、ダメだよ。絶対、ダメ」
 僕まで泣きそうだった。僕は泣くべきじゃないのに。目の前が歪み始めた。
「なんで? なんでダメなの? 誰も、私のこと大切に思っていないのに」
「そんなことっ」
「私を私として見て、大事にしてくれたのは、楓くんだけだった。怪我したところに絆創膏を貼るのも、本気で泣けるのも、本音を話せるのも、楓くんだけなの」
「でも」
「私に、絆創膏を差し出して、きれいに貼ってくれるのは楓くんだけ。綺麗に貼ろうって思えるのも、楓くんがいたから。楓くんが私のことを大切にしてくれるんだから、私も私を大切にしようって思えたけど。……もう、そんな気持ちも、わからなくなっちゃった」
 もう、咲結さんは泣いていなかった。泣いていないことに安心ができないのは、初めてだ。泣いてくれていた方が、普通の人間らしくて。その方が、ずっとよかった。
「もう、いいでしょ? それ、返してよ」
「やだ、待ってよ。待って。僕だって、楓がいないのは嫌だよ。寂しい。それに、約束を果たして、いつか楓のことを思い出すことが減っていくことが怖い」
 僕は、何を言っているんだろう。
 今は、僕の恐怖を話す時間ではないのに。
 気が付いたころには、涙ながらに、咲結さんにそう訴えていた。
「……その気持ちは、わかるけど……。いつか、この地獄のような毎日に日が差して。楓くんと同じように私のこと、救ってくれる人が現れて。いつか私も前を向けたとき、楓くんを思い出せないかもしれない自分が、怖い。そんな自分を想像するだけで、怖い」
 何が、地獄なの? そう、聞こうにも、聞けない。何となく、いじめのことを指しいているのはわかるから。
「私、小学生のころから高校生になった今まで、ずっといじめられっ子なの。小学生のころは、楓くんがそばにいて守ってくれたから、低学年のころだけだったけど。中学から、楓くんが校内にいなくて。私は、また、小学生のころのいじめっ子のターゲットになった」
 僕は、何も言えなかった。言えるわけないのだ。
 同情したような言葉なんて、望んでいないことくらいわかるし、楓が守っていたことに変に口出しをするような形になったら、僕まで咲結さんのことを傷つけることになる。
「家族も、そう。私のこと、都合のいいロボットとしてしか見てない。遊びに行くのもダメで、旅行にだっていけない。楓くんと会うのも、おつかいの合間にこっそり、数分しか会って話せなかった」
 やっぱり、そうなんだ。そう思うとショックだった。
 いい家族だと、思っていたから。
「私は、ずっと楓くんのこと想ってる。想っていたい。でも、楓くんがこの世にいないから。もう自分のことは、いらない」
 それは、違うんじゃないか。絶対、違う。そう思うことは、絶対に間違っている。
「ねえ、「想う」と、「あいつがいないと」って言うのは、似てるようで違うと思うよ。楓がいないから前を向くのをあきらめるのは、ただの執着だよ。楓を想うなら、ゆっくりでも立ち上がって。心から笑える日を目指して生きるべきじゃないの?」
 妹のように、マジレスしてしまった。
 でも、後悔はしていないし、この思考が僕の中に生まれたのは、妹がガツンと言ってくれたおかげだろう。
「でも、もう、」
 思わず咲結さんの言葉を遮るように、僕は身を乗り出すようにしながら、強引に話を続ける。
「僕だって、さっきも言ったけど、楓を忘れることが怖い。でも、怖いけど、生きていかないといけないんだよ。楓は、人を生かすために死んだんだ。楓がいないせいで咲結さんが死ぬなんて、あいつ、絶対望んでない。僕たちは、楓のために生きていないといけない。楓を想えるのは、生きている人間だけだよ。思い出を思い出すことは、それぞれ一人ひとりにしかできないんだよ」
 咲結さんは、どう思って僕の話を聞いたんだろう。
 そして、僕は、こんなこと思えるような人間だったのか。
 怖いことも、それに向き合えるほどの思いも。きっと、ここで働かなければ見つからなかったことだ。
 僕は咲結さんに何ができるのか。何を返せるのか。
 それの答えはきっと、彼女を死から遠ざけることかもしれない。
「そんなこと言われても困る。私は、優緋くんにノートに書いてあるレシピを教えたら、死ぬって決めてたの。アルバイトの募集も、二人三脚は嘘だよ。親に言った、一人じゃ手が回らないって言うのも、嘘。私の仕事を押し付けられる人を、探してただけ」
 そう、饒舌に話すのを聞いて、僕は何も言えなかった。
 そんなに前から、この日を待ち望んでいたのか。
 そんなに、死にたいのか。
 そう思うと、僕はもう、なんと声をかけてあげたらいいかわからなくなってしまった。
「でも、優緋くんが言いたいことも、わかるよ。きっとあの世で、こんな私と再会しても楓くんは喜ばないと思う。だから、死なないよ。あの世に行って、楓くんに申し訳なさそうにしてほしくない。楓くんと笑いあえないのは、嫌だから」
 それは、咲結さんの敗北宣言だった。包丁は元あった場所に戻されて、鼻をすすって袖で涙をぬぐっていた。
「ありがとう。優緋くんのおかげで、目が覚めた。優緋くんが前を向いているように、私も少しずつ、前を向けるように頑張るよ」
 楓のことを想うだけで、咲結さんの考えは確実に生きる道へと近づいた。
 やっぱり、楓はすごい。そう、まだ下手な作り笑いを浮かべて涙を止めようとする咲結さんを見て、思った。